学位論文要旨



No 124749
著者(漢字) 越後,良介
著者(英字)
著者(カナ) エチゴ,リョウスケ
標題(和) トレハロースによるクモ膜下出血後の脳血管攣縮防止効果に関する研究
標題(洋)
報告番号 124749
報告番号 甲24749
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3459号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 准教授 内田,和幸
 東京大学 准教授 望月,学
内容要旨 要旨を表示する

生活習慣病の一つである脳血管障害は,日本人の死亡率では悪性腫瘍,心臓疾患に次ぐ3位に位置している。中でもクモ膜下出血の発生数は増加傾向にあり,医学の発展にも関わらずその死亡率には十分な改善が見られない。その原因の一つが,重大な合併症の脳血管攣縮である。

脳血管攣縮とは,血管平滑筋の持続的な収縮によって血管内腔が狭小化し,その支配領域が脳虚血を呈して様々な神経学的異常を示す病態である。その発生機序にはクモ膜下腔に生じた血液,特にヘモグロビンが深く関わっており,ここから放出される因子が血管周囲の炎症を誘発し,血管攣縮のきっかけとなると考えられているが,その詳細は解明されていない。治療として,血圧上昇や全身循環量の増加などを目的としたTriple-H療法,クモ膜下腔の血液を洗い流すための脳槽灌流,平滑筋細胞内で攣縮を促進する因子であるRhoキナーゼを阻害する塩酸ファスジルの投与などが行われているが,その成果はまだ十分とは言えない。

一方,トレハロースは天然に広く存在する二糖類であり,植物や昆虫などを乾燥,凍結などの厳しい環境から保護する作用のあることが知られている。現在では,その多様な機能から食品,化粧品など非常に幅広い分野で応用されている。このようなトレハロースの生体防御に関わる作用は,結合水置換,ガラス化,不飽和脂肪酸の過酸化抑制など,特に生体膜やタンパク質の保護機能によるものとされている。

以上の背景から,クモ膜下出血で生じた血液が脳血管に曝される際に,そこにトレハロースが存在すれば脳血管表面を保護し,血液から放出される炎症性物質や攣縮誘発因子を防御する可能性が考えられた。そこで本研究では,トレハロースの脳血管攣縮の防止効果,ならびにその作用機序を検討するために以下の実験を行った。

第1章では,クモ膜下出血モデルとして広く用いられているラット大腿動脈攣縮モデルを作製し,血管の組織形態学的な解析を行った。ラットの左右大腿動脈の周囲をカテーテルで覆い,動脈外膜とカテーテルの間隙に生理食塩水あるいは3段階の濃度のトレハロース溶液を混合した自家血を曝露した。曝露後7日目に左右大腿動脈を採材し,断面像から血管内腔断面積と中膜厚を測定した。生理食塩水を血液に混じた群においては,対照血管と比較して顕著な内腔の狭窄(対照血管の断面積の14%)と壁の肥厚(対照血管の中膜厚の200%)が観察された。一方,トレハロースの最終濃度を3.8%とした群では,内腔の狭窄(対照血管の断面積の86%)と壁の肥厚(対照血管の中膜厚の93%)がともに抑制された。トレハロースの最終濃度を1.9%,7.5%とした群では3.8%ほどの強い攣縮抑制効果は見られなかった。以上から,トレハロースと血液との混合液投与は大腿動脈の攣縮を抑制し,至適トレハロース濃度が3.8%程度である可能性が示唆された。次に同じモデルを用いて,経時的な血管の形態学的変化を検討した。生理食塩水と血液を混合した群においては,処置後1日目から内腔の狭窄と壁の肥厚が始まり7日目にピークを迎え,その後徐々に元の状態に回復していくことが確認された。一方,トレハロースと血液を混合した群では,内腔の狭窄と壁の肥厚ともに実験期間全体(1~20日)でほぼ一定の値を示した。本実験の結果から,トレハロースの攣縮防止効果は,一旦攣縮が進んだ後で回復させるという治療的効果ではなく,初期の段階から攣縮を防止する予防的効果である可能性の高いことが示唆された。

続いて第2章では,脳脊髄液に血液を混じて脳血管の攣縮を誘発するという点で,実際の臨床的病態により近いウサギクモ膜下出血モデルを用いて解析を行った。ウサギの大槽内に経皮的に自家血1.5mlと生理食塩水あるいはトレハロース0.5mlの混合液を注入した。注入前と注入48時間後に脳血管造影を行い,攣縮が最も顕著に観察される脳底動脈の外径を測定して評価を行った。その結果,生理食塩水と血液を注入した群では,注入前と比較して48時間後の脳底動脈径が66%まで減少したが,トレハロースと血液を注入した群では,85%と軽度の減少にとどまった。この結果から,ウサギクモ膜下出血モデルにおいてもトレハロースの攣縮抑制効果が確認された。

以上のin vivoの結果をもとに,トレハロースによる攣縮抑制機序の解明を試みた。血管攣縮の発生と増悪には,凝血塊による血管周囲の炎症が様々な形で関わっており,トレハロースはこの炎症反応の抑制によって血管攣縮の防止効果を発現した可能性がある。そこで第3章では,培養細胞を用いたin vitroの系でトレハロースの抗炎症効果を中心に解析を行った。用いた細胞はラットマクロファージ由来のRAW264.7細胞および正常ヒト臍帯静脈血管内皮細胞(HUVEC)である。炎症誘発物質として赤血球溶血液を用い,これに生理食塩水,トレハロース液,トレハロースの構造異性体であるマルトース液を混じてその反応の違いを検討した。まずアラキドン酸カスケードについて検討するために,酵素免疫測定法(EIA)によってPG(プロスタグランジン)E2産生量を測定した。その結果RAW264.7細胞に生理食塩水あるいはマルトースで処理した溶血液を加えたところ,大量のPGE2産生が見られた。しかし,トレハロース処理した溶血液を加えた細胞ではPGE2産生はほとんど認められず,他の2群と比較して有意に低下していた。同じ方法でLT(ロイコトリエン)についても測定を行ったところ,PGE2の結果と同じようにトレハロース処理群でのみ産生量の低下が認められた。次にRAW264.7細胞にトリチウムラベルしたアラキドン酸を取り込ませ,その代謝物の放出量を液体シンチレーションで測定した。その結果,トレハロース処理をした細胞群では,他の2群と比較してアラキドン酸代謝産物の放出量が顕著に減少していた。以上の結果から,トレハロース処理をした細胞では,PGやLTといったエイコサノイドだけでなく,アラキドン酸カスケードにおいてその上流に位置するcPLA2のレベルで活性が抑制されていることが明らかとなった。また,TNF-αやIL-1αといった炎症性サイトカインについてもEIAで測定したが,トレハロース処理をした細胞からのこれらの因子の放出は抑制されていた。したがって,トレハロースはアラキドン酸カスケードのみならず,より広範な炎症反応を抑制している可能性が示唆された。一方,HUVECを用いたEIAではPGE2についてのみ検討を行ったが,RAW264.7細胞のときと全く同様にトレハロース群でのみ産生量が低下していた。この結果から,トレハロースの抗炎症効果はより多種類の細胞で発現する可能性が高いことが示唆された。

第4章では血管攣縮の実際の病態において,トレハロースがどの段階において攣縮の誘発を防止するか検討した。凝血塊によって血管攣縮を引き起こす過程として,赤血球の溶血,フリーラジカルの産生,ならびに細胞膜脂質の過酸化が生じると考えられ,この3段階について以下の実験を行った。まず赤血球の溶血については,ラットの赤血球を生理食塩水,トレハロース液,マルトース液の各液に懸濁し,37℃で静置したときの経時的な溶血率を算出することで検討した。その結果,溶血率は高い順にマルトース,トレハロース,生理食塩水となった。すなわち,トレハロースはマルトースよりは溶血防止効果を示したが生理食塩水には及ばないことが判明した。次に,フリーラジカル・スカベンジャーとしての効果を電子スピン共鳴法で検討したところ,トレハロースのヒドロキシルラジカルに対するスカベンジャー効果がある程度認められたものの,その程度はマルトースと同等であったため特異的とは考えられなかった。最後に細胞膜脂質の過酸化に関しては,2種類の検討を行った。培養細胞を用いた検討では,溶血液を生理食塩水,トレハロース液,マルトース液で処理したものをRAW264.7細胞に加え,一定時間後の過酸化脂質を定量した。その結果,統計学的有意差は認められなかったもののトレハロース群においてのみ過酸化脂質の産生が抑制される傾向が見られた。さらに第1章のラット大腿動脈を用いた過酸化脂質の免疫染色では,血液によって顕著な攣縮を示した組織においては外膜や中膜に特異的染色像が観察されたが,血液とトレハロース液の混合液を曝露した動脈の組織では過酸化脂質の発現は外弾性板周囲に少量認められる程度であった。以上の結果からトレハロースの効果をまとめると,赤血球溶血を防ぐ効果は低いこと,フリーラジカル・スカベンジャーとしての効果は部分的に認められること,そして細胞膜脂質過酸化については抑制している可能性が高いことが判明した。

以上本研究では,クモ膜下出血の重大な合併症である脳血管攣縮に対して,細胞や分子の保護作用を有する天然二糖類のトレハロースが,主として血液による炎症反応を抑制することでその防止効果を発現することが明らかとなった。トレハロースが脳血管攣縮防止効果を示すことに関する研究は本研究が初めてであり,まだ多くの点で研究の余地を残している。しかし,トレハロースによる攣縮防止は,血管内治療や外科的治療などの従来の治療法とは全く異なる観点からの治療につながる可能性があり,最終的には実際の臨床の場で他の治療と組み合わせることによって,脳血管攣縮の治療や予防の一助となることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

クモ膜下出血後に見られる脳血管攣縮とは,血管平滑筋の持続的な収縮によって血管内腔が狭小化し,脳虚血に伴って死亡や重篤な後遺症という転帰を辿る病態である。その発生機序にはクモ膜下腔に生じた血液が深く関わっており,ここから放出される因子が血管攣縮のきっかけとなると考えられているが,その詳細は解明されていない。現在まで,脳血管攣縮に対しては様々な治療法が試みられてきたが,その効果はまだ十分とは言えない。

一方,トレハロースは天然に広く存在する二糖類であり,植物や昆虫などを乾燥,凍結などの厳しい環境から保護することが知られている。トレハロースの生体防御に関わる作用は,結合水置換,ガラス化,不飽和脂肪酸の過酸化抑制など,特に生体膜やタンパク質の保護機能によるものとされている。

したがって,脳血管がクモ膜下出血で生じた血液に曝される際に,そこにトレハロースが存在すれば脳血管表面を保護し,攣縮誘発因子や炎症誘発物質を防御する可能性が考えられた。そこで本研究では,トレハロースの脳血管攣縮の防止効果,ならびにその作用機序を検討するために以下の実験を行った。

第1章では,代表的な血管攣縮モデルの一つであるラット大腿動脈攣縮モデルを作製した。各液の曝露後7日目の大腿動脈について検討したところ,血液+生理食塩水群では,対照血管と比較して顕著な内腔の狭小化と壁の肥厚が観察され,血管攣縮が誘発されたことが確認された。一方,血液+トレハロース群ではそれらの変化はわずかであり,トレハロースの血管攣縮防止効果が認められた。また,経時的な血管の形態学的変化の検討から,トレハロースの攣縮防止効果は初期の段階から攣縮を防止する予防的効果を有する可能性が示唆された。

第2章では,実際の臨床的病態により近いウサギクモ膜下出血モデルを作製した。ウサギの大槽内に経皮的に自家血と生理食塩水あるいはトレハロース溶液の混合液を注入した。注入前と注入48時間後に脳血管造影を行ったところ,血液+生理食塩水群では,注入後の脳底動脈径が大きく減少したが,血液+トレハロース群では軽度の減少にとどまり,トレハロースの攣縮抑制効果が確認された。

第3章では,マウスマクロファージ由来のRAW264.7細胞および正常ヒト臍帯静脈血管内皮細胞培養細胞を用い,トレハロースの抗炎症効果を中心に解析を行った。炎症誘発物質として赤血球溶血液を用い,これに生理食塩水,トレハロース液,トレハロースの構造異性体であるマルトース液を混合してその反応を検討した。まずアラキドン酸カスケードについて検討するために,PGE2とLT産生量を測定した。RAW264.7細胞に生理食塩水あるいはマルトースと混合した溶血液を加えたところ,大量のPGE2,LT産生が見られたが,トレハロースと混合した溶血液を加えた細胞ではほとんど産生が認められなかった。次にRAW264.7細胞にトリチウムラベルしたアラキドン酸を取り込ませ,その代謝物の放出量を測定したところ,トレハロース群では,他の2群と比較して顕著に減少していた。以上の結果から,トレハロース群の細胞では,アラキドン酸カスケードの上流に位置するシクロオキシゲナーゼやリポオキシゲナーゼのレベルで活性が抑制されていると考えられた。また,TNFαやIL-1βといった炎症性サイトカインの放出もトレハロースによって放出が抑制されたことから,トレハロースはより広範な炎症反応を抑制している可能性が示唆された。またこの結果は,正常ヒト臍帯静脈血管内皮細胞培養細胞を用いた実験でも同様であった。

第4章では,トレハロースの攣縮防止効果が主要な血管攣縮誘発過程である赤血球の溶血,フリーラジカルの産生,ならびに細胞膜脂質の過酸化のどの段階で生じるかを検討した。まずラット赤血球を生理食塩水,トレハロース液,マルトース液の各液に懸濁し,37℃で静置したときの経時的な溶血率を算出したところ,トレハロースはマルトースより高い溶血防止効果を示したが生理食塩水には及ばない結果となった。次に,電子スピン共鳴法でトレハロースのフリーラジカル・スカベンジャーとしての効果を検討したところ,ヒドロキシルラジカルに対するスカベンジャー効果はある程度認められたものの,その程度はマルトースと同等であった。細胞膜脂質の過酸化に関して培養細胞を用いた検討では,トレハロース群においてのみ過酸化脂質の産生が抑制された。さらに第1章のラット大腿動脈を用いた過酸化脂質の免疫染色では,攣縮を示した血管においては特異的染色像が観察されたが,血液+トレハロース群ではその変化はわずかであった。以上の結果から,トレハロースはある程度のフリーラジカル・スカベンジャー効果と細胞膜脂質過酸化の抑制作用を介して攣縮を防止している可能性が示唆された。

本研究は,クモ膜下出血の重大な合併症である脳血管攣縮に対して,トレハロースが血液刺激から脳血管を保護することで防止効果を示すことを初めて証明したものである。このことは脳血管攣縮に対する新たな治療法の開発につながるものであり,臨床応用上の貢献は極めて高い。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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