学位論文要旨



No 124721
著者(漢字) 榎本,憲泰
著者(英字)
著者(カナ) エノモト,カズヒロ
標題(和) カンボジア王国トンレサープ湖の水産資源評価
標題(洋)
報告番号 124721
報告番号 甲24721
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3431号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農学国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒倉,壽
 東京大学 教授 井上,真
 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 准教授 佐野,光彦
 東京大学 准教授 山川,卓
内容要旨 要旨を表示する

東南アジアのインドシナ半島に位置するカンボジア王国は、メコン河やトンレサープ湖といった豊富な水資源に恵まれ内水面漁業が盛んである。国民の年間一人当たり水産物消費量は67kgと高く、内水面漁業はその約8割を供給している。カンボジア中央に位置するトンレサープ湖は東南アジア最大の湖であり、その面積は乾季において2000km2であるが、雨季にはメコン河からの氾濫流を受け入れその面積を乾季の3-5倍に広げる。この広大な湖において、100を超える漁獲対象種と、150種以上の漁具漁法による多彩な内水面漁業が行われている。豊かな自然環境により支えられているトンレサープ湖の内水面漁業資源の保全と持続的利用は、同国の食料供給や、水産業に依存して生活する地域住民の生存において極めて重要な意味を持つ。

トンレサープ湖の漁業資源は、1990年代後半から人口増加と経済発展に伴い漁獲圧の増大が生じ、乱獲が指摘されている。またメコン河上流域のダム開発や農業・工業用水の利用の増加に伴い、トンレサープ湖の水文環境の変化が起きており、それによる漁業資源への悪影響が懸念されている。しかしながら、1970年から約20年間内戦を経験したカンボジアにおいては人員や予算の不足から行政機構が脆弱である。このような状況に配慮して1995-2000年にメコン河委員会とカンボジア水産局の共同プロジェクトにより漁獲量及び漁業生産額の把握を目的とした漁獲量調査が行われた。このプロジェクトによって、トンレサープ河及びトンレサープ湖周辺7州において初めて魚種別の漁獲量データが収集された。また、プロジェクト終了後も一部の州水産局で魚種別漁獲量データの収集が継続されているにもかかわらず、これらのデータは殆ど資源評価に利用されていない。

そこで本研究では、漁業統計や漁業資料を収集し、トンレサープ湖の漁具漁法と魚種の関係などの分析を踏まえ、トンレサープ湖の主要漁獲対象種10種の資源評価を行うことを目的とした。

第2章では、漁業統計機構などのデータ収集状況や既存データの保管状況を明らかにすることを目的として、カンボジア水産局及びトンレサープ湖周辺5州での聞き取り調査及び資料収集を行った。魚種別漁獲量の収集状況について調べた結果、トンレサープ湖周辺5州のうちプーサト州を除く4州でプロジェクト終了後も収集を継続していた。漁獲量データの収集方法は漁業規模ごとに異なり、占有漁業区フィッシングロット(ロット)で行われる大規模漁業においてのみ、実測値の漁獲量データが収集されていた。加えて、バッタンバン州のロットNo. 2及びコンポントム州の各ロットにおいてはロット別に集計された魚種別漁獲量データが存在した。漁獲努力量に関するデータは、漁業統計においてBamboo fence systemとBarrageの漁具数が入手可能であった。また、漁具の大きさや漁期については、占有漁業区の漁場や漁期、漁具の大きさなどの操業規則を示したバーデンブックや一部のロットで行われている漁業調査報告書から得られることが分かった。

以上のことから、大規模漁業においてはロット別の魚種別漁獲量が入手でき、且つ漁業統計とバーデンブックなどの漁業情報から漁獲努力量データとして利用可能性のある情報が得られることが分かった。

第3章では、第2章で資源評価の可能性があることが分かった大規模漁業において、漁場面積の変化や漁具漁法の大きさ及び時期の経年的な変化、分析対象種10種の漁獲量の分布及び漁具漁法との関係について明らかにすることを目的とした。

大規模漁業が行われるロットは、2000年に行われた漁業改革に伴い、その面積及び個数が大幅に減少した。トンレサープ湖周辺5州においては、シュムリアップ州などで多数のロットが削減され漁具数も減少したが、コンポントム州ではロット面積の縮小に留まり漁具数の変化は殆どなかった。

詳細なロット別の漁獲量データの収集のできたバッタンバン州のロットNo. 2とコンポントム州の各ロットにおけるBamboo fence systemの大きさと漁期は、一部のロットで漁業改革後フェンスの長さや漁期に僅かな延長がみられたが、大きな変化はみられなかった。Barrageの大きさと漁期は漁業改革の以前と以後で殆ど変化していなかった。

分析対象種10種について漁獲量の分布パターンを調べたところ、コイ科のCirrhinus microlepis、Cyclocheilichthys enoplos、Osteochilus melanopleurus、Cirrhinus spp.、及びパンガシウス科のPangasius spp.の回遊性の5種は、乾季においてトンレサープ湖周辺の氾濫域からトンレサープ河の方へ回遊するため、トンレサープ湖南で多く漁獲されていた。これらの魚種の漁場別の分布をみると、Cirrhinus spp.は特に河川の漁場で多く漁獲される一方、他の4種はトンレサープ湖内の河川や湖の漁場で多く漁獲されていた。これは、主に生息域や餌の違いによるものと考えられた。定住性の魚種のうちタイワンドジョウ科のChanna micropeltesとコイ科のBarbodes gonionotusの2種はトンレサープ湖全体で主に漁獲される一方、Chhana striataとゴクラクギョ科のTrichogaster microlepisはバッタンバン州で多く、コイ科のHampala spp.はトンレサープ湖南のコンポンチュナン州で多く漁獲されていた。

分析対象種10種の漁獲量と漁具漁法に関するデータとの相関関係を調べたところBamboo fence systemでは、最も多くの魚種でフェンスの長さと漁獲量との間に有意な正の相関関係がみられた。またBarrageにおいては、Barrageが設置される河川幅のみ回遊性魚種4種の漁獲量との間に有意な正の相関関係がみられた。これらのことからBamboo fence systemのフェンスの長さやBarrageの河川幅が漁獲努力量として適していると考えられた。

第4章では、第2章及び第3章の分析結果を踏まえ分析対象種10種の資源評価を行った。漁獲量データの入手できたトンレサープ湖周辺4州の総漁獲量の動向を調べたところ、総漁獲量の減少傾向はみられなかった。また魚種別の漁獲量の動向と、各ロットの漁獲量とBamboo fence systemのフェンスの長さやBarrageの設置される河川幅を努力量として求めたCPUEの動向を調べたところ、C. micropeltesやHampala spp.、Pangasius spp.では漁獲量とCPUEの両方に減少傾向がみられ漁業資源の減少が示された。一方、Cirrhinus spp.やC. microlepisでは漁獲量とCPUEに増加傾向がみられ、資源の増加が示唆された。資源の悪化していた魚種の多くは魚食性の大型魚であった。また、C. micropeltesとPangasius spp.は禁漁期における養殖用の種苗入手を目的として仔稚魚の漁獲が行われており、資源量の悪化を招いたのは漁獲圧の増大が原因と考えられた。但し資源の減少のみられたC. micropeltesは2004年末から養殖の禁止が実施されており、トンレサープ湖の付属湖においては2006年から漁獲量の回復がみられた。一方増加している魚種は、プランクトンや水生植物を餌とするコイ科の資源変動の大きい多獲魚であった。

分析対象種のCUPEの変動と水文環境との関係を調べたところ、従来の調査研究で重要性が指摘されていたトンレサープ湖の最大水位との間には明瞭な正の相関関係はみられなかった。その一方で回遊性の一部の魚種で、産卵期や漁期の水位が高いほどCPUEが増加する傾向がみられた。また、定住性の魚では、産卵期や漁期の水位が低いほどCUPEが増加する傾向がみられた。

最終章においては、本研究の分析から明らかになったトンレサープ湖の水産資源の状況を資源評価と資源管理の観点から考察した。また水産資源及び漁業統計機構の現状を踏まえ、トンレサープ湖の水産資源評価に求められる役割と実行可能性について考察した。

トンレサープ湖の内水面漁業資源は複数の大型魚種で漁業資源の悪化が起きている一方でCirrhinus spp.などの多獲魚では資源の増加がみられた。すなわち、全体として資源の減少が起きているとは考えられない。資源量が増加している種はコイ科の小型魚であることから、捕食魚である肉食魚の減少がこれらの魚種の増加につながったとも考えられる。いずれにしても、全体としては魚種の交代が起きており、その原因としては一部の魚種の過剰漁獲が考えられる。カンボジアの漁業管理は禁漁期の設定や使用漁具のサイズや目合の規制といった漁業規則のみで行われており、特定の漁業資源の悪化した魚種に対してその資源の回復を目的に漁業管理は殆ど行われてこなかった。今後漁業者の増大による漁獲圧の増大が起きれば、大型魚種や魚価の高い魚種の資源の悪化は更に進むと考えられた。

トンレサープ湖の漁業管理の例外的なケースとして、2004年末に資源悪化の危惧からC. micropeltesの養殖が禁止された。本研究の結果から同魚種ではトンレサープ湖では資源は回復していなかったが一部の付属湖においては漁獲量の回復がみられた。このことは、漁業管理の成果を測る上では水産資源評価をエリア別に行うことの重要性を示していた。また資源の悪化が示された3魚種は回遊のタイプや漁獲量の分布パターンも異なっており各魚種の特性に合わせた資源評価の必要性が示唆された。

一方、すでに一般的に共通認識とされている、水位変動と漁獲量、資源量の関係については、今回の調査結果から明瞭な結論は得られなかった。しかし、一部には、産卵期の水位変動と漁獲量の関係を示唆するデータもあった。こうした、関係を明確にとらえるためには、年級別の資源量、漁獲量のデータの解析が不可欠である。カンボジアの漁獲統計は、総漁獲量の把握のみを目的に行われているという側面が強い。しかしながら、今後、水管理と水産資源の関係を明瞭にとらえていく必要があるとするならば、小規模であっても、魚種別サイズ別漁獲量の集計など、より詳細な調査が必要になるであろう。そうした視点からは、カンボジアに対する水産開発援助としては、合理的で有効な漁獲統計システムの確立が急務であるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

カンボジア中央に位置するトンレサープ湖は東南アジア最大の湖であり,カンボジア国民の水産物消費の約6割を支えている.トンレサープ湖はトンレサープ河を通じてメコン河につながる.近年,人口と漁獲圧力の増加がトンレサープ湖内の水産資源の減少を招いているとする説がある.また,メコン河の水を利用した灌漑や水力発電は流域の経済発展の重要な要素であり,多くのダムが計画・建設されているが,それに対して,メコン河の流量の平準化がトンレサープ湖内の水産資源の減少をもたらすとする説がとなえられている.しかし,これらの説はいずれもトンレサープ湖内の水産資源の変動の定量的な分析結果に基づくものではない.こうした科学的分析の不在は,定量的分析の基礎となる漁獲資料とその収集システムに対する信頼性の低さに起因する.統計資料を吟味してトンレサープ湖の水産資源の状態を把握することは,メコン河流域開発にとっても喫緊の課題である.本研究では,統計資料の収集システムを末端までさかのぼり,データー集計の実態を精査し,個々のデーターを信頼性を吟味するとともに,収集された魚種別の漁獲量と漁法の関係を分析し,トンレサープ湖の主要漁獲対象種10種の資源評価を行った.

序章に続いて,第2章では,カンボジア水産局及びトンレサープ湖周辺5州で,漁獲記録の所在を調べるとともに,漁獲データーの収集方法について聞き取り調査をおこなった.その結果,トンレサープ湖周辺5州のうちプーサト州を除く4州で1995年以後の漁獲記録が保管されていた.それらのうち,占有漁業区フィッシングロット(ロット)で行われる大規模漁業のみが,聞き込み情報による推定値ではなく,漁業者自身が報告した実際の漁獲量の記録であった.また,バッタンバン州のロットNo. 2及びコンポントム州の各ロットにおいてはロット別に集計された魚種別漁獲量データーが保管されていた.

第3章では,資源評価のデーターとして信頼性が高いと思われた大規模漁業について,州別漁獲量の経年的な変動パターンから,分析対象種10種の漁獲量の分布を調べるとともに,各州の漁法について,漁獲努力量としての妥当な定量性を持つデーターを選び出した.その結果,詳細なロット別の漁獲量データの収集のできたコンポントム州では,単一の漁法,すなわちBamboo fence system(柵でロットを大きく囲い込み魚取りに誘導する漁法)あるいBarrage(河川で行う一種の簗)のいずれかのみが行われているロットが,それぞれ3つあることが明らかになった.これらは漁獲量とそれを漁獲した魚法の関係が明瞭なデーターと考えられた.これらのロットの漁獲量と漁獲努力量の相関関係を調べたところBamboo fence systemでは,最も多くの魚種でフェンスの長さと漁獲量との間に有意な正の相関関係がみられた.またBarrageにおいては,Barrageが設置される河川幅のみ回遊性魚種4種の漁獲量との間に有意な正の相関関係がみられた.これらのことからBamboo fence systemのフェンスの長さやBarrageの河川幅が漁獲努力量として適していると考えられた.

第4章では,前章までの結果を踏まえて分析対象種10種の資源評価を行った.漁獲量データーの入手できたトンレサープ湖周辺4州の総漁獲量には減少傾向はみられなかった.また,コンポントム州のロットについて,Bamboo fence systemのフェンスの長さやBarrageの設置される河川幅を努力量として求めたCPUEの動向を調べたところ,C. micropeltesやHampala spp.,Pangasius spp.のCPUEには減少傾向がみられた.一方,Cirrhinus spp.やC. microlepisでは漁獲量とCPUEに増加傾向がみられた.これらの傾向は,トンレサープ湖周辺4州の漁獲量の変動ともほぼ一致していた.また,CUPEの変動と水文環境との関係を調べたところ,いずれの魚種にも正の相関関係はみられなかった.

最終章においては,本研究の分析からトンレサープ湖の水産資源の状況について次のように結論した.トンレサープ湖の資源量は減少していないものの,漁獲圧によって魚種組成は,定住性の大型肉食魚が増加し,回遊性の小型魚が増加するというように,魚種交代が起きている.また,メコン河の水位変動の平準化が与える影響は魚種ごとに異なる.

以上,本研究は,メコン河流域開発上の未解決の問題であったトンレサップ湖の漁業資源の定量的な把握を初めて行ったものであり,その解析結果は,今後のメコン河の水管理に重要な情報を提供してるのみならず,開発途上国における水産資源の定量的把握に道を開くものである.よって審査委員一同は本研究を博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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