学位論文要旨



No 124733
著者(漢字) 松﨑,慎一郎
著者(英字)
著者(カナ) マツザキ,シンイチロウ
標題(和) 日本の湖沼における導入型コイの生態的・遺伝的影響の評価
標題(洋) Assessing ecological and genetic impacts of non-native domesticated common carp (Cyprinus carpio) in Japanese lakes
報告番号 124733
報告番号 甲24733
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3443号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 教授 高村,典子
 東京大学 准教授 宮下,直
 東京大学 准教授 吉田,丈人
 東京大学 教授 西田,睦
内容要旨 要旨を表示する

序論

世界経済がグローバル化するに伴い,外来種の意図的・非意図的導入が増加し,生物学的侵入は,生息場所の喪失・分断化,富栄養化,乱獲とともに生物多様性を脅かす主要な要因となっている.生物多様性,生態系,生態系サービスへ大きな影響を及ぼす種は侵略的外来種と呼ばれ,地球規模でも地域においても,それらが引き起こす問題が深刻化している.

侵略的外来種は様々なメカニズムを通して生態系に複雑な影響は与える.その中で,最近注目されつつあるのは,エコシステムエンジニアリングを介した生態系の劇的な改変および浸透交雑や外来遺伝子型の侵入(cryptic invasion)による在来種への遺伝的な影響である.それらの影響は,捕食や競争など,従来から関心がもたれていた直接的な影響に比べて,その実態や機構の解明および予測が難しい.

家畜化された飼育生物の野外への定着と野生化は,侵略的な外来種を生態系にもたらす主要な経路のひとつとして注目されている.飼育生物は,人為的な選択圧と飼育環境による選択や順化により,同種の野生個体群とは遺伝的・生態学的形質を異にする.野生化に際して,そのことがもたらす生態的・遺伝的影響に関しては,必ずしも十分に理解されているとはいえない.

淡水生態系は,侵略的外来種の導入にとりわけ脆弱であり,他の要因の影響も相俟って世界的にその不健全化が著しい.魚類の導入による在来種や生態系へ影響については,これまで多くの研究が実施されているが,日本の淡水生態系における主要な侵入魚類であるコイに関しては知見が少なく,その侵入実態と影響の解明が課題となっている.

コイ(Cyprinus carpio, L)は,日本人にとって最も身近な魚であるが,日本の自然水域には,在来系統(在来型)だけでなく,複数のユーラシア大陸由来の飼育系統(導入型)およびそれらの交雑個体が混在して同所的に生息していることが遺伝子解析によって明らかにされている.水産有用魚として放流される導入型が野生化し,優占している水域もある.放流は,その生態的・遺伝的影響が十分に評価されることなく実施されているが,コイは,水質の悪化や水生植物の減少など生態系への影響の甚大さからIUCN世界侵略的外来種ワースト100に選定されている.

本研究では,日本のコイの複雑な遺伝的現状を保全生態学の観点から把握・整理した上で,どのようなコイの系統が侵略的な外来種として振る舞う可能性があるか,また,浅い湖沼の生態系や在来型コイの個体群にどのような生態的・遺伝的影響を及ぼす可能性があるかを評価することを目的とした.

第2章 導入型との交雑による在来型の生息場所と餌資源利用の変化

茨城県霞ヶ浦から69匹のコイを捕獲し,個体ごとにその遺伝的特性を5つの核ゲノムマーカーにおける交雑度(0‐10スコア,0:純系導入型,10:純系在来型)によって評価した.同時に,生息場所と餌資源の利用の変化を調べるために,筋肉の炭素窒素安定同位体比(δ(13)C,δ(15)N)を測定し,交雑度との関係をしらべた.

捕獲個体の中には遺伝的に純系な在来型は認められず,さまざまな交雑度を示す個体が含まれていた.それらの交雑度とδ(15)Nには相関関係がみられなかったが,δ(13)Cには,交雑度が高いほど低くなる線形関係が認められた.すなわち,遺伝的に在来型に近いものほど沖帯の食物網を利用する割合が高いことが示唆され,それは,餌資源の利用割合を推定する混合モデル(IsoSource)によって確かめることができた.コイの利用する代表的な餌資源4つ(ユスリカ,プランクトン,テナガエビ,付着藻類)の同位体比を測定し,利用割合をモデルで推定したところ,在来型に近い遺伝的特性を示す個体は,沖帯のプランクトンやユスリカの利用割合が高く,沿岸の付着藻類の利用割合は低かった.これらの結果は,導入型との交雑によって,在来型に特有の機能的特性が失われることを示唆する.一方で,遺伝的にみて導入型に近いグループはδ(13)Cのバラツキが大きく,機能的な異質性,すなわち,飼育品種に近いものから,野生化して野外環境に適応したものまで,機能特性の異なるものが混在していたと解釈できる.

第3章 野生化した導入型と飼育品種である導入型との形態・行動形質の比較

家畜化された飼育品種は,人為的な選択圧と飼育環境への適応・順化によって,野外では適応度が必ずしも高くはないと考えられる.しかし,飼育品種のコイが野外で定着,野生化している.そこで,それらのコイは野外に適応した形態・行動形質を獲得しているという仮説をたて,実験と観察による検証を試みた.

琵琶湖に野生化している導入型コイに由来する系統および飼育品種である導入型の2系統(野外を一度も経験していない食用コイとニシキゴイ)の3系統の間で,外部形態,遊泳力のある餌とない餌の捕食効率,生息利用水深,餌の探餌能力,対捕食者行動を比較した.その結果,野生化した導入型は,飼育品種に比べ,体高が低く流線形で,遊泳力のある餌(メダカ・エビ)の捕食率が高く,深い場所を好み,高い警戒心・探餌能力・捕食者認識能力をもつことが示された.すなわち,放流に由来する導入型の野外生活への適応が示唆されたが,それに至る遺伝生態学的プロセスにおいては,自然選択とともに,在来型との交雑が関与している可能性がある.適応へのプロセスにおいて異なる段階にある個体が混在していると考えれば,導入型のδ(13)Cのバラツキ(第2章)も容易に説明できる.

第4章 侵略的エンジニア種コイとザリガニの生態系影響の比較-実験とメタ分析-

飼育系統の導入型コイの野外環境への適応が示唆された(第3章)が,それら野生化コイが水質や沈水植物などの浅い湖沼生態系へどのような影響を与えるかを,隔離水界(2m×2m)を用いた野外操作実験とメタ分析によって評価した.

実験では,野生化した導入型コイを用い,野外における生息密度の範囲内の4段階の密度の実験区を設定した.また,導入型コイの生態的影響の特徴を際立たせるために,コイと同様に代表的な侵略的エンジニア種であるアメリカザリガニ(Procambarus clarkii,以下ザリガニ)を対照として,その影響を比較した.その結果,導入型コイもザリガニも,シードバンクからの沈水植物の実生の発生を抑制したが,そのメカニズムは異なることが示された.すなわち,ザリガニは切断による直接的攪乱により直接的に,それに対してコイは植物プランクンや懸濁物の増加を介した透明度の低下によって間接的に,沈水植物を減少させた.その影響は,低密度区においても顕著なほど甚大なものであった.24の既存研究をもとにしたメタ分析においても,導入型コイは沈水植物やベントスに負の影響を及ぼし,懸濁物・植物プランクン・動物プランクトン・栄養塩には正の影響を及ぼすことが示された.

実験とおよびメタ分析の結果から,導入型コイは水質を改変し,間接的に沈水植物の光利用性を低下させるエンジニア効果をもたらすことが明らかになった.すなわち,浅い湖沼へのコイの放流は,水草が優占する透明度の高い系から,植物プランクトンが優占する濁った系へのレジームシフトの引き金になる可能性が示唆された.

第5章 コイの底泥攪乱と栄養塩排出が水質,栄養塩循環および群集構造に与える影響

放流される飼育系統の導入型がエンジニア効果を通じて水質や沈水植物に影響を与える影響のメカニズムを特定するために,底泥攪乱(泥の巻き上げ)と栄養塩排出(尿や糞)の相対的な重要性を,第4章で用いた系統と同じ導入型コイを用い,(1)コイの存在,(2)泥へのアクセスの可否(水中にネットを張り制御)を操作した隔離水界実験を実施した.

泥へのアクセスの可否にかかわらず,コイ導入区では,植物プランクトンが増加し,透明度が低下し,沈水植物は消失した.実験に用いた比較的小さいサイズの導入型では,底泥攪乱よりも栄養塩排出による効果のほうが大きいと考えられた.

結論

本研究は,野生化した導入型系統(在来型との交雑個体を含む)が侵略的な外来種として振る舞う可能性があることを示した.野生化した導入型コイは,エンジニア効果を通して浅い湖沼生態系全体を大きく改変し,レジームシフトを引き起こす可能性が示された.また,交雑を通した遺伝的な効果によって,在来型コイの機能的役割を変化させることも示唆された.日本のコイの遺伝的現状は極めて複雑であるが,2007年には,琵琶湖産在来型は,レッドリスト(地域個体群)に記載された.今後,在来型個体群や淡水生態系の保全・再生を進めていく上で,さらなる基礎生態学的・遺伝学的な情報の蓄積に加え,コイを含む水産有用魚の無秩序な放流の見直し,純系在来型を親とした繁殖プログラムの確立など,総合的かつ長期的なマネージメントが望まれる.

審査要旨 要旨を表示する

世界経済がグローバル化するに伴い,生物多様性や生態系に甚大な影響を及ぼす侵略的外来種の問題が深刻化している.侵略的外来種はさまざまなメカニズムを介して生態系に複雑な影響を与えるが,最近では,エコシステムエンジニアリングとして劇的に生態系を改変する効果や浸透交雑等を介した遺伝的な影響などに注目が集まっている.これらの影響は,捕食,寄生,競争など,従来から関心がもたれていた影響に比べて,実態の把握も機構の解明も難しい。家畜化された飼育生物の野生化は,生態系に侵略的外来種をもたらす主要な経路のひとつであるが,人為選抜と飼育によって選択された形質が野生化に及ぼす影響や野生化に際しての自然選択の効果などについては,必ずしも十分に理解されているとはいえない.淡水生態系は,侵略的外来種の導入にとりわけ脆弱であり,魚類の導入による在来種や生態系へ影響についてはこれまでにも多くの研究が実施されている。しかし,日本の淡水生態系におけるコイ(Cyprinus carpio, L)に関しては知見が少なく,侵入実態と影響の解明が課題となっている.

日本の自然水域には,在来系統(在来型)だけでなく,複数のユーラシア大陸由来の飼育系統(導入型)およびそれらの交雑個体が混在して同所的に生息している.申請者は,野外および室内での実験,遺伝解析,メタ分析など多様な手法を組み合わせ,1)複雑な遺伝的現状を核遺伝子マーカを用いて「在来度」(雑種における在来種由来の遺伝子の優占度合)という指標で把握した上で,2)侵略的外来種としての生態的な特性と在来度との関係,および,3)浅い湖沼の生態系や在来型コイの個体群への生態的・遺伝的影響を分析・評価した。

申請者は,茨城県霞ヶ浦から69匹のコイを捕獲し,個体ごとにその遺伝的特性を5つの核ゲノムマーカーにおける交雑の度合いを在来度(0-10スコア,0:純系導入型,10:純系在来型)によって評価し,同時に筋肉の炭素窒素同位体比(δ13C,δ15N)を測定して生息場所と餌資源の利用を分析した。捕獲個体の中には純系の在来型は認められず,さまざまな在来度の個体が含まれていたが,在来度が高いほどδ13Cが低くなる関係が認められ,純系の在来型に近いものほど沖帯の餌を利用する割合が高いことが示唆された。混合モデル(IsoSource)による各種餌資源の利用割合推定からもこのことが支持された.すなわち,導入型との交雑は,餌利用に関するコイの機能的特性の変化をもたらしている可能性が示された.

琵琶湖の野生ゴイ(在来度0-6),野外を一度も経験していない食用コイ(在来度0-4)およびニシキゴイ(在来度0-2)の3つのグループ間で,外部形態,遊泳力のある餌とない餌の捕食効率,生息利用水深,餌の探餌能力,および対捕食者行動を比較した。野生ゴイは,完全飼育グループに比べて,体高が低く流線形で,遊泳力のある餌の捕食率が高く,深い場所を好み,高い警戒心・探餌能力・捕食者認識能力をもつことが示され,主に放流に由来すると推定される野生ゴイの野外生活への適応が示唆された

導入型遺伝子をもつこのような野生ゴイが水質や沈水植物などの浅い湖沼生態系へどのような影響を与えるかを,隔離水界を用いた野外操作実験とメタ分析によって評価した.コイは植物プランクンや懸濁物の増加を介した透明度の低下によって間接的に沈水植物を減少させることが判明した.その影響は,コイの密度が低くとも顕著であった.24の既存研究をもとにしたメタ分析においても,導入型コイは沈水植物やベントスに負の影響を及ぼし,懸濁物・植物プランクン・動物プランクトン・栄養塩に統計的に有意な正の影響を及ぼしていたことが示された.すなわち,導入型コイ(雑種も含む在来度の低いコイ)は水質を改変し,間接的に沈水植物の光利用性を低下させるエンジニア効果をもたらすことが明らかになった.したがって,浅い湖沼への導入型コイもしくはその雑種の放流は,水草が優占する透明度の高い系から植物プランクトンが優占する濁った系へのレジームシフトの引き金になる可能性が示唆された.

申請者は,このように,多様な研究アプローチを駆使して,導入型コイとその雑種が生態系に与える潜在的影響の分析・評価を試み,先駆的な研究成果と社会的に有用な知見を得た。ここで得られた知見は,今後,コイの放流について考える上で重要な示唆を与えるものである。したがって,本研究は,学術的にも社会的にも十分な成果をあげたといえる。よって審査委員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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