学位論文要旨



No 124704
著者(漢字) 川口,慎介
著者(英字)
著者(カナ) カワグチ,シンスケ
標題(和) 深海熱水系における還元性気体の生物地球化学
標題(洋)
報告番号 124704
報告番号 甲24704
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3414号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 蒲生,俊敬
 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 教授 浦辺,徹郎
 東京大学 准教授 小畑,元
 九州大学 准教授 石橋,純一郎
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

地球の約七割を覆う広大な深海(200 m以深)は,一般に暗く冷たい静かな環境であると認識されていた.しかし,その深海において,1977年に17℃の温水湧出とチューブワームをはじめとする独特な生態系が発見された.以来,今日までの30年間,海洋底プレート境界などで多くの深海熱水活動域が発見されている.

光の届かない深海では,光合成は行われないにもかかわらず,熱水噴出口の周辺には豊かで活発な生態系が構築されている.この生態系の一次生産は,熱水に含まれる還元的な化学成分と,海水に含まれる酸化的な化学成分との,酸化還元反応で生じるエネルギーを利用する化学合成代謝によってまかなわれている.本論文では,熱水由来の還元的な成分を利用して行う生物活動の及ぶ範囲を,熱水生態系と呼び,熱水流路の周辺に生息する地殻内微生物や,熱水由来成分がわずかに含まれる海水(熱水プルーム)で活動する微生物もこれに含める.

最近の研究により,熱水生態系に生息する化学合成微生物の群集組成は,熱水の化学組成に影響されることが指摘されている.一方,熱水噴出口周辺環境における物質循環に対して,熱水生態系の活動が及ぼす影響について調べた研究は少ない.深海熱水活動と海洋環境,生命活動のリンクを把握するためにも,熱水生態系が物質循環に与えるインパクトを知ることは重要である.

熱水生態系の活動が周辺環境に与えるインパクトを評価する上で,水素(H2)やメタン(CH4)といった還元性気体成分の挙動を調べることは有用である.それはこれらが,化学合成代謝において好んで使われることから,化学合成代謝による影響がその挙動に顕著に反映されると考えられるからである.

しかしながら,これまで熱水生態系における還元性気体(特にH2)の挙動を調べた研究は少ない.その原因として,分析にかかる技術的な問題が挙げられる.熱水生態系環境では,海水による希釈のため熱水由来成分の濃度は非常に低く,高感度な分析技術を確立しなければ検出することができない.また,安定同位体を指標に用いることは,挙動解析を行う上で有用であるが,CH4の炭素安定同位体比が精力的に利用されている一方,H2の水素安定同位体比はこれまでほとんど用いられた例はない.これも,分析技術の制約によるところが大きい.さらに,地球化学者が熱水生態系での生物地球化学プロセスにそれほど関心が持たなかったことも一因といえるかもしれない.

そこで本研究では,還元性気体の濃度および安定同位体組成の高感度分析法を開発した.続いて,広範囲に及ぶ熱水生態系を網羅的に把握するため,(1)熱水生態系と周辺海水の境界環境,(2)熱水プルーム内,(3)地殻内低温熱水環境,および(4)微生物体内を,熱水生態系を代表する典型的な4つの空間スケールとして設定し,それぞれにおいてH2およびCH4の挙動を詳しく調べた.

2 本論文で実施した研究

2.1 熱水プルームとその縁辺でのCH4の挙動解析

中央インド洋海嶺の南緯18-20度域では,強い熱水活動の存在が示唆されている.学術研究船「白鳳丸」KH-06-4次航海において,CH4をはじめとする熱水指標成分を用いて,新たな熱水活動の探査を実施した.また,発見した二つの熱水プルームで,CH4の挙動を支配する要因を調べた.

現場化学分析計とセンサーを用いた入念な観測により,南緯19度33分の海嶺拡大軸西側(ロジェ海台)と,南緯18度20分の海嶺拡大軸中央底部(ドードー溶岩大平原)の海水中で,熱水活動の存在を示す異常を捕捉した.そこで,CTD採水装置を用いて,海水を多数採取し,試料中のCH4濃度,溶存Mn濃度,およびヘリウム同位体比(3He/4He)を分析し,熱水プルームの空間分布を明らかにした.これらの化学指標の相対関係およびメタンの炭素同位体比を用いて,熱水プルーム内での微生物によるCH4の消費の有無を調べた.ロジェ海台における熱水プルーム内でのCH4の挙動は,熱水と海水の混合のみで説明され,微生物活動の寄与は極めて小さいことが示唆された.一方で,ドードー溶岩大平原では熱水プルーム内で顕著なCH4の消費が観測された.この熱水生態系の物質循環に対する寄与の違いは,熱水プルームが周辺の海底から完全に浮遊した状態であるか,それとも海嶺拡大軸谷内という半閉鎖的な環境に分布しているかという地形的な効果が,微生物量やその活性と関係している可能性を示唆している.

2.2 沖縄トラフ伊是名カルデラ内での熱水プルーム観測

2.1で観測した熱水プルームは,熱水由来成分が乏しく,熱水プルーム内での還元性気体の詳しい挙動解析を行うことができなかった.そこで,学術研究船「淡青丸」KT-08-4次航海において,活発な熱水活動の存在が知られており,かつ半閉鎖的な地形を持つ,沖縄トラフ伊是名カルデラ内でCTD採水を実施した.試料のH2濃度,CH4濃度,σ(13)CCH4値,およびヘリウム同位体比の分析を行い,熱水プルーム内のH2とCH4の挙動に対する微生物活動の寄与を調べた.

熱水プルームの中で,より熱水噴出口に近い部分では,H2の顕著な消費が示唆された.また,熱水プルームの中でも噴出口から離れた部分では, CH4にも確かな消費が観測された.ここで, CH4消費の際の炭素同位体組成の分別係数を求めたところ,これまでの研究と比べ,ほぼ同等かやや小さい分別係数が得られた.本研究では,プルーム内での微生物活動を定量的に評価する上で重要な,H2とCH4の相対的な消費速度の違いやCH4の炭素同位体分別係数を得ることができた.

2.3 高温熱水と低温熱水でのH2の安定同位体組成の観測

上記2.1と2.2では、熱水が海水によって1000倍以上に希釈された熱水プルーム内の熱水生態系における還元性気体の挙動を調査したが、熱水噴出口周辺のより熱水成分に富んだ環境の熱水生態系についても調査する必要がある。熱水の噴出口の周辺では,熱水と海水が地殻内で混ざった後で海洋へと染み出す低温熱水がある.低温熱水が滞留する地殻内環境は,熱水と海水が混ざる環境という点で熱水プルームと類似しているが,より熱水由来成分が濃いこと,および微生物の生息環境としての地殻が存在することから,より活発な微生物による還元性気体の代謝が期待され,物質循環にあたえる影響も大きいと考えられる.そこで, 4つの高温熱水噴出域において,有人潜水艇「しんかい6500」および無人探査機「ハイパードルフィン」を用いた潜航調査により,高温熱水と低温熱水を採取し,H2の濃度と安定同位体組成を観測した.

高温熱水中のH2安定同位体組成は,熱水噴出温度に依存しており,これは既往研究の結果と調和的であった.一方,本研究で初めて観測した低温熱水中のH2安定同位体組成は,H2の起源である高温熱水とは明確に異なる組成を示した.海水にはほとんどH2が含まれていないため,熱水と海水の単純な混合によるH2の安定同位体組成の変化は無視できるほど小さい.H2代謝酵素hydrogenaseの特性や他の化学成分の分析結果から,低温熱水が滞留する地殻内環境での微生物活動によって,安定同位体組成が変化していることが示唆された.低温熱水中のH2の安定同位体組成の変化を観測することで,地殻内の熱水生態系におけるH2代謝を,定量的に把握する可能性があることが明らかとなった.

2.4 H2代謝微生物の培養実験による安定同位体組成変化の観測

上記2.3によって,H2の安定同位体組成の挙動解析指標としての有用性が示された.しかしながら,H2代謝時の安定同位体組成の変化に関する知見は乏しく,定量的な指標として用いることはできない.そこで,微生物培養実験を実施した.H2代謝を行う微生物を,重水素ラベル環境下で培養し,H2消費量と安定同位体組成変化の関係を調べた.H2代謝微生物として,炭酸,硫黄,および硫酸をH2で還元する化学合成代謝を行う微生物を選定した.

すべての培養実験を通じて,H2の安定同位体組成は,H2とH2Oの間での水素安定同位体の平衡状態へ向かって変化した.これは,H2代謝酵素hydrogenaseが同位体平衡反応の触媒として働いていると考える既往研究の知見と一致する.微生物を入れずに行った対照実験では,H2の安定同位体組成に変化は見られず,無機的な反応による安定同位体組成の変化は無視できるほど小さいことが示唆された.また,H2消費量と安定同位体組成の変化には,明瞭な直線相関が確認され,H2を利用する代謝経路ごとに異なるという特徴を持つことがわかった.培養実験で得た知見と,熱水生態系でのH2の安定同位体組成の観測値から,熱水生態系におけるH2消費量の見積もり,あるいは熱水生態系でH2消費に用いられた酸化剤を推定する方法を提案した.

3 まとめ

以上の研究により,熱水生態系におけるH2とCH4の挙動について以下の結論を得た.

・熱水プルームにおいて,微生物によるCH4の消費活動の寄与は,熱水プルームの存在する地形がより閉鎖的であるほど強くなる傾向が示唆された.

・熱水プルーム内では,H2がCH4に比べ速く消費されることを確認した.

・高温熱水と低温熱水の間に,H2の安定同位体組成の顕著な違いを観測した.低温熱水環境での微生物によるH2代謝が,安定同位体組成を変化させていると考えられる.

・微生物培養実験により,H2代謝時の水素安定同位体組成の変化が,H2とH2Oの間で起こる水素同位体平衡反応と同一視できることを確認した.また,H2代謝による同位体平衡反応が無機的な反応に比べ,有意に速く進行することを明らかにした.

・H2消費量と安定同位体組成変化の間の明瞭な直線相関を明らかにした.この相関関係を利用し,H2の安定同位体組成の観測値から,H2消費量の見積もり,あるいはH2消費に用いられた酸化剤(H2消費を行う微生物の代謝経路)を推定する方法を提案した.

審査要旨 要旨を表示する

本研究は,深海底の火成活動に伴う熱水生態系を研究ターゲットとし,そこでの還元性気体,特に水素(H2)とメタン(CH4)が熱水生態系の物質循環に果たす役割を,様々な熱水系のフィールド調査ならびに室内実験を通じて究明したものである。深海熱水活動とその周辺に繁茂する特異な生態系・微生物活動については,これまでに多くの研究が行われてきた。しかし本研究のように,熱水生態系が周辺の化学環境や物質循環にどのような影響を及ぼすのか,という生物地球化学的視点からなされた研究はきわめて少ない。本研究を完遂したことによって,深海熱水活動,海洋環境,および生命活動を包括して捉える視座を確立し,海底熱水系に関わる研究レベルを大きく引き上げた点は高く評価される。

本論文は7つの章からなる。第1章は本研究の序論で,本研究の基盤現象としての海底熱水活動の概要,本研究で注目した具体的研究テーマと意義,この分野における過去の研究の経緯,などが具体的にまとめられ,本研究の位置づけが的確になされている。次に第2章では,本研究で用いられた観測・化学分析・データ解析手法など,研究のテクニックに関わる部分がまとめられている。本研究で独自に開発した低H2試料のための高感度H2同位体比計測手法についても,ここで詳しく解説される。本研究で実施した研究航海の紹介もここでなされている。

第3章から第6章は本論文の中核であり,本研究が達成した成果を4つの空間スケール(章を追うごとに,海底熱水系としての空間スケールがマクロからミクロへと絞り込まれていく)に分けて報告し,議論がなされている。すなわち,第3章では研究船白鳳丸を用いインド洋中央海嶺上の熱水プルームの探査を,第4章では研究船淡青丸を用い沖縄トラフの閉鎖的カルデラ内の熱水プルームの探査を,さらに第5章では局所的な熱水噴出域そのものについて潜水船を用いて詳細に探査を行っている。化学指標としても3,4章では濃度が主に用いられるが,第5章では安定同位体比を加えて強固な議論を構築している。さらにこれらフィールド観測に基づくデータ解析に加え,第6章においては,熱水生態系の素過程をより定量的に把握するために,微生物によるH2消費に関する室内培養実験の手法を新たに取り入れ,現場観測データとの比較から議論をさらに幅広く前進させている。最後の第7章には本研究で得られた新しい成果と結論が要約されている。

海底熱水生態系の水素ガスに関わる研究は,世界的にも数例程度しかない。本研究は,H2の濃度と安定同位体組成の両パラメーターについて観測および培養実験の両面からアプローチし,同位体比の変動を支配する動的要因を明らかにした。さらに微生物過程における同位体変動メカニズムについて定量的考察を進め、熱水域微生物によるH2代謝活性の指標としてH2同位体比がきわめて有用であることを明らかにした。世界最高の分析感度を持つH2濃度・安定同位体分析システムを構築し,高度な分析化学手法を,生物学・地球科学研究に活用した点にも高い独創性がある。

熱水生態系,特に海底下の生命圏を理解することは,「原始地球での生命の誕生」「他の天体に生命は存在するか」といった,人類の抱く根源的な疑問の解決に直結している。本研究は,H2同位体という化学的指標を武器に,直接観察が困難な地下生命圏の実態に迫り,人類共通の謎の解明につながる点で、社会的にも強い関心を呼ぶ内容である。

本研究のフィールド調査(第3章)の過程で,インド洋中央部に新たな海底熱水活動域を特定することに成功している。地球全域にわたる熱水生態系の遺伝的分布・伝播を考察する上で大きな障壁となっているインド洋の空白域を,今後埋めていく大きなきっかけを与えるものと評価できる。この成果が引き金となり,有人潜水船「しんかい6500」(JAMSTEC)を用いる潜航調査航海が,中央インド洋海嶺において2009年10月に予定されている(「よこすか」YK09-12次航海)。インド洋では3番目となる大規模なブラックスモーカーと新たな熱水生態系が発見され,それらの詳細な生物地球化学的研究の進展することが大いに期待される。

以上のように,本研究は海水・熱水中に含まれる還元性気体の挙動を様々なセッティングにおいて詳細に解明し,新たな化学分析手法の開発も含めて,海底熱水系の生物地球化学的研究を格段に進展させた。今後,海底熱水生態系が海洋の物質循環に果たす役割をグローバルな視点から定量化していく上で,きわめて価値の高い先駆け研究と位置づけられる。よって,審査委員一同は論文提出者に博士(農学)の学位を授与できるものと認める。

UTokyo Repositoryリンク