学位論文要旨



No 124600
著者(漢字) 村田,憲一郎
著者(英字)
著者(カナ) ムラタ,ケンイチロウ
標題(和) 分子性液体の液体・液体転移 : 機構解明とその制御
標題(洋)
報告番号 124600
報告番号 甲24600
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7034号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 教授 土井,正男
 東京大学 教授 伊藤,耕三
 東京大学 教授 酒井,啓司
 東京大学 特任講師 奥薗,透
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、液体・液体転移の微視的機構の解明、及びその空間的・時間的制御を目指して行なった研究をまとめたものである。液体・液体転移とは、単成分からなる物質の液体状態は唯一つである常識に反し、液相がもう一つ存在し得るという驚くべき現象で、液体の本質に関係した現象として最近大きな注目を集めている。近年の片山らによるリンの液体・液体相転移の発見をはじめ、これまでに様々な物質で転移を示す証拠が見つかっており、多くの液体に存在する普遍的現象と予想される。しかし、多くの場合、その転移点が高温・高圧、もしくは結晶化に対する絶対不安定領域に存在するという困難な実験条件のため、実験結果に基づく理論的考察はほとんどなされていなかった。その中で我々の研究室では、亜リン酸トリフェニル(以下TPP)、n-butanolの二つの分子性液体において常温・常圧下に存在する液体・液体転移を発見し、詳細な研究を行ってきた。 我々は、液体の状態を指定するには、密度に加えて局所安定構造の数密度という新たな秩序変数が必要であるという「二秩序変数モデル」を提唱しており、この局所安定構造の協同的形成が液体・液体転移の起源であると考えている。このモデルに立脚して、これまで精力的に研究を行った結果、転移ダイナミクスなどの巨視的レベルにおいては、二秩序変数モデルが液体・液体転移を記述するモデルとして正しいことが立証された。

その一方、このモデルで仮定している新たな秩序変数:局所安定構造の数密度の存在は今なお自明ではなく、より微視的なレベルで、この転移の物理的起源を包括的に理解することが望まれていた。そこで本研究では、主に小角・広角X線散乱、誘電緩和測定を用いて、その液体・液体転移による微視的構造の変化を静的・動的側面から捉えた。また、本研究を含めたこれまでの研究から、液体・液体転移によって、屈折率、誘電率、異種物質との相溶性等の基礎物性が変化することが見出された。故に、この転移は液体の新たな物性制御法としても重要であると考えられる。そこで、液体・液体転移の制御という観点から、液体・液体転移における濡れ現象、ラビング基板上での液体・液体転移などの表面効果に関する研究、及びレーザー誘起液体・液体転移の研究を行った。以上のように本論文は、「微視的機構の解明」と「制御」の二つの部分から構成されている。

はじめに、微視的機構の解明に関する具体的な研究の成果を挙げる。まず、位相差顕微鏡観察と誘電緩和測定を同時に行うことが可能な測定系を構築し、液体・液体転移の空間パターンと系の緩和現象の関係について研究を行った。その結果、転移の空間パターンの時間発展の様式の違い加え、緩和現象においても核生成・成長型、スピノーダル分解型という2種類の時間発展が存在することを明らかにした。特に、スピノーダル分解型の転移様式では、空間パターンと緩和現象が結び付いていることも見出した。更に、液体IIの動的構造という観点からも研究の焦点を当てた。我々は、液体I、液体IIの緩和スペクトルの温度変化を測定し、液体IIが液体Iよりstrongな液体であること(fragile to strong 転移)を誘電緩和測定から裏付けた。一方で、「strongな液体ほど緩和時間の分布は狭い」という一般的なガラス形成物質の経験則に反して、TPP、そしてn-butanolの液体IIが、共に非常に広い緩和時間分布を有することも見出した。この従来の経験則との矛盾、及び非常に広い緩和時間分布の存在は、TPP、n-butanol共通の性質である点は重要である。

このような興味深い動的変化を導く静的な構造を見出すために、小角・広角X線散乱を用いて液体・液体転移における微視的な構造の変化を観測した。その結果、TPP、n-butanol共に小角領域において散乱関数の増大が認められ、GIFT(Generalized Inverse Fourier Transform)法による解析から、約50 nmの中距離秩序構造が液体IIに存在することが明らかとなった。この値は、先述したスピノーダル分解型液体・液体転移の初期過程において駆動される密度揺らぎの温度変化から求められた、裸の相関長の値と一致している。裸の相関長の値は、相転移における最も基本的な単位構造の大きさを示すものであり、本研究において初めて実験的にその構造の存在を確認することができた。この結果は、液体・液体転移において、この中距離秩序構造が本質的な役割を果たしていることを意味している。また、50 nmという値はTPP、n-butanol共に等しく、静的構造においても動的性質と同じく、2つの分子性液体との間に共通性があることを指摘しておく。

これらの研究の過程で、n-butanolの液体・液体転移において、サンプルを一度結晶化させることにより「液体・液体転移」が誘起されるという液体・液体転移の結晶化に対する履歴効果を発見した。このような履歴効果は、高分子物質やクラスレート水和物において古くから経験的に知られているが、融点以上の低分子液体の緩和時間はナノ秒~ピコ秒の領域に存在する為、履歴効果は存在しないと考えるのが一般的である。故に、融点以上の液体に存在する履歴効果は、従来の液体の常識を覆す極めて興味深い現象である。しかし、高分子物質やクラスレート水和物における結晶化履歴効果をめぐっては、液体の内部構造の変化により生じるものなのか、不純物による不均一核生成によるものなのかは、現在も議論が続いている。我々は、位相差顕微鏡を用いて履歴効果を直接観察したところ、一度結晶化することで核生成・成長型から不均一核生成の影響がないスピノーダル分解型へと液体・液体転移のキネティクスが変化する様子を観察することができた。この実験事実は、履歴効果の原因が、不純物による不均一核生成ではなく、自由エネルギーが変化することに由来するスピノーダル温度の変化であることを示唆している。また、熱量測定、誘電緩和測定の結果から、履歴効果の緩和時間は通常の液体の構造緩和と比べ非常に長いことも見出した。

次に、液体・液体転移の制御に関する研究成果について述べる。我々は、液体・液体転移における濡れ現象について研究を行った。本研究では、表面における液体・液体転移のキネティクス、特に不均一核形成についての考察を行った。その結果、液体IIの濡れ性を、表面物質を選択することで制御し、今まで見ることができなかった液体IIの核生成・成長モルフォロジーを観察することに成功した。同時に、液体IIの成長速度は、濡れ性による成長モルフォロジーに依らないことも見出した。また、液体IIの濡れ性の物理的起源を考察するために、非遅延ハマカー定数を算出し、液体IIと表面間の相互作用を定量的に扱った。その結果、液体IIの濡れの起源が、分散力に起因するのではなく、表面の化学構造、及びそれに起因する相互作用(TPPの場合は水素結合)に起因することを明らかにした。

上記と同じ表面効果の研究として、ラビング基板上での液体・液体転移の考察も行った。我々は、液晶のアンカリングに用いられるラビングという操作により、液体・液体転移が大きく影響を受けるのを見出した。(ラビングとは、表面にμm~nmオーダーの非常に微細な溝を作る操作である。) 具体的には、このラビングにより、核生成・成長領域においても、液体・液体転移のスピノーダルパターンを観察することに成功した。また、従来のスピノーダル領域よりも高い温度領域で同様のパターンが観察されることを反映して、そのキネティクスが約3倍加速されることも見出した。我々は、顕微鏡観察の中で、液体IIが微細な溝に沿って成長する様子を捉えた。さらに、スピノーダル分解領域での直接観察をラビング基板上で行ったが、スピノーダル分解型液体・液体転移ではその影響が観察されなかったことから、表面におけるwedge filling現象が、この現象の本質的な役割を果たしているという結論に至った。

最後に、レーザー誘起液体・液体転移について述べる。我々は、液体・液体転移により二つの液相間で屈折率差が生じることから、電場勾配により生じる電歪効果を利用することにより、液体・液体転移を誘起することが可能であるという着想に至った。そこで、レーザー光を位相差顕微鏡に導入する測定系を構築し、レーザー光照射部で生じる電歪効果により転移が誘起される様子を直接観察した。その結果、従来の液体・液体転移と同じく、レーザースポット内においても核生成・成長型とスピノーダル分解型の二種類の転移キネティクスが存在することを明らかにした。また、レーザー光の照射による局所加熱の効果を正確に評価し、スポット内のスピノーダル温度を計算すると、従来のスピノーダル温度比較して、約6 K上昇していることを見出した。本研究の結果は、電歪効果による光誘起液体・液体転移が起こることを示唆するものである。本研究では、局所加熱の効果を利用して、液体IIによるパターン制御を行い、μmスケールという微小空間内で、液体IIでの文字のパターニングや、ドットパターンの作成に成功している。本研究において、液体IIによるμmスケールでのパターン制御が可能になったことから、この転移を利用した液体の新規の物性制御方法としての道が開けたのではないかと考えている。

液体・液体転移の起源の解明は、この転移の物理的理解の深化のみならず、ガラス転移現象や水型液体の熱力学的異常などの液体の未解決問題の統一的理解に繋がると考えている。本研究で得られた成果は、従来の液体の概念に対する新機軸の構築と、液体・液体転移を利用した新たな液体の物性制御法の確立に貢献するものと思われる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、単成分液体の液体・液体転移現象の微視的機構の解明、及びその空間的・時間的制御を目指して行われた研究をまとめたものである。これまで、液体・液体転移に関し、転移キネティクスなどを中心に現象的レベルでの解明が行われてきたが、本論文では微視的な観点からその起源に迫ることを一つの目的とした。また、これまでの研究から液体・液体転移によって屈折率、誘電率、異種物質との相溶性等の液体としての基礎物性が大きく変化することが見出されている。そこで、液体・液体転移を利用した液体の時間的・空間的制御も目的として研究を進めた。

第1章では、本研究の背景と目的について、第2章では、液体・液体転移を理解するための基礎的な知識について言及している。また、第3章においては本研究で用いた実験手法について記されている。

第4章では、位相差顕微鏡観察と誘電緩和測定を同時に実現可能な実験系の構築、液体・液体転移の空間パターンと系の動的緩和現象の関係について記されている。また、液体IIの動的特性の解明という観点からも研究を行い、その結果、TPP、n-butanolの液体IIが、strong(アレニウス的な緩和時間の温度依存性を示す)な液体であるにも関わらず、非常に広い緩和時間分布を持つことを明らかにした。この結果は従来の経験則に反するものであり、液体IIの構造とダイナミクスを理解する上で重要な発見といえる。この特徴は、TPPのみならず、n-butanolにおいても見られることが示され、その一般性が示唆された。

第5章では、小角・広角X線散乱によって捉えた、液体・液体転移の過渡的過程における微視的構造の変化について議論し、第4章で考察した液体IIの興味深い動的挙動の構造的な起源について考察を行っている。小角領域において、TPP、n-butanolの液体・液体転移の過程で共に散乱関数の変化が認められ、解析の結果、直径50 nmにも及ぶ中距離秩序構造が液体IIに存在することが明らかとなった。このメソスケール構造こそが、液体・液体転移の機構解明の鍵を握っていると考えられる。

第6章では、n-butanolにおける液体・液体転移の結晶化履歴挙動についての研究について記されている。位相差顕微鏡を用いてこの履歴効果を直接観察したところ、試料を一度結晶化することで核生成・成長型からスピノーダル分解型へと転移キネティクスが劇的に変化することが見出された。そして履歴効果の原因が、不純物による不均一核生成などによる外因性のものではなく、液体状態に存在する環状と直鎖状の二種類の局所安定構造の競合に起因したものであることが明らかとなった。

第7章から第9章では、液体・液体転移の時間的・空間的制御に関する研究について記されている。第7章では、液体・液体転移に対する固体壁へのぬれ効果、特に固体表面での不均一核形成についての研究に関して記されている。具体的には、核形成・成長型の液体・液体転移において、固体壁のぬれ性が壁面での核生成のダイナミクス、核の形状に多大な影響を与えることが明らかにされた。また、非遅延ハマカー定数を算出し、液体IIと表面間の相互作用を定量的に見積もることで、液体IIのぬれの起源が分散力に起因するのではなく、局所構造形成を促進する表面の化学構造(水素結合能など)に起因する可能性が高いことが示された。

第8章では、第7章に関連して、液晶分子の配向に用いられるラビング処理を行った基板表面の与える、液体・液体転移への影響について記されている。ラビング処理が転移ダイナミクスに時間的・空間的に大きな影響を与えることが見出され、基板表面のメソスコピック・スケールでの起伏が液体・液体転移のダイナミクスに多大な影響を与えることが示された。

第9章では、光誘起液体・液体転移について記されている。レーザー光を位相差顕微鏡に直接導入する測定系を構築し、レーザー光照射部で生じる電歪効果、局所加熱により液体・液体転移が誘起される様子を直接観察することに成功した。また、その局所加熱の効果を利用し、μmスケールという空間分解能で液体I中に液体IIを局所的に生成することで、文字パターンや、ドットパターンが作成可能であることを示した。光誘起液体・液体転移の成功により、μmスケールでの液体物性制御の可能性が示されたといえる。

本研究で得られた成果は、単成分液体の液体・液体転移の機構解明のみならず、液体・液体転移を利用した新たな液体の物性制御法の確立に大きく貢献するものと思われる。

以上のように、本研究で得られた成果は、物理工学上非常に重要なものである。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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