学位論文要旨



No 124760
著者(漢字) 尹,喜玲
著者(英字) Yin,Xiling
著者(カナ) イン,キレイ
標題(和) モーター分子KIF17の分子遺伝学的研究
標題(洋) Molecular Genetic Study of Kinesin Superfamily Protein, KIF17
報告番号 124760
報告番号 甲24760
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3180号
研究科 医学系研究科
専攻 分子細胞生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡部,繁男
 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 准教授 中村,元直
 東京大学 教授 油谷,浩幸
 東京大学 教授 宮下,保司
内容要旨 要旨を表示する

概要

神経細胞は、シナプスで刺激を受け取る樹状突起と、刺激を他の神経細胞に伝える軸索の2種類の異なった突起を有する。樹状突起と軸索においてはそれぞれ異なった膜小器官および蛋白複合体のコンポーネントが順行性または逆行性に然るべき機能部位へ輸送される。この輸送は微小管をレールとして、キネシンスーパーファミリー蛋白と呼称される蛋白群によって行われる。神経伝達物質および神経伝達物質受容体もキネシンスーパーファミリー蛋白による輸送によって、各々シナプス前部あるいはシナプス後部に運ばれ、神経細胞の情報伝達に供される。多種類存在するキネシンスーパーファミリー蛋白のなかで、私は近年発見されたKIF17に注目して研究を進めている。KIF17は神経細胞に多量に発現するキネシンスーパーファミリー蛋白であり、Lin10 (Mint1)、Lin2 (CASK)、Lin7 (VELIS/MALS)からなる蛋白複合体を介して樹状突起でNMDA受容体の輸送を行うことがin vitroの実験から示唆されていた。しかしながら、KIF17が生体内でいかなる機能を有しているかについて、詳細を調べるために、in vivoの実験が不可欠である。そこで今回、筆者はkif17遺伝子欠損マウスを新たに作成し、解析した。

Kif17遺伝子欠損マウスは、ケージ内環境においては一見正常に発育し、脳切片の明視野鏡検に於いても異常は認められなかったが、その神経細胞においては、シナプスへのNMDA受容体輸送が低下していること、その結果シナプスに含まれるNMDA受容体サブユニットが減少していることが判明した。更に電気生理学的解析によって、長期増強の低下、CREBリン酸化の低下など、シナプスの活動依存的可塑性に関わるメカニズムに異常が見つかり、マウス個体の空間記憶の障害を招いていることが明らかになった。

序論

細胞内物質輸送は、細胞の活動にとって基本的な役割を担っている。従って、この物質輸送のメカニズムを解明することは、細胞生物学の普遍的命題に答えることになるといえよう。これまでの研究により、キネシンスーパーファミリー(kinesin superfamily)が、細胞内物質輸送に重要な働きをしていることが明らかにされてきたが、個々の分子の生理学的・細胞生物学的役割については、未だ不明な点が多く残されている。そこで、本研究では、発生工学的手法であるマウスの標的遺伝子組み換え法(gene targeting)を用い、KIF17遺伝子欠損マウスを作製し、解析することを通じて、KIF17の生体内での役割、及び細胞内での分子機能についての知見を得ようと試みた。

方法と結果

1. 遺伝子組み換え法を用いてkif17遺伝子欠損マウスを作製する。

Kif17遺伝子欠損マウス作製のために、まず、(1)ES細胞のgenomic DNAを鋳型としてPCR法でkif17遺伝子断片を得た。次に、(2)相同組み換えによってKIF17分子のATP結合領域であるexonとPGK-neoカセットが組み変わるようtargeting vector を作成した。(3)電気穿孔法によりtargeting vectorをES細胞に導入して,薬剤耐性を指標として組み換え体を選別した。選別された組み換えcolonyをそれぞれ培養して、その一部よりDNAを精製し,サザン・ブロッティング 法により,相同組み換え体をスクリーニングした。(4)次にこの相同組み換え体をさらに培養して,受精後3.5日のマウス子宮から回収したblastocystの胚盤腔に微小ピペットを用いて注入した。この胚盤胞を別途準備した偽妊娠状態の雌マウス子宮に移植し出産させた。(5)ここで得られたキメラマウスと野生型雌マウスを交配し、仔の遺伝子型をPCR法あるいはサザン・ブロッティング法で検定し変異ES細胞の生殖細胞系列への寄与を確認した。さらに,変異を持つヘテロマウスどうしを掛け合わせることにより,kif17遺伝子欠損ホモマウスを得ることに成功した。

2. 表現型についての解析。

Kif17遺伝子欠損マウスの脳組織の抽出液を用いてウェスタン・ブロッティングを行ったところ、NMDAレセプター受容体サブユニットのNR2AとNR2Bの量が減っていた。次にkif17遺伝子欠損マウス海馬ニューロンの初代培養細胞を作成し、NR2B-YFP遺伝子を導入してその動態を追跡したところ、NR2Bの樹状突起内トランスポートが低下している所見を得た。マウス脳の急性スライスを使用した電気生理実験では、テタヌス刺激によって誘発される長期増強現象と、NMDA受容体依存性興奮性シナプス後電流がノックアウトマウスのスライスで低下していた。また個体レベルでは空間記憶の獲得に遅延が認められた。神経刺激または空間記憶トレーニングによるCREB活性化がノックアウトマウスでは不十分であった。

結論及び考察

1.モーター分子kif17遺伝子欠損マウスを作成し解析した。

2.Kif17遺伝子欠損マウスではNMDA受容体の樹状突起内輸送が低下していた。

3.Kif17遺伝子欠損マウス神経細胞ではNMDA受容体依存性の活動依存的可塑性が低下した。

4.Kif17遺伝子欠損マウスは、空間記憶の獲得に障害が認められた。

5.以上より、KIF17がNMDA受容体を樹状突起内で運ぶことを明らかにした。

6.また、分子モーターによるレセプター輸送が神経可塑性を維持するために必須のメカニズムであることを、初めて個体レベルで証明した。

審査要旨 要旨を表示する

本研究はキネシンスーパーファミリー(kinesin superfamily proteins、KIFs)のメンバーであるKIF17の生体内での役割及び細胞内での分子機能を明らかにするため、KIF17遺伝子欠損マウスを作成し、解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1. 相同組み換えによってKIF17分子のATP結合領域であるexonとPGK-neoカセットが組み変わるようtargeting vector を作成した。電気穿孔法によりtargeting vectorをES細胞に導入して,薬剤耐性を指標として組み換え体を選別した。相同組み換え体をさらに培養して, blastocystの胚盤腔に注入し、キメラマウスを得た。キメラマウスと野生型雌マウスを交配し、仔の遺伝子型をPCR法で検定し変異ES細胞の生殖細胞系列への寄与を確認した。さらに,変異を持つヘテロマウスどうしを掛け合わせることにより,KIF17遺伝子欠損ホモマウスを得ることに成功した。

2. Kif17遺伝子欠損マウスの脳組織の抽出液を用いてウェスタン・ブロッティングを行ったところ、NMDAレセプター受容体サブユニットのNR2AとNR2Bの量が減っていた。

3. Kif17遺伝子欠損マウス海馬ニューロンの初代培養細胞を作成し、NR2B-YFP遺伝子を導入してその動態を追跡したところ、NR2Bの樹状突起内トランスポートが低下している所見を得た。

4. マウス脳の急性スライスを使用した電気生理実験では、テタヌス刺激によって誘発される長期増強現象と、NMDA受容体依存性興奮性シナプス後電流がノックアウトマウスのスライスで低下していた。

5. Kif17遺伝子欠損マウスは、空間記憶の獲得に遅延が認められた。

6. KIF17、NR2BとCREB pathwayを構成する蛋白の関係について調べた。神経刺激または空間記憶トレーニングによるCREB活性化がノックアウトマウスでは不十分であった。以上より、分子モーターによるレセプター輸送が神経可塑性を維持するために必須のメカニズムであることを、初めて個体レベルで証明した。

以上、本論文は新たに作成したKIF17遺伝子欠損マウスを使用し、電気生理学を応用した解析を行ったこと、さらに行動学・細胞生物学等の方法論を組み合わせることによって、実際にin vivoの神経回路網に於いてKIF17が行うNMDAレセプター輸送が学習・記憶にどのように関与していることを明らかにした。本研究はこれまで未知に等しかった、KIF17の特異な役割を明らかにしたのみならず、学習・記憶障害の病態機序の解明ひいては治療法の開発に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク