学位論文要旨



No 124695
著者(漢字) 小田,智基
著者(英字)
著者(カナ) オダ,トモキ
標題(和) 山地源流域における水文トレーサーを用いた降雨流出プロセスに関する研究
標題(洋) Study on water runoff processes in the headwater catchments with hydrochemical tracer information
報告番号 124695
報告番号 甲24695
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3405号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,雅一
 東京大学 教授 丹下,健
 東京大学 准教授 芝野,博文
 東京大学 准教授 大手,信人
 東京大学 准教授 恩田,裕一
内容要旨 要旨を表示する

山地源頭部に位置する流域は、下流への水の供給源となっており、降雨によってもたらされた水が流域内部をどのように移動し流出するのかを解明することは、下流の水資源の確保、災害防止のために重要である。同時に、流域を通過する過程で水に溶け込んだ物質は下流に輸送されるため、流出プロセスは渓流水の水質形成にも大きな影響を与えている。流域内の降雨流出プロセスは複雑であるため、直接観測することによって全体を捉えることは難しい。そのため、流域内部の降雨流出プロセスを推測するために溶存物質がトレーサーとして用いられる。これまで多くの流域で流出起源や流出経路、流域内の地下水や流出水の滞留時間についての知見が得られている。しかし、岩盤深部を通過して流出する水の寄与や、降水特性や乾燥状態が流出起源、経路に与える影響についての検討は十分になされてはいない。また流域を通過する水の滞留時間の推定に関しては、方法が十分に確立されておらず、流出水量増加時の滞留時間は推定できていないなど未解決の点が残されている。

本研究では、森林伐採に伴う水質変動の長期モニタリングによって得られた水質変化のシグナルを利用することに加え、複数の降雨イベントについて集中的な水質・水文観測を行うことによってこれらの点を解決し、(1)降水によってもたらされた水は流域内のどこに貯留されているのか?(2)降水が地表面に達してから渓流に到達するまでにどのような経路をたどるのか?(3)降水が地表面に達してから渓流に到達するまでにどのくらいの時間がかかるのか?の3点に着目して流域内の降雨流出プロセスについて考察した。

第一章では既往の研究を整理し、研究課題を示した。

第二章では、観測地の概要を記述した。観測は、千葉県南部に位置する東京大学千葉演習林袋山沢水文試験地内の2流域(A流域(対照流域)0.8ha,B流域(伐採流域)1.1ha)を対象として行った。基岩は新第三紀層堆積岩である。この試験地では、隣接する2流域の内の一方を伐採する対照流域法によって伐採試験がおこなわれており、A流域は森林植生を保持する対照流域、B流域は皆伐処理を施す伐採流域とされた。伐採時の植生は両流域とも、スギ・ヒノキ人工林である。伐採時においては約70年生で、樹高約20~25mの樹冠がほぼ閉鎖した壮齢林であった。伐採は1999年春に行なわれ、2000年4月に新たにスギ・ヒノキの苗木が植栽された。

第三章では、降雨流出プロセスについて、トレーサーを用いて検討するための基礎情報として、まず溶存物質の濃度形成機構を把握する必要があるため、1998年から2006年までの森林伐採前後の対照流域・伐採流域における降水と平水時の渓流水の長期水質モニタリングに加え、降雨出水時における渓流水質の集中観測の結果を基に、水質形成の特徴について検討した。本研究では、渓流水中の主な溶存物質であるCl-,NO3-,SO4(2-),Na+,K+,NH4+,Mg(2+),Ca(2+)を対象とした。渓流水中Cl-濃度は、伐採後大きく低下した。これは、樹冠の除去に伴う乾性沈着成分の入力の減少と、蒸発散による濃縮によってほぼ説明できるため、Cl-は降雨起源であり、流域内での反応や植物による吸収の影響は無視できるほど小さいことが確認された。NO3-は伐採直後の流出水量増加時に、急激に濃度が増加し、1年後植林が行なわれて以降は、流出水量増加時のNO3-濃度が急激に低下した。このことから、渓流水NO3-濃度形成には植物による吸収の影響が大きいことが示された。NH4+は全期間を通じて渓流水中にはほとんど検出されなかった。SO4(2-)、Na+、K+、Mg(2+)、Ca(2+)は伐採後ほとんど濃度変化しなかったが、森林伐採後の乾性沈着成分の減少に伴う入力の減少や流出水量の増加から考えると、伐採により流域からの湧き出し量が増加したと考えられ、基岩風化や土壌からの溶出が主に濃度形成に寄与していることが明らかになった。この結果から、Cl-のトレーサーとしての有効性が確認された他、各物質の水質形成についての見識を得ることができた。

第四章では、岩盤を浸透して流域外に流出する深部地下水浸透について、Cl-の物質収支を用いて推定した。降雨流出プロセスを考察する基本となる水収支の把握するため、また岩盤浸透のメカニズムを解明するために深部地下水浸透量の推定は重要である。蒸発散量が推定できれば、水収支から深部地下水浸透量は推定可能であるが、樹冠の閉鎖していない幼齢林では、蒸発散量の推定が困難であるため、Cl-の物質収支を用いる必要がある。対照流域では林内雨と樹幹流のCl-濃度、伐採流域では林外雨中のCl-濃度観測に基づいてCl-の流入負荷量を算出した。流出負荷量は平水時、洪水流出時のCl-濃度・流出水量の観測を基に算出した。その結果、対照流域、伐採流域ともに、年間平均およそ500mm、年降水量の15~20%が深部地下水浸透水として流出していることが推定された。さらに、対照流域において、既往の森林における蒸発散量推定値を用いて、水収支法により推定された深部地下水浸透量と比較することにより、深部地下水浸透する水のCl-濃度が推定され、岩盤への浸透は、飽和地下水帯よりも、斜面などの不飽和帯において主に起こっていることが推測された。また、対照流域、伐採流域での深部地下水浸透量の比較や、対照流域における降水量の異なる期間での水収支の比較結果から、年間の深部地下水浸透量は、降水量、伐採の影響に関係なく、ほぼ一定であることが示唆された。

第五章では、乾燥状態や降水量の異なる複数の降雨イベントについて流出水の流出起源を推定し、降水特性や乾燥状態が流出起源に与える影響を考察した。2006年から2007年にかけて降水量、流出水量、地下水位の観測に加え、7イベントについて2時間以内の時間間隔で水質を計測し、Cl-、Na+、NO(3-)をトレーサーとして用いた流出分離によって流出起源について推定した。ハイドログラフの解析から、無降雨時、または総降水量30mm以下の小降雨時には流出水量はほとんど増加せず、総降雨量が30mmを超える降雨イベントでは、降雨前の乾燥状態に関わらず、降水量の増加とともに流出水量が直線的に増加した。また、地下水位の観測から、降雨量が30mmを超えるほとんどの降雨で流域上流谷部の不飽和帯に地下水が発生すること、飽和地下水帯の地下水位は、ハイドログラフと対応して変動していることが確認された。さらに、トレーサーを用いた流出起源の解析により、流出水の起源を降水・一時的に発生する地下水・恒常的な地下水の3成分に分離した結果、降雨量が小さい時には、恒常的な地下水の成分が流出の主要な部分を占めていた。そして降水量の増加ととも一時的に発生する地下水の寄与が増加することが明らかになった。これらの結果から、総降雨量が大きくなると、斜面部に地下水が発生し、この水が土壌一岩盤の境界を流下することにより、一時的に発生する地下水の成分の寄与が降雨量の増加と共に増加することが示された。さらに、降雨前の乾燥状態が非常に乾燥している場合、その後の大きな降雨では、降雨開始後すぐに地下水を涵養するのではなく、土壌の浅い部分、または、地表面を通過して直接渓流に流出する成分が大きくなる現象が見られた。このことから、極端な乾燥状態の後の降雨では、急激に流出経路が変化することが示唆された。

第六章では、基底流出時だけでなく、洪水流出時の流出水の流域内での平均滞留時間を推定した。渓流水中Cl-濃度は森林伐採後に低下し、数年経過した後に安定した。この変動に要した時間を、流域内の水の入れ替わりに要した時間と仮定して、流域内での水の滞留時間を推定した。基底流出時の流出水に関しては、1~2週間に一回の定期観測によって得られた渓流水濃度変化を用い、平均滞留時間がおよそ1000日と推定された。洪水流出水に寄与する水のCl-濃度の長期変動は、伐採後、1999年から2006年までに10回近く行なわれた洪水流出時の集中観測結果を用いて得られた年々の流出-濃度関係から推定した。その結果、高流出(流出水量10mm/hr)時に流出する水の平均滞留時間は400~500日であることが推定された。これらの結果から、流域としての流出水の滞留時間は、ほとんどが400日から1000日の範囲に分布していることが分かった。本研究によって得られた平均滞留時間から推定される流域内の水の貯留量は、流域平均土層厚と体積含水率から推定される貯留量に比べ、十分に大きい値であった。このことから、岩盤内の貯留水が、流出に大きく寄与していることが示唆された。これまでの研究では、1~2年を超える滞留時間の推定は困難な場合が多かったが、森林伐採による渓流水中Cl-濃度の変化のシグナルを利用することで、1000日を越える滞留時間が推定可能であることが示された。また、これまでは平水時の滞留時間しか推定できなかったが、本研究では洪水流出時の流出水の滞留時間が推定でき、流域としての流出水の滞留時間について議論できるようになった。

第七章では、以上の結果をまとめ、結論とした。渓流水中のトレーサーを用いて得られた情報は、流域内で大きくばらつく水の浸透プロセスの総体としての情報であり、流域スケールの降雨流出プロセスのモデルを構築する際に有効である。本研究により示された、水文トレーサーを用いた流出起源、流出経路、滞留時間の評価手法、及びその結果は、降雨流出プロセスの解明、モデルの構築に大きな役割を果たすことが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、森林伐採に伴う水量と水質の長期モニタリングと複数の降雨イベントについての集中的な水質・水文観測によって得られたデータを用いて、山地流域の降雨流出プロセスを明らかにするものとして行われた。

第一章では、山地流域の流域内部における降雨流出プロセスを解明するために、渓流水の溶存物質をトレーサーとして用いる既往研究をレビューし、深部浸透量、流出起源、降雨が流出するまでの滞留時間の解明が必要であることを示した。

第二章では、観測地の概要を記述している。千葉県南部に位置する東京大学千葉演習林袋山沢水文試験地内の2流域(A流域(対照流域)0.8 ha, B流域(伐採流域)1.1 ha)は、基岩は新第三紀層堆積岩であり、約70年生のスギ・ヒノキ林であった。この試験地では、隣接する2流域の内の一方を伐採する対照流域法によって伐採試験がおこなわれ、A流域は森林植生を保持する対照流域、B流域は皆伐処理を施す伐採流域とされた。伐採は1999年春に行なわれ、2000年4月に新たにスギ・ヒノキの苗木が植栽された。

第三章では、1998年から2006年までの森林伐採前後の対照流域、伐採流域における降水と平水時の渓流水の長期水質モニタリングおよび降雨出水時における渓流水質の集中観測の結果を基に、渓流水中の主な溶存物質であるCl-, NO(3-), SO4(2-), Na+, K+, NH4+, Mg(2+), Ca(2+)について、森林伐採前後の水質形成の特徴がえられた。またこの結果から、Cl-イオンの水文トレーサーとしての有効性が示された。

第四章では、流出プロセスを考察する基本となる水収支の把握するため、また岩盤浸透のメカニズムを解明するために重要な、岩盤を浸透して流域外に流出する深部浸透について、Cl-の物質収支を用いて推定した。対照流域では林内雨と樹幹流のCl-濃度、伐採流域では林外雨中のCl-濃度によりCl-の流入負荷量を算出する。流出負荷量は平水時、洪水流出時のCl-濃度・流出水量を用いて算出する。その結果、対照流域、伐採流域ともに、年間平均およそ500mm、年降水量の15~20%が深部地下水浸透水として流出していることが推定された。年間の深部浸透量は、降水量と森林伐採の影響を受けず、ほぼ一定であること、岩盤への浸透は飽和地下水帯よりも不飽和帯において主に起こっていることが推測された。

第五章では、乾燥状態や降水量の異なる複数の降雨イベントについてCl-、Na+、NO(3-)をトレーサーとして用いた流出分離によって流出起源について推定し、降水特性や降雨前の乾燥状態が流出に与える影響が解析された。流出水の起源を降水・一時的な地下水・恒常的な地下水の3成分に分離した結果、総降雨量が大きくなると斜面部に地下水が発生し、この水が土壌-岩盤の境界を流下することにより、一時的に発生する地下水の成分の寄与が降雨量の増加と共に増加する。また、降雨前に土壌が非常に乾燥している場合、土壌の浅い部分か地表面を通過して直接渓流に流出する成分が大きくなる現象が見られた。

第六章では、基底流出時と洪水流出時の流出水の流域内での平均滞留時間を推定した。渓流水中Cl-濃度は森林伐採後に低下し、数年経過した後に安定する。この変動に要した時間を水の入れ替わり時間して、水の滞留時間を推定した。基底流出時の流出水は、平均滞留時間がおよそ1000日と推定された。洪水流出時の集中観測結果による流出量-濃度関係から推定した洪水流出水に寄与する水のCl-濃度の長期変動は、流出水量10mm/hrのときに流出する水の平均滞留時間は400~500日であることが推定された。本研究によって得られた平均滞留時間から推定される流域内の水の貯留量は、流域平均土層厚と体積含水率から推定される貯留量に比べ大きい値であり、岩盤内の貯留水が基底流出時だけでなく、洪水流出時にも流出に大きく寄与していることが考えられる。1~2年を超える滞留時間の推定は困難な場合が多かったが伐採のシグナルを利用し、1000日を越える滞留時間を推定可能であることを示した点は、手法上の独創性も高い。

第七章では、以上の結果をまとめ、新第三紀層堆積岩の流域の降雨流出プロセスについての特徴と、Cl-イオンを水文トレーサーとする解析の有効性がまとめられている。

以上のように、本研究は学術上のみならず応用上も価値が高い。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。

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