学位論文要旨



No 124705
著者(漢字) 塩崎,拓平
著者(英字)
著者(カナ) シオザキ,タクヘイ
標題(和) 太平洋貧栄養海域の新生産における窒素固定の寄与に関する研究
標題(洋)
報告番号 124705
報告番号 甲24705
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3415号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 教授 福代,康夫
 東京大学 准教授 武田,重信
 東京大学 准教授 津田,敦
 東京大学 准教授 小畑,元
内容要旨 要旨を表示する

海洋基礎生産は窒素供給源の違いにより、新生産と再生生産の二つに大別され、前者は系外から供給される窒素を利用する生産であり、後者は系内で循環している窒素源によって起こる生産であると定義される。1980年代前半まで、外洋域、特に貧栄養海域における新生産は、有光層下部から供給される硝酸塩に依存し、それ以外の窒素源、すなわち、大気由来の窒素供給及び窒素固定の寄与は無視できるほど小さいと考えられてきた。しかし近年、大西洋における地球化学的手法及び時空間的に密な観測によって、海洋の窒素固定量が上方修正され、特に貧栄養海域における窒素固定の新生産への寄与が無視できないものであることが指摘されるようになった。大西洋では窒素固定活性に関する知見が多く、窒素固定活性の空間分布とその支配要因が明らかになってきたが、太平洋では窒素固定の実測例は少なく、特に中西部太平洋及びその縁辺海である東シナ海は観測の空白域となっている。さらに同海域では硝酸塩依存の生産に関する観測例も少ないため、新生産の動態や窒素固定の寄与に関する知見は極めて乏しい。本研究は15Nトレーサー法を用いて、中西部太平洋及び東シナ海の窒素固定活性及び新生産の分布を明らかにし、これに基づいて窒素固定の新生産における寄与を解明することを目的とした。

中西部太平洋及び東シナ海表面水における窒素固定活性の分布 中西部太平洋及び東シナ海における6回の観測航海で表面の窒素固定活性と基礎生産速度、Trichodesmium及びRicheliaの藻糸数、栄養塩濃度、クロロフィルa濃度を測定した。窒素固定活性は水温約20 ℃以上の海域でのみ観測され、赤道湧昇域の硝酸塩+亜硝酸塩 (以下、N+N) 濃度が1883 nMであった測点で活性が認められた以外は全て貧栄養海域 (N+N <100 nM) のみで窒素固定活性が認められた。窒素固定活性は海域により大きく異なり、北半球においては、東シナ海及び黒潮域が中西部北太平洋貧栄養域に比べて有意に高かった。東シナ海及び黒潮域はTrichodesmium及びRicheliaの現存量も中西部北太平洋貧栄養域に比べて高い傾向にあった。さらに同海域はリン酸塩濃度が中西部北太平洋貧栄養域に比べて有意に低く、窒素固定生物によって消費されたことが示唆された。また南半球においては、フィジー島沖でTrichodesmium及びRicheliaの現存量が高くなっており、それを反映して同海域では高い窒素固定活性が認められた。窒素固定活性が認められたすべての測点において、窒素固定活性と水温、塩分、基礎生産速度、栄養塩濃度、クロロフィルa濃度との相関を調べたところ、窒素固定活性はクロロフィルa濃度と基礎生産速度との間にのみ有意な相関を示した。これは窒素固定活性の結果としてクロロフィルa濃度及び基礎生産速度が増加していたためであると考えられる。一方、窒素固定活性がその他のパラメータと相関を持たないことは、解析した以外の要因に窒素固定活性が制御されていることを示唆した。

西部北太平洋東経155°E線上の新生産における窒素固定の寄与 東経155°E線の赤道から44°Nにおいて、窒素固定と硝酸塩取り込みを同時に測定した。その結果、窒素固定活性は混合深度内のN+N濃度が30 nM以下となった28°N以南で観測され、水柱積算値は12.8-151.8 μmol N m(-2) d(-1)の幅で変動した。特に16°Nから24°Nの海域では周辺海域と比べて窒素固定活性が高かった。シミュレーションモデルの解析によれば同海域ではダスト降下量が高く、このため高い活性が顕れたと考えられた。一方、硝酸塩取り込みの水柱積算値は、強い成層が発達していた赤道から24°Nの海域では顕著な緯度変化が認められず、184.1-348.9 μmol N m(-2) d(-1)の範囲にあった。28°N以北では水柱安定度が弱くなっており、硝酸塩取り込み量は高くなった。これは南側の海域と比べて下層からの硝酸塩の供給が高いことが反映していると考えられた。全新生産 (窒素固定量+硝酸塩取り込み量) における窒素固定の寄与は2-37%の範囲にあり、最も高い寄与は、窒素固定が最も高かった亜熱帯域の中心 (24°N) で認められた。赤道から24°Nにかけては硝酸塩取り込み量の変動量の標準偏差が20%であったのに対し、窒素固定は80%であり、これにより窒素固定の新生産への寄与の緯度変化は窒素固定のそれを反映していることが明らかになった。

夏季東シナ海及びその縁辺域における窒素固定の新生産への寄与 夏季東シナ海及びその縁辺域 (黒潮、フィリピン海) において窒素固定速度と硝酸塩取り込み速度もしくは有光層下部からの硝酸塩供給量を同時に測定した。研究海域のすべての測点で水温は20℃以上、表層の硝酸塩濃度は100 nM以下であり、窒素固定活性は対馬海峡以外の全ての測点で認められた。東シナ海及び黒潮、フィリピン海の窒素固定量の水柱積算値の平均はそれぞれ182、239、62 μmol N m(-2) d(-1)であり、フィリピン海は他の海域と比べて窒素固定量が顕著に低かった。東シナ海及び黒潮ではTrichodesmiumやRicheliaが高い現存量で存在しており、同海域ではフィリピン海と比べて窒素固定生物にとって有利な環境であることが示唆された。一方、硝酸塩取り込みの水柱積算値は、東シナ海及び黒潮、フィリピン海でそれぞれ平均1403、96、266 μmol N m(-2) d(-1)であり、東シナ海が他の海域に比べて極めて高くなっていた。東シナ海では黒潮、フィリピン海に比べて硝酸塩躍層における硝酸塩濃度勾配が大きく、また硝酸塩躍層深度も浅くなっていたことから下層からの供給量が他の海域と比べて大きいことが示唆された。さらに東シナ海及び黒潮、フィリピン海の夜間の硝酸塩取り込み速度は、昼間に対してそれぞれ45、18、16%となり、フィリピン海と黒潮は同程度となったが、東シナ海は他海域の倍以上高く、これらによって海域それぞれで硝酸塩取り込み速度に違いが生じた可能性がある。

また東シナ海陸棚域の定点での24時間観測において鉛直渦拡散係数と硝酸塩取り込み速度の同時測定を行い、物理場から推測される有光層下部からの硝酸塩供給量と硝酸塩取り込み速度を比較した。その結果、硝酸塩取り込み量1734 μmol N m(-2) d(-1)は物理場から推測される硝酸塩供給量 616 μmol N m(-2) d(-1)の倍以上になり、同海域の硝酸塩取り込み量には系外からの硝酸塩供給以外の過程、すなわち有光層における硝化によって生じた再生硝酸塩が50%以上含まれている可能性が示された。また東シナ海及び黒潮、フィリピン海において、窒素固定量及び物理場から推測される硝酸塩供給量と、これまで同海域で報告されている大気由来の窒素供給量から、窒素固定の新生産における寄与を見積もると、それぞれ平均19%、56%、41%となった。このことから同海域において窒素固定が新生産源として重要であるといえるが、東シナ海では新生産における硝酸塩供給量及び大気由来の窒素供給量の寄与が大きく、そのため窒素固定量は高くてもその寄与は他の海域と比べて低くなることが明らかになった。

窒素固定生物は他の植物プランクトンに比べて鉄を多く要求するため、鉄の供給量によって窒素固定活性の分布が制限されている可能性が指摘されている。本研究海域全体の窒素固定活性は物理パラメータや栄養塩類と相関がなく、一方、東経155°E線上ではシミュレーションモデルによって見積もられたダスト降下量の多い海域が窒素固定活性の高い海域と一致した。これらは同海域の窒素固定活性が鉄によって制限を受けている可能性を示しており、その分布がダスト降下量によって制限されていることを示唆していた。一方、硝酸塩取り込み量は成層強度及び硝酸塩躍層深度に依存していることが示され、そのため硝酸塩躍層深度の浅い東シナ海陸棚域では硝酸塩取り込み量は高くなったが、太平洋貧栄養域では海域差は見られなかった。本研究の結果と既往知見から見積もった太平洋貧栄養域の窒素固定量は同海域の全新生産 (窒素固定量+硝酸塩取り込み量) の18%となり、窒素固定が新生産に重要な寄与をしていることが示された。ここでは硝酸塩取り込み量を全て新生産と仮定したが、東シナ海における有光層下部からの硝酸塩供給量と硝酸塩取り込み量の比較から明らかになったように、硝酸塩取り込み量には硝化による再生硝酸塩が含まれている可能性が高い。そのため硝酸塩取り込み量に硝化による補正を加える必要があることが考えられ、窒素固定の新生産への寄与はより高いことが示唆される。

以上、本研究によって、これまで観測の空白域であった中西部太平洋及びその縁辺海である東シナ海における窒素固定活性の分布が明らかになった。そして太平洋貧栄養海域では風成混合や中規模渦などの偶発的な現象によって成層強度が弱まらない限り、窒素固定の新生産への寄与は窒素固定に依存することが明らかになったが、東シナ海では有光層下部からの硝酸塩供給及び大気からの窒素供給による新生産への寄与によって、窒素固定は相対的に低くなることが示された。また本研究によって、硝酸塩ベースの新生産の見積もりには、硝酸塩取り込みに併せて、硝化過程によってできた再生硝酸塩を補正する必要があることが明らかになり、硝化を考慮すると窒素固定が貧栄養海域において主要な窒素源となる可能性が示された。

審査要旨 要旨を表示する

海洋基礎生産は窒素供給源の違いにより、新生産と再生生産の二つに大別され、前者は系外から供給される窒素を利用する生産であり、後者は系内で循環している窒素源によって起こる生産であると定義される。従って、正味の生物生産や海洋の二酸化炭素吸収を把握するためには新生産の評価が不可欠とされている。本研究は(15)Nトレーサー法を用いて、これまで、知見がほとんど無かった中西部太平洋及び東シナ海の窒素固定と硝酸塩取り込みの分布を明らかにし、これに基づいて新生産における窒素固定の寄与を解明することを目的としたものである。とくに、従来は、別々に測定されてきた硝酸塩取り込みと、窒素固定を同時に測定することにより新生産の海盆スケールでの分布を精度良く把握することに重点をおいた。

中西部太平洋及び東シナ海における観測航海から、海面の窒素固定活性は水温約20 ℃以上の海域でのみ観測され、表層の硝酸塩濃度が100 nM以下と定義した貧栄養海域のみで窒素固定活性が検出された。窒素固定活性は海域により大きく異なり、北半球においては、東シナ海及び黒潮域が中西部北太平洋貧栄養域に比べて有意に高かった。また同海域はリン酸塩濃度が中西部北太平洋貧栄養域に比べて有意に低く、窒素固定生物によって消費されたことが示された。また南半球においては、フィジー島沖で大型の窒素固定生物の現存量が高くなっており、それを反映して同海域では高い窒素固定活性を認めた。

窒素固定と硝酸塩取り込みの直接比較を行った東経155°E線の赤道から44°Nにおいて、窒素固定活性は28°N以南で観測され、水柱積算値が大きな地理的変動を示し、特に16°Nから24°Nの海域では周辺海域と比べて窒素固定活性が高かった。シミュレーションモデルの解析によれば同海域ではダスト降下量が高く、このため高い活性が顕れたと考えられた。一方、硝酸塩取り込みの水柱積算値は、強い成層が発達していた赤道から24°Nの海域では顕著な緯度変化が認めらなかった。全新生産 (窒素固定+硝酸塩取り込み) における窒素固定の寄与は2-37%の範囲にあり、最大値は、窒素固定が最も高かった亜熱帯域の中心 (24°N) であり、窒素固定の新生産への寄与の緯度変化は窒素固定のそれを反映していることを明らかにした。

夏季東シナ海及び黒潮、フィリピン海の窒素固定量の水柱積算値の平均はフィリピン海で顕著に低かったのに対して、硝酸塩取り込みの水柱積算値は、東シナ海が他の海域に比べて極めて高いことを認めた。さらに東シナ海陸棚域では、鉛直シアーの微細観測を行い、物理場から推測される有光層下部からの硝酸塩供給量と硝酸塩取り込み速度を比較した。その結果、培養実験から得られた硝酸塩取り込みは、鉛直渦拡散係数から見積もられる有光層への硝酸塩供給の倍以上の速度であることが明らかになり、同海域の硝酸塩取り込みには下層からの硝酸塩供給以外に、有光層における硝化によって生じた再生硝酸塩の寄与が大きいことが示唆された。これらの成果を総合した結果、東シナ海及び黒潮、フィリピン海では窒素固定が新生産源として重要であること、東シナ海では新生産における硝酸塩供給量及び大気由来の窒素供給量の寄与が大きく、そのため窒素固定量は高くてもその寄与は他の海域と比べて低くなることを明らかにした。

以上、本研究によって、これまで観測の空白域であった中西部太平洋及びその縁辺海である東シナ海における窒素固定活性、およびその新生産への寄与が明らかになった。従来、窒素固定が活発であると考えられていた東シナ海において、本研究が有光層下部からの硝酸塩供給及び大気からの窒素供給を評価することによって、窒素固定の新生産への寄与は相対的に低いことを明確に示したことは我が国周辺海域の生物生産の理解において大きな意義がある。さらに、本研究の結果と既往知見を併せた解析から、太平洋貧栄養域の窒素固定量は全新生産 (窒素固定量+硝酸塩取り込み量) の14%であると見積もられたが、培養法による硝酸塩取り込みには、有光層内での硝化による再生硝酸塩について補正を加える必要があることを考えると、この割合はより高いことが示唆され、窒素固定が貧栄養海域において重要な窒素源であることが示された。このように本研究は太平洋熱帯・亜熱帯海域の新生産の把握について、窒素固定の寄与を初めて明らかにし、同海域の生物生産性および生物地球化学の研究に新たな展開を与え、学術上も応用上も極めて貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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