学位論文要旨



No 124751
著者(漢字) 倉岡,睦季
著者(英字) Kuraoka, Mutsuki
著者(カナ) クラオカ,ムツキ
標題(和) マウス脳虚血モデルにおけるマスト細胞の役割
標題(洋) Pathophysiological roles of mast cell in brain ischemic models of mice
報告番号 124751
報告番号 甲24751
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3461号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 中山,裕之
 東京大学 准教授 久和,茂
 東京大学 准教授 内田,和幸
内容要旨 要旨を表示する

人口の高齢化が進む世界諸国において、脳虚血疾患は深刻な問題である。治癒が困難な脳神経障害による影響は、患者の死亡、後遺症によるQOL低下など、多大な社会的・経済的負荷を与える。脳虚血の基礎病態、治療に関する研究は世界的に幅広く行なわれているが、未だ不明な点が多い。脳虚血病態は神経細胞死を含む不可逆的な変化を背景に、浮腫・炎症発生の複合的な要素をもつためである。これに対応するためには実験動物を用いた脳虚血疾患モデルの確立が必須である。特にトランスジェニック及びミュータント系統を豊富に有するマウスの利用は意義深い。

本研究では最初に、マウスにおける局所脳虚血病態の効率的な作成方法を検討した。次に局所および全脳虚血モデルを用いて、脳虚血急性期におけるマスト細胞の関与する病態機構を解析した。マスト細胞の多機能的な働きは近年注目を集めているが、脳虚血病態においては不明な点が多い。以下の三章において、これらの検索を言及する。

第一章:遠位中大脳動脈直接閉塞法を用いたマウス局所脳虚血モデルの作成

脳虚血疾患は脳を支配する血管の障害・閉塞により生じる病態であり、マウスを用いて様々なモデルが作成されている。特に局所脳虚血モデルは、片側動脈閉塞によって誘導される。脳を支配する動脈は頚動脈が移行する脳底のWillis環より派生するが、閉塞時でも側副循環による血液供給を受けていると考えられている。それゆえに動脈の閉塞部位が近位にあるほど、脳虚血病変にばらつきが出る可能性が高い。本章では、遠位あるいは近位における動脈の閉塞により生ずる虚血病変を比較し、効率的な片側動脈閉塞法について検索した。

遠位の動脈となる中大脳動脈を開頭的に閉塞し、これよりも近位に位置する総頚動脈の片側閉塞モデルと死亡率、脳虚血病変の比較を行なった。

遠位中大脳動脈閉塞群では、大脳皮質域に一定の虚血病変が誘導され、処置後24時間で最も広範な病巣の拡大(20.0±5.0%)が観察された。全個体は生存し、効率よく脳組織材料を得ることが出来た。他方、片側総頚動脈閉塞群は高い死亡率を有した。虚血後24時間の生存個体は、広範な病変から病変の無いものまで多岐にわたり、永久閉塞、一時閉塞それぞれの虚血領域は29.0±20.8%、33.2±24.2%と結果に大きなばらつきがみられた。以上より遠位中大脳動脈閉塞処置は虚血病変を効率よく誘導するために、有効な手法であることが明らかになった。

第二章:マウス脳虚血モデルにおけるマスト細胞の役割に関する検討

脳虚血急性期は患者の延命に特に重要な時期と考えられている。このステージでは、脳半球の膨張を特徴とする脳浮腫が発生する。脳浮腫は虚血による脳の細胞・血管傷害などにより派生する細胞膨化や滲出液増加から進行する病態で、圧迫による虚血巣の拡大をもたらすと考えられている。しかしながら、脳浮腫の発生機構については未だ不明な点が多い。臨床的には虚血にさらされた神経細胞の保護に重点が置かれ、脳浮腫に対してとられる処置は頭蓋骨切除などの他に有効な手立てが少ない。

近年、脳浮腫を伴う虚血病態にマスト細胞が関わることが指摘されるようになってきた。マスト細胞は自然免疫の引き金となる免疫細胞で、多機能的な役割を果たしていることが明らかになりつつある。マスト細胞が産生するヒスタミンやTNF-αは血管に直接作用して血管透過性の亢進や滲出液増加を促し、また多種のサイトカインは免疫細胞の活性化・遊走に働くなど、浮腫や炎症誘導に強く関わっている。

中枢神経組織のマスト細胞は、皮質、海馬および間脳実質あるいは血管壁周囲に局在し、神経細胞との相互作用や脳の微小血圧調節などで生理学的機能を果たしている。脳虚血病態では虚血後1‐8時間でマスト細胞は活性化し、脱顆粒することが示唆されている(Hu et al. 2004)。また、マスト細胞は血液脳関門の透過性亢進、好中球浸潤等の誘因になる(Strbian et al. 2005)。第二章では、脳虚血病態におけるマスト細胞の役割を、脳浮腫による虚血病変拡大に着目して検索を行なった。

薬理学的検索では、マスト細胞を活性化させるCompound 48/80あるいは安定化させるCromoglycateをC57BL/6マウス(10‐13週齢、オス)に投与し、中大脳動脈永久閉塞処置を行なった。また、マスト細胞を欠損するWBB6F1-Kit(W/Wv)(W/Wv)マウスと野生型(WT)マウスを用いて同様に虚血誘導し、病変を比較した。

マスト細胞調節試薬投与後の脳虚血病変領域は、マスト細胞の活性化あるいは安定化により、それぞれ増加ないし減少傾向を示した。さらにW/Wvマウスでは、WTと比べて病巣の有意な減少がみられた。これらの変化は、虚血後12時間-2日で最も明確であった。以上の結果より、虚血病変を拡大させるマスト細胞の作用は、脳虚血急性期に働くと考えられる。初期の病変形成におけるマスト細胞の活性化あるいは安定化は、その後の病巣膨張に強く影響することが明らかになった。

第三章:マスト細胞欠損マウスを用いた全脳虚血モデルにおけるMMP発現の解析

Matrix Metalloproteinase (MMP)は細胞外基質分解酵素として知られ、組織のリモデリングやホメオスタシスに働くと考えられている。MMPの過剰発現は組織破壊・炎症病態を促進させ、脳虚血病態においても重要な働きを示す。脳血管基底膜のラミニン、フィブロネクチン、コラーゲン・タイプIVに対するMMPの破壊作用は、血液脳関門を破綻させて滲出液を増大させる。さらに炎症性サイトカインや細胞表面レセプターを活性化し、炎症病態進行に大きく関与すると考えられる。脳虚血急性期では特にMMP-9およびMMP-2の発現が増加することがわかっているが、その機構については不明な点が多い。

本章では、MMP発現と炎症病態の進行機構におけるマスト細胞の働きに着目した。マスト細胞は血管透過促進作用の他に、様々なサイトカインやプロテアーゼを産生して炎症病態の制御に大きく関わっている。第三章では、脳虚血後のMMP発現増加にマスト細胞がどの様に関与するかを目的に検索を行なった。

マスト細胞欠損W/WvマウスおよびWTマウスに両側総頚動脈閉塞処置(15分)を行ない、脳虚血モデルを作成した。虚血-再潅流後24時間の脳組織を採材し、gelatin zymographyおよび免疫組織染色により、MMP活性および抑制因子(TIMP-1)の発現を調べた。

W/WvマウスのMMP-9活性はWTマウスと比較して有意に減少していた。WTマウスの虚血病変周囲で多くの神経細胞がMMP-9を発現するのに対し、W/Wvでは陽性細胞数の減少が観察された。TIMP-1の発現は両群共に血管壁に同程度みられた。以上の結果から、マスト細胞は脳虚血病態において、神経細胞のMMP-9産生を促進し、病変を拡大させる可能性が示唆された。一方TIMP-1の発現は、マスト細胞非依存的に誘導されると考えられた。

以上、第一章では効率的な局所脳虚血モデルの作成に、遠位中大脳動脈閉塞が有効であることが示された。第二章及び第三章では、脳虚血急性期の浮腫・炎症病態においてマスト細胞が病変悪化に関与することがわかった。脳虚血治療の新たなターゲットとして、マスト細胞の安定化が有効である可能性が示唆される。ただし、マスト細胞は神経保護機能を有する事が指摘されており、脳虚血慢性期では異なる働きをする可能性がある。脳虚血慢性期モデルを用いて、さらに詳細な検索が必要である。

審査要旨 要旨を表示する

人口の高齢化が進み、脳虚血疾患は深刻な問題となりつつある。脳神経障害による影響は患者の死亡、後遺症によるQOL低下など、多大な社会的・経済的負荷を与える。脳虚血の基礎病態、治療に関する研究は盛んに行なわれているが、未だ不明な点は多い。本研究ではまずマウスにおける局所脳虚血病態モデルの効率的な作製方法を検討した。次いで、局所および全脳虚血モデルを用いて脳虚血急性期におけるマスト細胞の関与する病態機序を解析した。

第一章 遠位中大脳動脈直接閉塞法を用いたマウス局所脳虚血モデルの作製

脳を支配する動脈は頚動脈が移行したWillis環より派生するが、片側頚動脈閉塞時でも脳は側副循環による血液供給を受けていると考えられる。従って、閉塞部位が近位にあるほど脳虚血病変にばらつきが出る可能性が高い。本章ではマウスを開頭し、直接遠位中大脳動脈に閉塞処置を行った脳虚血モデル(遠位中大脳動脈直接閉塞モデル)を作製し、そのモデルの性状について総頚動脈片側閉塞モデルと比較し、解析を行った。遠位中大脳動脈閉塞群では大脳皮質域に一定の虚血病変が誘導され、処置後24時間で病巣は最大となった。全個体は生存し、効率よく脳組織材料を得ることができた。一方、片側総頚動脈閉塞群では一部のマウスは死亡し、しかも虚血後24時間後の虚血病変に大きなばらつきが認められた。以上の結果から、遠位中大脳動脈直接閉塞法は局所脳虚血病変を効率良く誘導するための有効な手法であることが示された。

第二章 マウス脳虚血モデルにおけるマスト細胞の役割に関する検討

脳虚血急性期は脳半球の膨張を特徴とする脳浮腫が発生する。脳浮腫は細胞膨化や滲出液増加から進行する病態で臨床的に非常に重要な点であるが、その発生機序は十分に解明されていない。しかし、近年脳浮腫を伴う虚血病態にマスト細胞が関与していることが示唆され、注目されている。すなわち、マスト細胞は大脳皮質、海馬および間脳の実質あるいは血管壁周囲に局在し、産生するヒスタミンやTNF-αあるいはサイトカインを介して、血管透過性の亢進ならびに免疫細胞の活性化・遊走に働いているのではないかと推定されている。そこで、本章ではマスト細胞の機能を調節する薬剤およびマスト細胞機能不全マウスを用いて、脳虚血病態におけるマスト細胞の役割を脳浮腫による虚血病巣の膨張に着目して検索した。マスト細胞を活性化させるCompound 48/80あるいは安定化させるCromoglycateな投与した中大脳動脈永久閉塞モデルマウスの脳虚血病変領域はそれぞれ増加ないし減少傾向を示した。また、マスト細胞を欠損するW/Wvマウスの脳虚血病変領域は野生型(WT)マウスのものよりも有意に減少した。これらの変化は、虚血後12時間-2日で最も顕著であった。以上の結果から、マスト細胞の活性化が初期の脳虚血病巣の膨張に強く影響していることが示唆された。

第三章 マスト細胞欠損マウスを用いた全脳虚血モデルにおけるMMP発現の解析

Matrix Metalloproteinase (MMP)は細胞外基質分解酵素として知られ、その過剰発現は組織破壊・炎症を促進させる。脳虚血病態においてもMMPは脳血管基底膜を破壊し、血液脳関門を破綻させて滲出液を増大させる可能性が考えられる。脳虚血急性期でMMP-9および MMP-2の発現が増加することが知られているが、マスト細胞との関連については不明である。そこで、本章ではMMP発現と炎症病態の進行機構におけるマスト細胞の働きに着目して検索を行なった。なお、本実験ではマスト細胞欠損W/WvマウスおよびWTマウスに両側総頚動脈閉塞処置を行ない(全脳虚血)、再潅流後24時間の脳の虚血病変およびMMPの発現を比較した。その結果、W/Wvマウスの虚血後の血管透過性はWTマウスと比較して著しく減少した。また、全脳虚血処置を行ったW/WvマウスのMMP-9活性はWTマウスのそれよりも有意に減少していた。これは虚血病変周辺のMMP-9陽性神経細胞の減少が反映された結果であると考えられた。以上の結果から、マスト細胞は炎症性刺激を介して神経細胞のMMP-9産生を促進し、滲出液増加を中心とした病巣膨張に関与する可能性が示唆された。

以上の結果は、マウスを用いた脳虚血モデルに関する知見を充実させ、特にマスト細胞が脳虚血後の脳浮腫の誘導に強く関与していることを示唆した。これらの研究成果は獣医学学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/26743