学位論文要旨



No 124777
著者(漢字) 吉田,郁恵
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,イクエ
標題(和) 嗅皮質における食べ物のにおい表現
標題(洋) Food Odor Representation in the Olfactory Cortex
報告番号 124777
報告番号 甲24777
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3197号
研究科 医学系研究科
専攻 機能生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 狩野,方伸
 東京大学 教授 河西,春郎
 東京大学 准教授 小西,清貴
 東京大学 教授 山岨,達也
 東京大学 講師 近藤,健二
内容要旨 要旨を表示する

嗅皮質は、嗅球の投射ニューロンであるmitral cellとtufted cellからの入力を受け取る嗅覚情報処理経路の皮質領域である。近年の研究により、1つの嗅皮質ニューロンが、多種のにおい分子についての信号を統合することを示す結果が出されている。しかし、「どのにおい分子の信号が嗅皮質の個々のニューロンで統合されているのか?」については、まだ明らかにされていない。この疑問は、例えば、多種多様のにおい分子の複雑な混合物である食べ物のにおいの情報を処理する際に果たす、嗅皮質の役割を明らかにするためにも重要である。そこで私は、動物が生きていく上で最も重要な行動の1つである「食べ物の感知・識別」に着目し、食べ物のにおいが、嗅皮質の一部の領域である前梨状皮質でどのように処理されているのかを麻酔下のラットを用いて細胞外記録法で調べた。その結果、

1.個々の食べ物(野菜・果物)のにおいは、特定の主要構成におい分子のプロフィールで決められること

2.嗅皮質には、野菜や果物のにおいに応答する細胞が存在すること

3.嗅皮質ニューロンが、野菜・果物の特定の主要構成におい分子またはその組み合わせに選択的に応答すること

4.果物のにおいに応答する個々の嗅皮質ニューロンは、その果物に含まれる特定のにおい分子にも応答すること

を見出した。この結果は、多種多様のにおい分子から構成される食べ物のにおいが、嗅皮質では、特定のにおい分子の組み合わせとして処理されており、嗅皮質ニューロンのにおい分子の組み合わせに対する選択性が、異なるにおい分子で構成される食べ物間の区別を可能にしていることを示唆する。

前梨状皮質で多数のにおい分子の混合物である野菜や果物のにおいの情報がどのように処理されているかを調べるにあたり、最も問題になったのは、個々の食べ物に含まれるにおい分子の多様性と多さであった。動物の鼻から吸い込まれた食べ物のにおいは、まず、特定のにおい分子受容体によって受容され、嗅上皮から嗅球まではにおい分子受容体ごとに分類し処理される。におい分子受容体は、それぞれのにおい分子を、分子構造によって受容することから、食べ物に含まれるにおい分子も特徴的な分子構造によって分類することによって、嗅上皮・嗅球のレベルで別々に処理されていると考えられるにおい分子群に分けられるのではないかと予想した。そこで、個々の食べ物のにおいを特徴づける主要なにおい分子を文献により調べ、におい分子の構造と感じられるにおいの質によって14種類のカテゴリーに分類した(図1)。この分類から、個々の野菜や果物のにおいは、特定の構造を持つにおい分子、もしくは、複数のにおい分子の組み合わせとして特徴づけられることが明らかになった。

嗅上皮-嗅球では、におい分子受容体を基盤として、におい分子の構造ごとに分類された処理が行われていることから、食べ物のような複雑なにおい分子の混合物の情報を処理するためには、脳内の嗅覚情報処理経路の中で、構造ごとに分類された信号を統合する必要があると考えられる。そこで、私は、「嗅皮質で異なるにおい分子カテゴリーの情報が統合されている」という仮説を立て、実験により検証した。

実験には、麻酔下のラットを用いて、嗅皮質の中でも前梨状皮質のニューロンの活動を細胞外記録法により記録した。1回の記録時間内に十分な記録ができるよう、におい刺激には、食べ物に含まれる14種類のにおい分子カテゴリーの中から8種類を選択した(図1で色がついているカテゴリー、Sul, MPZ, C6C9, ITC, tHC, Ester, tAl, NH2)。その結果、前梨状皮質で、複数のにおい分子カテゴリー刺激に応答するニューロンが存在することを明らかにした(図2)。例えば図2のニューロンは、MPZ、ITC、NH2の刺激に対して、選択的に応答した。

図2で示したような複数のにおい分子カテゴリーの刺激に応答するニューロンは、前梨状皮質で記録した92細胞のうち33細胞(35%)で記録された(図3)。このことは、前梨状皮質のニューロンの一部は確かに複数のにおい分子カテゴリーの情報を統合していることを示唆する。

また、図3で示した通り、それぞれのニューロンが応答するにおい分子カテゴリーはニューロンごとに異なっていた。それぞれのニューロンが持つにおい分子カテゴリー選択性は、図1で示したような、個々の野菜や果物を特徴づけるにおい分子カテゴリーの組み合わせの感知や識別に役立っているのではないかと私は推測している。

また、前梨状皮質のニューロンは、同時に存在する複数のにおい分子カテゴリーの組み合わせにも選択性を示すことを明らかにした(図4)。

mixture facilitationとmixture inhibitionによって、前梨状皮質の細胞は、におい分子カテゴリーの組み合わせに対して、より選択性を持つことができると考えられ、このこともまた、特定のにおい分子カテゴリーの組み合わせで特徴づけられる野菜や果物のにおいの識別に嗅皮質の細胞が役立っていることを示唆する。

それでは、これらにおい分子カテゴリーに選択性を持つ前梨状皮質の細胞は、食べ物のにおいの情報を処理する際にどのように使われているのだろうか?この疑問に対する答えを得るため、私は、嗅皮質の細胞の中でも、実際に果物のにおいに応答する細胞に注目し、それぞれの細胞が果物のにおいを構成するどのにおい分子についての信号を受け取っているかを調べた。

図5で示した細胞は、合成したグレープの香料に応答する2つの細胞である。Aに示した細胞は、このグレープ香料に含まれる3つの構成におい分子の刺激に対しても応答した。また、Cに示した細胞は、9つの構成におい分子に対しても応答した。この結果から、食べ物のにおいをかいだ時に応答する前梨状皮質のニューロンも、複数の構成におい分子の信号を統合しているニューロンであること、また、構成におい分子に対する選択性は、ニューロンごとに異なっていることが示唆された。

以上の結果より、嗅皮質では、多様なにおい分子の混合物である食べ物のにおいの情報が、いくつかのにおい分子(カテゴリー)の組み合わせとして処理されていることが予想される。そして、異なるにおい分子選択性を持つニューロン群がアンサンブルとして働き、同じ食べ物のにおいの情報を処理する上で機能しているのではないかと推測している。

図1 33種類の野菜・果物のにおいを特徴づけるにおい分子カテゴリー

それぞれの食べ物に含まれるにおい分子を分子構造により分類した。横列に分類したにおい分子カテゴリー、縦列に調べた野菜・果物を示す。存在するにおい分子は、欄を塗りつぶしてあらわした。

個々の食べ物のにおいは、特定のにおい分子カテゴリーやその組み合わせ(におい分子カテゴリープロフィール)によって特徴づけられている。

図2 1前梨状皮質細胞の応答

A.MPZ(メトキシピラジン類)に対する応答例

B.刺激に用いた全8種類のにおい分子カテゴリーに対する応答。このニューロンは、メトキシピラジン類、イソチオシアネート(ITC)類、アミン(NH2)類の刺激に応答した。

C.Bの応答を模式化したもの。

図3 におい分子カテゴリー刺激に応答した70細胞の、におい分子カテゴリー選択性

番号のついた横線が、それぞれのニューロンを表す。上向きが興奮性の応答、下向きが抑制性の応答。それぞれのニューロンが、単一もしくは複数のにおい分子カテゴリーに選択的に応答した。

図4 前梨状皮質ニューロンでみられたmixture facilitationとmixture inhibition

上、この細胞は、Esterの刺激にもITCの刺激にもほとんど応答を示さないが、EsterとITCで同時に刺激すると、強い興奮性応答が観察された。

下、この細胞はSulの刺激にはほとんど応答を示さず、ITCの刺激には強い興奮性応答を示した。しかし、SulとITCで同時に刺激すると、ITC単独刺激時に観察された興奮性応答が見られなくなった。

図5 合成したグレープ香料に応答する前梨状皮質の細胞の、構成におい分子刺激に対する応答

A グレープのにおい刺激に対して強い興奮性応答を示す細胞。

B Aで示したグレープ応答細胞の、グレープを構成するにおい分子の刺激に対する応答。この細胞は、構成におい分子G1(Furaneol)とG5 (Ethyl benzoate)とG7(n-Butyric acid)に対して選択的に応答した。

C グレープのにおい刺激に応答する別の細胞。

D Cの細胞の、グレープ構成におい分子刺激に対する応答。この細胞は、9つの構成におい分子のすべてに対して興奮性の応答を示した。

A、Cどちらの細胞も、複数の構成におい分子についての入力を受け取っており、それぞれの細胞は、構成におい分子選択性が異なるものであった。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、哺乳類嗅覚神経系においてまだ明らかにされていない嗅皮質領域の機能の解明を目指し、動物が嗅覚を最もよく使う行動の一つである「食べ物の感知・識別」に着目し、「食べ物のにおい情報」が嗅皮質でどのように処理されているのかを麻酔下のラットを用い、細胞外記録法を用いて解析したものであり、下記の結果を得ている。

1. 食品科学の分野で盛んに調べられている、食べ物(野菜・果物)のにおいを構成するにおい分子の中でも特に個々の食べ物のにおいを特徴づけるにおい分子(主要構成におい分子)を文献により調べ、におい分子の分子構造により14種類のにおい分子カテゴリーに分類した。この分類から、個々の野菜や果物のにおいが、特定の構造を持つにおい分子、もしくは、複数のにおい分子の組み合わせとして特徴づけられることが示された。

2. 麻酔下のラットで、嗅皮質の一部の領域である前梨状皮質のニューロンの活動を細胞外記録法で記録したところ、58%のニューロンで、特定の野菜や果物のにおい刺激に対する応答が観察されたことから、前梨状皮質の記録した領域のニューロンが「食べ物のにおい」の情報処理に関与しうることが示された。

3. 野菜や果物のにおいに対して応答するニューロンが観察された前梨状皮質の同じ領域で、野菜や果物の主要構成におい分子に対するニューロンの応答特性を、14種類のにおい分子カテゴリーのうちの8種類(sulfides, methoxypyrazines, 6-carbon,9-carbon alcohols and aldehydes, isothiocyanates, terpene hydrocarbons, esters, terpene alcohols, amines)を刺激に用いて調べた。その結果、同じ領域に存在するニューロンが、野菜や果物のにおいを構成する個々のカテゴリーの刺激に対しても興奮性又は抑制性の応答をすることが示された。

4. 野菜や果物のにおいを構成するにおい分子カテゴリー刺激に応答したほとんどすべてのニューロンが、1つもしくは複数のにおい分子カテゴリー刺激に選択的に応答を示した。個々のにおい分子カテゴリー刺激の情報は異なるにおい分子受容体チャネルを介して嗅皮質へと伝えられると考えられることから、本研究で記録した前梨状皮質に存在するニューロンが、複数のにおい分子カテゴリーの情報を統合しうることが示された。

5. 8種類のにおい分子カテゴリーを2種類ずつ組み合わせて同時に刺激したときの前梨状皮質ニューロンの応答を、1種類で単独に刺激した時の応答と比較したところ、特定の2種類のカテゴリーで同時刺激した場合の応答のほうが、1種類単独刺激に対する応答よりも大きくなるmixture facilitation、2種類同時刺激に対する応答が、1種類単独刺激に対する応答よりも小さくなるmixture inhibitionが観察された。このことから、前梨状皮質には、複数のにおい分子カテゴリーの組み合わせに対して選択性を持つニューロンが存在することが示された。

6. 果物(グレープ・スイカ)のにおいに応答する前梨状皮質ニューロンについて、それぞれの構成におい分子刺激に対する応答を調べたところ、グレープやスイカのにおいに応答する多くのニューロンが、複数の構成におい分子刺激に対しても応答することが示された。

以上、本論文は、麻酔下ラットの嗅皮質において、野菜や果物のにおいやそれらを構成するにおい分子カテゴリーの刺激を用いて、嗅皮質のうちの前梨状皮質ニューロンにおいて、野菜や果物のにおいを構成するにおい分子カテゴリーの情報が統合され、個々のニューロンが特定のにおい分子カテゴリーの組み合わせに対して選択性を持つことを明らかにした。本研究は、機能がほとんど知られていない嗅皮質で「食べ物のにおい」がどのように処理されているのか、「食べ物の知覚・識別」に嗅皮質ニューロンがどのように関与するのかを明らかにする上で重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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