学位論文要旨



No 124696
著者(漢字) 髙橋,由紀子
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ユキコ
標題(和) ブナ科樹木萎凋病菌Raffaelea quercivoraの伝搬様式と樹体内動態
標題(洋)
報告番号 124696
報告番号 甲24696
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3406号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宝月,岱造
 東京大学 教授 丹下,健
 東京大学 教授 山田,利博
 東京大学 准教授 久保田,耕平
 東京大学 准教授 松下,範久
内容要旨 要旨を表示する

ブナ科樹木萎凋病は,カシノナガキクイムシPlatypus quercivorusの集中穿孔(マスアタック)によって樹体内に持ち込まれる病原菌Raffaelea quercivoraによって引き起こされる.1980年以降,本州日本海側を中心に,本病によるナラ類集団枯死被害が多発しており,本病の防除方法の確立が急務の課題となっている.本病の防除を行う上で,病原菌の伝搬機構や枯死機構を解明することが必要である.本研究では,R. quercivoraの伝搬様式を解明することを目的として,マイクロサテライト(SSR)マーカーを用いたDNA多型解析により,ナラ類集団枯損林分におけるR. quercivoraとカシノナガキクイムシの遺伝的構造を明らかにした.さらに,ブナ科樹木萎凋病の病徴進展過程においてR. quercivoraが担う役割を解明することを目的として,菌糸の特異的染色方法によりR. quercivoraの樹体内分布と宿主反応との関係を明らかにした.

ブナ科樹木萎凋病菌Raffaelea quercivoraの伝搬様式

Raffaelea quercivoraはカシノナガキクイムシによって伝搬されるため,本菌の伝搬様式を明らかにするためには,両者の繁殖様式を同時に把握する必要がある.そこで,両者のSSRマーカーを作製して,同所的に存在するR. quercivoraとカシノナガキクイムシの遺伝的構造を解析し,本菌の伝搬様式を考察した.

被害木から採集したR. quercivoraとカシノナガキクイムシからDNAを抽出し,R. quercivoraで88個,カシノナガキクイムシで31個のSSRマーカーを作製した.これらのうち,泳動像が明瞭でかつ多様であり,互いに連鎖していないものをR. quercivora 4遺伝子座,カシノナガキクイムシ7遺伝子座選び,以下の解析に用いた.

福島県喜多方市雷神山(喜多方),新潟県十日町市大厳寺高原(大厳寺),新潟県十日町市当間高原(当間),愛知県犬山市東京大学愛知演習林犬山研究林(犬山)の被害林分に調査地を設定し,被害木からR. quercivoraとカシノナガキクイムシを採集した.各試料からDNAを抽出し,作製したSSRマーカーを用いて遺伝子型を同定した.犬山において,同じカシノナガキクイムシ坑道内の異なる部位からR. quercivoraを分離し,それぞれの遺伝子型を同定した.その結果,いずれの坑道においても遺伝子型の異なる菌が複数生息していることがわかった.カシノナガキクイムシの配偶様式は一夫一婦制であり,1ペアが1本の坑道を造りその坑道は他のペアの坑道とつながることはない.また,菌嚢があるのは雌だけであるため,1本の坑道内には1匹の雌が持ち込んだ菌が定着すると推測される.したがって,カシノナガキクイムシの雌は複数の遺伝的に異なるR. quercivoraを運んでいると考えられる.

Raffaelea quercivoraについて,樹木個体間,林分間における固定指数(FST)を算出した結果,いずれの集団間にも有意な遺伝的分化はなかった.また,同一林分の2006年と2007年の集団間にも有意な遺伝的分化はなかった.一方,調査地間では,当間-大厳寺の間では有意な遺伝的分化はなかったが,当間-犬山間,大厳寺-犬山間には有意な遺伝的分化が生じていた.カシノナガキクイムシでは,各集団スケールで近交係数(FIS)を算出した結果,いずれの調査地でも集団スケールに関わらず0からの有意な偏りはなかった.したがって,カシノナガキクイムシは各集団内で任意交配していると考えられる.また,各集団間のFSTを算出した結果,樹木個体内,林分内,調査地内ではいずれのスケールでも有意な遺伝的分化はなく,同一林分の2006年と2007年の集団間にも有意な遺伝的分化はなかった.一方,調査地間では,喜多方-当間間,喜多方-大厳寺間,当間-大厳寺間では遺伝的分化はなかったが,喜多方-犬山間,当間-犬山間で遺伝的分化が生じていた.

以上のように,R. quercivoraとカシノナガキクイムシの両者とも当間と大厳寺の集団間では遺伝的に分化しておらず,両集団と犬山集団とは遺伝的に分化していた.したがって,当間と大厳寺のカシノナガキクイムシ集団は起源を同じとする集団が互いに多様性を維持しながら分布を拡大したと推測される.また,当間・大厳寺と喜多方間ではカシノナガキクイムシ集団の遺伝的分化が認められなかったことから,喜多方の被害は新潟県北東部から拡大したと推測される.

ブナ科樹木萎凋病菌Raffaelea quercivoraの樹体内動態

本病の萎凋症状発現機構については,これまで宿主の通水阻害域の発生過程と宿主の防御反応に主眼が置かれてきたが,本病の主因であるR. quercivoraの樹体内動態は,菌糸の検出が困難であったためほとんどわかっていない.そこで,苗木に接種したR. quercivoraの樹体内分布を詳細に観察し,本菌の動態と萎凋症の発現過程との関係について考察した.

ミズナラ,スダジイ,マテバシイ,ケヤキのポット苗にR. quercivoraを接種し,ミズナラとケヤキについては,接種4,7,14,21,28日後,スダジイとマテバシイについては接種14日後に採取し,通水域と変色域の測定,菌の再分離およびFITC標識コムギ胚芽レクチン(F-WGA)を用いた菌糸分布と宿主組織の観察を行った.

ミズナラでは, R. quercivoraは樹体内に侵入後,道管内を通って垂直方向に伸長するとともに,道管に接する放射組織を通って水平方向に分布を拡大すると考えられた.通道阻害は,菌糸の分布域よりも外側に,菌糸分布域とほぼ相似形の範囲で起こった.チロースの形成は,接種苗の方が対照苗よりも早くから認められたことから,接種苗の方が早くから道管内でキャビテーションやエンボリズムが発生していると考えられた.リグニン・スベリン様物質や蛍光物質等の防御物質は,菌糸の分布域から放射方向に離れた位置に蓄積していた.試験期間を通して,菌糸は防御物質の分布域よりも常に接種点側に存在し,これらの分布域を越えることはなかった.これらの宿主の反応は,対照と接種のいずれにおいても認められたことから,傷に対する宿主の動的防御反応であると考えられた.しかし,R. quercivora接種からの反応応答は接種が対照よりも遅かったことから,R. quercivoraが宿主の防御物質形成を抑制していると推測され,そのために病原性のない他の菌類よりも樹体内を広範囲に侵入できると考えられた.

スダジイでは,個体による菌糸伸長や宿主反応にばらつきが大きかったが,R. quercivoraは,ミズナラと同様に,道管と放射組織を通って分布を拡大していると考えられた.R. quercivora接種苗と対照苗のいずれにおいても防御物質の蓄積はほとんど見られなかったが,ミズナラよりも通道阻害域が広くなかったことから,構造的な要因によりミズナラよりも通道阻害が起こりにくいのではないかと考えられた.

マテバシイでは,ミズナラやスダジイで見られたような放射組織を通ったR. quercivoraの菌糸伸長が見られず,水平方向への菌糸の伸長距離は短かった.防御反応の形成位置もミズナラよりも接種部に近く,物質の蓄積も明瞭であったことから,ミズナラよりもR. quercivoraの侵入に対する防御反応が早く,ミズナラよりもR. quercivoraに対して抵抗性であると考えられた.一方,ケヤキでは,接種28日後においてもR. quercivoraの樹体内への侵入が認められなかったことから,R. quercivoraに対して抵抗性の樹種であると考えられた.ケヤキでは,リグニン・スベリン様物質の蓄積は認められなかったが,ゴム様物質と見られる物質の蓄積が道管中に認められた.

ケヤキへのR. quercivoraの接種において,菌糸が樹体内で伸長できなかった原因を明らかにするために,木部抽出成分がR. quercivoraの菌糸伸長におよぼす影響を調査した.ミズナラ,スダジイ,マテバシイ,ケヤキの木部の熱水抽出物を添加した培地を用いて,R. quercivoraの菌糸成長速度を比較した.その結果,ケヤキの熱水抽出物添加培地での菌糸成長速度は他の樹種の抽出物添加培地と差がないか,やや早かった.さらにメタノール抽出物を用いてR. quercivoraの菌糸伸長に対する抗菌性試験を行った結果,いずれの樹種の抽出物でも菌糸成長阻害効果は認められなかった.したがって,ケヤキのR. quercivoraに対する抵抗性は木部抽出成分によるものではないと考えられた.

ケヤキの抵抗性が木部の物理的な抵抗性や動的抵抗性によるものかを検証するために,ガンマ線照射により組織を非破壊的に死滅させたミズナラとケヤキの切り枝と非処理の切り枝に対してR. quercivoraの接種試験を行った.その結果,非処理の枝では,ミズナラ,ケヤキともに苗木への接種の結果と違いは認められなかったが,ケヤキガンマ線照射処理枝ではR. quercivoraの菌糸が蔓延した.したがって,R. quercivoraへケヤキの抵抗性は動的抵抗性であると考えられた.また,水平方向への菌糸伸長がミズナラよりも短かったことから,放射組織の構造の違いが水平方向の移動を制限していると考えられた.一方,細胞の生死によるミズナラ樹体内の菌糸伸長量の違いから,ミズナラは動的抵抗性によって本菌の侵入を防御していると考えられた.

審査要旨 要旨を表示する

ブナ科樹木萎凋病は、カシノナガキクイムシPlatypus quercivorusの集中穿孔(マスアタック)によって樹体内に持ち込まれる病原菌Raffaelea quercivoraによって引き起こされる萎凋病である。1980年以降、本州日本海側地域を中心に、本病によるナラ類集団枯死被害が多発しており、本病の防除方法の確立が急務の課題となっているが、本病の病原菌の伝搬機構や枯死機構は十分解明されていない。本研究では、分子生態学的手法を用いて、ナラ類集団枯損被害林分における病原菌とカシノナガキクイムシ両者の遺伝的構造を解析し、両者の連関と本病の伝搬過程を明らかにしている。さらに、解剖病理学的手法を用いて、本病の特徴である宿主の水分通道阻害の進行と病原菌の樹体内動態との関係を明らかにしている。

第一章では、ブナ科樹木萎凋病の歴史とこれまでの研究を総括している。

第二章では、ナラ類集団枯損被害林分における病原菌とカシノナガキクイムシ両者の遺伝的構造を解析している。まず、両者のマイクロサテライト(SSR)マーカーを作製し、それらを用いて、坑道内の菌株の分布と、愛知県から福島県に渡る4箇所の試験地に同所的に生存する病原菌とカシノナガキクイムシ集団の遺伝的構造を、樹木個体内のミクロスケールから被害地域全体のマクロスケールまでの様々なレベルで解析し、以下のような結果を得ている。まず、6本のカシノナガキクイムシ坑道内から分離した病原菌の遺伝子型を同定した結果、いずれの坑道においても遺伝子型の異なる菌が複数存在していたこと等から、カシノナガキクイムシの雌が複数の遺伝的に異なる病原菌を保持しており、樹体内に穿孔した1匹の雌成虫により遺伝的に多様な菌が坑道内に持ち込まれることを明らかにしている。次いで、病原菌とカシノナガキクイムシについて、樹木個体、林分、調査地の各スケールを集団単位として遺伝的構造を解析した。その結果、愛知以外の病原菌とカシノナガキクイムシ個体群では、どのスケールでも遺伝的分化はないが、それらと愛知県の集団とはともに遺伝的に分化していることが解った。この結果は、病原菌とキクイムシともに、飛騨山脈などが地理的障壁になっていることを初めて示す成果である。

第三章では、病原菌の樹体内動態を調べている。本病の萎凋症状発現機構については、これまで宿主の通道阻害域の発生過程と宿主の防御反応に主眼が置かれてきたが、本病の主因である病原菌の樹体内動態は、菌糸の検出が困難であったためほとんどわかっていない。本研究では、FITC標識コムギ胚芽レクチン(F-WGA)による菌糸の特異的染色法を用いて、苗木に接種した病原菌の樹体内分布を詳細に観察し、宿主の通道阻害域と防御反応と病原菌菌糸動態との関係を調査している。ミズナラ樹体内の菌糸分布を観察した結果から、以下のようなミズナラ樹体内における病原菌の動態を明らかにしている。すなわち、(1)病原菌を接種すると、チロースの形成時期が早まる。(2)病原菌は、樹体内に侵入後、道管内を垂直方向に伸長するとともに、道管に接する放射組織を水平方向に伸長する。(3)リグニン・スベリン様物質やフェノール類などの蓄積といった動的防御反応が遅れる。(4)菌糸分布の拡大に伴い通道阻害域が拡大する。一方、他の樹種でもこれらの反応を調べ、ミズナラと比較を行いその違いと病原菌に対する感受性の違いを考察している。

第四章では、以上の結果をもとに、ブナ科樹木萎凋病の進展機構について、総合的な考察を行っている。

以上のように本研究では、ブナ科樹木萎凋病病原菌の伝搬様式および樹体内動態に関して、新知見が得られている。とりわけ、病原菌と媒介昆虫が広い範囲で遺伝的に交流しているが、飛騨山脈等の地理的障壁で交流が阻害されていること等の新知見は、防除法を考える上での重要な示唆を与えるものである。また、樹体内動態の研究で、菌糸の分布拡大が通道阻害の拡大をもたらす過程が明らかになった点も、本病害の病理を理解する上では、重要な新知見である。以上のように、得られた知見は独創的、先駆的でありかつ応用的意義も大きい。従って、本研究は応用上、学術上の貢献が極めて大きく、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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