学位論文要旨



No 124596
著者(漢字) 杉本,直之
著者(英字)
著者(カナ) スギモト,ナオユキ
標題(和) 非可換幾何学を用いた量子輸送現象の理論的研究
標題(洋) Noncommutative geometry approach to quantum transport phenomena
報告番号 124596
報告番号 甲24596
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7030号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 永長,直人
 東京大学 教授 十倉,好紀
 東京大学 教授 宮下,精二
 東京大学 准教授 求,幸年
 東京工業大学 准教授 村上,修一
内容要旨 要旨を表示する

近年、固体中の波動関数の位相の幾何学的構造から発生するトポロジカルカレントが注目されている。このカレントは、散逸を伴わないことからデバイスの省電力化に貢献すると期待されている。一方で、現実の物質には不純物などの波動関数の位相を乱す散乱体が存在する。このため、トポロジカルカレントが不純物散乱下で生き残るかどうかが重要な問題になり、その解決には多バンド系での線形応答計算が必要になる。また、純粋に量子的なトンネル電流も、キャリアの波動性が本質であり、波動のコヒーレンスを乱す散乱効果の研究は応用上も重要である。

既存の応答理論は、久保公式やBoltzmann方程式が有名であるが、これらの方法で上記の多自由度系の輸送現象の解析を行うことは難しい。なぜならば、電磁場応答の計算にはゲージ対称性を反映するWard恒等式を満たすことが要求されるからである。本研究では、計算の各過程でWard恒等式が自動的に満たされる、ゲージ共変な応答理論を構築し、多自由度系の非平衡定常系を理論的に研究した(1)。この方法を使って、スピン/異常ホール効果の位相効果と不純物散乱効果の競合(2,3)、及び電場による金属絶縁体転移を理論的に解析した(4)。

(1): ゲージ共変な応答理論

非平衡現象を記述す方法として、Keldysh Green関数法が知られている。この方法は、1粒子Green関数の時間経路積を拡張することで、基底状態だけでなく励起状態も扱えるようにしたものである。時間経路積の拡張に対応し、1粒子Green関数は2×2のKeldysh空間に拡張され、この空間上では励起状態に対してもFaynmanダイアグラム則が成立する。Langrethは、電場下でのKeldysh Green関数を電場の一次のオーダーで求めるQuantum Boltzmann方程式を導出した[1]。この方程式はポアソン括弧で書かれ、ポアソン構造に電磁場の情報が反映されている。また、方程式はゲージ共変な形に書かれているため、Ward恒等式が保たれることが保障されている。Quantum Boltzmann 方程式は、ポアソン括弧で書かれるという点で古典的である。量子論と古典論の対応から、このポアソン括弧を交換子に置き換えること(量子化)で一般の電磁場下でのQuantum Boltzmann 方程式が得られると予想できる。本研究では変形量子化と呼ばれる方法[2]でQuantum Boltzmann 方程式を一般化した。Quantum Boltzmann 方程式は電磁場に関して線形の範囲でのみ有効であるため、非線形性が強い金属絶縁体転移などの計算は不可能であったが、この一般化によって、電場下での非平衡定常系を記述できるようになった[3,4]。

この一般化は、エネルギー・運動量演算子の非可換化に対応している。よく知られているように、電磁場下ではエネルギー・運動量演算子は電磁場のベクトルポテンシャルが加えられる。このときエネルギー・運動量は非可換になり、非可換性は電磁場テンソルで測られる。電磁場の効果はエネルギー・運動量の積を非可換な積(star積)に変えることで導入される。このような、非可換積が定義された空間は非可換幾何と呼ばれ、その意味で電場による非平衡現象は空間(エネルギー・運動量空間)の非可換化と同一視できる。この方法は以下の利点がある。

1:グリーン関数の変数がゲージ共変な力学的運動量であるためゲージ普遍性が自明に保たれており、ワード恒等式を考慮する必要がない。

2:ホール系の伝導をフェルミ面からの寄与とフェルミ球全体からの寄与とに分けるStreada公式の非線形あるいは相互作用下での一般化公式を自然に導出する。

3:非線形への拡張が容易である。積が外場の効果を陽に含む唯一のものであり、この積の電磁場に対する高次の展開が非線形応答を与える。Star積はあるtopological open stringの経路積分[2]で書けるので、展開が容易であり、これが非線形への拡張の容易さの根拠になっている。また、Star積は電磁場に対して非摂動な形でも書けるので、電磁場を非摂動に扱える。これは久保公式に比べ著しく優っている点である。

4:量子効果を損なうことがない。

この公式を使ってスピン/異常ホール効果及び電場誘起金属絶縁体を研究した。

(2): スピンホールカレントの不純物効果の定式化

本研究では内因性スピンホールカレントの不純物効果を研究した。内因性スピンホールカレントとは、磁性体や磁場を用いずに、スピン軌道相互作用と外部電場によって作られる緩和の無いスピンの流れである。近年、2次元Rashba模型でスピンホールカレントが、不純物効果で消えることが示されたが、それは特定のモデルに基づいたもので一般的証明は無かった[5]。また、スピン軌道相互作用がスピンの保存則を破るために、スピンカレントの定義が一意的でないという問題もある[6]。

本研究では、不純物散乱によるスピン流の消失がモデルや不純物ポテンシャルの形、スピン流の定義にしたがってどのように変化するかを研究した。ホール電流に対するストレーダ公式をスピンカレントに拡張し、ハミルトニアンの形からスピンホール効果が有限となるかを判定できることを示した。特に、2次元電子系は不純物散乱に弱く、2次元ホール系はスピンカレントの定義によって振る舞いが劇的に変わることを発見した。図1に2次元系のスピンカレントの振る舞いをまとめた[7]。

(3): 異常ホール効果の理論的研究

スピンホールカレントの研究結果を強磁性体における異常ホール効果に応用し、不純物効果とスピン軌道相互作用との競合を研究した。強磁性金属では、磁場を0に近づけても自発磁化にともなう有限のホール効果(異常ホール効果)が観測されている。この現象の起源は不純物散乱による外因性[8]とバンド構造による内因性[9]のものが提案されている。実際の物質でどちらの効果が支配的になるかはその条件はわかっていなかった。

この問題を明らかにするため、スピン軌道相互作用によって交差したバンドがわずかに開く状況を考え、その点の周りを記述する実効的なモデルを立てホール電流の計算を行った。この系では特徴的なエネルギースケールがスピン軌道相互作用、不純物相互作用、フェルミ順位の3つ存在する。これらの大小によって3つの特徴的な領域が存在することを示した[10]。

フェルミ順位がもっとも大きく、不純物散乱によるエネルギーの不確定性がスピン軌道相互作用より小さい領域では不純物散乱が支配的(外因性領域)となるのに対し、その逆の領域では内因性機構が支配的となる(内因性領域)。フェルミ順位が不純物散乱によるエネルギーの不確定性と同程度のときホール伝導度が縦伝導度の1.6乗に比例するホッピング領域が現れる(図2参照)。この結果は、現存する実験データをよく説明する。また、内因性領域ではホールカレントはバンド構造だけに依存し不純物散乱の詳細にはよらない。このためこの領域では第一原理電子状態計算による予測が可能となり物質設計への道が開けることとなる。

(4): 電場誘起型金属絶縁体転移の理論的研究

近年、電場・電流誘起型の金属絶縁体転移を起こす物質が次々に発見されている。我々は中でも強相関物質に着目し、この現象の理論的解明を試みた。この研究では平均場近似を採用し、平衡状態で、電子相関によってフェルミ面にバンドギャップが開いているバンド絶縁体を想定し、この系に電場をかけていったときの非平衡電子分布および電流を計算した。このとき電子相関によってギャップ自身が電場に依存し、電流下でのギャップの不安定性が導かれ、一次の金属絶縁体転移が起こることを示した(図3参照)。非断熱遷移を研究する際に使われるLandau-Zener理論のもつ特徴的な電場スケールより小さな電場スケールが、不純物散乱から生じ、この結果Lnadau-Zener理論から予想される相転移の敷居値より小さな電場で相転移が起こることが解った[11]。このことは実験と一致する[12]。バルク中のトンネル電流は不純物が存在したときに、共鳴的に増大し、空間的な"Hot spot"になっていることがわかった。この研究によって、強相関電子系での電場スイッチング素子の基礎物理が与えられ、実用への手がかりになると思われる。

[1] D. C. Langreth, Phys. Rev. 148, 707 (1966).[2] M Kontsevich, QA/9709040, A. S. Cattaneo and G. Felder, Commun. Math. Phys. 212 591 (2000).[3] S. Onoda, N. Sugimoto and N. Nagaosa, Prog. Theor. Phys. 116, 61 (2006).[4] N. Sugimoto, S. Onoda and N. Nagaosa, Prog. Theor. Phys. 117, 415 (2007).[5] J. I. Inoue, G. E. W. Bauer, and L. W. Molenkamp, Phys. Rev. B 70, 041303(R) (2004).[6] J. Shi, P. Zhang, D. Xiao, and Q. Niu, Phys. Rev. Lett. 96, 076604 (2006).[7] N. Sugimoto, S. Onoda, S. Murakami and N. Nagaosa, Phys. Rev. B 73, 113305 (2006).[8] J. Smit, Physica 21, 877 (1955).[9] R. Karplus and J. M. Luttinger, Phys. Rev. 95, 1154 (1954).[10] S. Onoda, N. Sugimoto and N. Nagaosa, Phys. Rev. Lett. 97, 126602 (2006).[11] N. Sugimoto, S. Onoda and N. Nagaosa, Phys. Rev. B 78, 155104 (2008).[12] S. Yamanouchi, Y. Taguchi and Y. Tokura, Phys. Rev. Lett. 83, 5555 (1999).

図1:2次元系でのスピンカレントの振る舞い。スピンの定義欄の左は連続の方程式を満たさないconventional current、右は保存則を満たすconventional currentを表す。

図2:異常ホール伝導v.s.縦伝導。縦軸はホール伝導率、横軸は縦伝導率を表す。縦伝導率は不純物密度に逆比例する。試料のクリーンさに対応して、ホール伝導率が縦伝導率に比例、ほぼ一定、縦伝導率の1.6乗に比例する3つの領域が現れる。

図3:相関電子系の電場-電流特性。縦軸が電流、横軸が電場。黒点線は平均場近似で電子相関を取り入れた場合。赤線は相関を考慮せずにバンドギャップを固定した場合。電子相関を考慮すると中間電場(II)で準安定状態が現れ、電場-電流曲線がヒステリシス曲線になる。

審査要旨 要旨を表示する

非平衡状態の理論的記述は、久保公式による線形応答理論がその代表的なものであるが、松原形式を使ったダイアグラム技法は、ゲージ不変性を表現するワード高橋恒等式を満たしながら注意深く行う必要があり、多バンド系に適用する場合には、相当複雑な解析を迫られることになる。また、熱平衡から遠く離れた非平衡状態を非摂動的に扱うことは不可能であった。これらの限界を乗り越えることは、非平衡量子統計力学の根幹に関わる大問題である。杉本氏はこの問題に対して、非可換幾何学による量子化という考えを持ち込むことで、新しいゲージ共変な形式を構築して上記の2つの限界を解決するとともに、それをi)異常ホール効果、スピンホール効果、 ii)電場誘起絶縁体金属転移、の理論的解析に応用し、それぞれの問題で大きな成果を得た。

まず、Keldysh形式においてWigner表示で を変数にすることで、ゲージ不変性が顕になる定式化を行った。この新しい変数を導入すると、Green関数に対するDyson方程式に現れる"積"が"*積"という非可換性を表す非自明な積に置き換わることになる。この積を含む代数的構造を解析することで、電磁場 の存在下でのKeldysh形式を新たに構築することに成功した。この形式では、時間空間に依存した電磁場の場合は、string 理論におけるdeformation quantization の手法を援用してコンパクトな公式を導き、さらに一様静電磁場の場合には積分を用いた表式を得た。

これらの基礎的な定式化を用いることで、まず多バンド系におけるホール効果の理論を、不純物散乱を取り入れて計算した。まず、異常ホール効果における不純物効果の問題は、スキュー散乱による外因的機構とKarplus-Luttingerの提唱したバンド効果による内因性機構の間で長年論争が行われてきた。最近の詳細なバンド計算によるとフェルミエネルギー付近に存在するバンド交差構造が、異常ホール効果に重要な働きをしていることが示唆された。この結果を踏まえ、バンド交差を記述する最も簡単な模型としてRashbaモデルを取り上げ、不純物散乱効果を取り入れて異常ホール伝導度の計算を行った。その結果、乱れの強さに応じて3つの異なる領域が存在し、それぞれの領域で、外因性機構と内因性機構が異なる役割をすることを見出した。また、スピンホール効果に関しても、まずKeldysh形式から、スピンホール伝導度に対する一般化したStreda公式を導き、それをいろいろな模型に適用して、不純物散乱によってスピンホール効果が消える場合と、有限に残る場合を分類し、その一般論を構築することができた。

もう一つの応用として、強相関電子系における電場誘起絶縁体・金属転移の理論を構築した。不純物散乱を取り入れたKeldysh形式で、電場の効果を非摂動的に取り扱うことでLandau-Zenerトンネル過程と、散逸を伴う定常流を統一的に扱うことに成功し、その非平衡Green関数を用いて、反強磁性磁気秩序に対する自己無撞着方程式を解いた。その結果、電場を強くしてゆくと必ず1次相転移で絶縁体・金属転移が起こることを見出した。そしてその閾値電場は通常のZener 破壊に対するそれよりも2桁以上小さくなることを示した。これらの結果は、Cu,Ni酸化物などの実験結果と良い符合を示している。

本論文は5つのChapter, Appendix Aからなる。

Chapter 1は Overview of the thesisとして論文全体の構成を述べている。

Chapter 2 はGauge covariant Keldysh formulaとして、Keldysh形式の導入のあと、ゲージ不変な定式化、変形量子化を使ったDyson方程式の導出、定電磁場の場合の積分表示などが導かれている。

Chapter 3は Hall effectsとして、その導入の後、異常ホール効果、スピンホール効果の不純物散乱を取り入れた計算をChapter 2の定式化を用いて行った。異常ホール効果では、乱れの強さに応じて3つの領域:(i) skew散乱の支配的なスーパークリーン領域、(ii)内因性機構が支配的な通常金属領域、(iii)新しいスケーリング則σ(xy)∝σ(16xx) 成立するホッピング領域、の3者が存在することがわかった。スピンホール効果に対しては、不純物散乱を取り入れたときに、モデルに応じてスピンホール伝導度が有限に残る条件を一般的に導くことができた。

Chapter 4 は、Metal-insulator transitionにgauge covariant Keldysh formalismを適用し、電場下での磁気秩序に対する自己無撞着方程式を解くことで、非平衡絶縁体・金属転移が1次転移となることを見出した。

Chapter 5では、Chapter 2-4で述べられた結果をまとめるとともに、今後の展望が述べられている。

以上をまとめると、本論文ではゲージ不変性を顕にKeldysh formalismに取り入れることで、多バンド系の量子輸送現象、および非平衡絶縁体・金属転移の理論を構築した。本論文の研究は、非平衡量子統計物理全般へと波及効果を持つばかりでなく、多バンド系の量子輸送現象、強相関電子系の非平衡過程の理論の発展に資するものと考えられ、今後の物理工学へ寄与するところが大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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