学位論文要旨



No 124729
著者(漢字) 笠原,里
著者(英字)
著者(カナ) カサハラ,サトエ
標題(和) 千曲川中流域で繁殖する鳥類の繁殖数に増水が与える影響の検討
標題(洋)
報告番号 124729
報告番号 甲24729
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3439号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 加藤,和弘
 東京大学 教授 樋口,広芳
 東京大学 准教授 石田,健
 信州大学 教授 中村,浩志
 立教大学 教授 上田,恵介
内容要旨 要旨を表示する

1章研究の背景、目的、構成

撹乱が生物群集に及ぼす影響については、初期の研究では撹乱が生物の生息環境を破壊することによる負の影響に主要な焦点が当てられていた。しかし、現在では、撹乱が時間的、空間的、もしくはその両方において環境の不均一性を創出、もしくは維持することを通して、生物にとって重要なメカニズムであることは、多くの生態学者や保全生物学者に認識されている。河川や氾濫原は陸域と水域の生態系の接点であり、地球上においてもっとも動的で多様な、また複雑なハビタットの1つである。河川生態系において、増水によってもたらされる生物学的、物理学的変動は、河川生態系の構造や機能を特徴づける重要な要因である。しかし、人間の生活を中心にした治水や利水は、例えばダムによる流量調節などを通して増水の発生を抑制し、結果として河川を生息場所としている生物群集を改変してきた。多くの生態学者が、現在、回復させる必要性が最も大きい生態系の1つが河川であるとみなしている。河川本来の機能や性質の回復のためには、河川生態系にとっての撹乱となる増水が及ぼす影響や、河川生態系における増水の役割を把握することが重要であると考えられる。鳥類は植生との関係が密であり、また食物として魚類や昆虫など多様な動物を利用することから、対象河川の特徴や環境の変化を評価する際に有用な指標となると考えられる。しかし、河川ではその撹乱の頻度の高さにもかかわらず、河川の鳥類群集に対する撹乱の影響に関する長期間な研究はほとんどない。

本研究では自然河川の流量変動を維持した長野県の千曲川中流域で繁殖鳥類の変化を調査した。この調査期間の初期に、対象地域において記録的な規模の増水が生じたため、増水の前後での同一地域の繁殖鳥類種組成や繁殖密度を比較する貴重な機会が得られた。本研究の第1の目的は、既存の4年間の研究を含め、洪水の前後合わせて11年間の記録を用いて、千曲川中流域における繁殖鳥類が調査期間中にどのように変化してきたかを、増水の発生ならびにその結果生じた植生変化と関連付けながら明らかにすることである。第2の目的は、増水によって繁殖密度が変化したと考えられるいくつかの種に着目して、種の繁殖が増水を含むどのような要因によって影響を受けているのかを明らかにすることである。これらを踏まえ、最終的に河川中流域における繁殖鳥類の種構成や繁殖数に対する増水の影響を評価することを試みた。

2章千曲川中流域における繁殖鳥類の11年間の変化

長野県を流れる千曲川の中流域において調査された11年間の鳥類の繁殖密度の記録から、同地域における繁殖鳥類が調査期間中にどのように変化してきたかを、増水の発生ならびにその結果生じた植生変化と関連付けながら明らかにすることを目的とした。増水によって繁殖密度が変化した種に注目し、それらの種について、種の繁殖密度と植生の面積もしくはそれ以外の関連する環境要因との対応を検討した。

千曲川の中流域における11年間の調査から、繁殖鳥類の種組成の変化が確認され、その変化は増水によって生じた植生の変化に対応していることが示された。増水によって繁殖密度が増えたのは砂礫地や崖を利用して繁殖する水域の鳥類であった。その一方で低木群落やヨシ群落を利用して繁殖する陸域の鳥類は減少した。この影響は定期的に生じた増水によって長期間に渡った。しかし、それぞれの種の繁殖密度における長期的な変動は種が利用する植生変化だけでは十分に説明することができなかった。したがってそれぞれの種の繁殖生態や環境への選好性、同所的に繁殖する種との競争関係についてより詳細な情報を得る必要があると考えられた。調査の対象として、増水によって繁殖密度が増加した種であるカワセミとヤマセミ、イカルチドリ、コチドリとイソシギ、また増水によって繁殖密度が減少したオオヨシキリとモズを選出した。

3章カワセミとヤマセミの営巣場所と採食場所の比較

千曲川の中流域で同所的に繁殖を行うカワセミとヤマセミについて、営巣環境と採食環境の重複もしくは分離の程度、種間関係の有無を明らかにすることを試みた。カワセミとヤマセミは、両種ともに河川の崖に横穴を掘って営巣し、魚類を主食とする。類似した嘴の形状をもち、採食生態も共通している種である。

結果として、カワセミとヤマセミの間では営巣環境は類似していた一方で採食環境の分離が確認された。千曲川の中流域において、両種の利用する営巣崖の高さの範囲は大きく重複していたものの、ヤマセミはカワセミよりも高い崖に営巣する傾向が見られた。採食場所では、カワセミ類二種の間で体サイズに由来した採食場所の分離が生じていることが示された。二種の問に種間関係はほとんど見られなかった。両種の共存において、両種の営巣を可能にする崖の存在と多様な採食場所の存在は重要であると考えられ、それらの形成と維持には増水の寄与が重要であると考えられた。

4章イカルチドリ、コチドリ、イソシギの営巣環境と種間関係

砂礫地で繁殖するイカルチドリ、コチドリ、イソシギに対して、営巣環境の重複と分離の程度、種間競争の有無と強度について明らかにすることを試みた。対象とした三種は砂礫地の地上に営巣し、水際で採食を行う共通の資源を利用する種である。

結果として、これらの三種の間には利用環境の重複の程度に関連すると考えられる種間競争があることが示された。営巣環境が異なると考えられたイソシギとチドリニ種の間では種間競争の程度は低く、営巣環境が部分的に重複すると考えられたイカルチドリとコチドリの間では種間競争の程度は高かった。そして、優位な種であるイカルチドリの存在は劣位の種であるコチドリの繁殖地への定着に負の影響を与える可能性が示唆された。しかし、これらの種間競争の程度は増水の前後で異なり、増水後に砂礫地の面積が拡大した状況下では緩和される傾向が得られた。したがって、増水はこれらのシギチドリ三種に十分な量の営巣場所となる砂礫地や採食場所といった繁殖資源を提供し、三種の種間関係を緩和することを通して、これらの種の同所的な繁殖を可能にする重要なメカニズムであると考えられた。

5章オオヨシキリの営巣場所としてのヨシ群落とオギ群落の比較

ヨシもしくはオギ群落で営巣するオオヨシキリにおいて、営巣環境の面からそれぞれの群落に対するオオヨシキリの繁殖場所としての価値を検討した。そのためにヨシとオギの群落におけるオオヨシキリの繁殖時期と繁殖成績、また、二つの群落を構成する植物の季節的な生長の程度を比較した。

結果として、オオヨシキリのヨシ群落に対する選好性が示された。ヨシ群落におけるオオヨシキリの繁殖はオギ群落よりも早く開始され、これはヨシの生長の速さに由来すると考えられた。したがって、オオヨシキリにとってヨシ群落はオギ群落よりも好適な営巣場所であると考えられるが、ヨシ群落は相対的に増水の影響を受けやすい可能性があり、同時に増水によって生じる開けた空間に侵入する外来性つる植物のアレチウリが繁茂することによってヨシの生長が抑制される可能性があると考えられた。

6章千曲川中流域で繁殖するモズの繁殖に外来性つる植物アレチウリが及ぼす影響

近年千曲川では一年生のつる性の外来植物であるアレチウリの分布の拡大と繁茂が問題となっている。アレチウリは、その丈夫なつるで草本植物や木本植物に巻きつき、枯死することで藪状の環境を形成する。この藪はモズによって営巣に利用されるが、その一方でアレチウリが地上を覆うことは地上採食を主な採食方法とするモズに負の影響を与える可能性がある。そこで、モズの繁殖に対するアレチウリの影響を、営巣環境、採食環境、また調査地におけるモズの渡りの様式の視点から検討した。

結果として、枯れたアレチウリの藪は、モズに営巣場所を提供する一方で、モズの採食環境に負の影響を与える可能性が示唆された。枯れたアレチウリの藪に営巣した個体の繁殖成績は同時期の他の植物における営巣個体の繁殖成績に劣らなかった。しかし、つる性のアレチウリが地上へ繁茂して枯死することは地上における植物体の被覆率を増加させる可能性があり、植物体の被覆を避けて採食する傾向のあるモズの食物へのアクセス性を低下させることが示唆さされた。また、枯死したアレチウリによって繁殖に影響を受けるのは早い時期に繁殖を開始し、周年生息する個体であると考えられ、この時期の繁殖の個体の減少は同地域における長期的な繁殖個体数の減少をもたらす可能性があると考えられた。

7章総合考察

一連の研究から、増水の果たす役割は多様な生息環境の形成に寄与し、同所的に生息する種の間の種間競争を緩和することを通して、とりわけ水域の鳥類の豊富さや多様さに対して重要であることが示された。すなわち、増水は河川らしさを創出し、維持するために不可欠な機能であると考えられた。その一方で増水によって創出される開けた空間には外来植物が侵入しやすく、陸域の鳥類では増水とあわせてアレチウリの繁茂によって、営巣場所や採食場所の質の低下や消失の影響を受けている可能性が示唆された。増水がもたらすこの水域と陸域の生息環境のトレードオフは、増水が河川生態系に果たす機能を理解する上で重要であると考えられる。結論として、大規模な増水は人間活動に負の影響を与えることから、増水の発生に対する被害の抑制は今後も河川管理において重要な問題であるが、しかし、生息環境が減少しつつある特定の鳥類の繁殖や生物の多様性に貢献する増水の役割を時期や規模とともに考慮すること、同時に外来植物の侵入を防ぎ駆除することは、今後の河川生態系の維持や回復において重要であると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

河川は、地球上においてもっとも動的で多様なハビタットの一つである。河川生態系において、増水によってもたらされる変動は、河川生態系の構造や機能を特徴づける重要な要因である。しかし人間は、例えばダムによる流量調節を通して増水の発生を抑制し、結果として河川の生物群集を改変してきた。

本研究は、自然の流量変動が保たれている長野県の千曲川中流域で、他の研究者による4年とあわせて連続11年間にわたって繁殖鳥類の変化を調査し、増水が鳥類群集に及ぼす影響を明らかにすることを目指したものである。加えて、その過程で増水により繁殖密度が増加した種としてカワセミ、ヤマセミ、コチドリ、イカルチドリ、イソシギを、減少した種としてオオヨシキリ、モズを選び、これらの種の繁殖密度の増減に影響すると考えられる要因の詳細な検討を行っている。

第1章で関連研究のこれまでの状況をまとめた上で、第2章では11年間の調査結果から増水と鳥類の関係を検討している。その結果、繁殖鳥類の種組成は増水に伴う植生の変化に対応して変化していたことが示された。増水によって繁殖密度が増えたのは、砂礫地や崖を利用して繁殖する水域の鳥類であった。その一方で低木群落やヨシ群落を利用して繁殖する陸域の鳥類は減少した。

第3章から第6章では、個々の種についての研究成果が報告されている。第3章で取り上げられたカワセミとヤマセミは、分類学的にも近縁であり、両種ともに河川の崖に横穴を掘って営巣し、魚類を主食とする。資源利用における両種の競合が生息状況に影響する可能性が考えられたが、調査の結果、カワセミとヤマセミの間では営巣環境は類似していた一方で、採食環境は異なり、種間の相互作用はほとんど認められなかった。両種の共存においては、営巣の場となる崖の存在と、両種の採食場所を異ならせしめる多様な採食場所の存在が重要であり、増水はそれらの形成と維持に関与していると考えられた。

第4章では、砂礫地に営巣し水際で採食するイカルチドリ、コチドリ、イソシギが取り上げられ、三種の間には利用環境の重複に関連すると考えられる種間競争があることが示された。営巣環境が重複すると考えられたイカルチドリとコチドリの間では種間競争の程度が高く、優位なイカルチドリの存在が劣位のコチドリの繁殖に負の影響を与える可能性が示唆された。しかし、増水後に砂礫地の面積が拡大した年には種間競争は弱く、増水が砂礫地や採食場所といった繁殖資源を提供し、種間関係を緩和することを通して、これらの種の同所的な繁殖を可能にする可能性が示唆された。

第5章ではヨシ群落もしくはオギ群落で営巣するオオヨシキリが取り上げられ、オオヨシキリは営巣場所としてヨシ群落をより選好することが示された。ヨシ群落におけるオオヨシキリの繁殖はオギ群落よりも早く開始され、これはヨシの生長の速さに由来すると考えられた。ヨシ群落は相対的に増水の影響を受けやすい可能性があり、同時に増水によって生じる開けた空間に侵入する外来性つる植物のアレチウリが繁茂することによってヨシの生長が抑制される可能性もまた認められた。

第6章では、このアレチウリがモスの繁殖に与える影響についての検討がなされた。枯れたアレチウリの藪はモズに営巣場所を提供する一方で、モズの採食環境に負の影響を与える可能性が示唆された。枯れたアレチウリの藪に営巣した個体の繁殖成績は同時期の他の植物における営巣個体の繁殖成績に劣らなかった。しかし、つる性のアレチウリが地上へ繁茂して枯死することは地上における植物体の被覆率を増加させる可能性があり、植物体の被覆を避けて採食する傾向のあるモズの食物へのアクセス性を低下させることが示唆された。

以上一連の研究から、増水は河川およびその水辺における多様な生息環境の形成に寄与し、とりわけ水域の鳥類にとっての営巣場所や採食場所を供給する結果、これらの種、特に種間競争において劣位の種の豊富さや多様さに対して重要であることが示された。

河川の鳥類群集に対する増水の影響についての調査研究は、これまで、海外を含めてもほんの少数の事例しか報告されていない。11年もの長期にわたって調査がなされた例は皆無である。本研究は、河川の鳥類群集に対して増水がどのように影響するかを、信頼性の高い長期間のデータに基づいて示すことに成功した最初の事例であると思われる。

河川および河畔域は、その生物多様性の保全や再生のためのフィールドとして、近年注目されている。本研究で得られた知見は、人為的な流量調節が河川の鳥類群集にどのような影響を与えるかを示唆し、また、その影響の緩和のために何がなされるべきかを考えるための基礎を提供する重要なものである。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文としての価値を有するものと認めた。

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