学位論文要旨



No 124670
著者(漢字) 山中,大介
著者(英字)
著者(カナ) ヤマナカ,ダイスケ
標題(和) PI 3-kinaseに結合する新規シグナルタンパク質とその下流シグナルの生理的意義の解明
標題(洋)
報告番号 124670
報告番号 甲24670
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3380号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 准教授 加藤,久典
 東京大学 准教授 前田,達哉
 東京大学 准教授 田中,智
 東京大学 准教授 高橋,伸一郎
内容要旨 要旨を表示する

インスリン様成長因子(IGF)は、個体レベルでは、動物の正常な発生・発達・成長・成熟・タンパク質代謝などに必須なペプチドホルモンであり、細胞レベルでは、様々な細胞の増殖・分化・生存などを誘導する。IGFの特徴のひとつとして、その生理活性は単独で弱く、他の成長因子やホルモンなどの共存下で活性が増強される点を挙げることができる。したがって、生体の生理状態に応じて発現するIGFの生理活性を理解するためには、他の細胞外因子とIGFの協働作用の発現機構を解明する必要がある。

我々は、ラット甲状腺由来正常細胞FRTL-5を甲状腺刺激ホルモン(TSH)とIGF-Iで処理すると細胞増殖が相乗的に促進され、これはTSH長時間処理によって起こるcAMP経路の長期活性化が、IGF-I依存的なDNA合成を増強するために起こることを明らかにしてきた。この相乗作用発現機構を詳細に検討した結果、(1)TSH処理によって起こるcAMP経路の長時間刺激に応答して125kDaの細胞内タンパク質、p125がチロシンリン酸化され、これがphosphatidylinositol 3-kinase (PI3K) p85制御サブユニットと結合してPI3K p110触媒サブユニットの持続的な活性化を誘導する、(2)PI3Kの持続的活性化は、G1 cyclinであるcyclin D1量を増加させ、他のシグナル経路の増強と相まってG1 CDKの著しい活性化を誘導、G1期からS期への細胞周期の進行が可能となる、(3)PI3Kの持続的活性化は、IGF-I受容体チロシンキナーゼによってリン酸化される細胞内基質であるp66Shc量を増加させ、この基質のIGF-I依存性チロシンリン酸化を増強することなどを見出した。したがって、p125は、cAMP経路長時間刺激に応答して誘導されるIGF-I依存性DNA合成の増強に必要なPI3Kの長期活性化を可能にする、これまでに報告のないタイプのPI3K結合タンパク質と推定された。

p125の精製・同定を進めた結果、p125が新規タンパク質であったため(expressed sequence AU041783)、PI 3-kinase-associated protein(PITKAP)と命名した。PITKAPは、分子内に1箇所p85 PI3K結合モチーフを持ち、更にSrcファミリーチロシンキナーゼのSH2ドメイン結合モチーフ、SH3ドメイン結合モチーフ、PIが相互作用するPHドメイン、タンパク質-タンパク質間相互作用に機能すると予想されるcoiled-coilドメインを有していた。また、このタンパク質に相同性のあるタンパク質をデータベースで検索したところ、AFAP-110(actin filament-associated protein of 110 kDa)というタンパク質が存在した。このタンパク質は、Srcにチロシンリン酸化されF-アクチンと相互作用、細胞遊走などに関与することが報告されている。

そこで本研究では、構造から予想されたPITKAPの機能を、PI3Kとの相互作用、アクチンフィラメントとの相互作用という二つの側面から分子レベルで解析し、更に甲状腺細胞FRTL-5を用いてPITKAPが仲介している生理活性を明らかすることを目的とした。

チロシンリン酸化PITKAPとPI3Kとの相互作用

これまでの研究成果からPITKAPはSrcファミリーチロシンキナーゼによってリン酸化される可能性が示されていたので、まずPITKAPとc-Srcの結合能を検討した。その結果、dibutyryl cAMPで24時間処理したFRTL-5細胞や、PITKAPとc-Srcを共発現した293T細胞において、PITKAPはc-Srcと結合していることが明らかとなった。また、部分精製したPITKAPとc-SrcをATP存在下cell-freeでインキュベーションしたところ、PITKAPのチロシンリン酸化が確認され、更に、293T細胞にc-SrcとPITKAPを共発現した際には、PITKAPがチロシンリン酸化されると同時にPI3Kとの結合が観察された。PITKAPとPI3Kの結合部位を決定するために、PITKAPが持つp85 PI3Kが結合するYXXMモチーフのチロシン残基をフェニルアラニン残基に代えた変異体(Y72F)をc-Srcとともに293T細胞に発現して、PI3Kとの結合を解析した。Y72F変異体がPI3Kと結合しないという結果から、このモチーフがPI3Kとの結合に必要であると考えられた。更にPITKAPとPI3Kの複合体形成がIGFの細胞増殖誘導活性に与える影響を調べる目的で、NIH3T3細胞にPITKAPまたはY72F変異体を発現させ、IGF-Iで刺激後DNA合成量を測定した。その結果、PITKAPを発現させた細胞ではIGF-I誘導性DNA合成が増強されたが、PI3Kと結合しないY72F変異体を発現させた細胞ではこの効果が認められなかった。他の結果も併せ、PITKAPは、c-Srcによってチロシンリン酸化され、アミノ酸番号72番のリン酸化チロシン残基を含むYXXMモチーフを介してPI3Kと結合、このPI3K活性を介してIGFの細胞増殖誘導活性を増強すると結論した。

PITKAPとアクチンフィラメントの相互作用

PITKAPと相同性の高い分子AFAP-110がアクチンフィラメント(F-アクチン)と相互作用することが明らかになっていたので、次にPITKAPとF-アクチンの細胞内局在を解析した。PITKAPの全長、あるいは様々な領域が欠失した変異体をNIH3T3細胞に発現させ、F-アクチンの局在と比較した。その結果、カルボキシル末端側69個のアミノ酸を含む変異体はすべてF-アクチンとの共局在を示したが、この領域を含まない変異体はF-アクチンとの共局在が観察されなかった。同時にcell-free系の結合実験によっても、PITKAPのこの領域とF-アクチンとの相互作用が確認された(以下、この領域をactin filament-binding region, ABRと呼ぶ)。続いてPITKAPとF-アクチンとの結合が、PITKAPとPI3Kとの複合体形成や複合体中のPI3K活性に与える影響を調べるために、293T細胞にc-Srcと共にPITKAP全長、あるいはABRを含まない変異体(ΔABR)を高発現し、PI3Kとの結合量、複合体に含まれるPI3K活性を測定した。PITKAPとΔABR変異体の間に有意な差が観察されなかったことから、PITKAPとF-アクチンとの相互作用はPITKAP複合体中のPI3K活性には影響しないが、PITKAPはPI3KをF-アクチン近傍へリクルートするという役割を担っていると考えられた。一方、PITKAPのアミノ末端側アミノ酸番号185番目までの領域はPITKAPのオリゴマー形成能を担っていることが明らかとなり、PITKAPのオリゴマー化によってF-アクチン同士が架橋され、その結果アクチン線維束の形成が促進されることを初めて示すことができた。一般にアクチン線維束形成活性を持つタンパク質は細胞遊走や細胞接着に重要な役割を果たしていることが知られているので、PITKAPを高発現させたNIH3T3細胞の移動能や細胞-基質間接着を調べたが、特別な表現型を示さなかった。以上の結果から、PITKAPはPI3K活性をF-アクチン近傍へリクルートし、アクチン線維束形成を促進すると結論した。

PITKAPが仲介する生理活性の解析

FRTL-5細胞におけるPITKAPの生理的意義を明らかにするために、PITKAPに対するsiRNAをFRTL-5細胞に導入し、dibutyryl cAMPで24時間前処理後IGF-Iで刺激、これまでの研究成果からPITKAPの関与が予想されているcyclin D1とp66Shcのタンパク量を測定した。その結果、対照細胞においてIGF-I刺激3時間後に誘導されるcyclin D1の発現がPITKAPのノックダウンによって抑制され、他の結果も併せると、PITKAPはcyclin D1の合成量の増加を介してcAMPとIGFの刺激に応答したFRTL-5細胞の相乗的増殖を誘導していることが明らかとなった。一方、PITKAPノックダウンによってcAMP刺激に依存したp66Shcのタンパク量増加が部分的に抑制され、p66 Shcの増加の少なくとも一部はPITKAPにより仲介されていると考えられた。p66Shc増加の生理的意義を解明するために、FRTL-5細胞にp66Shcを過剰発現あるいはp66Shcをノックダウンし、dibutyryl cAMPで24時間前処理後IGFで処理、Shc以降のIGF細胞内シグナル伝達、IGFで誘導される増殖活性などについて検討を加えた。p66Shc過剰発現により、IGF-I依存的なp66Shcのチロシンリン酸化は増加したが、下流のセリン/スレオニンキナーゼであるErkの活性化には影響がなく、IGF-I誘導性DNA合成にも増強効果は認められなかった。一方、p66ShcをノックダウンしたFRTL-5細胞では、IGF-I依存的なp66Shcのチロシンリン酸化が減少し、Erk活性化の持続時間が短くなったが、cAMP前処理によるIGF-I依存性DNA合成の増強にはp66Shcノックダウンの影響は観察されなかった。最後に、酸化ストレスが誘導する細胞死に対するp66Shcの影響を解析した。p66ShcのsiRNAを導入したFRTL-5細胞をH2O2で処理し細胞死を誘導したところ、p66ShcノックダウンによってH2O2に応答して起こる細胞死が増強され、p66Shcが細胞生存活性を仲介していると考えられた。これらの結果は、PITKAPがcyclin D1やp66Shcの合成を促進することにより、細胞増殖活性や細胞生存活性を増強する機能を発揮することを示している。

これまで、PI3Kは、細胞膜上のチロシンキナーゼ内蔵型の受容体が自己リン酸化したもの、あるいは受容体キナーゼによってチロシンリン酸化された細胞膜近傍の基質にPI3Kが結合して一過的に活性化され、多種多様な細胞に増殖や分化の誘導・細胞死の抑制・細胞遊走など、広範な生理作用を発揮するものと考えられてきた。しかし、本研究の成果により、分子レベルの機能が明らかとなったPITKAPは、c-Srcのような細胞質チロシンキナーゼでリン酸化されこれを認識してPI3Kが結合、アクチンフィラメント近傍に持続的にPI3K活性を局在させるという、全く新しいタイプのPI3K結合タンパク質である。PITKAPが、どのような機構を介して細胞周期制御タンパク質や受容体キナーゼ基質の量を増加させるのかはこれからの研究課題であるが、これらのシグナル分子の合成量を増加させることによって、IGFの増殖誘導活性や細胞生存活性を増強することも明らかとなった。PITKAPは多くの組織で発現が観察されることから、今後、それぞれのIGF標的組織においてIGF活性の発現や増強に果たすPITKAPの役割を更に検討することにより、新しい観点から他の細胞外因子とIGFの協働作用発現機構が解明されることを期待している。

審査要旨 要旨を表示する

PI 3-kinase(PI3K)は、膜中のフォスファチジルイノシトール(PI)のイノシトール環3位のOH基をリン酸化する酵素で、生成されるPI(3,4,5)P3(PIP3)が引き金となって種々のシグナル系下流を活性化、多様な生理作用を発揮することが明らかにされている。一般に、PI3Kはチロシンリン酸化タンパク質にp85制御サブユニットが結合することにより、p110触媒サブユニットが活性化されることが知られている。申請者が所属する研究室では、甲状腺細胞FRTL-5をモデル細胞として、甲状腺刺激ホルモン(TSH)等によるcAMPシグナル伝達系の長期活性化(cAMP処理)が、インスリン様成長因子(IGF)-1の細胞増殖活性を増強する機構を解析する過程で、PI3Kに結合する新規チロシンリン酸化タンパク質(PI 3-kinase-associated prote, PITKAPと命名)を同定している。本論文は、PITKAPとPI3Kの複合体形成機構やPITKAPの細胞内局在制御機構を分子レベルで明らかにし、PITKAPの制御下で働く下流因子の生理的意義を解明したもので、序章、本論が3章、そして総合討論からなる。

まず序章では、本研究の背景および意義を概説し、本研究の目的と本論文の構成について述べている。

FRTL-5細胞をcAMP処理するとPITKAPのタンパク量が増加し、チロシンリン酸化されてPI3Kに結合することが明らかにされていた。そこで、第1章では、PITKAPのチロシンリン酸化や、PI3Kとの相互作用の分子機構について解析している。その結果、PITKAPは、c-Srcによって直接チロシンリン酸化され、チロシンリン酸化されたPITKAPは、アミノ酸番号72番のリン酸化チロシンを含むモチーフを介して、PI3Kと結合することを明らかにした。さらに、PITKAPはIGF-Iによって誘導されるDNA合成を促進し、この促進にはPI3Kとの結合が必要であることを見出した。

FRTL-5細胞を用いた細胞内局在の解析から、PITKAPはアクチンフィラメントに局在することが示されていた。そこで、第2章では、PITKAPがどのようにアクチンフィラメントに局在するか、また、PITKAPがアクチンフィラメントに局在することでどのような機能を発揮する発揮するかを解析している。その結果、PITKAPのカルボキシル末端側69アミノ酸から成る領域がアクチンフィラメントへの局在に必要かつ十分な領域で、この領域がアクチンフィラメントに直接結合することを明らかにした。さらに、PITKAPのアミノ末端側185アミノ酸からなる領域がオリゴマー形成能を有し、PITKAPのオリゴマー化によってアクチンフィラメントが架橋されることを発見した。

FRTL-5細胞において、cAMP処理に応答して、PI3Kが活性化することが示されており、この活性化はPITKAPによって引き起こされると考えられている。このPI3K活性化を介して、(1)IGF-1刺激が誘導するcyclin D1タンパク量増加が促進されること、(2)cAMP処理に応答したp66Shcタンパク量増加が起こることが明らかになっていたことから、cyclin D1、p66ShcはPITKAPが制御する下流因子の候補である.そこで、第3章では、PITKAPがcyclin D1、p66Shcの発現量を調節するかを調べ、PITKAPがどのような生理作用を仲介するかを解析している。その結果、PITKAPがIGF-I刺激によって誘導されるcyclin D1のタンパク量増加を増強し、細胞周期の進行を促進することが明らかになった。また一方で、PITKAPは、cAMP処理に応答したp66Shcのタンパク量増加の少なくとも一部を仲介することを見出した。さらに、p66Shcが、H2O2によって誘導される細胞死を抑制することを発見した。

総合討論では、PITKAPと他のPI3K結合タンパク質間でのPI3K活性調節の特徴を比較し、PI3K活性の時間的、空間的な調節の生理的意義について考察している。

このように、本研究は、c-Srcによってチロシンリン酸化されて、PI3Kと結合したPITKAPが、アクチンフィラメント近傍でのPIP3生成を誘導し、その下流因子としてcyclin D1のタンパク量増加を増強することで、IGF-Iが誘導する細胞増殖を促進し、また一方で、p66Shcをもう一つの下流因子としてそのタンパク量増加を仲介し、H2O2が誘導する細胞死を抑制するという生理的意義があることを初めて示したもので、学術上・応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位として価値あるものと認めた。

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