学位論文要旨



No 124742
著者(漢字) 長谷川,高士
著者(英字)
著者(カナ) ハセガワ,タカシ
標題(和) 脂肪細胞への分化過程におけるインスリン受容体基質の量変動の生理的意義の解明
標題(洋)
報告番号 124742
報告番号 甲24742
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3452号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 高橋,伸一郎
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 准教授 田中,智
内容要旨 要旨を表示する

動物の生体内で脂肪細胞は、余剰なエネルギーを中性脂肪として貯蔵し、これらを必要に応じて分解して他の臓器に遊離脂肪酸として供給するという役割を担っている。したがって、必要以上にエネルギー摂取を続けると、脂肪細胞へ過剰な脂肪蓄積が起こり肥満となり、先進国で深刻な医療問題となっているメタボリックシンドロームなどを誘発する。

脂肪細胞が脂肪蓄積機能を獲得するためには、内分泌因子などに応答して脂肪前駆細胞の分化が誘導され、成熟脂肪細胞となることが必要である。多くの研究者の長年の努力により、脂肪細胞への分化誘導の分子機構が明らかにされつつある。例えばモデル細胞として汎用されているマウス3T3-L1細胞では、グルココルチコイドとcAMP刺激が転写因子CCAAT/enhancer-binding protein (C/EBP) βを誘導し、これが転写因子C/EBPα、peroxisome proliferator-activated receptor (PPAR) γなどの転写を促進して脂肪細胞への分化が決定され、更にこれらの転写因子が脂肪蓄積に関わる種々のタンパク質、glucose transporter (GLUT) 4、stearoyl-Coenzyme A desaturase (SCD) 1などの発現を増加させる結果、成熟脂肪細胞として機能すると考えられている。

一方、3T3-L1細胞の脂肪細胞への分化・成熟の誘導には、グルココルチコイドとcAMP刺激と同時にinsulin-like growth factor (IGF)/インスリン刺激も必要であることが示されている。IGFは生体の栄養状態、インスリンは食事刺激に応じて産生・分泌が制御されており、in vivoレベルでの生理活性として、動物の成長促進、タンパク質あるいは糖・脂質代謝の同化の促進を挙げることができる。細胞レベルでは、IGFは他のホルモンや成長因子と協働して多くの細胞の増殖、分化、生存などを促進し、インスリンは糖・アミノ酸膜透過や糖利用を促進する。一般にIGF/インスリンは、細胞膜上の特異的な受容体に結合すると、受容体内蔵型チロシンキナーゼを活性化し、基質であるinsulin receptor substrate (IRS) をチロシンリン酸化する。次いで、チロシンリン酸化IRSを認識してSH2ドメインを有したシグナル分子、例えばphosphatidylinositol (PI) 3-kinaseが結合、下流のPI 3-kinase経路などを活性化、広範な生理活性を発現すると考えられている。IRSには4つの分子種があるが、そのうちIRS-1、IRS-2、それぞれの遺伝子をノックアウトしたマウス胎児胚より調製した繊維芽細胞において、脂肪細胞への分化誘導が抑制される結果は、IRSを介したインスリン様シグナルが脂肪細胞の分化誘導に重要な役割を果たしていることを示している。一方、PI 3-kinase経路では下流シグナル分子であるセリン/スレオニンキナーゼAktの活性化がglycogen synthase kinase (GSK) 3βのリン酸化・不活性化を誘導するが、最近になり、活性型GSK3βはC/EBPβをセリンリン酸化し転写因子の活性化を誘導する、すなわちインスリン様シグナルがC/EBPβを不活性化するという報告もある。

このような背景のもと、本研究では、3T3-L1細胞を用いて脂肪細胞への分化・成熟誘導におけるIGF/インスリンの役割を、細胞内シグナル伝達の観点から明らかにすることを目的とした。

脂肪細胞への分化過程および成熟過程におけるインスリン様シグナルの変動

コンフルエントまで培養した3T3-L1脂肪前駆細胞を更に2日間培養後、IGF-I受容体を活性化するために高濃度インスリン、合成グルココルチコイドであるデキサメタゾン、そして細胞内cAMP濃度を上昇させるためにphosphodiesterase阻害剤イソブチルメチルキサンチンを牛胎児血清と共に加え、4日間分化を誘導した(分化誘導期)。その結果、この時期にはC/EBPα、PPARyの誘導が確認された。その後、インスリンと牛胎児血清のみを含む培地に切り替えて培養を続け、脂肪細胞を成熟させた(成熟誘導期)。この時期には、GLUT4やSCD1、11β-hydroxysteroid dehydrogenase type 1 (11βHSD1) などの発現が観察され、Oil red O染色などにより脂肪蓄積も確認できた。そこでこの細胞系を用いて、分化誘導期および成熟誘導期のインスリン様シグナル分子の動態を経時的に解析した。まず、分化誘導に応答してIGF-I受容体の量・チロシンリン酸化が徐々に減少したのに対して、インスリン受容体の量・チロシンリン酸化が漸増し、分化から成熟への進行に応答してIGFからインスリンへのインスリン様シグナルの切り替えが起こることがわかった。一方、IRS-1の量・チロシンリン酸化は分化誘導開始1日目に著減し、4日目以降に再び増加した。これに対して、IRS-2の量・チロシンリン酸化は分化誘導開始1日目に増加し、成熟誘導期にかけて減少した。IRS-1あるいはIRS-2に相互作用するPI 3-kinase量は、それぞれのIGFのチロシンリン酸化を良く反映していたが、Akt活性を示すAktのセリン/スレオニンリン酸化はIRS-1のチロシンリン酸化の抑制と良く相関していた。このようにIRS-1とIRS-2を介したシグナルは、それぞれのタンパク質の量調節を介して異なる様式でダイナミックに制御されることが明らかとなった。

脂肪細胞への分化誘導に応答したIRS-1量の減少が分化誘導に果たす役割

分化誘導に応答して起こるIRS-1量の減少およびAkt活性の抑制の生理的意義を明らかにするために、アデノウイルスベクターを用いてIRS-1、あるいは細胞膜にアンカリングし高いキナーゼ活性を維持することが明らかとなっているmyristoyl-Akt (myr-Akt) を3T3-L1脂肪前駆細胞に高発現した。この細胞に定法どおり脂肪細胞への分化・成熟を誘導し、IGF/インスリンシグナルおよび脂肪細胞への分化・成熟のマーカーの変動を解析した。まず、IRS-1高発現細胞では、分化誘導に応答して対照細胞で観察されるIRS-1の量・チロシンリン酸化およびIRS-1と結合するPI 3-kinase量の減少が観察されず、AktおよびGSK3βのリン酸化も高いレベルを維持していた。この際、IRS-1高発現は、C/EBPα、PPARyの発現誘導を抑制、これらの転写因子の標的遺伝子であるGLUT4、11βHSD1の発現も有意に減少させた。更にOil red O法により脂質を染色したところ、対照細胞と比較してIRS-1高発現細胞では脂肪蓄積が全体的に少ないが、いくつかの部分ではスポット状に強い染色が観察されることが明らかとなった。一方、myr-Akt高発現細胞ではIRS-1高発現細胞と同様に、GSK3βのリン酸化が強く、C/EBPαやPPARyの発現も有意に減少した。更に、GSK3に対する特異的阻害剤を、脂肪細胞への分化誘導期に添加すると脂肪蓄積は阻害されるが、成熟誘導期に添加しても脂肪蓄積の阻害が観察されない結果は、GSK3が分化誘導期に機能していることを示唆している。他の研究グループの研究成果も合わせ、IRS-1の減少は、インスリン様シグナルを遮断することによってGSK3βの活性化を引き起こし、C/EBPβのリン酸化・活性化を介してC/EBPαやPPARyの転写を誘導、脂肪細胞への分化を決定づけていると結論した。

脂肪細胞への分化誘導に応答したIRS-2量の増加が成熟誘導に果たす役割

分化誘導に応答して起こるIRS-2量の増加の生理的意義を明らかにするために、siRNA法を用いてIRS-2をノックダウンした。先と同様に、この細胞に定法どおり脂肪細胞への分化・成熟を誘導し、IGF/インスリンシグナルおよび脂肪細胞への分化・成熟のマーカーの変動を解析した。IRS-2ノックダウン細胞では、IRS-2量が対照細胞に比較して25%程度まで減少し、この抑制効果は分化誘導6日までは持続していた。この際、Aktのスレオニンリン酸化も抑制された。しかし、GSK3βのリン酸化は影響を受けず、C/EBPα, PPARy、これらの標的遺伝子であるGLUT4、SCD1、11βHSD1、脂質代謝酵素の発現に関わる転写因子であるsterol regulatory element binding transcription factor (SREBP) 1 ともに、対照細胞と差異は観察されなかった。しかし、Oil red O染色により、IRS-2ノックダウンが脂肪蓄積の抑制を誘導することがわかった。これらの結果は、IRS-2量の増加は、脂肪細胞への分化誘導には寄与しないが、今回解析した以外の経路で脂肪細胞の成熟に重要な役割を果たしていると考えられた。

脂肪細胞への分化誘導に応答したIRS量の調節機構

最後に分化誘導に応答したIRS-1量の減少、IRS-2量の増加の調節機構を検討した。まず、IGF/インスリン、グルココルチコイド、cAMP刺激のうち、どの分化誘導因子がIRS量を変動させるのかを調べた。その結果、IRS-1の減少にはIGF/インスリン、グルココルチコイド、cAMP刺激のすべてが必要で、IRS-2の増加は主にcAMP刺激に応答して起こることが明らかとなった。また、分化誘導直後にIRS-1のmRNAが有意に減少し、同時にIRS-1タンパク質の減少はプロテオソーム阻害剤MG132の添加により回復することから、IRS-1の減少は転写抑制とタンパク質分解を介していると考えられた。これに対して、IRS-2の増加は主にmRNAの増加によることが明らかとなった。このように、分化誘導因子の刺激に応答して、IRS-1とIRS-2は異なる機構により量のダイナミックな制御が行われていることがわかった。

本研究の成果により、これまで脂肪細胞の分化誘導に重要な役割を果たしていると考えられてきたIGFは、むしろ脂肪細胞への分化誘導を抑制しており、分化誘導因子はIRS-1量を減少させることによりIGFシグナルを遮断、その結果、脂肪細胞への分化誘導が決定づけられることを明らかにした。一方、脂肪細胞への成熟誘導にはインスリン様シグナルが必要で、この際IRS-2量の増加を介して脂肪蓄積が促進される。この分子機構は今後の課題である。生体内では栄養状態の悪化に伴って分泌されるグルココルチコイドやカテコラミンによって脂肪前駆細胞のIRSの量が調節され脂肪細胞への分化が決定づけられる、ここに十分なエネルギー基質が循環すると、IGF/インスリンの産生・分泌が起こり、脂肪細胞の成熟が進んで脂肪蓄積が起こる。このように考えると、これらの内分泌因子に応答した脂肪細胞への分化・成熟誘導の分子機構は極めて合目的的といえる。今回、私が明らかにしたIRSの量調節を介した脂肪細胞への分化・成熟誘導機構に関する研究成果は、今後、脂肪細胞への分化・成熟や脂肪蓄積の異常が原因である種々の疾患に対する新しい治療法の開発の基礎になるものと期待している。

審査要旨 要旨を表示する

生体内でのエネルギー代謝に重要な役割を果たす脂肪細胞は、インスリン様成長因子(IGF)・cAMP・グルココルチコイドの共存下で、前駆脂肪細胞から分化することが知られている。このインスリン様成長因子(IGFs)は、脂肪前駆細胞の増殖、分化に重要な役割を果たしていることがin vivo、in vitro両面からよく知られているが、脂肪細胞への分化におけるIGFシグナルがどのように制御されているかは明らかではない。

そこで、本論文は、分化誘導に高濃度インスリン・cAMP・グルココルチコイドを用いるマウス脂肪前駆細胞3T3-L1を用いて、脂肪細胞への分化・成熟誘導におけるIGF/インスリンの役割を、細胞内シグナル伝達の観点から明らかにしたもので、序章、本論が四章、そして終章からなる。

まず序章では、本研究の背景及び意義を概説し、本研究の目的と本論文の構成について述べている。

第一章では、分化誘導に応答して分化に必須な転写因子C/EBPβ、C/EBPα、PPARyとそれらの標的遺伝子が発現することを確認し、分化誘導に応答したIGFシグナル分子の量やリン酸化量の変動を解析している。その結果、IGF-I受容体は分化誘導に応答して減少するのに対して、インスリン受容体は増加すること、IRS-1量・チロシンリン酸化が分化誘導開始4日間 (分化誘導期)まで著減し、分化誘導開始4日目以降 (成熟誘導期)に増加する一方、IRS-2量・チロシンリン酸化は分化誘導期に著増し、成熟誘導期以降にやや減少すること、下流のシグナル分子AktとGSK3βのリン酸化がIRS-1の量変動を反映していることを見出した。

第二章ではこのIRS-1量の減少が脂肪細胞への分化・成熟に果たす役割について、IRS-1を過剰発現することで解析している。まず、IRS-1を過剰発現した結果、AktとGSK3βのリン酸化の増加が起き、このときにC/EBPα、PPARyの発現が抑制され、これらの標的遺伝子のうち11βHSD1、GLUT4の発現が抑制されることを発見した。またIRS-1過剰発現細胞では、脂肪蓄積の抑制された細胞と一部に強く脂肪を蓄積した細胞が認められた。続いて、活性化型Aktを導入によってもGSK3βのリン酸化の増加と、C/EBPα、PPARyの発現の抑制がみられた。また、GSK3阻害剤によって分化誘導期にGSK3を阻害するとC/EBPα、PPARyの発現が抑制され、脂肪蓄積が認められないことをあわせ、分化誘導期のIRS-1の減少がAktを不活性化し、Aktによって抑制されていたGSK3βが活性化、脂肪細胞への分化に必須な遺伝子発現を行うことで、脂肪細胞への分化・成熟がおこるという分子機構が明らかとなった。

第三章ではIRS-2量の増加が脂肪細胞への分化・成熟に果たす役割についてIRS-2の発現抑制を行うことで解析している。IRS-2をノックダウンした細胞では、C/EBPαやPPARyやその標的遺伝子の発現に差は認められない。しかし、IRS-2ノックダウンによって脂肪蓄積が抑制される傾向にあったため、成熟誘導期の脂肪蓄積に重要な役割を果たす可能性が考えられた。

第四章では分化誘導に応答したIRS量の調節機構を検討している。その結果、IRS-1はインスリン・グルココルチコイド・cAMP同時処理により、プロテアソーム経路と転写調節を介して減少すること、一方IRS-2はcAMP処理により、転写調節を介して増加することが明らかとなった。

総合討論では、分化誘導因子による、IRS量調節を介した新たなIGFシグナルの調節機構と脂肪細胞への分化機構の調節をまとめ、脂肪細胞の分化・成熟におけるIRS-1とIRS-2の生理的意義の差異について考察している。

このように、本研究では脂肪前駆細胞から脂肪細胞への分化過程において、他の因子がIRSの量変動を介してIGFシグナルを調節し、特にIRS-1を介したシグナルを遮断することが新たなシグナル経路を活性化させ、脂肪細胞への分化を促進するという新しいシグナル機構を明らかにしたもので、学術上、臨床上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士 (農学)の学位として価値あるものと認めた。

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