学位論文要旨



No 124720
著者(漢字) 相澤,麻由
著者(英字)
著者(カナ) アイザワ,マユ
標題(和) メコンデルタにおける淡水化への稲作農家の対応
標題(洋)
報告番号 124720
報告番号 甲24720
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3430号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農学国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,和彦
 東京大学 教授 黒倉,壽
 東京大学 教授 溝口,勝
 東京大学 教授 森田,茂紀
 東京大学 准教授 鴨下,顕彦
内容要旨 要旨を表示する

現在、ベトナムはタイに次いで世界第2位のコメ輸出国で、その輸出量は1999年には450万トンに達した。その9割がメコンデルタで生産されており、国内と世界のコメ生産において、メコンデルタの稲作は非常に重要な地位を占めている。

メコンデルタのコメ生産は、堤防建設や水路網整備といった水利開発と、生育期間の短い高収量性品種の導入や乾田直播の普及といった農業技術革新によって、1990年代に急速に増加した。このように水利開発と農業革新によって、メコンデルタの稲作集約化は急速に進んだが、個々の農家が新しい水利環境に対応し、新しい農業技術を導入しなければ、このようなコメ増産は実現しなかったであろう。しかしこれまで、水利開発による環境変化に農家はどのように対応し、その結果、彼らの生計はどう変化したか、その詳細を明らかにした研究は少ない。新しい環境への農家の対応を理解することは、最適な農業開発方策を考え、それを効率よく普及させる上で非常に重要である。またメコンデルタでは、現在も開発が進んでおり、水利環境は変化を続けている。さらに将来的には、地球温暖化に伴う海面上昇が、メコンデルタの農業に大きな影響を及ぼすと予想されており、水利環境変化に対する農家対応について、その実態を明らかにすることは、今後も重要な研究課題である。

そこで本研究は、メコンデルタの水利開発による環境変化への農家の対応を実態調査で明らかにすることを目的とした。特に沿岸部の塩水遡上地域において、水門と堤防の設置により水稲の作付け回数がどのように変化したか、その要因を環境的、農業技術的および農村・農家の社会経済的条件から明らかにする。

第2章では、Tien Giangs省に位置し、メコン川の派川Tieu川とDai川に挟まれた全長34 kmのCon Sau Xa島で実施された淡水化プロジェクトに着目した。同島下流部のPhu Thanh村とPhu Dong村に、塩水の浸入を防ぐ堤防と水門が2001年に設置された。これによって、水稲1期作から2期作への移行が期待されていた。

この2つの村で、2005年9月に現地調査を行い、河川と水路の日平均水位、塩分、pH、および水門開閉時期に関する情報を収集した。また、合計120戸の農家に対して、水門と堤防建設前後の水稲栽培について聞き取り調査を実施した。その結果、以下のことが分かった。

この地域での水門と堤防建設後、上流側でかつ水門に近い地域では、41%の農家が作付け回数を1回から2回に増やしたが、上流側でも水門から遠い地域では、逆に42%の農家が作付け回数を2回から1回に減らした。また下流側でも、水門と堤防建設前は12~14%の農家が2期作を実施していたが、建設後は全ての農家が1期作になった。さらに作付け回数を減らし農家では、建設後、水稲栽培の開始時期が遅くなり、栽培期間が有意に短くなった。水質データの解析結果を併せ考えると、水門と堤防の建設は、塩水の浸入を防ぎ淡水供給期間を長くしたが、酸性硫酸塩土壌(ASS)によって酸性化した水路の排水を妨げた。上流側の水門近くでは、淡水の供給によって作付け可能期間が延びて2期作が増えたが、水門から遠い地域や、上流側の酸性化した水が流れ込む下流域では、水路の酸性化で作付け開始が遅れ、作付け回数を減らさざるを得なかったのであろう。こうした水稲作付け回数の変化は、増減どちらの場合も品種の変更を伴っており、1期作には在来品種、2期作には近代品種が選択されていた。

このように第2章では、水利開発によって稲作が後退した事例を示したが、メコンデルタの多くの地域では1期作から2期作への転換が進んだ。第3章では、2期作が達成された地域で、農家がさらに3期作を試みた事例を解析した。

メコンの派川Hau川右岸のSoc Trang省沿岸部で、淡水化プロジェクトが1992年から開始され、2000年代初頭にはほぼ全域で2期作が実施されるに至った。この地域の一部で、2001年から2004年にかけて3期作が急速に広がったが、2005年に一斉に中止された。

2006年10月に現地調査を行い、水利環境データおよび統計データを収集し、各村の村長や集落リーダー、および193戸の農家に対して、3期作実施に関して聞き取り調査を行った。本研究では、プロジェクト地域全体を対象とした地域レベルの解析により、水稲3期作の空間的拡大を捉えるとともに、個々の農家に着目した農家レベルの解析により、3期作の時間的拡大を捉えた。

本研究地での3期作開始と拡大は、2000年から2003年にかけて、Hau川の塩分が低く推移し、調査地への淡水供給期間が延長されたことによることがわかった。農家レベルで見ると、3期作は、経済的余裕のある大規模農家のうちの少数(イノベータ)から始まり、稲作からの収入増加に積極的な小規模農家の一部(初期採用者)、そして地域の平均的な多数派の農家へと広まった。地域レベルでは中流域から上流域へと広がった。このような広範囲に及ぶ3期作普及は、水田面積の占める割合が高い中流域に、稲作依存度が高く、稲作からの収入増加に意欲的な農家が一定割合存在したことが大きな要因だったと考えられる。

本研究の3期作拡大は、4年間という短期間で急速に進んだことが特徴的であるが、灌漑水の利用に関する稲作の特性が関係していると考えられる。乾季作である3作目は特に灌漑水に大きく依存するため、多くの農家は近隣農家との話し合い後、あるいは他の農家の3作目開始を見てから、3作目の実施を決めていた。このような灌漑水利用を介した集団的意思決定によって、3期作は急拡大して、わずか4年間でプロジェクト地域の上・中流域にある全水田の48%の面積で実施されるに至った。

しかし、2004年は、河川の塩分が高く推移したことによって、淡水供給期間が短くなり、3作目の収量が大きく低下した。この低収量に加えて、2005年から、地方政府は3期作による病害虫の大発生や土壌劣化による生産性低下を理由に、2期作を推奨する方策を取ったこともあり、2005年以降は全ての農家が3期作を中止した。

Soc Trang省の淡水化地域において、水稲3期作以外で、農家の生計向上を考えるには、稲作だけでなく他の作目を含めて考える必要がある。そこで第4章では、第3章で解析した193戸の農家に対する聞き取り調査の結果から、水稲以外の作目も含めた農家経営の実態を明らかにし、今後の展開を考えた。

研究対象地では、水稲2期作と畜産を合わせた農業形態の世帯数が最も多く全体の41%を占め、次いで水稲2期作専業(稲作専業)が37%、水稲2期作と畑作・果樹を合わせた農業形態が17%となった。各農業形態の生産性を農家規模ごとに比較すると、労働生産性は、畜産あるいは畑作・果樹を導入した農業形態よりも、稲作専業が顕著に高かった。これは稲作の労働負荷が低いことの他に、稲作に雇用労働力を投下していることが原因であると考えられる。一方、各農業形態の土地生産性は、農家の所有土地面積によって異なっていた。農地が1 ha未満の小規模農家、1-3 haの中規模農家、3 ha以上の大規模農家に分けると、小規模農家では稲作専業よりも畜産を導入した農業形態の土地生産性が有意に高かった。これは畜産の土地生産性が極めて高いことによる。中規模農家でも同様に畜産を導入した農業形態の土地生産性が最も高かったが、大規模農家では、農業形態間で土地生産性に差がなかった。これは、農家規模の拡大に伴い、畜産、畑作・果樹の各作目が全体に占める割合が小さくなり、稲作の土地生産性に近づくためだと考えられる。

大規模農家が、稲作以外の作目の生産規模を拡大しなかった理由として、労働力と土地の制限が考えられる。この地域では畑作・果樹や家畜の生産に対しては雇用労働を用いておらず、特に労働負荷の大きい畑作・果樹は、家内労働力以上の労働力を必要とする規模での生産はきないと考えられる。一方、土地利用の面から、ブタは各家の裏庭で飼育され、畑作・果樹は水はけの良い高台で行われるなど、土地条件を選ぶため、規模拡大は稲作より困難であると考えられる。また、価格の安定性も農家が稲作を選好する要因である。

このように本研究地では、稲作主体の農業が実施されていたものの、個々の農家は、それぞれの土地、労働制約条件の中で他作目を導入し、そこから収入を得ていた。

今後、海面上昇や上流域での開発により、塩水遡上地域が拡大することが懸念されている。そうした変化に、メコンデルタ沿岸部の農家はどのように適応していくのだろうか。

第5章では、メコンデルタの淡水化地域における農業発展の方向性を予測するとともに、農家の生計向上のための方策とその条件について考察を行った。メコンデルタ沿岸部で、ASSに覆われた地域では、水路への塩水浸入と水路酸性化の問題が背反して存在する。水路の酸性化は、水稲栽培を制約するだけでなく、水産資源の漁獲も不可能にし、農家の収入源を制限すると考えられ、このような地域では、むしろ塩水を取り入れ、汽水を利用した水産への転換が考えられる。一方、ASSの影響が少なく2期作を達成した地域では、大規模農地を持つ農家は、土地と労働力の効率的利用の面から、稲作を基盤とした農業を続けるであろう。一方、小規模農家にとっては、収入増に他作目の導入が不可欠である。その際、資金制約と価格の変動などが問題となる他に、他作目導入は稲作のような共同水利用という集団意思決定を必要としないため、稲作とは異なる普及の経過をたどると予想される。このような場合、まず農家の組織化が重要であり、地域の農家間ネットワークを理解することが今後の研究課題だろう。

審査要旨 要旨を表示する

背景

メコンデルタは,世界第2の米輸出国ヴェトナムの米生産を支える,同国最大の米生産地帯である.デルタ上流部では洪水が,下流部では海からの塩水遡上が米生産を制約してきたが,そうした環境制約を回避することにより,米輸出が可能になった.特に下流部では,乾季に遡上する塩水を堤防と水門によって防止しつつ,上流から淡水を供給することによって,雨季に1回しか収穫できなかった米を,2回ないし3回収穫可能にした.本研究では,メコンデルタの塩水遡上地域において淡水化が稲作に及ぼした影響を,「環境変化への農家の対応」という新しい視点で解明を試みた.

1期作地帯における淡水化に伴う水利環境の変化と水稲作付け回数の変化

メコンの派川Tieu川とDai川に挟まれた,Tien Gian省Con Sau Xa島にて,淡水化による水環境の変化と,それへの稲作農家の対応の実態を調べた.同島の上流側で水稲の3期作が行われているのに対して,下流側では天水に依存した水稲1期作が行われる.中間の水稲1期作と2期作の境界近くに位置する2村で,2001年に設置された堤防と水門が,河川と水路の水に及ぼした影響に関してデータを収集し,また水稲栽培の変化に関して農家から聞き取った.

調査の結果,次のことがわかった.水門・堤防建設後,上流側で水門に近い地域では,約4割の農家が作付け回数を1回から2回に増やしたが,上流側でも水門から遠い地域では,逆に約4割の農家が作付け回数を2回から1回に減らした.下流側では,水門・堤防建設前は1割強の農家が2期作を実施していたが,建設後は全ての農家が2期作から1期作になった.こうした作付け回数の減少は,農家の年間米生産量さらには年間収入を大きく低下させた.多くの農家が作付け回数を減らした原因は,水門・堤防建設によって水路の水交換が悪くなり,水位が低下した結果,酸性硫酸塩土壌の酸化と水路の酸性化が進んで,田植え開始が遅れ,水稲栽培可能期間が短くなったためと見られた.

淡水化後の水稲2期作地帯における3期作の拡大と消滅

メコンの派川Hau川右岸のSoc Trang省沿岸部では,淡水化により2000年代初頭にほぼ全域で2期作が達成された.さらに一部の地域では,2001年から2004年にかけて3期作が急速に拡大したが,2005年に一斉に消滅した.この現象が見られた地域で,水文データと農業統計データを収集し,また村長や集落リーダー,個別農家から聞き取った.その結果,以下のことが分かった.

研究対象地での3期作開始と拡大は,2000年から2003年にかけて,Hau川の塩分が低く推移し淡水供給期間が延長されたことによる.農家スケールで見ると,3期作は経済的余裕のある少数の大規模農家が始め,稲作からの収入増加に積極的な小規模農家の一部が続き,その後多数派農家へと広まった.地域スケールでは,中流域から上流域へと広がった.このような広範囲の3期作普及は,水田面積の占める割合が高い中流域に,稲作からの収入増加に意欲的な農家が一定数存在したことが大きな要因だったと考えられた.

しかし,2004年に河川の塩分が高まった結果,淡水供給期間が短くなり,3作目の収量が大きく低下した.それに加えて,3期作による病害虫の発生や土壌劣化を理由に,地方政府が2期作を推奨する方策を取ったために, 2005年以降は全ての農家が3期作を中止した.

水稲2期作地帯における他作目導入の可能性と農家経済

上記のように,水稲2期作が実現した地域では,3期作への農家の意向が強いが,3作目の安定的な生産は困難な地域が多い.そうした場合,今後どのような農業形態を農家が受け入れていくのかを,上記と同一の地域について調べた結果,以下のことが分かった.

研究対象地では,水稲2期作と畜産の組み合わせが全体の約4割を占め,次いで水稲2期作専作が4割弱,水稲2期作と商品作物の組み合わせが2割弱となった.全体として水稲作からの収入が多く,特に大規模農家では9割強が水稲作からの収入であった.小規模農家では,水稲以外の比率がやや高かったが,水稲作からの収入が少ないためであった.このように,水稲作への選好が強く,その他の作目の導入には,労力不足や価格の不確実性,土地条件などの困難性があった.ただし,収入上位の農家だけを拾い出してみると,大規模農家は水稲主体であったが, 中・小規模農家には畜産や商品作物から高収入を得ている例が見られ,ある程度の農家は水稲専作から複合経営に進む可能性がみられた.

以上のように,本論文が,メコンデルタにおける水利開発にともなう稲作集約化の実態を,環境変化に農家がどのように適応したかという視点から解明したことは,学術上,応用上貢献するところが大きく,よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/25052