学位論文要旨



No 124810
著者(漢字) 切原,賢治
著者(英字)
著者(カナ) キリハラ,ケンジ
標題(和) 統合失調症における事象関連電位を用いた視線認知異常と臨床症状・社会機能との関連の検討
標題(洋)
報告番号 124810
報告番号 甲24810
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3230号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 川合,謙介
 東京大学 教授 真鍋,俊也
 東京大学 准教授 坂井,克之
 東京大学 教授 大友,邦
 東京大学 講師 湯本,真人
内容要旨 要旨を表示する

1. 研究の背景と目的

統合失調症は、特徴的な幻覚・妄想などの陽性症状、感情鈍麻や意欲減退などの陰性症状を呈する精神疾患であり、慢性に経過して社会機能を障害する。統合失調症の中核的な障害として認知機能障害があるが、最近では社会的認知の障害も報告されている。その一つに顔認知がある。人の顔を見て、それが誰かを見分けたり、相手の感情や意図を理解したりすることは社会生活を送る上で重要である。顔認知に関わる脳部位としては、functional Magnetic Resonance Imaging (fMRI) を用いた研究により紡錘状回、上側頭溝などが報告されている。一方、顔認知に関わる情報処理がいつ行われるか調べるためには、時間分解能が高い事象関連電位(event-related potential; ERP)が有用である。これまでの研究によると顔認知の際には後側頭部にN170というERP成分が出現し、顔認知に関連すると考えられている。顔認知の際には後頭部にP100というERP成分も出現するが、顔に特異的でなく一般的な視覚情報処理を反映している。統合失調症では顔認知に関わる脳部位やERP成分の障害があることが報告されている。MRIを用いた研究では、統合失調症患者で両側の紡錘状回の灰白質体積減少が報告されている。ERPを用いた研究では、統合失調症患者で顔に対するN170振幅が減衰していることが報告されている。

顔の中でも目は多くの情報を伝えるため、視線認知についても検討が必要である。視線認知は相手の注意の方向を知るだけではなく、相手の好みや意図を推測する際にも役立つ。そのため、社会的認知や対人交流で重要な役割を果たす。統合失調症患者では誰も見ていないのに誰かに見られていると感じる症状や他人と視線を合わせようとしないといった特徴があり、視線認知の異常が推測されている。また、視線認知の異常は社会的認知や対人交流の障害と関連しているかもしれない。統合失調症の視線認知についてはこれまでにいくつかの研究がある。行動指標を用いた研究では、統合失調症患者で視線認知障害があるとする報告とないとする報告とがある。fMRIを用いた研究では、統合失調症患者は健常者と比べて視線認知の際に両側下前頭回、両側紡錘状回などで神経活動が減少していることを報告している。しかし、これまでERPを用いて統合失調症の視線認知の異常を検討した研究はない。

本研究ではERPを用いて統合失調症の視線認知について検討した。健常者ではN170が視線の影響を受けると報告されており、統合失調症患者と健常者とで視線がN170に及ぼす影響が異なるかを検討した。また、N170より前の段階であるP100で視線や統合失調症の影響がないかも検討した。視線認知は社会生活で重要な役割を果たすことからN170と社会機能との関連を検討した。また、妄想の強い患者で視線を誤認しやすいとの報告があることからN170と臨床症状、特に陽性症状との関連も検討した。

2. 方法

統合失調症患者20名(男性15名、女性5名;平均年齢34.2歳)と健常者20名(男性15名、女性5名;平均年齢31.0歳)が本研究に参加した。本研究は東京大学医学部倫理委員会の承認を得ており(No.629-1)、全ての対象者に研究内容を十分に説明した後、文書にて同意を得た。Positive And Negative Syndrome Scale (PANSS) を用いて統合失調症患者の臨床症状を評価した。社会機能についてはSocial Functioning Scale (SFS) を用いて評価した。

実験では視線をそらした顔(averted eyes)と視線を合わせた顔(straight eyes)とを提示した。被験者は提示される顔画像を見て、被験者を見ているか否かボタン押しを行った。行動指標として正答率、反応時間が得られた。課題中に64電極から脳波を測定した。得られた脳波データを解析してP100とN170を同定した。O1、O2とその近傍の電極からP100振幅と潜時を測定した。P7、P8とその近傍の電極からN170振幅と潜時を測定した。

正答率と反応時間については、診断を被験者間要因、視線を被験者内要因とする分散分析を行った。ERP成分については、診断を被験者間要因、視線、左右半球、電極を被験者内要因とする分散分析を行った。ERP成分とPANSS得点、SFS得点との間でSpearmanの順位相関係数を求めた。

3. 結果

正答率はstraight eyesと比べてaverted eyesで有意に低かった。診断の主効果を認めなかった。反応時間はstraight eyesと比べてaverted eyesで有意に遅かった。健常者と比べて統合失調症患者で有意に遅かった。

P100振幅は左半球と比べて右半球で有意に増大していた。視線および診断の主効果を認めなかった。P100潜時は健常者と比べて統合失調症患者で有意に延長していた。視線および半球の主効果を認めなかった。

N170振幅は健常者と比べて統合失調症患者で有意に減衰していた。視線と半球との間に有意な交互作用を認めたため左右に分けて解析を行った。左半球では視線および診断の主効果を認めなかった。右半球ではstraight eyesと比べてaverted eyesで有意にN170振幅が増大していた。健常者と比べて統合失調症患者で有意にN170振幅が減衰していた。N170潜時は健常者と比べて統合失調症患者で有意に延長していた。右半球と比べて左半球で有意にN170潜時が延長していた。視線の主効果を認めなかった。

相関解析では、straight eyesに対する左半球のN170振幅とPANSS陽性症状との間に有意な負の相関を認めた。straight eyesに対する右半球のN170振幅とSFS得点との間に有意な負の相関を認めた。averted eyesに対する右半球のN170潜時とPANSS陽性症状との間に有意な正の相関を認めた。

4. 考察

P100振幅は視線や診断の効果を認めなかった。本研究の結果は、一般的な視覚情報処理を反映するP100の段階では視線認知は行われていないこと、および、統合失調症ではこの段階では異常がないことを示唆する。ただし、P100潜時は統合失調症患者で健常者よりも延長しており、この段階で情報処理の遅延があることを示唆する。

N170振幅は、右半球ではaverted eyesでstraight eyesよりも大きかった。P100振幅は視線の効果を認めなかったことから、この段階で視線認知が行われると考えられる。右半球のN170振幅は統合失調症患者で健常者よりも減衰していた。P100振幅は診断の効果を認めなかったことから、統合失調症ではこの段階で異常があると考えられる。視線と診断との交互作用を認めず、統合失調症のN170振幅減衰は視線認知に特異的ではなかった。統合失調症患者でのN170振幅減衰は課題への注意や動機づけなど非特異的要因によるものであるかもしれない。しかし、選択的注意の影響を受けるP100振幅は統合失調症患者で減衰していなかったことから、統合失調症患者も健常者と同程度に注意していたと思われる。また、先行研究で統合失調症におけるN170振幅減衰は顔に特異的であることが報告されており、これらを合わせて考えると、今回のN170振幅減衰は顔認知の障害を反映していると思われる。

一方で、左半球では視線や診断の効果を認めず、視線、診断のN170への影響には左右差があった。相関についても、統合失調症患者において、右半球のN170振幅が大きいほど社会機能も良好であるという相関を認めた一方で、左半球のN170振幅が大きいほど陽性症状が強いという相関を認めた。そのため、N170の意義が左右で異なるものと思われた。右半球のN170振幅に反映される神経活動は、統合失調症で障害されており、その障害が社会機能と関連することを示唆する。一方、左半球のN170振幅に反映される神経活動は、統合失調症では妄想などの陽性症状と関連するのかもしれない。

統合失調症の右半球のN170振幅は社会機能と相関していた。このことから、右半球のN170振幅は統合失調症の社会機能の指標となるかもしれない。通常の診察では患者の社会機能を把握することは難しく、社会機能を推測する客観的な指標は有用性が高い。また、統合失調症は症状だけでなく社会機能を改善することが重要であるため、治療効果の判定にも有用である。今後は、この所見がどの病期で認められるのか、治療でどう変化するのかを調べる必要がある。

N170潜時は統合失調症患者で健常者よりも延長していた。統合失調症患者はP100潜時も延長しており、早期の視覚情報処理の遅れが、後の顔情報処理の遅れにつながっていると思われる。

なお、本研究では、統合失調症患者の反応時間は約200msの遅れがあった。一方、P100潜時、N170潜時の遅れは10ms程度であった。統合失調症患者における反応時間の遅延のほとんどは、視覚情報処理の遅れによるものではなく、その後の情報処理および運動の遅れによるものと思われた。

5. 結論

本研究の結果から、統合失調症では早期の一般的な視覚情報処理には異常を認めないが、その次の顔を認識する構造的符号化過程に異常があることが示唆された。この異常には左右差があり、右半球では統合失調症患者のN170の異常が社会機能の障害と関連すること、左半球では統合失調症患者のN170の異常が陽性症状と関連することが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は統合失調症患者の社会機能において重要な役割を果たしていると考えられる視線認知の異常について明らかにするため、統合失調症患者と健常者に視線をそらした顔(averted eyes)と視線を合わせた顔(straight eyes)とを提示して視線弁別課題を行わせて脳波を測定し、事象関連電位(event-related potential; ERP)の解析をしたものであり、下記の結果を得ている。

1. 統合失調症患者と健常者でともに、顔画像を提示後約100ms後に後頭部優位にP100が出現した。顔画像を提示後約170ms後には後側頭部優位にN170が出現した。

2. P100振幅は視線および診断の効果を認めなかった。P100潜時は統合失調症患者で健常者よりも延長していた(F(1,38)=5.03, p=0.03)。視線の効果は認めなかった。以上の結果は、早期の一般的な視覚情報処理を反映するP100は視線認知と関連せず、統合失調症で大きな異常はなく情報処理の遅延のみがあることを示唆する。

3. N170振幅と視線、診断の関係には左右差があった。右半球ではaverted eyesの方がstraight eyesよりもN170振幅が大きかった(F(1,38)=6.42, p=0.02)。統合失調症患者で健常者よりもN170振幅が減衰していた(F(1,38)=6.50, p=0.02)。視線と診断の交互作用は認めなかった。左半球ではN170振幅は視線および診断の効果を認めなかった。N170潜時は統合失調症患者で健常者よりもが延長していた(F(1,38)=7.21, p=0.01)。視線の効果を認めなかった。統合失調症患者でのN170振幅減衰は課題への注意や動機づけなど非特異的要因によるものであるかもしれないが、選択的注意の影響を受けるP100振幅は統合失調症患者で減衰していなかったこと、先行研究で統合失調症におけるN170振幅減衰は顔に特異的であることから、今回のN170振幅減衰は顔認知の障害を反映していると思われる。また、統合失調症では早期の一般的な視覚情報処理の遅延を受けて、顔の構造的符号化過程も遅延していることが示唆された。

4. straight eyesに対する左半球のN170振幅とPANSS陽性症状との間に有意な負の相関を認めた(rho=-0.44, p<0.05)。また、straight eyesに対する右半球のN170振幅とSFS得点との間に有意な負の相関を認めた(rho=-0.47, p=0.04)。以上の結果からN170の意義が左右で異なるものと思われた。右半球のN170振幅に反映される神経活動は、統合失調症で障害されており、その障害が社会機能と関連することを示唆する。一方、左半球のN170振幅に反映される神経活動は、統合失調症では妄想などの陽性症状と関連するのかもしれない。

以上、本論文は統合失調症患者において視線認知の際にERP成分の異常があること、およびERP成分の異常が臨床症状・社会機能と関連することを明らかにした。本研究は統合失調症の視線認知異常および臨床症状・社会機能との関連の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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