学位論文要旨



No 124711
著者(漢字) 金,氣興
著者(英字)
著者(カナ) キム,キフン
標題(和) 有機農業の役割と課題 : 日本と韓国の比較研究
標題(洋)
報告番号 124711
報告番号 甲24711
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3421号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 池本,幸生
 東京大学 教授 木南,章
 東京大学 教授 松本,武祝
 東京大学 准教授 中嶋,康博
 政策研究大学院大学 教授 原,洋之介
内容要旨 要旨を表示する

有機農業とは、狭義には「化学的に合成された肥料や農薬を使わない農業」であり、広義には「人間を含む生態系全般に負荷を与えず、食の安全と地域環境保全を目指す生産システム」である。その生産システムには、生産者だけでなく、消費者である地域住民も含まれ、地域コミュニティ(共同体)全体の機能が持続可能なものでなければならない。本論文では、有機農業をこのように広義に捉える。

有機農業が対処しようとしている問題は、大きく「食の安全」と環境問題の二つに分けることができる。「食の安全」の問題は、生産者の情報を消費者が十分に把握できないという「情報の不完全性」の問題として捉えることができ、一方、環境問題は、慣行農業が農薬や化学肥料の使用によって環境に負荷を与えるという「外部不経済」の問題として捉えることができる。これらの現象は、「市場の失敗」の典型的な例である。アクセルロッドは、これらの「市場の失敗」の克服策として「ラベル」と「領域性」という二つの方向があることを理論的に提示した。有機農業の場合、「ラベル」とは認証制度であり、「領域性」とは地域密着型有機農業と産消提携の二つに対応していることをまず明らかにする(図1参照)。そして、この理論モデルに従って、日本と韓国の有機農業の発展過程を分析し、それぞれの有機農業のタイプについて、その役割を明らかにすることが本論文の目的である。

有機農業におけるラベルと領域性(第3章)

アクセルロッドの言う「ラベル」とは、性別や肌の色のようにプレイヤーが持つ固有の特徴であり、相手のプレイヤーがあらかじめ観察できるものを指す。有機農業の場合には、有機認証によるラベルがそれに当たり、有機認証制度が法的に保証することによって広域的な市場を開拓することが可能となり、大規模な有機農業を促進した。そのため利益志向的な性格が強く、過大な競争を引き起こし(韓国の事例)、認証基準には入らない地域の問題には十分に対応できないという傾向がある。一方、アクセルロッドの言う「領域性」には2種類あり、ひとつは「地理的近さ」であり、もうひとつは「同じ意識を持つ者同士の心理的近さ」である。有機農業の場合、「地理的近さ」は、実際に「顔の見える関係」が維持できる「地域密着型有機農業」に対応し、「心理的近さ」は、地理的には離れていても密接なコミュニケーションを維持することによって信頼関係を維持しようとする「産消提携」に対応する。実際には、「地理的近さ」は「心理的近さ」を生み出しており、領域性とは、生産者と消費者の間の信頼関係を築き、それによって協調関係を維持するものと解釈できる(表1参照)。

日本の有機農業は、1970年代に自生的に発生した生産者と消費者の間の「産消提携」によって始まったという歴史があり、領域性を志向する傾向が強いのに対し、韓国の場合には、90年代末に政府が強力に推進しようとしたことから認証を志向する傾向が強い。いずれの戦略も有機農業の方向性を示している。

日本における有機農業の発展過程(第4章、第5章)

日本における有機農業は、環境問題が深刻化していた1970年代に、農薬を使わない安全な食材を求める都市消費者と、環境負荷の大きな近代農業を止めて「環境にやさしい」有機農法に転換したいと考えていた農家とが、相互の理解と利益に基づいて「産消提携」の形で始まった。産消提携は、今でも日本の有機農業の特徴であり、外国でも「Teikei」として知られる。その後、80年代に入ると有機農産物の市場が拡大し、多くの専門流通業者等が参入するようになる。そのことが、有機食品の不当表示問題を引き起こし、それをきっかけにして政府は90年代初めに有機農産物のガイドラインを作成し、有機認証制度が確立される。これによって有機認証を受けて広域的市場に進出する大規模生産者が現れる一方、有機認証を得るためのコストを負担できない小規模生産者は産消提携や地域密着を強化し、有機農業の原点に回帰するという現象が生じた。前者のタイプの有機農業は、市場志向的であり、認証によって規定される狭義の定義に従うのに対し、後者のタイプは、生産者と消費者の結びつきを重視することから、コミュニティを維持強化するという役割を担うことになる。

このことを示すために、地域密着型有機農業の事例として神奈川県小田原市の「あしがら農の会」(以下、「農の会」と略称)を取り上げ、消費者の有機農業に対する意識をアンケート調査に基づく主成分分析によって明らかにした。「農の会」は、有機農業を通して地域循環型社会の形成を目指し、環境や「食の安全」を含む暮らしの良さに焦点を合わせて活動している。「農の会」の生産者から有機農産物を購入している消費者は、その趣旨に賛同する個人消費者であり、これまで日本の「提携」型有機農業を支えてきた消費者グループではない。主成分分析の結果、「農の会」の消費者は、「食の安全」に強い関心を抱くタイプと、地域環境の保護に強い関心を抱くタイプに分かれることが示された。「農の会」では、生産者と消費者を二つの別々のグループに分けるのではなく、同じ意識を持つ仲間と見なし、消費者も農作業や様々な活動に参加する機会を設けている。そのような活動を通して、消費者の二つのタイプはもうひとつのタイプの関心を強めていくことも示された。生産者と消費者はコミュニティの形成と強化を行っており、それが地域密着型の有機農業の存立条件となっている。

このような地域密着型有機農業の役割は、人々の福祉(Well-being)の観点から評価されるべきものである。人々の福祉は、アマルティア・センの提唱するケイパビリティという概念によって捉えることができる。マーサ・ヌスバウムは、人々が満たすべき最低限のケイパビリティをリスト化した。そこに含まれる健康や環境やコミュニティなどの項目は、有機農業が目指すものと重なっている。

韓国における親環境農業の発展過程(第6章、第7章)

韓国の有機農業は、日本と同様に1970年代に先駆的な農民個人と生産者団体によって始まった。80年代に入って都市の消費者に向けて直売が開始されるが、日本のように不当表示問題が顕在化するほどの拡大は示さなかった。認証制度が導入されるのは、日本と同様に90年代であるが、日本との大きな違いは、韓国の場合、政府主導によって「親環境農業」が強力に推進されたことである。その結果、韓国ではラベル型の発展を遂げていく。認証業務は民間に移りつつあり、民間認証機関は単に認証業務を行うだけでなく、技術指導や情報提供も行い、親環境農業の普及につながっている。

しかし、韓国では認証制度によって拡大したために、認証を取った親環境農産物市場において競争圧力は増し、競争に耐えられない小規模生産者グループは地域密着型に移行しつつある。韓国で先駆的な親環境農業地域であるヤンピョン郡で、有機農業運動の歴史と共に歩んできた「パルダン生命サリム」は、2003年に、農協中央会との連携によって生産を伸ばし、組織を拡大させた。しかし、農協中央会が取り扱う他のグループの農産物と競合するようになり、農協中央会から距離を置くようになる。もともと設立理念として地域環境を配慮し、地域住民である消費者と生産者の信頼関係を大事にしてきたが、農協中央会との決別により地域の生協や学校給食など地域に密着した方向に転換していく。

結論(第8章)

有機農業は、食の安全と環境問題という大きなふたつの課題に関して、ラベルによる認証制度と、領域性による産消提携及び地域密着型有機農業というふたつの対策からそれらの問題を解決しようとしてきた。

日本の有機農業は、産消提携から出発し、認証制度の導入によって認証を用いるグループと、産消提携と地域密着型への強化を強めるふたつのタイプの有機農業が併存するようになったのに対し、韓国では政府主導によって認証型として定着し始め、地域密着型へと移行していくという違いが見られる。両者の比較を通して、有機農業の発展の方向は、有機農業の狭義の定義を満たす認証制度を利用した市場指向型と、コミュニティ機能まで含む広義の定義を満たす地域密着型、提携型が併存して発展することが示された。経済的には前者の評価が高いが、後者はケイパビリティの観点から十分に評価されるべきものである。

図1 本論文の理論モデルと有機農業の対応関係

表1 有機農業におけるラベルと領域性

審査要旨 要旨を表示する

食の安全や環境に対する意識が高まりつつある今、安全で環境にやさしい農産物を提供しようとしてきた有機農産物が消費者の注目を集めている。このことは、有機農業が高付加価値の農産物を生み出す有望な分野であることを意味する。しかし一方で、有機農業を実践する人々の中には、経済性よりも健康や地域の環境やコミュニティを重視し、自給自足を指向する小規模なタイプもある。本論文では、まずこのような二つのタイプが併存する状況をアクセルロッドのゲーム論における成果を踏まえつつ理論的に説明する。アクセルロッドは市場の失敗の克服策としてラベルと領域性というふたつの方向を理論的に提示した。その理論を応用して、食の安全を脅かす問題や環境破壊を市場の失敗と捉え、有機農業に見られる二つのタイプは、ラベルと領域性に対応したものであることを本論文は示した。このような理論的枠組みに基づいて、日本と韓国の有機農業の発展過程の比較を通して、両者のタイプが併存する状況がどちらの国にも見られることを示した。そして、経済性ではラベル型のタイプが優れているものの、環境・健康・コミュニティ・地域活性化などの面で後者が重要な役割を担いうるものであることをケイパビリティという概念を用いて明らかにした。

本論文は3部8章から成る。まず序章で本論文の目的と構成を述べた後、第1部で有機農業に見られる二つのタイプを市場の失敗という観点から理論的に考察する。第2章で、本論文における有機農業の定義を与えた後、第3章で、食の安全を脅かす問題を不完全情報の問題として捉え、環境を外部不経済の問題として捉え、これらの市場の失敗の克服策には、アクセルロッドが理論的に示したラベルと領域性のふたつがあることを示し、これらの二つの克服策が有機農業の二つのタイプ、すなわち認証を用いた市場指向型のタイプと、地域性や人間関係を重視する小規模な地域密着型のタイプに対応していることを示す。

このような理論的枠組みに基づいて、第2部と第3部で日本と韓国の有機農業の発展過程が検討される。第4章では日本の有機農業の発展過程が示される。1970年代に食の安全と環境保護を求めて始まった日本の有機農業運動は、市場が拡大するとともに有機農産物を名乗る不当表示問題が発生し、それを規制するために認証制度が導入された。認証制度は市場を広域化させ、利益を追求できる一方で、それを利用できない小規模農家はむしろ認証を取得するよりも地域に密着した本来の形に活路を見出そうとした。第5章では、地域密着型の事例として「あしがら農の会」を取り上げ、生産者と消費者が有機農業に求めるものをアンケート調査の統計分析により明らかにした。その結果、消費者は最初は単に安全な農産物や環境だけに関心を持っていたものが、生産者との交流を通して包括的な関心を持つようになり、地域のコミュニティの形成と強化にもつながっていくことが示される。このような非金銭的な面での貢献は、ケイパビリティ・アプローチによって適切に捉えられている。

第3部は韓国における親環境農業の発展過程を取り扱う。韓国では有機農業と減農薬を合わせて親環境農業と呼ばれる。第6章は、韓国の有機農業の発展過程を考察する。韓国の有機農業も1970年代に始まり、90年代に認証制度が導入されるが、日本との大きな違いは、政府が親環境農業を強力に推進したことである。その結果、韓国ではラベル型のタイプが主流となっていく。民間認証機関は認証業務を行う他に、技術指導や情報提供も行い、親環境農業の普及に貢献している。しかし、このような政策は親環境農産物市場での競争圧力を増大させ、競争に耐えられない小規模生産者グループは地域密着型に移行しつつある。第7章では、地域密着型の道を選択した「パルダン生命サリム」がその事例として取り上げられる。

結論部である第8章では、持続可能な発展という観点から、有機農業の二つのタイプについて評価を行ない、従来、それほど評価されることのなかった小規模な地域密着型有機農業が地域コミュニティの強化という面でも重要な役割を担いうることを論じる。

以上を要するに、本論文は有機農業で見られる二つのタイプが、市場の失敗に対してゲーム理論から導かれた二つの解決策に対応していること、それが、異なった発展パターンを辿る日本と韓国の有機農業においても併存しうること、したがって有機農業が進むべき方向は二つの方向があることを示し、小規模な地域密着型有機農業もケイパビリティの観点から十分に評価されるべきものであることを示した。この理論的アプローチは独創的であり、ケイパビリティ概念の応用の面でひとつの分野を開拓した。さらに有機農業の促進政策の上でも重要な含意を持つ。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/25051