学位論文要旨



No 124590
著者(漢字) 稲田,安寿
著者(英字)
著者(カナ) イナダ,ヤスヒサ
標題(和) 極低温フェルミオン原子6Liにおけるs波及びp波対形成
標題(洋)
報告番号 124590
報告番号 甲24590
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7024号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 今田,正俊
 東京大学 教授 上田,正仁
 東京大学 准教授 香取,秀俊
 東京大学 准教授 井上,慎
内容要旨 要旨を表示する

近年、レーザー冷却等の手法を用いて原子集団を冷却することにより、量子縮退状態の中性原子気体を得る技術が確立された。これにより、新しい観点からの物性研究が可能となり、注目を集めている。極低温原子系の特徴は、系の性質を支配するほとんどすべてのパラメーターを変えられることにある。特に、フェッシュバッハ共鳴により原子間の相互作用を引力から斥力に自在に変えることができることが、極低温原子系の特徴である。このような極低温原子系のパラメーター制御技術を用いることで、固体の電子系、液体He系とは異なったアプローチで量子凝縮系の理論の構築、検証が可能となった。

中でも極低温フェルミオン原子系は、電子系との類似性から固体物理学で未解明の超流動や磁性といった強相関物理の解明につながる研究が可能な系である。これまでに、s波の相互作用を共鳴的に増強することで、これまで未踏のパラメーター領域であったBCS (Bardeen-Cooper-Schrieffer)-BEC (ボース・アインシュタイン凝縮)クロスオーバー領域における超流動状態が実験的に確認された。現在もこの超流動相の研究が精力的に進められており、電子系の超伝導との関連も議論されるようになってきている。

また最近では、光格子中の原子、低次元系、長距離で異方的な相互作用を持つ原子や分子、有限の角運動量をもった分子状態等も研究されるなど、極低温原子気体を用いた新たな量子多体系を構築しようという試みもなされている。

本研究では、極低温フェルミオン原子(6)Liを用いて超流動状態を実現し、その性質を調べることを目的とした。そのために本研究では原子をトラップするための超高真空装置を立ち上げ、原子の冷却・トラップを行い、量子縮退したフェルミオン原子(6)Li原子気体を得た。さらに、フェッシュバッハ共鳴を用いることで原子間相互作用を変化させ、縮退原子気体の様々な性質を調べられるようになった。この系においてs波超流動相(BCS-BECクロスオーバー)の探索および、p波の超流動相実現を目指す研究を行った。

s波のフェッシュバッハ共鳴を誘起するような磁場を印加することにより、斥力相互作用下では二つのフェルミオンからなる分子のBEC、引力相互作用下では多体効果による形成されるフェルミオン対の凝縮相が実現できる。この2つの相は、相互作用が発散する領域をまたいで繋がっており、そこでは状態はスムースに変化することから、この領域はBCS-BECクロスオーバー相と呼ばれる。本研究ではクロスオーバー領域の超流動転移点の決定方法を確立し、その状態量の測定を行った。強く相互作用する極低温原子系では、原子の密度分布は相互作用によって決まるので、密度分布からの温度の測定や凝縮状態の検出が困難である。そこで本研究では以下のような方法で、BCS-BECクロスオーバー領域における超流動転移点の同定を行った。超流動転移点を捉えるために急峻に磁場を変化させ、フェルミオン対を強く束縛した分子状態に射影するという手法を適用した。磁場を急峻に変化させた後の分子の重心運動量分布を観測すると、運動量がゼロの状態にある分子がマクロに存在することが確認できた。このとき、磁場を変化させる速度は系の時間発展を特徴付ける速度に比べて十分急峻であるため、系が熱緩和することで運動量がゼロの分子が生成されたとは考えにくい。この現象の機構は完全には解明されていないが、定性的にはフェルミオン対の波動関数は強く束縛された分子の波動関数と有限の重なりを持つことから、磁場掃引によりフェルミオン対が分子に射影されたと理解することができる。つまり、磁場掃引後に重心運動量がゼロの状態の分子がマクロな量存在したということは、重心運動量がゼロのフェルミオン対がマクロに存在する超流動状態であった証拠であると解釈できる。本研究ではこの手法に加えて、ブラッグ散乱という運動量空間上の分光手法を用いることで運動量がゼロの成分の分子をより高感度に検出し、超流動転移点の決定を行った。一方、超流動移転点における温度測定は(1)BEC領域(斥力相互作用)、(2)ユニタリー極限(散乱長が発散)、(3)BCS領域(引力相互作用)において、それぞれ別の方法で温度測定を試みた。(1)の領域では、強く相互作用する分子に対して、急峻に磁場を変化させることで、系を弱く相互作用する分子状態に射影し、射影後の分子の運動量分布から、初期の分子の温度を決定した。(2)の領域では、相互作用が発散する領域(ユニタリー極限)においてビリアル定理を使って系のエネルギーを測定し、そこから温度を求めた。(3)の領域では、原子集団のエントロピーの測定を行い、それから温度を求めた。(1)の領域において、転移温度は弱く相互作用するボソンモデルによる理論で予測される転移温度と一致した。(1)の方法をユニタリー極限にも適応したところ(2)の方法による温度測定と一致した。なお、(2)の方法による結果は、他グループの異なるアプローチによる実験結果とも一致していることが確認された。さらに、(3)の領域の転移温度は本研究において初めて測定に成功し、理論予測との比較を行った。

本研究ではさらに、極低温原子系におけるp波超流動の実現可能性を調べる実験を行った。p波超流動状態はエネルギーギャップは異方性を持ち、多様な物質相を示すことから、非常に興味深い研究対象である。極低温原子系において、p波超流動状態の実現可能性を調べるためには、まずp波フェルミオン対の安定性や熱緩和時間などを知る必要がある。本研究では、6Li原子のp波分子に着目し研究を行った。s波分子の場合には、フェッシュバッハ共鳴近傍で分子のサイズは大きいため、サイズの小さい分子状態への緩和ロスレートは小さい。これに加えて、分子間の弾性散乱レートは増強されるため熱緩和時間は短い。それゆえ、s波の分子は冷却が効率的にでき、安定なBECが得られている。一方、p波の分子はp波散乱における遠心力ポテンシャルにより、フェッシュバッハ共鳴近傍でも分子のサイズが小さい。また、p波分子間の散乱レートもフェッシュバッハ共鳴近傍で増強されるかどうか知られていない。それゆえ、p波分子のBEC状態が安定に存在するかどうかは自明ではない。そこで本研究ではまず、6Liの縮退フェルミ原子ガスからp波フェッシュバッハ分子の生成と検出を目指した。p波分子は、光トラップされた縮退フェルミ原子に対して、安定化した磁場を掃引しp波フェッシュバッハ共鳴を交差することで生成した。分子を原子から生成する効率は最大15%程度であったため、分子の直接的観測のためには残った原子をトラップから取り除く必要があった。そこで、分子生成直後に、原子のみに共鳴する光を入射して原子を取り除くことで、トラップ中に分子のみが存在する状態を実現した。そして、トラップ中の保持時間に対する分子のロス測定を行うことにより、分子間の非弾性散乱レートを抽出した。また、トラップ中に原子と分子が共存する状態におけるロスの測定結果から、原子‐分子間の非弾性散乱レートを求めた。さらに、生成された分子の熱緩和の次定数から、弾性散乱レートを見積もった。これらの測定結果により、弾性散乱レートに対する非弾性散乱レートの比は2程度と見積もられ、更なる分子の冷却は困難であることが分かった。また、我々の現在の実験条件では、p波分子の位相空間密度は4×10(-3)であり、分子のBEC実現には、分子数を増やす、あるいはより低温の分子を生成するなどの条件が必要で、更なる実験的工夫が必要であることが見い出された。

上記のように、本研究では極低温フェルミオン原子6Liを使って、s波及びp波のフェルミオン対について研究を行った。s波のフェルミオン対においては、BCS-BECクロスオーバー領域における超流動相の転移温度測定を行った。また、p波分子に対して寿命測定と熱緩和時間測定を行い、超流動状態の実現可能性について議論を行った。これらの成果は、超流動状態に新たな知見を与えると共に、極低温原子系の物性研究における基礎を確立するものである。

審査要旨 要旨を表示する

物質粒子を極低温下で密度を上げていくと、個々粒子の量子統計性に支配された集団の量子現象が巨視的なスケールで発現する。クーパー対電子による超伝導現象や液体ヘリウムの超流動現象などがその実例である。これらの巨視的量子現象は、粒子間の相互作用によってその様相が変わる。近年、レーザー冷却法および蒸発冷却法によって原子気体をマイクロケルビン以下の極低温に冷却し保持する技術が開発された。またフェッシュバック共鳴により、粒子間の相互作用を自在に制御する手法も確立した。これらの手法を用いて、超高真空槽の中に中性原子を極低温状態で捕獲し、様々な条件下で多体量子効果を探索する研究が活発に進められている。本研究では、フェルミオン原子6Liを対象とし、極低温下でトラップ中に保持し、量子縮退状態を実現する手法を開拓した。さらに、相互作用可変な状況のもとで、量子縮退した原子気体の挙動を系統的に観察・評価する実験手法を確立した。真空槽内の6Li原子に対して、レーザー冷却法、蒸発冷却法、光シュタルク効果によるトラップ法を開拓し、フェッシュバック共鳴を利用して、二原子間にs波散乱およびp波散乱を共鳴的に誘起し、原子間相互作用が共鳴的に増大する状況下での量子現象の探索を行った。s波の散乱の共鳴前後において、分子のBEC状態とBCS状態の推移に伴う系の状態変化を系統的に調べた。BEC転移温度の相互作用依存性を系統的に捉えることに成功した。また、p波のフェッシュバック共鳴を利用して、6Li原子対の相対運動がp波をとる分子-p波分子-の形成観測に初めて成功し、その非弾性散乱寿命などの特徴を調べた。

本論文は以下の8章からなる。以下に各章の内容を要約する。

第1章では、本論文の序論として、多体量子現象の研究の歴史、原子気体における研究について述べ、本研究の背景を説明している。次に、本研究の目的を述べ、本論文の構成を示している。

第2章では本研究の理論的背景として粒子間の相互作用の記述について述べている。散乱の一般公式を説明し、本研究で主要な役割をはたす、フェッシュバック共鳴の原理と6Li原子の場合の具体例について述べている。

第3章では、ボース粒子系の理論について、一般論と原子系の実験に即したトラップ中での振る舞いについて述べている。さらに本研究で議論する、相互作用の効果について理論的背景を説明している。

第4章では、フェルミ粒子系の理論的背景を概観している。BCS理論およびBEC-BCSクロスオーバーの議論の論点を解説すると共に、フェッシュバック共鳴点における特異的な状況であるユニタリー極限での振る舞いについて述べている。

第5章では、本研究で開発した実験装置について述べている。真空装置、レーザー装置、磁場制御について述べた後、原子気体のレーザー冷却、光トラップ法、共振器による光トラップ、レーザービームによる捕獲、トラップの評価法、スピン偏極の制御法、極低温化のための蒸発冷却の詳細について解説している。

第6章では、本研究の第一課題であるs波相互作用するフェルミオン原子の研究について実験の詳細と結果の考察について述べている。相互作用が強く働く領域において、原子系の相図を正しく決定するための手法を開発し、BEC状態からBCS状態へ推移する振る舞いについて新たな知見が得られたことが述べられている。

第7章では、本研究のもう一つの課題であるp波相互作用するフェルミオン原子系の研究について述べている。本研究ではじめて6Liのp波分子生成が確認され、その性質が明らかになったことが述べられ、p波分子のBEC実現に向けた方策について議論されている。

第8章では、本研究の結果をまとめると同時に、課題と今後の展望について述べている。

この他、本論文を理解する上で参考となる知識や計算の詳細について、付録A、Bを設けて説明している。

以上のように本研究は、レーザー技術を駆使して、フェルミオンリチウム原子を極低温下でトラップ中に捕獲し、その相互作用を系統的に変化させることで生じるフェルミオン対によるBECやBCS状態の超流動現象に対して、相互作用をパラメータとして系統的に探索する実験手法を確立し、多体量子現象について新たな知見を得たものである。この知見は、応用上重要な超伝導現象に関連する多体量子現象の理解を深めるものであり、意義は大きい。また、本研究で開拓された、レーザー分光やレーザー制御技術は、光科学技術の展開という意味でも重要な技術を多く含んでいる。尚、本研究はグループ研究のもとで行われたものであるが、上記の研究について、論文提出者が主導的な寄与をしていることは論文に明記され、かつ審査においても明確に確認された。これら本研究の成果は今後の物理工学の発展に大きく寄与することが期待される。

よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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