学位論文要旨



No 124752
著者(漢字) 仁科,拓
著者(英字)
著者(カナ) ニシナ,タク
標題(和) 薬物誘発性QT延長に伴う心室性不整脈発症機序の解明に関する研究
標題(洋)
報告番号 124752
報告番号 甲24752
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3462号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 准教授 桑原,正貴
 東京大学 准教授 堀,正敏
内容要旨 要旨を表示する

第一章 序論

心電図は心臓の電気現象を体表面から判断する上で非常に有用な測定方法であり、そのQT間隔は心室の興奮開始から終了までの時間を反映している。QT延長症候群はQT間隔に延長が認められ、Torsade de pointes(TdP)と呼ばれる多型性心室頻拍を生じて突然死を招来しうる症候群である。先天性のものや基礎疾患に続発するものが以前より知られているが、近年薬物の副作用によって発症する薬物誘発性QT延長症候群が大きな注目を集めている。これは様々な薬物が心室再分極を担う主要なイオン電流であるIKrを阻害することにより引き起こされるが、心臓を直接のターゲットとしない薬物によっても誘発されることから、臨床医療の現場のみならず創薬の観点からも大きな問題となっている。従ってQT延長に伴う不整脈の発症機序を解明し、予防法・治療法のみならず薬物の安全性を担保することのできる評価モデルを確立することが、社会的にも強く求められている。

これまでの研究により、QT延長に関与する心室再分極過程の遺伝子および分子レベルにおける詳細な解明がなされてきている。しかしながら生体レベルでは必ずしも十分な研究が成されているとはいえず、様々な要因が複雑に影響を及ぼし合い不整脈の発症を引き起こしていると想定されるため、その全容を解明するためにはより統合的・総合的な検討が重要であると考えられる。そこで、本論文では薬物誘発性QT延長に伴う心室不整脈の発症機序を解明することを目指して、生体レベルにおけるIKrの遮断が心室再分極過程に及ぼす影響を自律神経系機能との関連性から詳細に検討した。さらに、得られた知見に基づいて新たな薬物安全性評価モデルを確立することも目的とした。

第二章 イヌを用いた心室再分極過程のばらつきに関する実験系による比較

一般的に心室の再分極異常に伴う心室頻拍性不整脈の発症には、心室筋活動電位持続時間(APD)の変化に加え心室内の部位によるAPDのばらつきが増大することが重要な役割を果たしていると考えられている。この考え方は、イヌの左心室壁冠動脈灌流標本を用いた研究の成果からもたらされた点が大きいが、一方で、生体では通常起こり得ない様な低い刺激頻度による結果であるため、特殊な状況における現象であるとの批判もある。そこで、本章ではより生体に近いモデルであるランゲンドルフ灌流心と麻酔下におけるイヌの心臓を用いて、IKr遮断に対する心室再分極過程のばらつきに関する検討を行った。その結果、ランゲンドルフ灌流心におけるIKr遮断による貫壁性のばらつきの増大は、左室壁動脈灌流標本で報告されているものよりも小さいものの、麻酔下の心臓における結果よりも大きかった。したがって、生体レベルにおいては貫壁性のばらつきが細胞間の電気的な相互作用や機械的ストレスによって減少するうえに、自律神経系活動や液性因子によってさらに影響を受けているものと考えられた。

第三章 薬物により誘発される心室再分極過程におけるばらつきの動物種差

前章において心室再分極過程のばらつきに対する実験系による差異を明らかにした。一方心室におけるイオンチャネルの発現には、動物種差の存在することも知られていることから、本章では不整脈に関連した研究に比較的よく用いられるウサギとブタを用いて、IKr遮断が心室筋APDおよびその貫壁性のばらつきに及ぼす影響について検討を加えた。IKrの遮断によって両動物種とも特に低心拍時に再分極時間に延長が認められたが、薬物によってTdPが誘発されやすいと言われているウサギにおいてのみ低心拍時に貫壁性APDのばらつきが増大した。これらの結果から、生体レベルにおいては特に低心拍時における再分極時間の延長とばらつきの増大が、薬物誘発性TdPの発現に重要であることが示唆された。また、前章におけるイヌでの結果も含めin vivoにおける貫壁性のばらつき増大の程度は、in vitroにおいて報告されている結果と比較して非常に小さかった。これらの結果を総合して考えると、生体におけるTdPの発現には心室再分極過程において他の部位間におけるばらつきの増大や、低心拍時での影響の大きさを鑑みると自律神経系機能の関与している可能性が強いものと考えられた。

第四章 心室再分極過程のばらつきに対する自律神経系機能の直接作用

前章までの検討から、IKr遮断による心室再分極過程の遅延に対して低心拍が大きな影響を及ぼしていることが明らかとなった。自律神経系は心室の再分極過程におけるイオン電流に対して心拍数の変化を介した間接的な作用に加えて直接的な作用を有していると考えられる。そこで本章では、不明な点の多い自律神経系機能の心室再分極過程に及ぼす直接作用を浮き彫りにする目的で、背景にある自律神経系の状態が異なる3つの方法により低心拍状態を作出することにより検討を加えた。(1)交感神経と副交感神経系機能に対して特に操作を加えない洞房結節を破壊したモデル、(2)交感神経系に直接的には操作を加えず右側頸部迷走神経を電気的刺激することによって副交感神経系機能を増大させたモデル、(3)メデトミジンにより交感神経系機能の減弱と副交感神経系機能の増大を期待したモデル。これらのモデルを使用し右心房ペーシングによって心拍数を同一にした上で、貫壁性のばらつきに加えて心尖-心底のばらつきについても検討を加えた。その結果、メデトミジン投与群は他の群に比べてIKrの遮断によって心室再分極過程が顕著に遅延し、心尖-心底のばらつきも大きく増大することが明らかとなった。このことは、TdP発症リスクの増大には心拍数を介した間接的な自律神経系機能のみならず心室イオン電流に対する直接的な作用が影響しており、しかも副交感神経系機能の増大だけでなく交感神経系機能の減弱を伴った心尖-心底におけるばらつきの増大も重要であることを示唆しているものと考えられた。

第五章 メデトメジンとIKr遮断によるTdPの誘発とその機序の解明

前章において副交感神経系機能の増大と交感神経系機能の減弱がTdP発症リスクの増大に関与していることを明らかにした。そこで、本章では実際にTdPを誘発することを試み発症機序を解明するために実験を行った。TdPを誘発するために、メデトミジンを処置した上でより選択的なIKr遮断薬を用いて検討を加えたところ、約半数の例にTdP様の心室頻拍の発現が認められた。さらにこの心室頻拍の電気現象について解析を行ったところ、心室頻拍が単型性から多型性に移行する際には心尖部と心底部の心筋興奮様式の違いが生じることや、トリガーとなる異常興奮の発生には早期後脱分極のメカニズムが関与していることが示唆された。以上のように、メデトメジンとIKr遮断により実際にTdPを誘発できたことから、前章で示した副交感神経系機能の増大と交感神経系機能の減弱と心尖-心底におけるばらつきの増大がTdPの発症に重要であることが確認された。

第六章 メデトミジンを用いた薬物安全性評価モデルの確立

現在、in vivoにおける薬物安全性試験において、薬物によるQT間隔の延長作用については評価が行われているが、TdPの発現そのものをエンドポイントとする評価はなされていない。これまでの結果から、メデトミジンは交感神経系機能を減弱しかつ副交感神経系機能を増大することにより、IKr遮断によるTdPを誘発することが明らかとなった。そこで、メデトミジンの催不整脈作用を用いた薬物安全性評価モデルの確立を目指してさらに検討を行った。メデトミジンによって鎮静し心拍数が100 bpm以下に減少したウサギに、低濃度および高濃度のIKr遮断薬を投与した。どちらの濃度においてもTdPの発現する個体は認められたが、高濃度投与時により重篤な不整脈を発現する個体が多かった。この方法は、実験操作が容易でありしかも心拍数や自律神経系機能を変化させる際に心臓に対する直接的な作用を利用しないモデルであるため、薬物自体の心臓に対する影響を判断する上で信頼性が高く、他の動物への応用も可能であると考えられる点からも、今後、更なる改良を加えることにより薬物安全性評価におけるスタンダードモデルとして発展することが期待される。

第七章 総括

第五章までを通して、薬物誘発性TdPの発現に重要な機序として自律神経系機能と心室再分極過程のばらつきの重要性とその役割を示した。すなわち、副交感神経系機能の増大と交感神経系機能の減弱が、心拍数を減少させるのに加えて心室イオン電流に直接的に作用することにより、IKr遮断時の心室再分極過程の遅延を増強するとともに心尖-心底のばらつきを増大させ、早期後脱分極による異常興奮を引き起こすためリエントリー性の不整脈発症の素地を形成することが明らかとなった。本論文の成果は、これまで個別に説明がなされてきた「心拍数とIKr遮断による再分極遅延作用」および「自律神経系機能と心室再分極イオン電流」のそれぞれの関係性を統合的に示したものであり、生体におけるQT間隔の延長に伴う心室不整脈の発症機序を理解するうえで重要な知見を提供するのみならず、この種の不整脈発症にとって最も一般的な増悪要因であると考えられている「徐脈」における薬物誘発性TdP発症メカニズムを解明したことは、予防法・治療法の開発において意義深いものと考えられる。また、第六章においては第五章までの成果を踏まえ、メデトミジンを用いた薬物安全性評価モデルを開発した。本評価モデルが実際に薬物安全性試験において利用することができるようになれば、応用性の観点からもより本研究の価値が高まるものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

心電図は心臓の電気現象を体表面から判断する上で非常に有用な測定方法であり、その指標の一つであるQT間隔は心室の興奮開始から終了までの時間を反映することから重視されている。QT延長症候群はQT間隔に延長が認められ、Torsade de pointes( TdP)と呼ばれるQRS軸の捻れを伴う特殊な心室頻拍、あるいは心室細動などの重症心室性不整脈を生じて、突然死を招来しうる症候群である。

本論文では薬物誘発性QT延長に伴う心室性不整脈の発症機序を解明することを目指して、心室筋イオンチャネルであるIKrおよびIKSの阻害が心室再分極過程に及ぼす影響を自律神経系機能との関連性から詳細に検討するとともに、得られた知見に基づいて新たな薬物安全性評価モデルを確立することを試みたものである。研究成果の概要は以下のとおりである。

1. イヌにおける心室再分極過程のばらつきに関する研究

心室筋細胞の興奮の空間的、時間的ばらつきの増大が心室頻拍などの重症不整脈の原因として関与することが注目されている。そこで、生体に近いモデルであるランゲンドルフ還流心と麻酔下におけるイヌのintact心臓を用いてIKr阻害に対する心室再分極過程のばらつきに関する実験を行い、左心室壁冠動脈還流標本(wedge標本)における結果と比較検討した。その結果、ランゲンドルフ灌流心におけるIKr阻害による貫壁性のばらつきの増大は、過去に報告されているwedge標本でのばらつきよりも小さく、麻酔下のintact心臓における結果よりも大きかった。したがって、実際の生体レベルにおいては、細胞間の電気的な相互作用や自律神経系作用などによって興奮性のばらつきが緩和されることが示唆された。

2. 薬物誘発性の心室再分極過程のばらつきに関する動物種差

イヌ、ウサギ、ブタを用いて、これらの動物のIkr登阻害、IKs阻害が心室筋活動電位持続時間(APD)のばらつきに及ぼす影響を貫壁性と心尖-心底軸の両面から観察した。その結果、貫壁性APDのばらつきはウサギの低心拍時においてのみ観察されたほか、心尖-心底間のばらつきが明瞭であった。これらの結果から、生体レベルにおいでは特に低心拍時の再分極時間の延長とばらつきの増大、さらに心臓の長軸方向の興奮性のばらつき増大が、薬物誘発性TdPの発現に重要であることが示唆された。

3. 心室再分極過程のばらつきに対する自律神経系機能の役割

心室再分極過程に及ぼす自律神経系機能の直接作用を明らかにする目的で、(1) 洞房結節破壊モデル、(2) 右側頸部迷走神経を電気的刺激モデル、(3) メデトミジンによる低交感神経系機能+高副交感神経系機能モデルを作出し、再分極イオンチャネル阻害の効果を観察した。その結果、メデトミジンモデルは他のモデルに比べてIkr の阻害による心室再分極過程が顕著に遅延し、心尖-心底のばらつきも大きく増大することが明らかとなった。このことは、TdP発症リスクの増大には心拍数を介した間接的な自律神経系機能のみならず心室イオン電流に対する直接的な作用が影響しており、しかも副交感神経系機能の増大だけでなく交感神経系機能の減弱を伴った心尖-心底におけるばらつきの増大も重要であることが示唆された。

4. メデトメジンモデルにおけるTdPの誘発とその誘発機序

上述の実験によって、副交感神経系機能の増大と交感神経系機能の減弱がTdP発症リスクの増大に関与していることが明らかになった。そこで、TdPを積極的に誘発し、その誘発機序を明らかにすることを試みた。メデトミジンモデルにおいてIkr遮断薬を投与すると、約半数の例にTdP様の心室頻拍の発現が認められた。さらにこの心室頻拍の電気現象を詳細に解析したところ、心室頻拍が単型性から多型性に移行する際には心尖部と心底部の心筋興奮様式の時間的ずれが生じることや、トリガーとなる異常興奮の発生には早期後脱分極(EAD)のメカニズムが関与していることが示唆された。

5. メデトミジンを用いた薬物安全性評価モデルの確立

これまでの実験結果を踏まえて、メデトミジンモデルの有用性を既存のモデルであるカールソンモデル(α1遮断薬使用)との間で詳細に比較検討した。その結果、本研究のメデトミジンモデルはカールソンモデルにくらべて、TdPの発現率や他の不整脈重症度に遜色がなく、また誘発方法がメデトミジンモデルの方が容易であり、誘発条件もより生理的であることが明らかになった。

以上を要するに、本研究は薬物誘発性QT延長症候群における重症不整脈の発症メカニズムの一端を明らかにするとともに、実験動物を用いた有効な評価方法を新たに提案するものであり、本研究の成果は医薬品の安全性試験研究ならびに不整脈の診断・治療の分野の発展において学術上、応用上寄与する面が少なくない。よって審査委員一同は、本論文が学位(獣医学)を授与するにふさわしいものと認めた。

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