学位論文要旨



No 124722
著者(漢字) 今,孝悦
著者(英字)
著者(カナ) コン,コウエツ
標題(和) マクロベントス群集の生息場としてのマングローブ域の機能
標題(洋)
報告番号 124722
報告番号 甲24722
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3432号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農学国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒倉,壽
 東京大学 教授 小林,和彦
 東京大学 准教授 佐野,光彦
 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 准教授 河村,知彦
内容要旨 要旨を表示する

熱帯・亜熱帯の潮間帯には,マングローブ林と呼ばれる独特の植物群落が発達している.マングローブ林を中心とする水域から陸域にかけての一連の環境 (以下,マングローブ域) は,地球上で最も生産力の高い生態系のひとつといわれ,そこには多様で複雑な生物群集が形成されている.こうした群集は,二酸化炭素吸収,水質浄化,水産資源供給などを通じ,人類にさまざまな恩恵 (生態系サービス) をもたらすが,それらが持続的に発揮される機構には多くの不明な点が残されている.

マングローブ域において,マクロベントス群集は,生態系内の極めて重要な地位を占める生物群とされる.それらは,有機物分解を促すことで間接的に水質浄化に寄与し,また,自身が水産資源となることで直接的に生態系サービスを提供する.こうしたサービスが発揮され,継続される仕組みを解き明かすには,マクロベントス群集の形成・維持機構の解明が必要となるが,その知見は大いに不足している.

既往の研究から,マクロベントス群集はマングローブを餌資源として利用し,そうした群集の形成・維持には,マングローブの生産者としての機能が不可欠であるとされてきた.ところが,近年では,その反証も提示され,マングローブ域内の微細藻類の重要性も認識されている.一方,マングローブのエコシステムエンジニアとしての機能 (例えば,複雑な樹根構造が,捕食者からの避難場として,また,付着生物の生息基質として機能するなど) も,一層注目されつつあるが,その実証例は乏しい.すなわち,マクロベントス群集の形成・維持に資するマングローブの機能には,更なる検討の余地が残されている.

本研究では,マングローブの生産者として機能と,エコシステムエンジニアとしての機能という二つの観点に着目し,マングローブ域におけるマクロベントス群集構造の形成・維持機構を推察した.調査地は,タイ国南部に位置するトラン県シカオ水路周辺のマングローブ域とし,以下の調査を実施した.まず,調査地における基礎的知見を得るため,(1) マングローブ域の物理環境と,(2) マングローブ域のマクロベントス群集構造を把握し,次いで,そのような環境に生息するマクロベントス群集にとって,(3) マングローブが生産者として機能し得るのか,また,(4) エコシステムエンジニアとしてどのように機能するのかを検討し,(5) そうした機能によって成立するマクロベントス群集構造の形成・維持機構を推察した.

マングローブ域の物理環境

マングローブ域には,マングローブの有無,潮位の高低が異なる3つの微細生息場(水路,林内,裸地) が存在する.そのそれぞれが,どのような物理的特徴を有するのかを検討した.その結果,水路は,光量と底質の含水率がともに高く,これはマングローブの林冠を欠くことで直射光が得られ,干出時間が短いことで水分蒸発が抑制されたためと考えられた.マングローブを有する林内では,林冠による遮蔽効果のために光量が乏しく,それに伴って,底質の水分蒸発が抑えられ,高い含水率が保持されていた.また,裸地では,林冠を欠き,干出時間も長いことから,豊富な光量と低い含水率で特徴付けられた.このように,マングローブ域には,光環境と底質環境の異なる3つ微細生息場が存在することが明らかとなった.

マングローブ域のマクロベントス群集構造

マングローブ域には,物理環境条件の異なる微細生息場が存在し,それぞれにどのようなマクロベントス群集構造が形成されているのかを調査した.その結果,すべての微細生息場で表在性ベントスが優占し,また,その摂餌様式は,底表堆積物食者,次いで懸濁物食者が大勢を占めていた.それらの種数,個体数,および湿重量は,雨季に増加し,これは,雨季の湿潤な底質環境と,新規加入個体の増加によってもたらされるものと推察された.また,微細生息場間での差異をみると,その種組成は,微細生息場の間で明瞭に異なり,また,個体数と湿重量が,裸地で最も多かった.これは,それぞれの微細生息場で,利用されるマングローブの機能が異なり,それに依拠したマクロベントス群集構造が,微細生息場ごとに形成されているためと考えられた.

マングローブの生産者としての機能

マクロベントス群集の餌環境と,実際に利用される餌起源を推定し,マングローブの生産者としての機能を検討した.

マングローブ域には,底表堆積物食者と懸濁物食者が優占し,これらは,環境中の懸濁態・堆積有機物を餌として利用する.それらの餌環境を把握するため,3つの微細生息場で,懸濁態・堆積有機物を定量し,それらを構成する有機物の起源を推定した.その結果,有機物量は,懸濁態・堆積態のいずれも微細生息場間で違いが認められず,すべての微細生息場に一様に分布していた.それらの由来をみると,大部分がマングローブ由来のデトリタスで構成され,それは堆積態・懸濁態の両形態をとっていた.しかし,懸濁態有機物には浮遊性微細藻類も存在し,裸地の堆積有機物には,底生微細藻類も僅かながらに含まれていた.

次いで,そうした餌環境の中で,マクロベントスが,実際にいずれの餌資源を利用するのかを検討した.その結果,微細生息場間で,マクロベントス群集が利用する餌資源は,明瞭に異なることが判明した.水路と林内では,主にマングローブ由来のデトリタスと浮遊性微細藻類が利用され,裸地では,主に浮遊性微細藻類と底生微細藻類が利用されていた.ほぼ微細藻類のみが利用される裸地は,マクロベントスの個体数と湿重量が最も豊富であり,この微細生息場の動物相は微細藻類によって維持されている可能性が高いと推察された.

以上のことから,マクロベントス群集にとって,マングローブは生産者として機能し得るが,それは,水路と林内に限定されたものであることが示唆された.

マングローブのエコシステムエンジニアとしての機能

マングローブの樹根構造が,捕食者からの避難場として果たす役割と,マングローブの物理構造が,マクロベントス群集の棲み込みに及ぼす影響を調べ,マングローブのエコシステムエンジニアとしての機能を検討した.

まず,マングローブの樹根構造が,マクロベントスにとって捕食者からの避難場になり得るのかを,捕食者排除実験と,室内実験にて検証した.捕食者排除実験の結果,すべての微細生息場で捕食者排除ケージの種数,個体数,および生物量が増加した.これは,樹根の存在する林内であっても,それが存在しない裸地・水路と同様に高い捕食圧があったことを示唆する.また,室内実験の結果,マクロベントスは捕食の危険の増大によって,樹根状の構造物への選好性を高めることはなく,また,その構造物の有無で,マクロベントスへの被食率も変わらなかった.このことから,マングローブの樹根は,必ずしも捕食者からの避難場として機能しないことが示唆された.

次いで,マングローブの物理構造が,マクロベントス群集に及ぼす影響を検討した.林内と同等潮位に位置する裸地に,樹根構造と日陰を人為的に設置し,その処理によって増減するマクロベントスの種数と個体数を調査した.その結果,マクロベントスの種数と個体数は,日陰区と混合区 (構造と日陰の混合) で増加した.そうした増加は,林内の優占種が移入したのに加え,裸地の優占種が個体数を減じずに,むしろ増加したことに起因すると考えられた.これらの実験区では,日陰の存在によって,底質の表面温度が低く,含水率も高く保たれていた.このことから,マングローブ域のマクロベントス群集は,マングローブの日陰が提供する低温で湿潤な環境を選好するものと推察され,その傾向は林内の種のみならず,裸地の種にも認められた.

すなわち,マングローブの樹根構造は,必ずしも避難場を提供し得ないが,林冠が低温で湿潤な底質環境へと生息空間を改変し,それが,マクロベントス群集の棲み込みを促進させていることが示唆された.

マクロベントス群集構造の形成・維持機構

マングローブは,それぞれの微細生息場で異なる役割を演じていた.マンローブが存在する林内では,マングローブが餌資源と空間資源を提供し,マクロベントス群集にとって,その機能は不可欠なものと推察される.一方で,マングローブを欠く水路でも,餌資源として利用され,裸地では,ほぼ利用されないものの,潜在的には,マングローブが提供する日陰が選好され得た.このように,微細生息場間で,マクロベントスに利用されるマングローブの機能が異なり,それぞれに独自のマクロベントス群集構造が形成されていることが明らかとなった.

審査要旨 要旨を表示する

熱帯・亜熱帯の潮間帯には,マングローブ林と呼ばれる独特の植物群落が発達している.こうした群集は,二酸化炭素吸収,水質浄化,水産資源供給などを通じ,人類にさまざまな恩恵をもたらすが,それらが持続的に発揮される機構には多くの不明な点が残されている.

マングローブ域において,マクロベントス群集は,生態系内の極めて重要な地位を占める生物群とされる.既往の研究では,マクロベントス群集はマングローブを餌資源として利用し,そうした群集の形成・維持には,マングローブの生産者としての機能が不可欠であるとされてきた.ところが,近年では,その反証も提示され,マングローブ域内の微細藻類の重要性も認識されている.一方,マングローブのエコシステムエンジニアとしての機能 (例えば,複雑な樹根構造が,捕食者からの避難場として,また,付着生物の生息基質として機能するなど) も一層注目されつつあるが,その実証例は乏しい.本研究では,マングローブの生産者として機能と,エコシステムエンジニアとしての機能という二つの観点に着目し,マングローブ域におけるマクロベントス群集構造の形成・維持機構を推察した.調査は,タイ国南部に位置するトラン県シカオ水路周辺のマングローブ域で行った.

序章に続いて第2章では,マングローブ域内の微細な生息場の違いに注目し,マングローブ林内,水路,裸地のあいだで,光環境,底質環境に違いがあることを明らかにした.続いて第3章では,それら微細生息場のベントス集団の違いについて調査を行い.すべての微細生息場で表在性ベントスが優占すること,また,その摂餌様式は,底表堆積物食者,次いで懸濁物食者が大勢を占めていること,それらの種数,個体数,および湿重量は,雨季に増加することを明らかにした.これは,雨季の湿潤な底質環境と,新規加入個体の増加によってもたらされるものと推察された.また,その種組成は,微細生息場の間で明瞭に異なり,また,個体数と湿重量が,裸地で最も多かった.

第4章では,安定同位体比の比較によって,マクロベントス群集の餌環境と,実際に利用される餌起源を推定し,マングローブの生産者としての機能を検討した.その結果,有機物量は,懸濁態・堆積態のいずれも微細生息場間で違いが認められず,すべての微細生息場に一様に分布していた.それらの由来をみると,大部分がマングローブ由来のデトリタスで構成され,それは堆積態・懸濁態の両形態をとっていた.しかし,懸濁態有機物には浮遊性微細藻類も存在し,裸地の堆積有機物には,底生微細藻類も僅かながらに含まれていた.微細生息場間で,マクロベントス群集が利用する餌資源は,明瞭に異なっていた.すなわち.水路と林内では,主にマングローブ由来のデトリタスと浮遊性微細藻類が利用され,裸地では,主に浮遊性微細藻類と底生微細藻類が利用されていた.以上のことから,マクロベントス群集にとって,マングローブは生産者として機能し得るが,それは,水路と林内に限定されたものであることが示唆された.

第5章ではマングローブ林のエコシステムエンジニアとしての機能を調べた.まず,捕食者からのシェルターとしての機能については,捕食者排除実験の結果,水路,林内,裸地のいずれも高い捕食圧があり,調査地域のマングローブの根の構造等のシェルターとしての機能は弱いものと推測された.また,室内実験の実験でも,マングローブの根の構造が,被食率を低減させることはなかった.一方,林内と同等潮位に位置する裸地に,樹根構造と日陰を人為的に設置した実験では,マクロベントスの種数と個体数は,日陰区と混合区 (構造と日陰の混合) で増加した.そうした増加は,林内の優占種が移入したのに加え,裸地の優占種が個体数を減じずに,むしろ増加したことに起因すると考えられた.これらの実験区では,日陰の存在によって,底質の表面温度が低く,含水率も高く保たれていた.

以上の結果より,総合考察では以下のように結論した.すなわち,マングローブは,それぞれの微細生息場で機能が異なり,マンローブが存在する林内では,マングローブが餌資源と空間資源を提供している.マングローブを欠く水路でも,餌資源として利用され,裸地では,ほぼ利用されない.しかし,潜在的には,マングローブが提供する日陰は多くのベントスに選好される.このように,微細生息場間で,マクロベントスに利用されるマングローブの機能が異なり,それぞれに独自のマクロベントス群集構造が形成されている.

以上,本研究は,マングローブ域の微細生息場の違いに着目し,その生育場ごとにマングローブ林の機能を初めて明らかにしたものであり,その解析結果は,今後,熱帯域での沿岸環境の管理保全を考える上で,きわめて重要な情報を提供している.よって審査委員一同は本研究を博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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