学位論文要旨



No 124882
著者(漢字) 小川,雅子
著者(英字)
著者(カナ) オガワ,マサコ
標題(和) 胃癌発生母地であるSPEM生成過程におけるEGF受容体シグナル伝達系の関与について : DMP-777による急性壁細胞喪失モデルによる検討
標題(洋)
報告番号 124882
報告番号 甲24882
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3302号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 深山,正久
 東京大学 准教授 大西,真
 東京大学 准教授 小川,利久
 東京大学 准教授 篠崎,大
 東京大学 准教授 三村,芳和
内容要旨 要旨を表示する

背景

胃癌の組織型は分化型と未 (低) 分化型とに分類される。胃粘膜から分化型胃癌が発生する病理組織学的変化として、壁細胞の喪失による萎縮性胃炎から胃粘膜化生へ、さらにdysplasiaを経て胃癌が発生するというCorreaの仮説が知られている (図1) 。この仮説では胃粘膜の化生性変化が癌の発生母地とされており、化生腺管の形成や維持に関与する因子を理解することは癌化機構を解明する上で重要である。これまで慢性萎縮性胃炎や化生を起こす外的因子として、Helicobacter pylori (H. pylori) の感染が知られているが、種々の内的因子の関与については不明な点が多い。

近年、SchmidtらはSP/TFF2を高発現する化生をspasmolytic polypeptide/trefoil factor family 2 (SP/TFF2) expressing metaplasia (SPEM) として報告した。正常胃底腺領域の腺管が、表層粘液細胞からなる胃小窩と壁細胞、頚部粘液細胞、主細胞、内分泌細胞からなる腺管構造をとるのに対し、SPEMにおいては腺管の底部がSP/TFF2を分泌する異常な粘液細胞におきかわり、幽門腺に類似した形態となる (図2) 。胃癌切除標本の検索で、癌周囲に高頻度にSPEMがみられたことから、SPEMを前癌病変とみなす考えも提出されている。SPEMはいわゆる偽幽門腺化生に類似するが、著者と共同研究者はSPEMという概念のもとで発現する分子に着目して解析を行ってきているので、本研究ではSPEMという呼称を用いる。

SP/TFF2はSPEM構成細胞で高発現するペプチドで、trefoil factor familyに属し、粘膜修復への関与が報告されている。本研究ではSP/TFF2欠損マウスを用いることにより、SP/TFF2のSPEM発生、維持に関する役割を検討した。

また、壁細胞の喪失からSPEMに至る過程には、壁細胞から分泌されるepidermal growth factor (EGF) 受容体リガンド (transforming growth factor-alpha (TGF-α) 、アンフィレギュリン、heparin-binding epidermal growth factor-like growth factor (HB-EGF)) などの関与が想定される。そこで、突然変異によりEGF受容体の機能が著しく低下したwaved-2マウスを用いてSPEM発生におけるEGF受容体系の関与を検討した。

本研究ではDMP-777による急性壁細胞喪失実験系を用いてSPEM形成に関与する因子を検討した。DMP-777を動物に投与すると、胃底腺領域で壁細胞が減少し表層粘液細胞の増加とSPEMが発生する。これらはH. pyloriによる慢性萎縮性胃炎でしばしばみられる変化であるが、DMP-777モデルではDMP-777に好中球エラスターゼ阻害活性があるため炎症反応が起こらない。したがって、炎症反応の修飾なく壁細胞喪失後の胃底腺領域の粘膜変化について検討できるという点で、本モデルは内的因子の検索に適していると考えられる。Goldenringらの単離壁細胞を用いた実験結果によれば、DMP-777は分泌されたプロトンを管腔から細胞内に逆流させるプロトノフォア作用によって細胞を傷害する。本研究の第一章ではDMP-777の壁細胞特異性および作用機序を生体内で検証するため、ラットにプロトンポンプ阻害剤のオメプラゾールを投与して壁細胞の酸分泌活動を抑制し、DMP-777の作用への影響について検討した。

結果

第一章:DMP-777の壁細胞傷害作用における胃酸分泌阻害の影響

DMP-777にオメプラゾールを併用してプロトンの動きを阻害した場合、DMP-777単独投与時と比較して壁細胞数の減少、ならびに表層粘液細胞と増殖細胞の増加はいずれも軽度であった (図3、4) 。

第二章:化生におけるSP/TFF2とEGF受容体シグナル伝達系の関与 (図5)

SP/TFF2欠損マウス及びwild type (WT) 対照マウスにDMP-777を0、1、3、7、14日間投与し、壁細胞喪失後の腺構築の変化を比較検討した。また、0、1、3日間投与群では血漿ガストリン濃度を測定した。SP/TFF2欠損マウスで表層粘液細胞数の立ち上がりがやや緩徐であった以外は、WT対照マウスとSP/TFF2欠損マウスでDMP-777投与後の腺構築の変化及び血漿ガストリン濃度に大きな差異は認めなかった (図9) 。SP/TFF2欠損マウスでもWTマウスと同様、DMP-777を7日間及び14日間投与した群ではMUC6陽性の粘液細胞化生を認めた (図6、9) 。

EGF受容体シグナル伝達系に障害を持つwaved-2マウス及びwaved-2ヘテロ対照マウスにDMP-777を0、1、3、7、14日間投与した。さらに薬剤を14日間投与し、14日間休薬後に屠殺する群 (R14) を設けた。waved-2へテロ、ホモマウスともDMP-777の1日投与により70%以上の壁細胞を喪失した。ヘテロマウスではDMP-777を1日投与した群で表層粘液細胞が著増したが、waved-2マウスでは3日間投与した群で初めて有意に増加した (図7) 。一方SPEMは、ヘテロマウスではDMP-777を7日間投与した群で出現したのに対し、waved-2マウスでは3日間投与後に発生した (図8) 。血漿ガストリン濃度は、ヘテロ対照マウスでは、DMP-777を1日投与した群で急激に上昇したが、waved-2マウスでは、1日投与群の立ち上がりは緩やかで、3日間投与した群でヘテロ対照マウスと同程度に上昇した。いずれのマウスにおいても壁細胞の減少、表層粘液細胞増加、SPEMは可逆的であった (図9) 。

考察

第一章では、DMP-777の壁細胞特異性および作用機序を生体内で検証した。ラットにDMP-777を投与する際にオメプラゾールを併用してプロトンの動きを阻害すると、壁細胞の減少、表層粘液細胞と増殖細胞の増加はいずれもDMP-777単独投与時に比べ軽減した (図4) 。以上のように、プロトンの動きを封じた結果DMP-777の細胞傷害作用が軽減したことから、DMP-777の細胞傷害作用にプロトンが重要な役割を果たすことが示唆される。これはDMP-777が壁細胞特異的なプロトノフォアとして作用するという単離壁細胞での実験結果を支持するものと考えられた。

第二章では、SP/TFF2分子、あるいはEGF受容体シグナル伝達系がSPEMや表層粘液細胞増加にどのように関与するか、DMP-777による急性壁細胞喪失実験系を用いて検討した。SPEMはSP/TFF2が胃底腺の底部で発現することによって特徴づけられる。SP/TFF2がSPEMの発生過程でオートクリン、パラクリン的に働く可能性について、SP/TFF2欠損マウスを用いて検討した。SP/TFF2欠損マウスでもWTマウスと同様、DMP-777投与後にSPEMに相当する粘液細胞化生が発生した。したがってSP/TFF2はSPEMのマーカーではあるが、その形成には必須ではないと考えられる。

胃底腺領域では表層粘液細胞、壁細胞、主細胞にEGF受容体を発現していることから、壁細胞が分泌するEGF受容体リガンドがこれらの細胞に働きかけることによって腺構築が維持されている可能性がある。そこでwaved-2マウスを用いて化生の形成や維持の過程でEGF受容体シグナル伝達系が果たす役割を検討した。waved-2マウスではEGF受容体の突然変異により受容体機能が著しく低下している。waved-2マウスでは対照のヘテロマウスに比べDMP-777投与後の表層粘液細胞の増加は緩徐に起こる一方、SPEMの発生は急速であった。Nomuraらによるガストリン欠損マウスを用いた実験では、DMP-777投与後表層粘液細胞数の増加はみられず、一方SPEMはわずか1日の投与で発生した。これらの結果よりガストリンは表層粘液細胞の増加に必須であること、ガストリンの欠損がSPEMの形成を促進することがわかった。waved-2マウスのDMP-777に対する反応はガストリン欠損マウスのそれと類似している。EGF受容体シグナル伝達系はガストリンの遺伝子発現を促進することが知られている。DMP-777投与後は壁細胞の喪失による胃内酸度の低下のため高ガストリン血症を呈するが、実際waved-2マウスでは、DMP-777を1日投与した後の血漿ガストリン濃度がヘテロ対照マウスに比し有意に低かった。waved-2マウスにおける表層粘液細胞増加の遅れはこれを反映するものと考えられる。その一方でwaved-2マウスでもDMP-777を3日間投与した群はヘテロマウスと同程度の高ガストリン血症を呈したにも拘わらず、対照マウスよりも急速にSPEMを生じた。したがってこの化生性変化の加速にはガストリン低下ではなく、waved-2マウスに内在しているEGF受容体シグナル伝達系の障害が関与していると考えられる。

結論

SP/TFF2はSPEMのマーカーではあるがその形成には必須ではない。EGF受容体シグナル伝達系は壁細胞喪失後の化生の発生に抑制的に働くと考えられる。

図1 分化型胃癌に至る過程(Correaの仮説)

図2 マウスの正常胃底腺構造と壁細胞の喪失による構造変化

図3 DMP-777及びオメプラゾール投与による胃底腺構築の変化 (X100)

図4 第一章の結果のまとめ

図5 DMP-777投与後の腺構築の変化における内的因子の関与

図6 DMP-777投与後のMUC6陽性細胞系統の変化 (X200)

図7 waved-2ヘテロ対照マウス及びwaved-2マウスにおけるDR-PAS染色像

図8 waved-2ヘテロ対照マウスとwaved-2マウスにおけるSPEMの評価

図9 第二章の結果のまとめ

審査要旨 要旨を表示する

分化型胃癌の発癌において、胃粘膜の化生性変化は癌の発生母地とされている。本研究では壁細胞喪失からSP/TFF2発現化生 (SPEM) に至る過程にSP/TFF2分子とEGF受容体シグナル伝達系がどのように関与するかを、DMP-777による急性壁細胞喪失実験系を用いて検討した。またDMP-777の作用機序について単離壁細胞を用いたGoldenringらの実験結果を、生体内で検証した。これらの実験により下記の結果を得ている。

1.DMP-777を投与する際にプロトンポンプ阻害剤のオメプラゾールを併用してプロトンの動きを阻害したところ、DMP-777単独投与時と比較して壁細胞の減少、ならびに表層粘液細胞と増殖細胞の増加はいずれも軽減した。

2.DMP-777を動物に投与すると壁細胞が減少し、その結果表層粘液細胞の増加やSPEM発生などの腺構築の変化が起こる。また壁細胞の減少による胃内pHの上昇によりガストリン濃度が増加する。SP/TFF2欠損マウスで表層粘液細胞の増加がやや緩徐であった以外は、WTマウスとSP/TFF2欠損マウスでDMP-777投与後の腺構築の変化や血漿ガストリン濃度に大きな差異は認めなかった。SPEMはSP/TFF2が胃底腺の底部で発現することにより特徴づけられるが、SP/TFF2欠損マウスでもWTマウスと同様、DMP-777投与後にSPEMに相当する化生性変化を生じた。

3.突然変異によりEGF受容体機能が低下したwaved-2マウスではヘテロ対照マウスと比較して、DMP-777投与後表層粘液細胞の増加は緩徐に起こり、SPEMの発生は加速した。またwaved-2マウスでは、DMP-777を1日投与した後の血漿ガストリン濃度がヘテロ対照マウスに比し緩やかに上昇したが、3日間投与後にはヘテロ対照マウスと同程度のガストリン値となった。

以上、本論文はDMP-777が生体内においてプロトンの動きを介して細胞を傷害することを示し、DMP-777を壁細胞特異的プロトノフォアとする単離壁細胞での実験結果を生体内で確認した。SP/TFF2欠損マウスにおいてもDMP-777投与による壁細胞喪失後にSPEMに相当する変化がみられたことから、SP/TFF2はSPEMの形成には必須ではないことを明らかにした。また、EGF受容体シグナル伝達系に障害を有するwaved-2マウスでDMP-777投与後、対照マウスより早期にSPEMが生じたことから、EGF受容体シグナル伝達系はSPEM形成において抑制性に働くことを明らかにした。これまで化生をおこす外的因子としてはHelicobacter pyloriの感染が知られているが、内的因子の関与については不明な点が多かった。本論文はEGF受容体シグナル伝達系のSPEM形成への関与を明らかにしたが、これは胃癌発生において重要な萎縮性胃炎の病態解明に寄与すると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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