学位論文要旨



No 124699
著者(漢字) 井上,雄介
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,カツユキ
標題(和) 海洋細菌の菌体密度とその生態学的意義
標題(洋) Ecological implication of marine bacterial buoyant density
報告番号 124699
報告番号 甲24699
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3409号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木暮,一啓
 東京大学 准教授 武田,重信
 東京大学 准教授 浜崎,恒二
 国際基督教大学 元教授 千浦,博
 宮崎国際大学 教授 原,成光
内容要旨 要旨を表示する

地球上における様々な元素循環の中で,炭素は生物地球化学的に最も重要である。水圏における食物連鎖を考慮すると,その流れは大きく二つに分けられる。即ち, (1) 生食食物網(grazing food web) と(2) 微生物ループ(microbial loop) である。前者は植物プランクトンや藻類による一次生産を起点とし,後者は,従属栄養性の原核生物による溶存態有機物の取込みを起点とする。一次生産された有機物の30-50% は微生物ループを経由して流れると見積もられており,この有機物の取込みメカニズムの理解は水圏の炭素循環を理解する上で重要である。

全海洋中の有機物は炭素量として約700 Pg と推定されているが,この値は大気中の二酸化炭素の炭素量(約755 Pg) に匹敵する。これらの有機物は一般的に孔径0.7 m のガラス繊維フィルターを通過するかどうかによって溶存態と懸濁態の二つに分けられてきた。溶存態はその炭素量で有機物全体の約95% 以上を占め,その殆どは従属栄養性原核生物のみによって利用される。溶存態と称されるものの,このフラクションには数nm から約700 nm 前後に及ぶ連続的なサイズ分布を持つ粒子が存在し,その中には,原核生物それ自身やウイルスも含まれる。原核生物による溶存態有機物の利用とは,これらの微小粒子の利用が多大の割合を占めており,その利用メカニズムの解明には,菌体粒子と微小粒子との相互作用という視点が不可欠である。これまでいわゆるマリンスノー,マリンジェルなどの懸濁態有機物の微生物分解過程については多くの知見が蓄積しているが,溶存態の微小粒子の分解メカニズムについては殆ど研究例がない。

原核生物を粒子として見れば,大きさ,質量,形,表面構造,親水性,荷電状態など,様々な特性を持つ。微小粒子との相互作用は,これらの特性の総合的な反映と見なすことができる。これまで,天然の原核生物の大きさや形については多くの知見が得られてきた。海洋細菌の大部分は半径0.3-0.5 μm 程度の球菌状と見なせる。また,表面構造,親水性,荷電状態などについては,付着過程の研究を通じて多くの情報が蓄積している。一方,質量は最も基本的な物理量でありながら,個々の細胞が小さいため,直接測定は技術的困難を伴う。そこで,単位体積当たりの質量,即ち菌体密度を質量の代わりにする方法がある。特に,植物プランクトンの研究では,沈降速度を考えるときにその密度が利用されてきた。また,培養菌体に対して,密度勾配分画(Density-dependent cell sorting, DDCS) 法を応用し,対数増殖期と定常期,または,飢餓状態など,異なる生理状態の菌を分離する事が可能となった。しかし,この方法が天然の海洋細菌群集に直接的に応用され,菌体密度を測定した例はない。

本論文の目的は, (1) DDCS 法を天然の海洋細菌に適用するための方法論的検討を行うこと, (2) 海洋細菌の菌体密度が時空間的にどのように変動しているかを明らかにすること, (3) 菌体密度が菌体の挙動にどのような影響を与えるか,さらに菌体密度の違いが海洋中の微小粒子やウイルスとの遭遇頻度,その結果としての増殖あるいは死滅,さらにそれが細菌群集の多様性維持にどのような意味を持つかを,モデル計算を通じて明らかにすることである。

1. 菌体密度測定法の検討

DDCS 法はこれまでほぼ例外なく培養菌体をその対象としており,天然海洋細菌群集に直接適用された例はない。このため, DDCS 法及びそれに必要な菌体の濃縮についての方法論的開発が必要であった。前者については, DDCS の際の塩分及び担体であるPercoll の濃度設定,遠心条件の設定を行った。この結果,塩分400 mmol dm(-3), Percoll 濃度62-63% 若しくは45% 及び70% を併用,4 ℃ にて50 000 × 1, 20 min の遠心という条件でマーカーの併用により, 3 若しくは6 画分の天然細菌群集を得ることが可能になった。また,DDCS を天然細菌群集に適用する場合,当初必要な細菌数は画分の数と個々の画分についてその後の解析に必要な菌数に依存する。本研究では個々の画分についてFISH (Fluorescence in situ hybridization) 法を用いた群集構造解析を行うために必要な菌数の確保を条件と考えてきた。その結果,分画後のサンプル1 cm3 あたり,104-105 程度の菌数が必要と考えた。

DDCS は一回につき1 cm3 のサンプルしか処理することが出来ない。天然の海洋細菌数は表層域で概ね106 cm(-3) なので,細菌を濃縮することが必要になる。本研究では,限外濾過法を用いた濃縮を行うことにより, 90% 程度の濃縮効率で細菌を100 から500 倍に濃縮することに成功した。これにより,濃縮試料1 cm3中の細菌量は108 のオーダーになり, DDCS 法を天然海洋細菌群集に適応することが出来た。

2. 海洋細菌の菌体密度と時空間的分布との関係

細菌の粒子としての挙動を明らかにすることを目的にして,第1 章で確立したDDCS 法を天然細菌群集へ適用し,その時空間変動を解析した。また, FISH を組み合わせることにより,系統群と菌体密度との関係を調べた。

油壷湾の表層水を, 2005 年2 月から2006 年2 月まで毎月1 回採水し,濃縮後DDCS 法により3 画分(< 1.064, 1.064-1.074, 1.074 < g cm(-3)) に分画し,全菌数を求めるとともに,FISH 法を適用した。その結果,季節を問わず, Bacteroidetes に属する細菌の菌体密度は小さいものが多い傾向にあり,また, Archaeaの菌体密度は大きいものが多い傾向にあることが分かった。

研究船淡青丸, KT-05-16 次航海において,相模湾沖,黒潮南側,黒潮流軸,黒潮北側の外洋域4 測点で鉛直的に6 から7 深度で採水し,DDCS 法を用いて5 画分(< 1.036, 1.036-1.051,1.051-1.064,1.064-1.074, 1.074-1.087,> 1.087 g cm(-3)) に分画し,各画分に含まれる全菌数を計数した。その結果,< 1.036, 1.036-1.051,1.051-1.064 g cm(-3) の3 画分に含まれる菌数の全菌数に対する割合は棲息深度と負の順位相関関係にあり,1.064-1, 074 g cm(-3) の画分に含まれる菌数の全菌数に対する割合と棲息深度との間には有意な順位相関関係は認められず,1.074-1.087, > 1.087 g cm(-3) の2 画分に含まれる菌数の全菌数に対する割合は棲息深度と正の順位相関関係にあることが分かった(いづれもKendall 及びSpearman の順位相関係数,有意水準5 %)。即ち,深海は表層よりも全菌数に占める密度の大きな細菌数の割合が大きいということが明らかになった。

3. 粒子としての細菌像

海洋の大部分の細菌は,直径1 μm 以下の球菌状で,しかも鞭毛を持たない。第2 章で天然海水中の細菌群集の菌体密度が得られたことにより,細菌の粒子としての挙動を解析することが可能になった。本章では,その沈降速度,他の大型あるいはウイルスを含む微小粒子との遇確率とそれによる増殖,死滅,さらに多様性の維持効果についてのモデル解析を試みた。

細菌を剛体球と仮定し,その密度及び半径をそれぞれ大,中,小の3 種,合計9 種のモデル細菌を考えた。これらのモデル細菌には,密度の概念が入っているため,沈降速度を持つことが特徴である。これらのモデル細菌の沈降速度を,表層(< 200 m),中層(500-1000 m),深層(> 3000 m) を模した海洋のモデルにおいてそれぞれ求めた。

さらに,細菌の沈降を考慮して,海洋モデルにおいて, (1) マリンスノー, (2) マリンジェル, (3) サブミクロン粒子(SMP), (4) コロイド粒子と細菌との衝突頻度を見積もった。そして,各粒子の持つ易分解性の炭素量と細菌の同化効率とを仮定し,細菌の増殖速度を見積もった。その結果,易分解性の有機物の多い表層では,細菌の沈降速度の差が増殖速度に及ぼす影響は余り大きくないが,易分解性の有機物の少ない深層では,沈降速度の大きな細菌ほどより増殖速度が大きくなることが分かった。これは,細菌と微粒子,特にマリンジェルとの衝突頻度が増大することに起因するという結果になった。また,細菌及びウイルスを共に粒子として捉え,両者が共存するモデルを用いて,細菌の沈降が両者の多様性を維持していることを明らかにした。

まとめ

本研究は,海洋細菌群集の菌体密度の時空間分布を調べ,菌体の沈降速度を求めた最初の研究である。この研究を通じて,少なくともArchaea, Bacteroides のグループは特徴的な菌体密度を持つこと,菌体密度の大きな菌数の全菌数に対する割合が棲息深度に応じて増加することを明らかにした。さらにモデル計算により,菌体の沈降速度とウイルスを含む粒子との遭遇頻度,その遭遇が細菌群集の増殖,死滅,多様性維持にもたらす影響を明らかにした。このように細菌を粒子として捉え,その生態について解析したのは初めてのことである。今後そのモデルの実証を目指すとともに,粒子としての挙動という視点から原核生物の新たな生命像を作り上げて行く予定である。

審査要旨 要旨を表示する

海洋生態系における微生物による有機物代謝プロセスの理解は、海洋のみならず地球表層圏における炭素循環の基本的枠組みを明らかにする上で必須である。これまでの知見から、海洋の微生物群集がおおよそどの程度の量の有機態炭素を代謝しているかについては信頼できる値が得られてきている。しかし、海洋の有機物の化学的組成や分子量、有機物の会合状態などは極めて多様であり、それらをどのような微生物群がどのような様式によって利用しているのか、という基本的課題については驚くほど知見が少ない。これまでのところ、有機物は溶存態と懸濁態に分けられ、前者を自由遊泳型の細菌が、後者を付着性の細菌が主に利用する、というのが一般的スキームである。しかし、溶存態のフラクションと称してもそこには数nmから数百nmにおよぶ様々な粒子状の有機物が含まれており、細菌群集がこれらをどのように利用しているのかについては具体的な概念がない。このため現時点の理解は、"自由遊泳型の細菌が菌体酵素を出して分解している"というだけに留まっている。有機物、とりわけその大部分を占める溶存態有機物の分解様式を明らかにしていくには、微視的なスケールに着目し、そこでの細菌と有機物粒子との相互作用プロセスを解明していくアプローチが必須と考えられる。

こうした背景のもとに、申請者の井上雄介は、細菌をある密度と大きさを持った粒子として捉え、それが有機物粒子とどのような相互作用を行い、それがどのように分解に結びつくかについて考察を試みた。また、一般に有機物濃度が低い海洋においては、細菌と粒子のぶつかり合いが分解の最初のプロセスと仮定した。ぶつかり合いの頻度は粒子のブラウン運動に主に依存するが、各粒子は特定の密度を持ち、それに応じて鉛直的にも移動するはずである。すなわち鉛直的な移動とブラウン運動の両方を考慮した解析が必要になる。そこで申請者は細菌の密度に注目した。海水中の細菌群集の密度を測定した例はまだない。

そこで申請者は、(1) 密度勾配分画 (Density-dependent cell sorting, DDCS) 法の方法論的検討、 (2) 海洋細菌の菌体密度の時空間的変動の解析、 (3) 菌体密度が菌体の上下移動、微小粒子やウイルスとの衝突頻度、増殖あるいは死滅,細菌群集の多様性維持に与える影響についてのモデル計算を試みた。

申請者はまず天然細菌群集の濃縮法を検討し、限外ろ過を用い、回収率 90 % 以上で菌体を 200 倍程度に濃縮する方法を確立した。また、DDCS法の検討を行い、最終的にNaCl 400 mM、Percoll 濃度62-63 % もしくは 45 % と 70 % との併用、4 ℃ にて 50000×g、20 分の遠心条件下で海洋細菌群集を 3 もしくは 6 画分に分画し、その菌体密度を測定することを可能にした。

海洋細菌の菌体密度の時空間的変動と,系統群と菌体密度との関係を明らかにするため、油壷湾にて 2004 年 10 月から 2006 年 1 月まで毎月採水を行い,これらの方法を適用後、各画分に含まれる群集構造を FISH (fluorescence in situ hybridization) 法を用いて解析した。その結果,一年を通じて Archaea は菌体密度が大きく、逆に Bacteroidetes は菌体密度が小さい傾向にあることを明らかにした。また,淡青丸 KT-05-16 次航海において鉛直的に得た海水試料を解析し、深度に応じてより密度の大きな細菌の割合が増加することを明らかにした。

最後に,本研究で得られた海洋細菌の菌体密度を用いて,細菌の沈降速度,ウイルスを含む有機物粒子との衝突頻度とそれによる増殖,死滅,さらに細菌の多様性の維持機構についてのモデル解析を試みた。その結果,細菌は深度に応じて1時間に数十nm程度沈降すること、表層と比較すると、深層では,沈降速度の増加が増殖速度の増大を招くこと、粒子およびウイルスとの共存状態が細菌の多様性維持に貢献していること、などを明らかにした。

本研究の意義は以下の三つにまとめられる。

第一に、天然海水中の細菌群集の菌体密度を測定し、その意味について考察を試みた。第二に、系統群や深度に応じて菌体密度が異なることを明らかにした。第三に、モデル計算により,菌体の沈降速度とウイルスを含む有機物粒子との衝突頻度,その衝突が細菌群集の増殖,死滅,多様性維持にもたらす影響を明らかにした。いずれも海洋微生物学の中では最初の試みであり、海洋微生物の有機物利用様式の概念に新たな方向性を導入した意義は極めて高いと考えられる。

よって審査委員一同は、申請者井上雄介による本論文が博士(農学)の学位に相応しいものであると結論づけた。

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