学位論文要旨



No 124867
著者(漢字) 池田,弘之
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,ヒロユキ
標題(和) 運動による生理的心肥大誘導過程におけるインスリン受容体シグナルとインスリン様成長因子受容体シグナルの役割
標題(洋) Redundant roles of myocardial insulin receptor- and IGF receptor-mediated signals in exercise-induced cardiac hypertrophy
報告番号 124867
報告番号 甲24867
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3287号
研究科 医学系研究科
専攻 生殖・発達・加齢医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 准教授 岡,明
 東京大学 准教授 平田,恭信
 東京大学 准教授 植木,浩二郎
 東京大学 特任准教授 森田,啓行
内容要旨 要旨を表示する

背景:

生後の心筋の成長は、主に個々の心筋細胞の肥大による。正常な心筋の発達過程のほかに、種々の外的・内的刺激因子により心筋細胞の肥大が引き起こされる。これらの肥大は病的肥大と生理的肥大に大別される。病的肥大は、収縮不全などの心機能異常や間質の線維化など組織学的異常によって特徴づけられ、典型的には高血圧・心筋梗塞・弁膜症においてみられる。一方、生理的肥大においては、心収縮能は正常あるいは亢進し、組織学的な構造異常はみられず、典型的にはスポーツ選手においてみられる。心不全患者のなかには運動により予後が改善される一群があることが知られており、病的心肥大の動物モデルにおいても運動により心機能異常や分子レベルでの異常が改善されることが知られている。このように、生理的肥大を促進することは心疾患治療の選択肢の一つとなり得る。

インスリン/インスリン様成長因子(IGF)-PI3キナーゼ-Akt経路は糖代謝、細胞増殖などの様々な細胞応答を調節するシグナル伝達系である。とくに、IGFは運動による生理的心肥大の誘導過程において、重要な役割を果たすと考えられている。スポーツ選手において心臓におけるIGF-1の増加が生理的心肥大と関連し、ラット心筋においては運動によりIGF-1のmRNA量が増加することが知られている。また、IGF受容体(IGFR)過剰発現マウスにおいては生理的心肥大が誘導される。一方、インスリン受容体(IR)を介するシグナルも心臓の成長や機能の制御に重要な役割を果たすと考えられる。心筋細胞特異的インスリン受容体ノックアウトマウス(CIRKO)は心重量の低下をきたし、軽微な心収縮能低下をきたすことから、生理的心肥大の成立過程における、IRを介するシグナルの役割も示唆される。このように、IGFを介する生理的心肥大成立の詳細なメカニズムは明らかでない。本研究においては、生理的心肥大成立過程におけるIGFRとIRの役割を明らかにする目的で、心筋細胞特異的IGF受容体ノックアウトマウス(CIGFRKO)、心筋細胞特異的インスリン受容体ノックアウトマウス(CIRKO)およびIGFR・IR両者のノックアウトマウスを作成し解析を行った。

方法と結果:

まず、われわれは心筋細胞特異的インスリン様成長因子受容体ノックアウトマウス(CIGFRKO)を作成した。CIGFRKOは通常飼育下において心重量低下をきたすことを予想していたが、予想に反し、成体のマウスにおいてCIGFRKOには明らかな表現型が認められなかった。そこで、10週令のマウスを用い4週間の水泳による運動負荷試験を行った。運動負荷後、コントロール群(野生型)とCIGFRKO群の両者において同等の生理的心肥大を認めた。両群を、心体重比・組織学的な心筋細胞横断面積・心臓超音波検査による心収縮能を指標として比較したところ、両群間に有意差は認められなかった。

「IGFRをノックアウトしても生理的心肥大はおこる」という、これらの結果は、これまでに考えられていたIGFシグナルが生理的心肥大に果たす重要性をもとに考えると意外な結果であった。そこで、まず、CIGFRKOにおいてIGFRを介するシグナルが遮断されてかどうかを検討した。野生型マウスにおいては、心筋組織におけるIGFRタンパク発現量が運動負荷より増加するのに対し、CIGFRKOにおいては、IGFRタンパク発現量は安静時にも運動負荷時にも低く保たれていた。さらに、IGF-1を経静脈的に投与した場合にも、IGFRのチロシンリン酸化が起きないことを確認した。これらの結果から、CIGFRKOマウスにおいてIGFRを介するシグナルが機能的に破壊されていることが確認できた。IGF投与実験においてインスリン受容体(IR)のチロシンリン酸化とその下流のAktのリン酸化が、野生型とCIGFRKOの両者の心臓において同等にみられた。このことから、インスリン受容体(IR)がIGFにより活性化され、IGFRを介するシグナルの欠損を代償している可能性が考えられた。

そこで、われわれは心筋細胞特異的インスリン受容体欠損マウス(CIRKO)を用い、水泳運動負荷をかける実験を行った。4週間の水泳による運動負荷後、CIRKOにおいて、野生型と同程度の心肥大が誘導された。興味深いことに、CIRKOでは軽微な心収縮能の低下がみられるが、運動により心収縮能の改善がみられた。この結果から、IRを介するシグナルは運動による生理的心肥大の成立に不可欠ではないことが示唆された。

IGFRとIRのいずれか一方のみのノックアウトマウスでは水泳による心肥大は野生型と同程度に起こることから、運動による生理的心肥大の過程において、IGFRを介するシグナルとIRを介するシグナルの間に相補性が存在する可能性が考えられた。この相補性についてさらに検討するため、まず、われわれは心筋細胞特異的IGFR・IRダブルノックアウトマウス(CDKO)を作成した。心筋細胞特異的IGFR・IRダブルノックアウトマウス(CDKO)は生後6週以内に著明な心不全を呈し24週以内に死亡するため、運動負荷を行い解析するには適当ではなかった。そこで心筋細胞特異的にIGFRの二つの遺伝子座とIRの一つの遺伝子座をノックアウトしたマウス(IGFR-/-IR+/-)およびIGFRの一つの遺伝子座とIRの二つの遺伝子座をノックアウトしたマウス(IGFR+/-IR-/-)を作成し、解析を行った。

IGFR-/-IR+/-マウスは、安静群においては野生型と同等の心体重比であった。しかし、IGFR-/-IR+/-マウスでは4週間の水泳負荷群の心体重比の増加率は野生型マウスに比して有意に減少していた。この所見は組織学的な心筋細胞横断面積の増加率も有意に減少していることからも裏付けられた。

一方、IGFR+/-IR-/-マウスにおいては、安静群で野生型と比較し心体重比の著明な減少と軽度の心収縮能の低下がみられた。さらに、IGFR+/-IR-/-マウスでは4週間の水泳を負荷した際に誘導される心肥大の程度は著明に減少していた。安静群では時間経過とともに心収縮能低下が進行したが、水泳による運動群では心収縮能低下の程度は軽減した。組織学的には安静群では間質の線維化の進行がみられたが、運動群では繊維化の程度が軽減した。これらIGFR-/-IR+/-マウスおよびIGFR+/-IR-/-マウスの解析結果から、IRの遺伝子座が一つ残存することによるIRタンパクの発現は正常な心臓の成長を維持するには十分であるが、生理的心肥大を起こすには十分でないと考えられた。これに対し、IGFRの遺伝子座が一つ残存することによるIGFRタンパクの発現のみでは、生後の心臓の成長および機能維持に不十分であり、運動による生理的心肥大の誘導にも不十分であることが示された。

結論:

これらのことから、運動によって誘導される心肥大の成立過程において、インスリン様成長因子(IGF)はインスリン様成長因子受容体(IGFR)とインスリン受容体(IR)の両者を活性化すること、ならびにインスリン様成長因子受容体(IGFR)を介するシグナルとインスリン受容体(IR)を介するシグナルの間に相補性が存在することが考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は心不全等の心疾患治療の選択肢の一つとなり得る生理的心肥大のメカニズムを明らかにするために、心筋細胞特異的インスリン様成長因子受容体ノックアウトマウス(CIGFRKO)、心筋細胞特異的インスリン受容体ノックアウトマウス(CIRKO)および両者のノックアウトマウスを作成し解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1. 心筋細胞特異的インスリン様成長因子受容体ノックアウトマウス(CIGFRKO)の解析の結果、成体のマウスにおいてCIGFRKOには明らかな表現型が認められないことが示された。4週間の水泳による運動負荷試験の結果、コントロール群(野生型)とCIGFRKO群の両者において同等の生理的心肥大が認められた。両群を、心体重比・組織学的な心筋細胞横断面積・心臓超音波検査による心収縮能を指標として比較したところ、両群間に有意差は認められなかった。以上のことから、心筋細胞特異的インスリン様成長因子受容体ノックアウトマウスにおいても生理的心肥大はおこることが示された。

2. 野生型マウスにおいては、心筋組織におけるインスリン様成長因子受容体(IGFR)タンパク発現量が運動負荷により増加するのに対し、CIGFRKOにおいては、タンパク発現量は安静時にも運動負荷時にも低く保たれていることが示された。さらに、インスリン様成長因子(IGF)を経静脈的に投与した場合にも、CIGFRKOにおいては、IGFRのチロシンリン酸化が起きないことが確認された。これらの結果から、CIGFRKOにおいてIGFRを介するシグナルが機能的に破壊されていることが示された。IGF投与実験においてインスリン受容体(IR)のチロシンリン酸化とその下流のAktのリン酸化が、野生型とCIGFRKOの両者の心臓において同等にみられたことから、IRがIGFにより活性化され、IGFRを介するシグナルの欠損を代償している可能性が考えられた。

3. 心筋細胞特異的インスリン受容体欠損マウス(CIRKO)を用い、4週間水泳運動負荷を行った実験結果より、野生型と同程度の心肥大が誘導されることが、心体重比・組織学的検討により示された。この結果から、IRを介するシグナルは運動による生理的心肥大の成立に不可欠ではないことが示された。

4. 心筋細胞特異的IGFR・IRダブルノックアウトマウス(CDKO)の解析により、CDKOは生後6週以内に著明な心不全を呈し24週以内に死亡することが示された。

5. 心筋細胞特異的にIGFRの二つの遺伝子座とIRの一つの遺伝子座をノックアウトしたマウス(IGFR-/-IR+/-)の安静群においては野生型と同等の心体重比であった。しかし、IGFR-/-IR+/-マウスでは4週間水泳負荷による生理的心肥大の誘導は野生型マウスに比して有意に減少していることが心体重比・組織学的検討により示された。

6. IGFRの一つの遺伝子座とIRの二つの遺伝子座をノックアウトしたマウス(IGFR+/-IR-/-)安静群で野生型と比較し心体重比の著明な減少と軽度の心収縮能の低下が認められた。さらに、IGFR+/-IR-/-マウスでは4週間の水泳負荷による心肥大の程度は著明に減少していた。安静群では時間経過とともに心収縮能低下が進行したが、水泳による運動群では心収縮能低下の程度は軽減した。組織学的には安静群では間質の線維化が認められたが、運動群では繊維化の程度が限られていることが示された。

7. これらIGFR-/-IR+/-マウスおよびIGFR+/-IR-/-マウスの解析結果から、IRの遺伝子座が一つ残存することによるIRタンパクの発現は正常な心臓の成長を維持するには十分であるが、生理的心肥大を起こすには十分でないと考えられた。これに対し、IGFRの遺伝子座が一つ残存することによるIGFRタンパクの発現のみでは、生後の心臓の成長および機能維持に不十分であり、運動による生理的心肥大の誘導にも不十分であることが示された。

以上、本論文は、心筋細胞特異的インスリン様成長因子受容体ノックアウトマウス(CIGFRKO)、心筋細胞特異的インスリン受容体ノックアウトマウス(CIRKO)および両者のノックアウトマウスの解析から、運動によって誘導される心肥大の成立過程において、インスリン様成長因子(IGF)はインスリン様成長因子受容体(IGFR)とインスリン受容体(IR)の両者を活性化すること、ならびにインスリン様成長因子受容体(IGFR)を介するシグナルとインスリン受容体(IR)を介するシグナルの間に相補性が存在することを明らかにした。本研究は、心疾患治療の選択肢の一つとなり得る生理的心肥大のメカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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