学位論文要旨



No 124624
著者(漢字) 高坂,亘
著者(英字)
著者(カナ) コウサカ,ワタル
標題(和) 複数の物性が共存するシアノ架橋型磁性金属錯体の合成と新奇現象の探索
標題(洋)
報告番号 124624
報告番号 甲24624
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7058号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橋本,和仁
 東京大学 教授 藤田,誠
 東京大学 教授 藤岡,洋
 東京大学 教授 大越,慎一
 東京大学 准教授 石井,和之
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

分子磁性体は,金属や金属酸化物からなる従来の磁性体と比較して,結晶構造に柔軟性があり分子や磁気特性の設計が容易である.この長所を利用して,当研究室では機能性を付与した分子磁性体の設計・合成が進められている.機能性を発現させる上では,分子磁性体の示す磁気特性に加えて,他の物性を共存させることが鍵となる.本研究ではまず共存させる物性としてFe(II)スピン転移に着目し,ヘキサシアノ錯体から成るCsFe[Cr(CN)6]・1.3H2O (1),およびオクタシアノ錯体を構築素子とするFe2[Mo(CN)8]・(3-pyCH2OH)8・3H2O (2, py = pyridyl)について検討を行った.一方,誘電物性との共存という点から,自発電気分極を示す結晶構造に着目し,焦電性磁性錯体Gd(III)(DMA)n[WV(CN)8] (n = 6 (3), 5 (4), DMA = N,N-dimethylacetamide),および[Mn(II)(pyrazine)(H2O)2] [Mn(II)(H2O)2][M(IV)(CN)8]・4H2O (M = Nb (5), Mo (6))を合成し,磁気特性の検討を行った.

2.CsIFe(II)[Cr(III)(CN)6]強磁性プルシアンブルー類似体におけるFe(II)スピンクロスオーバーの観測

当研究室では以前にFe(II)[Cr(III)(CN)6](2/3)・5H2Oがフェロ磁性を示すことを報告している.そこで,Csカチオンの導入により,欠陥のないタイプのCsFe[Cr(CN)6] ・1.3H2O (1) を合成し(図1),その磁気特性について検討を行った.

【実験】 1は,K3[Cr(III)(CN)6]とCsIClの混合水溶液に,Fe(II)Cl2とCsIClの混合水溶液を滴下することにより得た.組成は誘導結合プラズマ質量分析(ICP-MS)およびCHN標準元素分析により決定し,物性評価は走査型電子顕微鏡(SEM),超伝導量子干渉計(SQUID),X線粉末回折(XRD),X線吸収微細構造スペクトル(XAFS),(57)Fe Mossbauerスペクトル,および熱緩和法による比熱測定により行った.

【結果と考察】 得られた錯体は茶色粉末で,SEM観察より粒径が170±40 nmの微結晶よりなっていた.元素分析の結果より組成はCsFe[Cr(CN)6]・1.3H2Oであった.外部磁場5000 OeにおけるχMT-Tプロット(図2)では,27 Kの温度ヒステリシスを伴った磁化率の急激な変化が観測された.転移温度は,高温相から低温相の時(T(1/2↓))が211 Kで,低温相から高温相(T(1/2↑))では238 Kであった.これらの相転移は温度変化に対して繰り返し観測された.X線吸収端近傍構造(XANES)スペクトルおよび(57)Fe Mossbauerスペクトルから,この転移がFe(II)サイトのスピンクロスオーバーであることがわかった.IRスペクトルの温度依存性からは,スピン転移に伴い,Fe(II)(hs)-NC-Cr(III)のCN伸縮振動がFe(II)(ls)-NC-Cr(III)へと変化することが確認され,高温相のFe(II)(hs)の88%がFe(II)(ls)へと転移していた.さらに本錯体は,反転したCN基を6%程度構造中に含んでいた.XRDの温度変化測定では,高温相から低温相への転移に伴い,面心立方構造(F43m)を保ったまま格子定数10.708(1) Aから10.330(1) Aへと変化した.本錯体では,Csを導入したことにより,Fe(II)に配位しているN原子の数が増加し(図1),また,一部のFe(II)にはCN基の反転によるC原子が配位しているため,Fe(II)周りの配位子場が強くなり,スピンクロスオーバーが発現したと考えられる.

極低温領域において磁化の温度依存性を測定した結果,低温相は磁気相転移温度が9 Kのフェロ磁性体であることがわかった(図3).比熱測定では,8.0 Kをピークとして,磁気相転移に起因する比熱のピークが観測され,磁気転移エントロピー(ΔS(mag) = 9.0 J K(-1) mol(-1)),磁気転移エンタルピー(ΔH(mag) = 83.0 J mol(-1))が見積もられた.磁気比熱の解析から,磁気秩序は三次元ハイゼンベルグ型であることが示唆された.低温相はFe(II)ls (S = 0)上の電子が部分的に,Cr(III) (S = 3/2)上に非局在化することによる,混合原子価メカニズムにより強磁性が発現しているものと考えられる.

3.Fe(II)2[Mo(IV)(CN)8]・(3-pyCH2OH)8・3H2OにおけるFe(II)スピンクロスオーバーおよび新規転移現象の観測

オクタシアノ金属錯体は外部環境に応じて様々な配位形態をとり,立体化学的な柔軟性を持っていることから,ヘキサシアノ錯体とは異なる物性の発現が期待される.そこで,[Mo(CN)8](4-)から構築され,Fe(II)スピンクロスオーバーを示す化合物Fe(II)2[Mo(IV)(CN)8] ・(3-pyCH2OH)8・3H2O (2)を合成し,その物性を検討した.

【実験】 2は,Ar雰囲気下でFe(II)Cl2と3-pyCH2OHの混合水溶液を,K4[Mo(IV)(CN)8]水溶液と混合させることにより得られた.評価は,SEM,XRD,SQUIDによる磁気測定,(57)Fe Mossbauerスペクトルにより行った.

【結果と考察】 得られた錯体は黄色粉末で,SEM観察より粒径が3 ± 1 μmの微結晶よりなっていた.室温でのXRDパターンのRietveld解析より,2は立方晶であり(Ia3d , a = 34.6716(5) Å),Fe(II)サイトには4つの3-pyCH2OHが配位し,2サイトを[Mo(CN)8](4-)のシアノ基が架橋した三次元構造を形成していた(図4).外部磁場5000 OeにおけるχMT-Tプロットでは,広い温度範囲にわたって緩やかな磁化率の変化が観測された(図5).温度ヒステリシスは観測されなかった.(57)Fe Mossbauerスペクトルよりこの磁化率の変化は,Fe(II)サイトのスピン転移によるものであることが確認され, 50 Kでは室温におけるFe(II)(hs)の76%がFe(II)(ls)へと転移していた.XRDパターンの温度依存性測定では,温度減少にしたがい,室温と同じ立方晶の対称性を保ったまま,格子定数が連続的に収縮していく様子が観測された.スピン転移の挙動について,平均場近似により熱力学的な検討を行った(図5).その結果,極低温において2では,Fe(II)(hs)サイトの周りにはFe(II)(ls)が隣接するという,負の協同効果が働いていることが示唆された.これは2のようにFeサイト同士がシアノ基で架橋された協同効果の大きな系においては,イオン半径の異なるFe(II)(hs)とFe(II)(ls)が交互に配列するほうが,スピンクロスオーバーの発現に伴い構造に誘起される歪みがより小さくなるためだと考えられる.また,このような相互作用の元では,同種のスピン状態サイトからなるドメインが形成されないため,転移は緩やかになり,かつ不完全となることが理解できる.加えて,Feサイト間に働く相互作用は温度上昇とともに変化し,190 K以上の温度では同種スピンサイト間が隣接しやすくなるという,正の協同効果へと性質を変えていることが示唆された.負の協同効果の発現,およびスピンクロスオーバーに伴う協同効果の正負の変化は2において初めて観測された.

4.Gd(III)-[WV(CN)8]-(DMA) 焦電性一次元磁性錯体の構造と磁気特性

[W(CN)8](3-)イオンと,大きなスピンを持つ希土類イオンのGd(3+)(S = 7/2)を組み合わせて,自発電気分極を持つ一次元磁性錯体Gd(III)(DMA)6[WV(CN)8] (3),およびGd(III)(DMA)5[WV(CN)8] (4)の単結晶を合成し,結晶構造および磁気特性の検討を行った.

【実験】 錯体単結晶は,Gd(NO3)3・6H2O DMA (DMA = N,N-ジメチルアセトアミド)溶液と(HBu3N)3[W(CN)8]のDMA溶液を混合し,5℃ (3),もしくは 30℃(4)でジエチルエーテルをゆっくりと拡散させることで得られた.X線単結晶構造解析により構造を決定し,ICP-MS, CHN標準元素分析により組成を決定した.磁気測定はSQUIDにより行った.

【結果と考察】 3, 4は共にGdとWが交互に結合した一次元鎖状構造をとっていた(図6).3は Wの8つのCN基のうち2つがそれぞれGdと架橋しており,Gdは8配位で,2つのCN基のN原子と6つのDMAのO原子が配位し,a軸方向に自発電気分極を有している.一方4は,Wの8つのCN基のうち2つがそれぞれGdと架橋し,Gdは7配位で,2つのCN基のN原子と5つのDMAのO原子が配位し,b軸方向に自発電気分極を有している.2 Kまでの磁気測定の結果,どちらの錯体もGd(III)とWVによる常磁性であった.Seidenによって提案された磁化率のモデルを用いてχΜΤ-Τプロットのシミュレーションを行い,磁気相互作用(J)を求めた.その結果,3ではJ = -0.28 cm(-1),4ではJ = -0.42 cm(-1)という負の値が得られ,両錯体はGd(III) (S = 7/2)のスピンとWV (S = 1/2)のスピンが反強磁性的にカップリングしたフェリ磁性一次元鎖であった.

5.Mn(II)-[Nb(IV)(CN)8]-(pyrazine) 焦電性フェリ磁性体の合成と磁気特性

[Nb(CN)8](4-) (S = 1/2)とMn(2+) (S = 5/2), およびpyrazine配位子を用いることにより,焦電性フェリ磁性体,[Mn(II)(pyrazine)(H2O)2][Mn(II)(H2O)2][Nb(IV)(CN)8]・4H2O (5)を合成し,その磁気特性,および第二高調波発生(SHG)について検討した.また,[Mo(CN)8](4-) (S = 0)を用いた場合にも同型構造を持つ焦電性錯体 [Mn(II)(pyrazine)(H2O)2][Mn(II)(H2O)2][Mo(IV)(CN)8]・4H2O (6) が得られた.

【実験】 5, 6の単結晶はMn(II)Cl2,pyrazineの混合水溶液と,K4[Nb(IV)(CN)8] (5),もしくはK4[Mo(IV)(CN)8] (6)水溶液を用い,拡散法により得られた.試料の評価はX線単結晶構造解析,元素分析,およびSQUIDによる磁気測定で行った.SHG測定では,粉末試料をガラスセルに充填したものを照射サンプルとし,Nd:YAGパルスレーザーの1064 nm光を照射し,サンプルからの反射光を適当なフィルターにより分光し検出した.

【結果と考察】 単結晶構造解析の結果,5はMn(2+)が[Nb(IV)(CN)8](4-)とpyrazineによって架橋された三次元構造を形成していた(図7).Nbの8つのCN基のうち6つがMnと架橋していた.Mnには2サイトあり,一方には4つのCN基由来のN原子と2つの水分子が配位し,もう一方には2つのCN基のN原子,2つのpyrazineのN原子,および2つの水分子が配位していた.結晶は分極を持つ空間群(単斜晶P21)に属しており,分極はb軸方向に存在している.6の構造は5と同型であった.磁気測定の結果,5は48 Kで磁気相転移を示し,磁化容易軸はa軸方向であった(図8).2 Kにおける飽和磁化の値が9.2 μBであることから,錯体5はNb(IV) (S = 1/2)と2つのMn(II) (S = 5/2)の間に反強磁性的な相互作用が働いた,フェリ磁性であることが示唆された.6は2 K以上でMn(II)による常磁性を示した.5, 6のSHG測定を293 Kにおいて行ったところ,5, 6のSHG感受率はそれぞれ2 × 10(-11),6 × 10(-11) esuであった.5のSHG強度の温度依存性を測定したところ,50 K以下の温度領域において磁化誘起効果によるSHG強度の増大が観測された.10 KにおけるSHGへの磁性項の寄与は結晶項の約1.3倍であり,5は大きな非線形磁気光学効果を示す材料であることが示された.

6.結論

シアノ金属錯体を構築素子として用い,複数の物性が共存する磁性錯体を合成し,新奇現象の探索を行った.その結果としてまず,初のFe(II)スピンクロスオーバー強磁性体CsFe[Cr(CN)6]・1.3H2O (1),および負の協同効果を示すFe(II)スピンクロスオーバー錯体Fe2[Mo(CN)8]・(3-pyCH2OH)8・3H2O (2)を見いだした.これらの化合物は,相転移の学問分野において重要な知見を与えるモデル化合物である.また,焦電性一次元希土類錯体,Gd(III)(DMA)n [WV(CN)8] (n = 6 (3), 5 (4)),焦電性三次元フェリ磁性体および常磁性体,[Mn(II)(pyrazine)(H2O)2] [Mn(II)(H2O)2][M(IV)(CN)8]・4H2O (M = Nb (5), Mo (6))の合成に成功し,金属錯体材料がマルチフェロイクス材料としての有力な候補たり得ることを示した.

図1 Csカチオン導入による結晶構造の変化

図2. χMT-Tプロット (外部磁場 5000 Oe)

図3.磁場中冷却磁化曲線(外部磁場 10 Oe) および比熱-温度曲線

図4. 2 の結晶構造におけるシアノ基-金属フレームワーク 3-pyCH2OH,フリーのCN基,水分子は省略して描画

図5. χMT-Tプロット (○ 外部磁場 5000 Oe)と平均場近似によるシミュレーション(実線)

図6. Gd(III)(DMA)n[WV(CN)8]の結晶構造(a) n = 6, (b) n = 5.

図7. 5の結晶構造 P: 自発電気分極 M: 磁化容易軸

図8. 5の磁化温度曲線 (外部磁場 10 Oe)

審査要旨 要旨を表示する

本論文では、新規な物理現象の発現を狙い、複数の物性を共存させるというコンセプトに基づいてシアノ架橋型磁性金属錯体を合成し、得られた化合物の物性の検討を行った結果をまとめている。本論文は全六章から構成されている。

第一章は序論であり、本研究の背景である磁性体の理論およびシアノ架橋型金属錯体について紹介し、シアノ架橋型金属錯体を用いて新しい現象を発現させるための合成戦略や、研究を行う意義、目的について述べられている。

第二章では、プルシアンブルー類似体CsFe[Cr(CN)6]・1.3H2Oの物性について検討が行われている。この化合物では温度ヒステリシスを伴う一次相転移が観測されているが、様々な測定手法から相転移がFe(II)スピンクロスオーバーによるものであると結論づけられている。さらに低温領域において強磁性相転移が発現することを、磁気測定や比熱測定により明らかにしている。本化合物は、Fe(II)スピンクロスオーバー相転移と強磁性相転移が共存する初めての化合物と位置づけられており、両転移の相乗効果に伴う新規現象の発現が期待される。

第三章ではFe2[Mo(CN)8]・(3-pyridylmethanol)8・3H2Oの物性について検討が行われている。本化合物はFeとMoがシアノ基で架橋された三次元の立方晶構造を形成しており、広い温度範囲にわたる連続的なFe(II)スピンクロスオーバーが観測されている。このスピンクロスオーバーの温度変化は、ボルツマン分布に比べて、よりなだらかなであるという特徴を有している。その原因について、平均場近似による熱力学的解析から検討を行っているが、その結果、Fe(II)サイト間に働く協同効果がFe(II)の高スピンサイトと低スピンサイトを交互に配列させるような、従来の化合物におけるものとは異なる"負の協同効果"であるため、特異なスピンクロスオーバーが観測されたと結論づけている。このような効果が発現したのは、Feサイトが高い対称性の下、シアノ基で三次元的に直接架橋されているために、等方的な弾性相互作用が働いたためであると説明している。

第四章では二種類の化合物Gd(N,N-dimethylacetamide)n[W(CN)8] (n = 6,5)の物性について検討が行われている。どちらの化合物もGdとWがシアノ基で交互に架橋された一次元鎖状構造が形成されており、自発電気分極を持つ焦電性結晶であった。また、磁化率の解析から、スピンが反強磁性的にカップリングした一次元鎖であると結論づけている。

第五章では二種類の化合物[{Mn(H2O)2(pyrazine)}{Mn(H2O)2}{M(CN)8}]・4H2O (M = Nb, Mo)の物性について検討が行われている。これらはMnがオクタシアノ錯体とpyrazineによって架橋された三次元構造を有しており、また、自発電気分極を持つ焦電体であることが明らかにされている。一方、磁気測定ではNb錯体が48 Kで磁気相転移するフェリ磁性体であることが示されている。さらに、焦電体に特有の非線形光学効果である第二高調波発生(SHG)についても検討されており、Nb錯体において大きな磁化誘起第二高調波発生(MSHG)の観測に成功している。

第六章は、新しい物理現象、機能性発現の実現に向けて、本論文を通じて得られた知見について要約されている。

以上、本論文では、大きな非線形磁気光学効果を示す材料、スピンクロスオーバー強磁性体という物質の新しいカテゴリー、負の協同効果といった新しい概念を見出すことに成功している。これらの結果はいずれも新しい研究領域の起点となり得る新規性を含んだ結果であり、新たな物性の開拓に貢献することが期待される。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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