学位論文要旨



No 124774
著者(漢字) 津野,祐輔
著者(英字)
著者(カナ) ツノ,ユウスケ
標題(和) ラット嗅球における樹状突起間シナプス抑制の覚醒状態依存的変化
標題(洋) Behavioral state-dependent change of dendrodendritic synaptic inhibition in the rat olfactory bulb
報告番号 124774
報告番号 甲24774
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3194号
研究科 医学系研究科
専攻 機能生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 河西,春郎
 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 准教授 尾藤,晴彦
 東京大学 特任准教授 河崎,洋志
内容要旨 要旨を表示する

脳の局所回路の情報処理モードは、異なる覚醒睡眠状態により変化し、それは局所同期活動や脳波(EEG)と関連している。嗅球は、嗅覚システムにおける情報処理の一次中枢であり、におい分子の特性(feature)を表現するマップを形成している。嗅球の主な投射ニューロンである僧帽細胞(mitral cell)はExternal Plexiform Layer (EPL)に長い樹状突起を伸ばし、抑制性ニューロンである顆粒細胞(granule cell)と、多数の樹状突起間双方向性シナプスを形成している(図1A)。この樹状突起間の双方向性シナプスは、僧帽細胞同士の側方抑制や同期的発火に関与していることが報告されている。このシナプスの分子・細胞メカニズムはよく研究されているが、異なる脳の内部状態、特に覚醒睡眠状態によって、このシナプスの伝達や嗅球の局所回路がどのように調節されるかは知られていない。嗅球は、神経調節性の遠心性入力を受け、その中には動物の行動状態により変化するアセチルコリン入力・ノルアドレナリン入力・セロトニン入力が含まれる。これら神経調節性入力の中で特に、顆粒細胞のEPLのスパインがムスカリン性アセチルコリンレセプタを発現することから、私は覚醒状態依存的に変化するアセチルコリン入力によって、嗅球の樹状突起間シナプス伝達が調節されるのではないかという仮説を立てた。この仮説を調べるためにまず、ウレタン麻酔下ラットを用いて、皮質脳波(EEG)で覚醒状態をモニターしながら、僧帽細胞の軸索の束である、LOT (lateral olfactory tract)を電気刺激することによる、誘発電場電位(evoked field potential)をEPLで記録した。ウレタン麻酔下において、覚醒時に似た皮質脳波を示す状態(fast-wave state, FWS)と、徐波睡眠時に似た皮質脳波を示す状態(slow-wave state, SWS)が存在する。ウレタン麻酔下における皮質脳波の変化が、無麻酔下の覚醒・睡眠時の皮質脳波の変化とよく似ていることから、ウレタン麻酔下における脳の内部状態の変化は、無麻酔下の変化を一部反映しているものと考えられる。そのため、ウレタン麻酔下でも、覚醒状態依存的な情報処理モードの切り替えの研究を行うことが可能である。

樹状突起間の双方向性シナプス伝達の覚醒状態依存的な変化を調べる方法として、僧帽細胞の軸索の束であるLOTの2回刺激を用いた。双方向性シナプスの存在する層であるEPLでLOT刺激誘発電場電位を記録すると、1回目のコンディショニング刺激に対する応答として、陰性電位が観察される(図1B,*)。これは僧帽細胞から顆粒細胞への興奮性シナプス入力を反映している。このコンディショニング刺激により顆粒細胞が活性化されることで、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性シナプスが活性化され、僧帽細胞は抑制される。僧帽細胞が抑制されている間に、2回目のテスト刺激を行うことで、EPLで記録される陰性電位が小さくなる(図1B,**)。よって、この陰性電位の減少を用いて、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力の大きさを推定することができる。つまり、LOT2回刺激により誘発される電場電位を測定することで、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制の大きさを調べることができる。この方法を用いて調べた所、コンディショニング刺激に対する応答(*, R(cond))は覚醒状態依存的変化がほとんどみられなかったが、テスト刺激に対する応答(**, R(test))はSWS時に小さくなっていた。この事は、僧帽細胞から顆粒細胞への興奮性入力は覚醒状態依存的変化をほとんど受けないのに対して、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力は、SWS時に強くなっていることを示唆する。

次に、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力が、アセチルコリン入力によって制御されているかを調べるために、嗅球背側部の上に灌流用プールを作成し、その中にムスカリン性アセチルコリンレセプタのアンタゴニストであるスコポラミンを灌流した。その結果、R(cond)には変化が見られなかったのに対して、FWS時のR(test)が非常に小さくなり、SWS時のR(test)の大きさと同程度になった(図2)。この事は、FWS時にはアセチルコリン入力により、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制が抑えられ、R(test)が大きくなったことを示唆している。

では、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力が変化することによって、僧帽細胞の同期的発火は変化するだろうか。嗅球における振動局所電場電位(oscillatory local fiel potential, OLFP)は、僧帽細胞から顆粒細胞への同期的な興奮性シナプス入力によって起こると考えられる。よって、OLFPが僧帽細胞の同期的発火活動を反映していると考えられる。このOLFPの周波数が覚醒状態依存的に変化しているかどうかを調べた。ウレタン麻酔下ラット嗅球で、OLFPを記録したところ、SWS時にはFWS時よりも周波数が低かった(図3)。これは、SWS時に顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力が長くなる事と関連している可能性が考えられる。

最後に、ウレタン麻酔下ではなく無麻酔の自由行動下ラットにおいても、同様に顆粒細胞から僧帽細胞への抑制の覚醒睡眠状態依存的変化が見られるかどうかを調べた。ラットの覚醒睡眠状態を、行動観察と、首からの筋電図記録と、脳波記録を用いて以下の五つに分類した。首の筋電図活動が見られる時を覚醒状態とし、二つに分類した。ラットが動いている時を「覚醒運動時(awake moving)」、動いていない時を「覚醒無動時(awake immobility)」と定義した。首の筋電図の活動が見られない時を睡眠状態とし、三つに分類した。脳波に大きくゆっくりとした徐波(slow-wave)が半分以上見られる時を「徐波睡眠時(slow-wave sleep)」、まるで起きている時のような典型的な速波が見られる時を「REM睡眠時」、それ以外の時を「浅睡眠時(light sleep)」と定義した。そして、ウレタン麻酔下実験と同様にLOT2回刺激の方法を用いて、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制の大きさを推定した。その結果、R(cond)はほとんど変化がないのに対して、Rtestは覚醒睡眠状態依存的に大きな変化が見られた(図4)。覚醒レベルが最も低い徐波睡眠時にR(test)は最も小さく、浅睡眠時、覚醒無動時、覚醒運動時と覚醒レベルが上がるにつれて、次第にR(test)は大きくなっていった。この事は、覚醒レベルが最も低い徐波睡眠時には、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制が最も強く、浅睡眠時、覚醒無動時、覚醒運動時と覚醒レベルが上がるにつれて、次第に抑制が弱くなっていることを示唆する。

以上の結果から、以下のように結論付けられる。僧帽細胞から顆粒細胞への興奮性シナプス入力は覚醒状態依存的変化がほとんどないのに対して、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性シナプス入力は大きな覚醒状態依存的変化がある。顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力は、覚醒時またはFWS時には小さく、徐波睡眠時またはSWS時には大きくなっている(図5)。そしてこの抑制の制御が、アセチルコリン入力によって担われている。この事から、覚醒時には、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制を少し弱め、最適な頻度で僧帽細胞同士が同期発火することで、嗅覚情報を効率よくより高次の嗅皮質に送っているものと考えられる。徐波睡眠時には、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制が強くなっている。これはおそらく、例えば覚醒時に入力した情報を元にして、嗅球内の神経回路の再構築を行うなどといった、別の機能を発揮するのに最適な状態になっているものと考えられる。このように本研究結果は、覚醒状態依存的な情報処理モードの切り替えが、嗅球も含めた脳全体で起こっており、その中でもアセチルコリン入力が重要な役割を担っていることを示唆するものである。

図1.ウレタン麻酔下ラット嗅球において、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制は、SWS時の方がFWS時よりも大きいA,僧帽細胞と顆粒細胞の、樹状突起間双方向性シナプスの模式図。白矢印は興奮性入力、黒矢印は抑制性入力。B,双方向性シナプスの存在する層(EPL)で記録した、2回LOT刺激(白矢頭と黒矢頭)に対する応答。刺激間隔は30ミリ秒。それぞれの状態(赤がFWS、青がSWS)の6回の結果を重ね書きした。コンディショニング刺激に対する応答(*)は覚醒状態依存的変化がほとんどみられなかったが、テスト刺激に対する応答(**)はSWS時に小さくなっていた。

図2.コリン性入力が顆粒細胞から僧帽細胞への抑制を制御している2回LOT刺激のコンディショニング刺激に対する応答(R(cond),□)とテスト刺激に対する応答(R(test).○)の経時的変化。赤はFWS時、青はSWS時を示す。ムスカリン性アセチルコリンレセプタのアンタゴニストであるスコポラミンを嗅球上で濯流することにより、FWS時のR(test)が小さくなった。

図3.振動局所電場電位(oscillatory local field potential, OLFP)の周波数は、SWS時の方がFWS時よりも低い(ウレタン麻酔下ラット嗅球)嗅球GCLにおける自発的な振動局所電場電位を記録しフーリエ解析を行い、周波数ごとの強度をプロットして、パワースペクトル表示した。横軸が時間、縦軸が周波数。赤が最も強い。主な周波数は、状態がFWSからSWSへと切り替わるのに伴って低くなった。

図4.自由行動下ラットにおける顆粒細胞から僧帽細胞への抑制の覚醒状態依存的変化自由行動下ラットにおける、コンディショニング刺激に対する応答(R(cond))とテスト刺激に対する応答(R(test))の経時的変化。R(test)の色は刺激時の覚醒状態を表す。覚醒状態が最も低い徐波睡眠時にR(test)は最小となり、浅睡眠、覚醒無動、覚醒運動と覚醒状態が上がるにつれて,Rtestは大きくなった。

図5.嗅球における覚醒状態依存的な抑制性入力の変化と、コリン性入力の模式図覚醒時もしくはFWS時には(左)、強いコリン性入力により顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力(黒矢印)が抑えられているが、僧帽細胞から顆粒細胞への興奮性入力(白矢印)は変化がない。徐波睡眠時もしくはSWS時には(右)、コリン性入力が弱く、そのため顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力が強くなると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、嗅覚情報処理の一次中枢である嗅球において、覚醒状態依存的な情報処理モードの切り替えを明らかにするため、抑制性細胞である顆粒細胞(granule cell)から興奮性細胞である僧帽細胞(mitral cell)への抑制の、覚醒状態依存的変化を調べたものであり、下記の結果を得ている。

1.ウレタン麻酔下ラット嗅球において、僧帽細胞から顆粒細胞への興奮性入力は、覚醒状態依存的変化がほとんど見られなかった。それに対して、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力は、覚醒状態が低いと考えられるSlow-wave state (SWS)時に、強くまた長くなっていた。実験方法としては、皮質脳波で覚醒状態をモニターしながら、僧帽細胞の軸索の束であるLOTを刺激し、嗅球において誘発電場電位を記録した。また、僧帽細胞から細胞内記録を行いLOT刺激により誘発されるIPSPを記録した。その結果、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制の大きさと長さが、SWS時に大きくなっていることを明らかにした。

2.ウレタン麻酔下ラット嗅球での、LOT刺激により誘発される顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力が、NMDAレセプタおよびGABAAレセプタを介していることを、薬理学的に明らかにした。方法としては、嗅球の上にプールを作り、その上に薬液を灌流させた。その結果、NMDAレセプタとGABAAレセプタのアンタゴニストを投与することにより、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制が消失した。この結果により、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制がNMDAレセプタとGABAAレセプタを介していることを明らかにした。

3.ウレタン麻酔下ラット嗅球での、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力の覚醒状態依存的変化は、ムスカリン性アセチルコリンレセプタにより制御されていることを、薬理学的に明らかにした。方法としては、ムスカリン性アセチルコリンレセプタのアンタゴニストであるスコポラミンと、非選択的なアセチルコリンレセプタのアゴニストであるカルバコールを嗅球上に灌流した。その結果、スコポラミンの灌流により顆粒細胞から僧帽細胞への抑制が大きくなり、カルバコールの灌流により抑制が小さくなった。この結果は、覚醒状態が高いと考えられるFast-wave state (FWS)時にはアセチルコリン入力により、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制が弱められている可能性を示唆する。

4.ウレタン麻酔下ラット嗅球で、振動局所電場電位(oscillatory local field potential)を記録したところ、SWS時に周波数が低くなっていた。また、僧帽細胞の同期的発火の周波数が、SWS時に低くなっていた。これは、SWS時に顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力が長くなる事と関連している可能性がある。

5.自由行動下ラット嗅球において、覚醒状態が低い徐波睡眠時に、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力が最も強くなった。そして、浅睡眠時、覚醒無動時、覚醒運動時と覚醒レベルが上がるにつれて、抑制が弱くなった。方法としては、行動観察と、首からの筋電図記録と、皮質脳波記録により、覚醒状態を分類した。そして、自由行動下ラットを用いて、同じくLOT刺激による誘発電場電位を嗅球で記録した。その結果、覚醒状態が低い徐波睡眠時に、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制性入力が最も強くなることを明らかにした。

以上の結果から、覚醒時は、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制を少し弱め、最適な頻度で僧帽細胞同士が同期発火し、嗅覚情報を効率よくより高次の嗅皮質に送っているものと考えられる。それに対して徐波睡眠時は、顆粒細胞から僧帽細胞への抑制が強くなっている。これはおそらく、例えば覚醒時に入力した情報を元にして、嗅球内の神経回路の再構築を行うなどといった、別の機能を発揮するのに最適な状態になっているものと考えられる。このように、覚醒状態依存的な情報処理モードの切り替えが、嗅球も含めた脳全体で起こっており、その中でもアセチルコリン入力が重要な役割を担っていることが示唆された。

以上、本論文は嗅球において電気生理学的解析から、覚醒状態依存的な抑制性入力の変化と、僧帽細胞の同期的活動の変化を明らかにした。また、薬理学的解析も組み合わせることで、覚醒状態依存的な抑制性入力の変化の原因が、アセチルコリン入力である可能性を示唆した。本研究はこれまで知られていなかった、嗅球における覚醒状態依存的変化を明らかにし、覚醒状態依存的な情報処理モードの切り替えのメカニズムと意義の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/24381