学位論文要旨



No 124743
著者(漢字) 前田,千晶
著者(英字)
著者(カナ) マエダ,チアキ
標題(和) エピゲノム変化を基にした哺乳類性差の生物医学研究
標題(洋) Stage- and sex-specific epigenetic patterns in mammalian development
報告番号 124743
報告番号 甲24743
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3453号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 内藤,邦彦
 東京大学 特任教授 八木,慎太郎
 東京大学 准教授 金井,克晃
 東京大学 准教授 田中,智
内容要旨 要旨を表示する

序論

細胞は、その種類や分化段階に応じて発現する遺伝子と発現しない遺伝子を使い分けている。分化した細胞では、遺伝子の使い分け機構は細胞分裂を繰り返しても維持される。エピジェネティクス制御系は、膨大なDNAの塩基配列のカタログから、必要な情報を選択し、記憶する仕組みである。DNAのメチル化は、エピジェネティクス制御系の中心的な機構であり、正常な個体発生に必須のメカニズムである。

種々の疾患における罹患率や症状、化合物に対する反応性等において、雌雄による差が報告されている。これらの雌雄差の一部は、ホルモンの影響によると考えられているが、ゲノムレベルでの性差については明らかではない。ヒトやマウスでは、雄の細胞はXY染色体を持つのに対し、雌の細胞は2本のX染色体をもつ。性染色体からの遺伝子発現は雌雄によって差が生じるが、染色体の違いとゲノム情報の使い分け、雌雄の表現型の確立については多くの部分が未知である。本研究では、発生と雌雄差におけるDNAメチル化の重要性を3つのテーマに沿って明らかにした。

第一章生殖細胞の発生と性差のエピジェネティクス

~ヒストンH1foo遺伝子の卵特異的非メチル化領域~

哺乳類では、その生殖細胞形成において、雌雄によって異なるヒストンH1を使い分けている。ヒストンH1fooは、雌の生殖細胞に特異的なヒストンサブタイプであり、卵核胞期から受精後の2細胞期までの限られた時期にのみ発現する。本章では、雌雄の生殖細胞におけるDNAメチル化パターンの形成と遺伝子発現との相関を明らかにするため、H1foo遺伝子領域をモデルとして解析を行った。はじめに、H1fooを発現していない胚性生殖細胞(EG細胞)にDNAメチル化阻害剤である5-アザデオキシシチジンを添加したところ、濃度依存的にH1fooの発現が上昇し、DNAメチル化がH1foo遺伝子の発現抑制に関与することが示唆された。成体マウスの未受精卵、精子、および脳や肝臓を含む体細胞でH1foo遺伝子上流域のDNAメチル化状態を調べた結果、未受精卵でのみ低メチル化状態にある、組織特異的メチル化可変領域(Tissue-dependent and differentially methylated region: T-DMR)を発見した。卵特異的な非メチル化領域が発生の過程でどのように形成されるのかを明らかにするため、胎仔の細胞を用いてこの領域のメチル化状態を解析した。胎仔においては、生殖細胞、体細胞のいずれにもH1fooの発現は見られず、体細胞では胎生9.5日からすでに雌雄ともにT-DMRの高メチル化が見られた。これに対し、胎生9.5日から胎生15.5日において雌雄の生殖細胞はともに低メチル化状態にあった。さらに、胎生18.5日において雄の生殖細胞でのみT-DMRが高度にメチル化され、精子と同等の高メチル化状態を示した。これらのことから、H1foo遺伝子領域においては生殖細胞系列と体細胞系列ではDNAメチル化による強固な遺伝子抑制状態が形成される時期が異なることがわかった。さらに、雌の生殖細胞では、発生段階のどの時期においてもH1foo T-DMRは低メチル化状態を示し、非メチル化のサーキットを形成している可能性が示された。

第二章脳の性差のエピジェネティクス

脳は、発生過程においてダイナミックな形態変化および遺伝子発現の変化が起きることが知られている。一方、生殖細胞系列と異なり、雌雄による形態、機能、遺伝子発現等の差は顕著ではない。そこで、本章では、脳における雌雄差の有無を明らかにすることを目的とし、雌雄の成体脳、肝臓、およびES細胞を用いて網羅的なDNAメチル化プロフィールを取得した。方法として、本研究室で開発されたD-REAM法を用いた。D-REAM法は、メチル化感受性制限酵素の認識部位のメチル化状況をタイリングアレイのシグナルに反映させることができる系であり、マウスの約3万遺伝子のプロモーター領域をタイリングしたアレイを用いて解析を行った。成体脳においては、多数の領域で雌雄によるシグナルの差が得られ、このうちX染色体上に存在する多くの領域についてはX染色体不活性化の影響が示唆された。一方、X染色体上においても、領域によってメチル化傾向に差が検出され、T-DMRが形成されていると考えられた。また、常染色体上にも雌雄差を示す領域が多数存在し、雄の脳で雌に比べて低メチル化状態にある領域については、CpGアイランドをもつ遺伝子が濃縮される傾向があった。

第三章疾患の性差のエピジェネティクス

~Rett症候群におけるDNAメチル化異常~

性染色体上の遺伝子変異が関連した疾患では、雌雄により症状の差が現れる場合が多い。Rett症候群は、約1万5千人に1人に発症する神経発達疾患であり、患者の約9割はX染色体上のMeCP2遺伝子に変異を持つ。男児の患者は出生前後に死亡する割合が高いのに対し、変異をヘテロにもつ女児は出生前後は見かけ上正常である。患者は生後6-18ヶ月までは比較的正常な成長および言語・運動機能の発達を遂げるが、その後これらの能力が退行し、失行症、自閉傾向、呼吸障害等、様々な症状を呈する。MeCP2は脳において高発現し、メチル化シトシンに結合する性質を持つことから、その欠損は脳のエピゲノムに影響するという仮説を立てた。本章では、MeCP2遺伝子欠損マウスの脳においてDNAメチル化異常の有無を解析し、エピジェネティクスの観点からRett症候群の病態を解明することを目的とした。MeCP2欠損マウスの雄は生後約2ヶ月で発症し、死に至るのに対し、雌は症状が軽く、多くは寿命を全うする。そこで、本章では神経症状発症後の雄マウスおよびコントロール雄マウスの脳を用いてD-REAM解析を行い、ゲノムワイドなDNAメチル化情報を取得した。興味深いことに、MeCP2欠損脳のメチル化プロフィールを、胎生14.5日齢の正常胎仔脳のメチル化プロフィールと比較したところ、両者は多数の候補遺伝子で共通したメチル化状態を示すことが示唆された。両者に共通するT-DMRについて、D-REAM解析を行ったMeCP2欠損脳を用いて詳細に解析したところ、コントロールと比べて高メチル化または低メチル化を示す遺伝子が複数同定された。そこで、これらの領域を6個体の欠損雄マウス脳およびそのコントロールで解析した。その結果、すべての欠損個体で共通した変異がみられるのではなく、同定された領域に関して差がある個体とない個体が存在することが分かった。また、MeCP2欠損アレルをヘテロにもつ雌マウスでは、これらの領域にメチル化異常は検出されなかった。さらに、1個体の欠損雄マウスについて、分裂停止後の神経細胞とその他の細胞をFACSを用いて分画し、メチル化解析を行った。神経細胞の分画においては、同定された領域についていずれもメチル化の差が検出されたことから、DNAメチル化異常は神経細胞に由来することが示された。これらの結果は、雌雄のMeCP2欠損マウスの病態・発症時期が個体により異なっていることと符合する。また、雄マウスでは、雌マウスに比べ重篤であることとも矛盾しない。このように、MeCP2欠損により、脳にDNAメチル化異常が生じることが明らかとなった。このことは、エピジェネティクス系によるゲノムの使い分けが不十分であることを示唆している。胎仔脳T-DMRをもつ遺伝子とMeCP2欠損T-DMRをもつ遺伝子を全体として比較すると、CpGアイランドの有無やGene Ontology解析において高い共通性が見いだされた。以上のことから、MeCP2欠損動物では、成体脳のエピゲノムは胎仔型に近いことが示唆される。この発見は、Rett症候群の病態成立の新たな視点となる。

総括

本研究では、雌雄においてDNAメチル化パターンの形成にどのような差異があるのかを生殖細胞と脳という二つのモデルにおいて検討した。生殖細胞においても、脳においても、DNAメチル化パターンは、発生段階および雌雄に特異的であった。H1foo遺伝子領域では、雌雄の生殖細胞は遺伝子発現の有無にかかわらず、胎生初期には低メチル化状態にあることが示された。雌雄による差は胎生18.5日齢ではじめて観察され、この領域の高メチル化は遺伝子発現抑制に寄与することが示唆された。また、脳、肝臓、ES細胞における網羅的なDNAメチル化解析から、これらの組織においても雌雄差を示す多数の領域が検出された。脳における時期特異的なT-DMRは性染色体にも形成され、X染色体におけるT-DMRの形成とX染色体不活性化は密接に関係していることが示唆された。また、Rett症候群のモデルマウスの解析から、MeCP2欠損により脳のDNAメチル化パターンに異常が生じること、またそのメチル化変異の傾向は、全体として胎仔脳のメチル化プロフィールに類似性を示すことが明らかとなった。MeCP2欠損マウス脳におけるメチル化異常は、発生過程に形成されたDNAメチル化パターンが、成長後に時間差で影響を及ぼす可能性も示している。本研究を通じて、発生過程におけるDNAメチル化変化には雌雄差が浮き彫りとなり、疾患における雌雄差などを考える上でも重要な知見が得られた。

審査要旨 要旨を表示する

哺乳類の個体を構成する細胞は、種類や分化段階に応じて発現する遺伝子と発現しない遺伝子を使い分けている。エピジェネティクス系は、ゲノムDNAから、必要なあるいは不要な情報を選択し、記憶する仕組みである。ヒトやマウスでは、雄の細胞はXY染色体を持つのに対し、雌の細胞は2本のX染色体をもつ。性染色体からの遺伝子発現は雌雄によって差が生じるが、染色体の違いとゲノム情報の使い分け、雌雄の表現型の確立については多くの部分が未知である。本論文では、発生と雌雄差におけるDNAメチル化について研究したもので、以下の3章より構成されている。

第1章では、ヒストンH1foo遺伝子の卵特異的非メチル化領域に焦点をあてたもので、生殖細胞の発生と性差のエピジェネティクス研究である。哺乳類では、その生殖細胞形成において、雌雄によって異なるヒストンH1を使い分けている。ヒストンH1fooは、雌の生殖細胞に特異的なヒストンサブタイプであり、卵核胞期から受精後の2細胞期までの限られた時期にのみ発現する。しかし、H1fooを発現していない胚性生殖細胞(EG細胞)にDNAメチル化阻害剤である5-アザデオキシシチジンを添加したところ発現が上昇した。さらに、成体マウスの未受精卵、精子、および脳や肝臓を含む体細胞でH1foo遺伝子上流域のDNAメチル化状態を調べた結果、未受精卵でのみ低メチル化状態にある、組織特異的メチル化可変領域(Tissue-dependent and differentially methylated region: T-DMR)が見つかった。胎仔においては、生殖細胞、体細胞のいずれにもH1fooの発現は見られず、体細胞では胎生9.5日からすでに雌雄ともにT-DMRの高メチル化が見られた。これに対し、胎生9.5日から胎生15.5日において雌雄の生殖細胞はともに低メチル化状態にあった。さらに、胎生18.5日において雄の生殖細胞でのみT-DMRが高度にメチル化され、精子と同等の高メチル化状態を示した。これらのことから、H1foo遺伝子領域においては生殖細胞系列と体細胞系列ではDNAメチル化による強固な遺伝子抑制状態が形成される時期が異なることがわかった。さらに、雌の生殖細胞では、発生段階のどの時期においてもH1foo T-DMRは低メチル化状態を示し、受精→生殖細胞発生→受精の繰り返しの生命現象で常に非メチル化状態で維持されていることが明らかなった。

D-REAM法は、メチル化感受性制限酵素の認識部位のメチル化状況をタイリングアレイのシグナルに反映させることができる。第2章では脳における雌雄差を明らかにすることを目的とし、DNAメチル化プロフィールがD-REAM法により解析された。マウスの約3万遺伝子のプロモーター領域をタイリングしたアレイを用いて解析を行い、成体マウス脳で雌雄間で異なったメチル化状態にあるT-DMR情報を得た。X染色体上にはX染色体不活性化の影響下の領域が多数検出されたが、それ以外にも、領域によってメチル化傾向に差が検出された。X染色体にもT-DMRが存在すること、しかも、雌雄間で異なったDNAメチル化状況にあることが発見された。X染色体とY染色体のゲノム構成の違いに加えて、少なくともX染色体のエピジェネティクス状況が雌雄間で異なった領域が存在するのである。

第3章はMeCP2遺伝子欠損マウスの脳のDNAメチル化解析である。Rett症候群は、約1万5千人に1人に発症する神経発達疾患で、患者の約9割はX染色体上のMeCP2遺伝子に変異を持つ。男児の患者は出生前後に死亡する割合が高いのに対し、変異をヘテロにもつ女児は発症が遅く、出生前後は見かけ上正常である。MeCP2欠損マウスの雄は生後約2ヶ月で発症し死に至るのに対し、雌は症状が軽く多くは寿命を全うする。神経症状発症後のMeCP2欠損雄マウスおよび野生型雄マウスの脳を用いてD-REAM解析を行い、ゲノムワイドなDNAメチル化情報を取得した。興味深いことに、成体のMeCP2欠損マウス脳は、多くの遺伝子領域で正常胎仔の脳(胎生14.5日齢)と共通したエピジェネティクス状況にあることが示唆された。両者に共通するT-DMRには、高メチル化領域、あるいは、低メチル化領域が複数同定されたのである。これらの領域を6個体の欠損雄マウス脳およびコントロールで解析した結果、個体差が存在することが分かった。これらの結果は、雌雄のMeCP2欠損マウスの病態・発症時期が個体により異なっていることと符合する。MeCP2欠損アレルをヘテロにもつ雌マウスでは、これらの領域にメチル化異常は検出されなかった。したがって、MeCP2欠損マウスはDNAメチル化が異常を呈すること、さらに、胎仔型に留まっていることが明らかになった。最後に、分裂停止後の神経細胞とその他の細胞をセルソーターを用いて分画し、メチル化解析を行った結果、同定された領域についていずれもメチル化の差が検出されたことから、DNAメチル化異常は少なくとも神経細胞に由来することが示された。また、胎仔脳T-DMRをもつ遺伝子とMeCP2欠損T-DMRをもつ遺伝子を全体として比較すると、CpGアイランドの有無やGene Ontology解析において高い共通性が見いだされた。以上のことから、MeCP2欠損動物では、成体脳のエピゲノムは胎仔型に近いことが示唆される。この発見は、Rett症候群の病態成立の新たな視点となる。

以上、本論文では発生過程におけるDNAメチル化変化の雌雄差が浮き彫りとなり、疾患における雌雄差などを考える上でも重要な知見が得られた。これらの発見は雌雄の遺伝子制御の基礎として重要であるばかりでなく、疾患のメカニズムを知る上で貴重で、応用研究にも新たな視点を提供している。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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