学位論文要旨



No 124680
著者(漢字) 城野,亮太
著者(英字)
著者(カナ) ジョウノ,リョウタ
標題(和) マルチカノニカルab initio分子動力学法による生体分子の自由エネルギー計算
標題(洋)
報告番号 124680
報告番号 甲24680
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3390号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,謙多郎
 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 准教授 北尾,彰朗
 東海大学 准教授 岩岡,道夫
 東京大学 准教授 中村,周吾
内容要旨 要旨を表示する

【序】

分子動力学法は運動方程式を逐次的に解くことで,分子の時間発展や,自由エネルギーなどの熱力学量を直接計算する手法である.現在では,計算機の進歩により原子レベルでの自然現象を解明するための有力な手法となっている.特にバイオインフォマティクスの分野では,生体分子の振る舞いを解き明かすことは,創薬・食品などを通して健康的な生活に貢献するだけでなく,生命を理解するためのひとつのアプローチであるため,非常に注目されている.

分子動力学法による研究にはいくつかの解決すべき問題がある.そのなかで最も重要なものは力場の正確さである.全原子分子動力学法で用いられる古典力学近似の力場パラメータはシミュレーションの成否を決める鍵であるが,特にタンパク質の構成要素であるアミノ酸の配座を決定する二面角パラメータについては様々なものが混在している状況である.しかし,これらの力場がどの程度信頼できるのかはいくつかのシミュレーションを通して経験的に得られた知見によるところが多い.

その一方でab initio 分子動力学法 (AIMD) は,原子核に働く力を古典力場といったパラメータを用いずに量子化学計算から直接求める手法である.従来の分子動力学法と比べ計算コストが高いが,量子化学計算によって裏づけされた精度の高い計算が可能であり,従来の量子化学計算に対しても直接分子のダイナミクスや熱力学量を計算できる点で優れている.したがってAIMD計算を行うことで,古典力場を評価する指標を提示し,実験科学者がシミュレーションによる結果をどの程度信頼してよいかの判断基準を明示することができると考えられる.

本研究はAIMD計算において効率的な構造探索を実現するマルチカノニカルab initio 分子動力学法の開発し,生体分子の古典力場設計の基本となっているアラニンペプチドについて適用することで,力場の指標の基本となる,隣接アミノ酸残基間の相互作用および溶媒効果を解明することを目的とした.

【マルチカノニカルab initio 分子動力学法の開発】

AIMDは膨大な計算時間を必要とするため,効率的な探索方法と組み合わせることが必要である.とくにローカルミニマム問題として知られるエネルギー極小構造にとらわれてしまう現象を回避することは正確な統計量を得る上で重要である.そこでエネルギー空間上でのランダムウォークを実現することでローカルミニマムに陥りにくくするマルチカノニカル法をAIMDと組み合わせたマルチカノニカルab initio分子動力学法を開発した.アラニンジペプチド(Ace-Ala-Nme)に適用し,通常のカノニカルAIMDシミュレーションと比べ,マルチカノニカルAIMD計算は構造空間のほぼ全域にわたる自由エネルギー地形を構築できることを確認した(図1).

【隣接残基との相互作用】

隣り合うアミノ酸の間に生じる相互作用を解明することは,蛋白質の立体構造の構築原理の解明への第一歩として重要である.アラニントリペプチド(Ace-Ala-Ala-Nme)は分子内に3つのペプチド基を持ち,構造変化の実質的な変数となりうるのは2組の二面角対(φ1,Ψ1) (φ2,Ψ2) であり,これらの変化によって様々な構造をとる.このアラニントリペプチドについてマルチカノニカルAIMD計算と従来の古典力場AMBER ff99およびff99SB力場から得られる結果を比較することで隣接残基との相互作用について知見を得ると共に古典力場の評価を行った.

アラニントリペプチドの安定な構造は,2組の二面角対が共に同じ構造をとったC7(eq)-C7(eq)構造,C5-C5構造およびαR-αR構造(βターンType I, III)に分類された.特にC7(eq)構造は最も安定な構造であった.C7(eq)-C7(eq)およびC5-C5構造が安定であることはアラニンジペプチドでC7(eq)やC5構造が安定であることから容易に理解できる.一方αR構造はアラニンジペプチドでは不安定であるがアラニントリペプチドのαR-αR構造(βターンType I, III)は末端算期間で水素結合を形成することによって安定化していた(図2).βターンType IIは二面角対がPII-αLの構造であり,βターンType IIIから二つのアラニン残基間にあるペプチド基を180度回転することによって得られるが,AIMD計算では観測できなかった.一方で古典力場AMBER ff99SBではわずかではあるがPII-αL構造を観測した(図2).気相中ではPII構造やαL構造の出現確率は非常に小さいことからβターンType IIの出現頻度を正しく評価することが正確な力場設計に役立つと考えられる.

【生体分子の溶媒効果】

生体分子はその多くが水中に存在するため,生体分子の振る舞いを計算機シミュレーションから明らかにするには生体分子と水の相互作用すなわち溶媒効果を正しく表現することが必要である.したがって水中のアラニンジペプチドについてマルチカノニカルAIMD計算を適用することで溶媒効果に対する知見が得られると考えられる.

410分子のTIP3Pモデルで構築した半径14.295Aの水滴中にアラニンジペプチドを配置し,1 nsのマルチカノニカルab initio QM/MM分子動力学計算を行った.アラニンジペプチドにかかわる相互作用はHF/3-21Gレベルで取り扱い,水分子間の相互作用は古典力場によって近似した,

得られた構造分布は実験と同様の気相から水中への構造変化を再現した.気相中ではC7(eq)構造とC5構造,水中では特にαR構造とPII構造が安定であった.双極子については,C7(eq),C5はペプチド双極子が互いに打ち消しあうような配置であるため気相中では3.5 Debye程度であるが,水中では電荷が分極することによって4 Debye程度まで増大した.一方,αRは構造分極によってペプチド双極子が互いに平行を向いており,双極子モーメントはアラニンジペプチド中最大の11 Debye程度であった.アラニンジペプチドの双極子が形成する電場に沿うように水分子の双極子が分布していたことから,双極子-双極子相互作用によってαR構造やPII構造は安定化されていると考えられる(図3).この現象は水分子を連続誘電体理論によって陰的に取り扱った場合の結果と同じであり,マクロな観点から構築された連続誘電体理論を原子レベルからサポートするものである.

一方で周辺の水分子は疎水性官能基の周りにはあまり存在せず,ペプチド基などの親水性官能基の周りに多く配置していた.このようにアラニンジペプチドと水分子が直接相互作用する部位は限定されており,この領域の水分子の中にはアラニンジペプチド内の二つのペプチド基を架橋するような構造をとっているものが多かった.特にPII構造は他の構造と比べ架橋の種類が多く,架橋構造を形成する割合も多かった(図3).

【まとめ】

量子化学的な裏づけがあるab initio分子動力学法によって今後さらなる自然現象が解明され,また,より正確な古典力場を開発することによって大規模な系の正確なシミュレーションを行うことができるようになると考えられる.

[1] R.Jono et al. "A multicanonical ab initio molecular dynamics method: application to conformation sampling of alanine tripeptide" Chem.Phys.Lett. 432 (2006) 306.[2] R.Jono et al. "Multicanonical QM/MM molecular dynamics simulation of a peptide in an aqueous environment" , in prep.

図1 300 KにおけるAIMDによるアラニンジペプチドの自由エネルギー地形

a:マルチカノニカルシミュレーションをカノニカル分布に変換したもの

b:カノニカルシミュレーション

図2 a:βターンType I, III(αR-αR構造)

b:βターンType II(PII-αL)

図3 a:αR周りのグリッド点における双極子モーメントの分布

b:水分子によって架橋されたPII構造

審査要旨 要旨を表示する

分子動力学法は原子レベルでの自然現象を解明するための有力な手法である.分子動力学法による研究にはいくつかの解決すべき問題があり,そのなかで最も重要なものは力場の正確さである.しかし,これらの力場がどの程度信頼できるのかはいくつかのシミュレーションを通して経験的に得られた知見によるところが多く,客観的な指標が不足している.その一方でab initio分子動力学法(AIMD)は,原子核に働く力を古典力場といったパラメータを用いずに量子化学計算から直接求める手法である.したがってab initio計算を行うことで,古典力場を評価する指標を提示し,実験科学者がシミュレーションによる結果をどの程度信頼してよいかの判断基準を明示することができると考えられる.

本研究はAIMD計算において効率的な構造探索を実現するマルチカノニカルab initio分子動力学法の開発し,これを生体分子の古典力場設計の基本となっているアラニンペプチドについて適用することで,力場の指標の基本となる,隣接アミノ酸残基間の相互作用および溶媒効果を解明することを目的としたもので,5章からなる.

第1章では分子動力学法の思想について概説した後,問題点をアラニンジペプチドの実験と計算の歴史について述べた.

第2章では本研究で開発したマルチカノニカルab initio分子動力学法の理論および実装・実行の手続きについて記述した.ab initio分子動力学法は膨大な計算時間を必要とするため,効率的な探索方法と組み合わせることが必要である.とくにローカルミニマム問題として知られるエネルギー極小構造にとらわれてしまう現象を回避することは正確な統計量を得る上で重要である.そこでエネルギー空間上でのランダムウォークを実現することでローカルミニマムに陥りにくくするマルチカノニカル法をab initio分子動力学法と組み合わせたマルチカノニカルab initio分子動力学法を開発した.アラニンジペプチドに適用し,通常のab initio分子動力学法と比べ,本手法は構造空間のほぼ全域にわたる自由エネルギー地形を構築できることを確認した.

第3章では気相アラニントリペプチドについて本手法を適用した.蛋白質を単純化したアラニンジペプチドの隣り合うアミノ酸の間に生じる相互作用を解明することは,蛋白質立体構造の構築原理の解明への第一歩として重要である.アラニントリペプチドの安定な構造は,アラニンジペプチドで安定なC5,C7(eq)構造の組み合わせであるC7(eq)-C7(eq)構造,C5-C5構造の他,αR-αR構造(βターンTypeI,III)の三種類に分類できた.各アラニン残基の構造は,片方の残基がC7(eq)構造を形成するともう片方の残基はC7(eq)構造になりやすいなど互いに影響を及ぼしあっていることがわかった.

第4章では水中のアラニンジペプチドについて本手法を適用した.生体分子はその多くが水中に存在するため,生体分子の振る舞いを計算機シミュレーションから明らかにするには生体分子と水の相互作用すなわち溶媒効果を正しく表現することが必要である.本手法を用いて得られた構造分布は実験を定性的に再現し,特にαR構造とPII構造が安定であった.主にαR構造では水分子の双極子がアラニンジペプチドの双極子が形成する電場に沿うように分布していたことから,双極子一双極子相互作用によって安定化されていると考えられる.この現象は水分子を連続誘電体理論によって水を連続体で取り扱った場合の結果と同じであり,マクロな観点から構築された連続誘電体理論を原子レベルからサポートするものである.一方で主にPII構造では水和した水分子がアラニンジペプチド内の二つのペプチド基を架橋するような構造をとっているものが多かった.したがって水分子は双極子一双極子相互作用と架橋構造の二通りによってアラニンジペプチドを安定化していることがわかった.

第5章では本論文をまとめ,開発した手法の今後の展望について述べた.

これらの結果により,AMBERプログラムパッケージで用いられている古典力場を評価し,AMBER ff99SBがff99シリーズの中で現在最も信頼できる力場であることを示した.このように開発したマルチカノニカルab initio分子動力学法は生体分子の相互作用を解明するだけでなく,古典力場の評価を行うことでシミュレーションによる結果の判断基準として用いることができることを示した.

以上,本研究は,生体分子の隣接残基や水分子が構造に与える影響を原子レベルで明らかにし,古典力場評価の指標を構築するための手法の開発を行ったものであり,学術的にも応用的にも寄与するところが大きい.よって審査委員一同は,本研究が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/26741