学位論文要旨



No 124594
著者(漢字) 黒﨑,洋輔
著者(英字)
著者(カナ) クロサキ,ヨウスケ
標題(和) ドープ系および非ドープ系三角格子有機モット絶縁体の圧力下NMR研究
標題(洋) NMR study of doped and undoped organic Mott insulators with triangular lattice under hydrostatic pressure
報告番号 124594
報告番号 甲24594
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7028号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鹿野田,一司
 東京大学 教授 瀧川,仁
 東京大学 教授 小形,正男
 東京大学 准教授 長田,俊人
 東京大学 准教授 町田,友樹
内容要旨 要旨を表示する

1)研究背景

近年、電子同士が強く相互作用する強相関電子系が基礎応用の両面から注目されている。その中で私が特に研究の中心としているテーマがモット絶縁体である。これは、系がハーフフィリング(1つのサイトにつきキャリアが1つ存在する)の状況で、電子の相互作用エネルギーが運動エネルギーより大きいときにキャリアが局在して絶縁化した強相関電子系の典型例である。

モット絶縁体は基本的には電荷の自由度に伴う状態であるが、系が特殊な配置を有すると、スピンの自由度が効いてくる。モット絶縁体が正三角格子を持っていたとすると、局在スピン間につよいスピンフラストレーションが働くことになる。このような状況でどのような基底状態が実現するかというのは、強相関電子系のホットトピックの1つである。

本研究においては、モット絶縁体から派生するMott Physicsに注目し、核磁気共鳴法(NMR)を用いてミクロな磁性状態を調べることで問題にアプローチしている。具体的にはU/t(オンサイトクーロンエネルギーと移動積分の比)、t'/t(対角サイトと近接サイトの移動積分の比)、ドーピングの三つのパラメータ空間で、それぞれ特徴的な配置をもつ後述する有機導体を用いた。ここでそれぞれのパラメータは、局在性の強さ、スピンフラストレーションの強さ、遍歴性の強さを表すようなものである。これらの物質群を、静水圧を印加することでバンド幅制御し(U/tを減らし)、様々な相に制御することで創発する現象を調べた。

2)有機導体

近年有機導体は、強相関電子系の研究における非常に良い舞台として注目を浴びている。有機導体とは文字通り有機物からなる結晶で、柔らかい格子と単純な電子構造をもつ。そのためバンド幅制御型モット転移に対して非常に良い舞台を提供している。実際に図1のような構造をもつκ-(BEDT-TTF)2X(以下BEDT-TTFをETと略す)という物質群は擬2次元モット転移系の良い舞台であることが知られており、実際に様々な角度から調べられている。

私はこの物質群の中で特に、κ-(ET)2[N(CN)2]Clとκ-(ET)2Cu2(CN)3とκ-(ET)4Hg(2.78)Cl8(以下それぞれ、κ-Cl、κ-Cu2(CN)3、κ-Hg(2.78)Cl8と略す)という3つの物質に注目して研究を行った。

κ-Clは典型的な擬2次元モット絶縁体であり、約30 MPaという低圧力で金属に相転移することが知られている。これまでモット転移はCrをドープしたV2O3 [1]やSeをドープしたNiS2 [2]などで系統的に調べられてはいるが、いずれも不純物の影響は避けられない。その一方でκ-Clは価数の違う不純物を用いることなく、静水圧性の高いヘリウムガスによってモット転移を引き起こすことができる理想的な系である。過去にもモット転移近傍、特に臨界終点近傍に関して実験が行われているが[3,4]、今回はモット転移全貌における磁性の変化を13C-NMRを用いて探った。

κ-Cu2(CN)3は典型的なハーフフィリングモット絶縁体であるが、t'/t ~1.07と正三角格子に近い構造をとっており、強いスピンフラストレーションが期待される。実際に1H-NMRの実験から32 mKという極低温においても反強磁性長距離秩序が生じていないスピン液体が実現していることが実験的に確認されている[5]。このスピン液体からのモット転移は私の修士の研究によって明らかにされており、フェルミ液体へと1次転移を経て相転移する。この実験は油圧を用いて行われたが、油圧は圧力媒体の固化により低温で圧抜けがおきるために低圧測定にはむかない。そこで今回はスピン液体状態を精密に調べるべく、ヘリウムガス圧装置を用いて、低圧のスピン液体相の磁性を13C-NMRを用いて探った。

またκ-Hg(2.78)Cl8は例外的にホールが20%ドープされた物質である。有機物は基本的に閉殻構造を好むために、キャリアドーピングを施せない。しかしこの物質ではホールを供給するHg鎖と受け取るBEDT-TTFが非整合になっているため、実効的にフィリングがハーフフィリングからずれるのである。またこの物質はU/t ~ 10.3と非常に局在性が強く、t'/t ~ 1.10と三角格子構造を有しているため、スピン液体にホールをドーピングしたという今までにない系が実現している可能性がある。この物質を、2重構造型圧力セルを用いた油圧で加圧し、低圧付近の後述する量子臨界的な振る舞いの性質、そして強結合領域から弱結合領域まで変化させることでどのような物性が現れるのかを、13C-NMRを用いて調べた。

3)研究内容

κ-Cl

κ-Clの低圧で現れる絶縁相に関しては、ネール温度よりも高温で現れる反強磁性の短距離秩序も低温で現れる長距離秩序も、モット転移近傍まで残存することが確認された。また金属相においては、モット転移近傍においても磁化率や緩和率の増大といった傾向は見られなかった。

κ-Cu2(CN)3

常圧でスピン液体相が実現しているκ-Cu2(CN)3で、最大190 MPaまでヘリウムガスを加えて静水圧を印加し、モット転移近傍まで系を変化させた。この結果、スピン液体相がモット転移近傍に至るまで存在していることを確かめた。また常圧のスピン液体相においては5~6 Kで、NMRの緩和率がキンク構造を持ち、線幅が広がるといった異常が見られている [6]。この異常がモット転移近傍に至るまで存在すること確認し、図2で表わされる相図を見ることによってこの異常がスピンエントロピーの減少を伴う相転移(もしくはクロスオーバー)であることがわかった。

κ-Hg(2.78)Cl8

実効的にホールドープされたスピン液体相となっているκ-Hg(2.78)Cl8を最大30 kbarに至る静水圧を印加し、13C-NMR測定を行った。磁場は伝導面に対して垂直に印加しており、超伝導相は抑制されているものと考えている。

まず低圧側に注目してみる。図3のように常圧付近では非常に大きな反強磁性揺らぎが観測されており、系が量子臨界点近傍にいることを示唆している。また図4のようにNMRの線幅が低温で非常に大きく増大し、不均一な電子状態が実現している。この二つの異常は6 kbarの圧力を印加することによって、ある程度抑制される。このことから本発表では3つのシナリオに沿ってデータを俯瞰してみる。1つ目が何らかの影響で系が局在化し、と同様にスピン液体相に近い状態が実現しているという立場。実際に電気抵抗のデータ[7]を見てみると、低温では電気抵抗が低温で絶縁体的な振る舞いをする。2つ目が、量子絶縁体金属転移が存在し、その量子臨界性が効いているという立場。この立場は1つ目と被る部分もあるが、絶縁相がスピン液体である必要はない。3つ目が、SCR理論で表わされるような反強磁性量子臨界点近傍に系が位置し、加圧によって臨界点から遠ざかるという立場である。

次に高圧領域における磁性を見てみる。図5で示されるように、反強磁性揺らぎは圧力を印加していくことによって抑制されていく。基本的な振る舞いとしては、高温ではキュリーワイス的な温度依存性を持って降温とともに反強磁性揺らぎは増大し、低温では金属相に特有なKorringa的な振る舞い(T1Tが一定値を取る)を示す。前述の3つのシナリオでも基本的にはこれらの振る舞いは理解できるが、30 kbar近い高圧を印加しても全温度域においてKorringa的な振る舞いが見られる単純な金属の振る舞いは見えない。また、NMRスペクトルの線幅も圧力を印加していくと徐々に増大していき、低圧とは逆の振る舞いを見せる。実際に50 kbar近い高圧領域においては、電気抵抗の結果から系が絶縁化することが知られている [7]。つまり高圧領域においては、圧力を印加すると、バンド幅を広げるだけでなく、何らかの局在化の性質があることになる。また、10 K付近で緩和率のキンク構造や線幅の増大といった異常が観測された。これら高圧領域の性質を13C-NMRのデータをもとに議論していく。

[1] D. B. McWhan, A. Menth, J. P. Remeika, W. F. Brinkman, and T. M. Rice, Phys. Rev. B 7, 1920 (1973).[2] X. Yao, J. M. Honig, T. Hogan, C. Kannewurf, and J. Spalek, Phys. Rev. B 54 17469 (1996)[3] F. Kagawa, T. Itou, K. Miagawa, and K. Kanoda, Phys. Rev. B 69 064511 (2004) F. Kagawa, K. Miyagawa, and K. Kanoda, Nature 436 534 (2005)[4] S. Lefebvre, P. Wzietek, S E. Bown, C. Bourbonnais, D. Jerome, C. Meziere, M. Fourmigue, and P. Batail, Phys. Rev. Lett. 85 5420 (2000)[5] Y. Shimizu et al., PRL 91 (2003) 107001[6] Y. Shimizu et al., PRB 70 (2006) 060510[7] H. Taniguchi, Private Communications
審査要旨 要旨を表示する

本論文は、擬2次元有機導体κ-(BEDT-TTF)2X (X=Cu[N(CN)2]Cl、Cu2(CN)3、Hg(1.39)Cl4) (BEDT-TTFは、bis(ethylenedithio)-tetrathiafulvaleneの略)で起こるモット転移と関連する物理現象の実験研究を報告している。具体的には、κ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Clが示すバンド幅制御による反強磁性絶縁相からのモット転移、κ-(BEDT-TTF)2Cu2(CN)3におけるスピン液体相からのモット転移、および実効的にホールがドープされたκ-(BEDT-TTF)4Hg(2.78)Cl8における圧力誘起量子臨界現象に関して、核磁気共鳴(NMR)実験により調べた結果を報告している。

第1章では、導入としてモット絶縁体から生まれる様々な物理を紹介している。モット絶縁体とは1/2充填のバンド構造において強い電子相関が存在するとキャリアが局在化する現象であるが、バンド幅や充填率を変化させることによりキャリアが遍歴性を獲得し、また三角格子の隣接サイト間の移動積分が等しいときには強いスピンフラストレーションによりスピン液体状態が実現する。本実験で用いた3物質が前述のモット物理のモデル物質であることが述べられており、それぞれの物質に関する研究の現状が概説されている。本研究の目的は、バンド幅、スピンフラストレーション、バンド充填率を変えることによって生じるモット物理を核磁気共鳴(NMR)実験により明らかにすることであると述べられている。

第2章では、NMRの原理、試料及び実験装置について述べられている。また、低温で精密な圧力制御を行うために圧力媒体としてヘリウムを用いる加圧装置と圧力セル、及び最大4GPaまで圧力印加可能な2重構造型圧力セルについても述べられている。後半では本実験で用いられた2重構造型圧力セルとクライオスタットに起因する磁性を、中性のDCNQI分子や(DCNQI)2X (X = Li, Cu)を用いて校正した実験結果について述べられている。

第3章では、κ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Clのモット転移近傍における磁性をヘリウムガス圧下での(13)C-NMR測定によって調べた結果を報告している。前半では、絶縁相における(13)C-NMR測定の結果が述べられている。7.4 Tの磁場下においては、反強磁性の長距離秩序も短距離相関もモット転移近傍までかなり強固に存在することが示された。モット転移近傍においては、絶縁相-金属相-絶縁相というリエントラントの振る舞いが微視的な見地から確認された。後半では、金属相における(13)C-NMR測定の結果が述べられている。緩和率とナイトシフトは共にモット転移近傍においても大きな圧力依存性を持たないことが観測された。これはこの系で起こっているモット転移が単純な有効質量発散型ではないことを示している。また、上記の物理量から見積もられた反強磁性揺らぎの圧力依存性から、この系における超伝導と反強磁性相関の関連性が指摘されている。

第4章では、κ-(BEDT-TTF)2Cu2(CN)3のモット転移近傍におけるスピン液体相の磁性をヘリウムガス圧下での(13)C-NMR測定によって調べた結果を報告している。様々な圧力下でのNMRスペクトルより、κ-(BEDT-TTF)2Cu2(CN)3はモット転移に至る全圧力領域においてスピン液体状態が実現していることが明らかにされた。また、いくつかの圧力における緩和率の温度依存性より、5 K付近で観測されるキンク構造がモット転移の臨界圧力まで存在し金属相に入ると消失すること、および、この構造が現れる温度以下で生じるスペクトル幅の増大がモット転移に近づくにつれて連続的に抑制されることが明らかになった。以上の結果と相図の熱力学的な考察により、これらの異常はスピン液体相に特有のものでスピンエントロピーの急激な減少を伴う何らかのクロスオーバー(もしくは相転移)であると帰結されている。

第5章では、ホールドープ系κ-(BEDT-TTF)4Hg(2.78)Cl8の電子状態の圧力変化を(13)C-NMR測定によって調べた結果を、κ-(BEDT-TTF)2Cu2(CN)3の振る舞いと比較しながら報告している。まず、常圧において観測された非常に大きな反強磁性揺らぎや不均一な局所磁場が、0.6 GPaの圧力印加によって抑制されることが明らかにされた。また、スピン-スピン緩和時間測定や磁場依存性の測定から、常圧低温における幅広なスペクトルは磁場が誘起する交代磁化によるものであることが示された。緩和率やスピン磁化率の振る舞いが1.4GPa付近で変化することから、ドープされたモット絶縁体のバンド幅制御による強結合領域から弱結合領域へのクロスオーバー(または相転移)を磁性の面から初めて観測したと報じている。一方、2.4 GPa以上の圧力下において磁性に圧力依存性がほとんどなくなることや緩和率が特異な温度依存性を持つことから、高圧の金属相は単純なフェルミ液体相ではないことが明らかになった。これらの実験結果を、乱れによるアンダーソン局在状態、強い電子相関による電荷の自己組織化、磁気的な量子臨界点、という3つのシナリオを元に議論している。また、高圧力においても、10K以下の低温で電子相が不均一となることが見出され、その起源が、強い電子相関、スピンフラストレーション、キャリアドーピング、そして非整合なHg鎖による乱れといった効果として議論されている。

第6章は本論文をまとめている。

付録Aでは、κ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]ClにおけるDzyaloshinsky-Moriya相互作用に対する磁場の効果が説明がされている。付録Bでは、ヘリウムガス圧下でκ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Clの伝導面に平行に静磁場を印加したときの、超伝導の上部臨界磁場測定の結果を報告している。過去の油圧を用いた実験に比べてかなり鋭い超伝導転移が観測された。また転移温度や常磁性極限磁場で規格化した結果を他の物質と比較することにより、軌道効果や強結合超伝導の可能性等を議論している。

以上を要すると、本研究は、擬2次元有機導体κ-(BEDT-TTF)2X (X = Cu[N(CN)2]Cl、Cu2(CN)3、Hg(1.39)Cl4)のバンド幅を制御し、モット転移やスピン液体相やホールドープ系における量子臨界性を核磁気共鳴法によって調べることにより、モット物理学の一端を明らかにした。これは、強相関電子系における金属絶縁体相転移の研究に一石を投じるものであり、物性物理学および物理工学の発展に寄与するところが大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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