学位論文要旨



No 124893
著者(漢字) 大辻,幹哉
著者(英字)
著者(カナ) オオツジ,ミキヤ
標題(和) 白血球系細胞におけるシグナル伝達系の構造と細胞骨格の空間的制御に関するシステム生物学的研究
標題(洋)
報告番号 124893
報告番号 甲24893
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3313号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 児玉,龍彦
 東京大学 准教授 武内,巧
 東京大学 准教授 高崎,誠一
 東京大学 特任准教授 後藤,典子
 東京大学 講師 張,京浩
内容要旨 要旨を表示する

緒言

生体の恒常性維持のためには、白血球の遊走は適切に制御されていなければならない。白血球遊走の研究は、医学において重要な分野であると考えられる。細胞の遊走は、以下の3つのプロセスにわけて考えることができる。

プロセス(1):走化因子が細胞膜上の受容体に結合することにより、さまざまな細胞内分子の活性化を通して、シグナル伝達系が反応する。

プロセス(2):多数の分子からなるシグナル伝達系がひとつのシステムとして機能することにより、細胞に前後極性が生じ、種々の細胞内分子が前端部あるいは後端部に局在する。

プロセス(3):前端部あるいは後端部に局在する分子が細胞骨格を制御することにより、それぞれ細胞膜の突出(protrusion)あるいは退縮(retraction)を促し、細胞の移動をもたらす。

とくにプロセス(1)および(3)については、すでに多くの知見が報告されている。しかしながら、プロセス(2)、すなわち、「ひとつのシステムがいかにして極性を生じさせるのか」、あるいはプロセス(3)をあわせて、「いかなるシステムが細胞骨格を空間的に制御するのか」については、いまだよく理解されていない。このプロセスを理解するためには、システム生物学的手法が有効と考えられた。細胞内分子の局所的濃度を変数、分子間相互作用を微分方程式として表現したとき、シグナル伝達系は一組の連立方程式(システム)として表現される。このシステムの解の振舞いとして、細胞内分子の振舞いを理解しようとするものである。

本研究の目的は、「シグナル伝達系がひとつのシステムとして機能し、細胞骨格を空間的に制御する」という観点から、白血球の遊走を制御するシステムの仮説的モデルを提案し、実際の細胞によって検証することである。

遊走細胞の前後極性を再現する仮説的システムの構築

数学的モデルでは、走化因子による刺激も空間依存性をもつひとつのパラメータとして扱われる。刺激を与えた際の分子の動態が連立微分方程式の解として得られることとなる。分子が一ヶ所に局在する状態は、空間上の一ヶ所にピークをもつ解が得られることに相当する。本章では、遊走細胞についてのこれまでの知見に基づいて、以下の現象を再現する数学的モデルを見いだすことを目的とした。

(1) 刺激が小さい(basal level)場合には、解として、一様な状態(homogenous state)が得られる。

(2) 空間勾配をもつ刺激を与えると、解として、刺激の高い位置にひとつのピークをもつ状態(one-peak state)が得られる。

(3) 刺激をbasal levelに戻すと、homogenous stateに戻る。

(4) 一度形成されたピークが、新たな空間勾配に反応して移動する。

(5) 一様な刺激に対してもone-peak stateを形成する。

(6) 複数のピークをもつ状態は不安定で、最終的にone-peak stateに移行する。

多くの分子からなるシグナル伝達系を、その構造を保存したまま少数の変数と微分方程式によって表現したモデル(conceptual model)は、詳細で効率のよい数学的解析を可能とし、さらに具体的なモデルを構築する際の核構造として利用することができる。ここでは、可能な限りシンプルなモデルで(1)-(6)を再現することを目指した。

分子の局在をもたらすシステムを確立するにあたり、反応拡散系を出発点とした。この系は、拡散誘導不安定性によりさまざまな空間パターンを生み出すことで知られている。細胞運動における中心的な分子群であるRho GTPasesの分子スイッチとしての特徴、すなわち、活性型、非活性型の2つの状態をもち、前者は細胞膜上に、後者は細胞質内に分布するという知見に基づき、仮説的システムとしてmass conserved reaction-diffusion (MCRD) systemを構築した。

このシステムに属する複数のconceptual modelについて、コンピュータによるシミュレーション計算を行った結果、いずれのモデルも目的の(1)-(6)を再現することが確認された。すなわち、MCRD systemに属するモデルが普遍的に安定した単一軸形成を再現することが示された。とくに特徴的なのは、このシステムがinstability of multiple-peakをもつことであり、この不安定性により、複数のピークをもつ場合にも、1つのピークだけが残り、他のピークは消滅する。

遊走細胞による仮説的システムの検証

前章では、MCRD systemが刺激に応じて1つのピークをもつ状態(SSA: stable single-axis)を生むことを示した。MCRD systemを含め、これまでに提唱されたほとんどの仮説的モデルは、細胞の中で実際に機能しているのかという点について、十分には検証されていない。一般に、提案されたシステムは、そのシステムに特異的な性質を実際の細胞がもっているかを確認することにより検証されるべきである。しかしながら、あるシステムに特異的な性質を見いだすことは容易でない。本章では、MCRD systemに特異的な現象を見いだし、その現象を白血球において確認することを目的とした。

システムの振舞いを決定する主要な因子である「システムの不安定性」を分析した結果、このシステムには前章で示したinstability of multiple-peak (Instability-1)に加え、さらに2つの不安定性があることがわかった。そのうちの1つは、形成されたピークを分割する(Instability-2)。Instability-1およびInstability -2により特徴的な振舞いが生じる可能性がある。すなわち、Instability-2により、1つのピークが2つのピークに割かれ、Instability-1により、そのうちの一方が消滅し1つのピークが残る、という過程の繰り返し(S&C: split & choice)が発生することが予想された。Instability-1が条件によらないのに対し、Instability-2は条件に依存する。つまり、MCRD systemは、条件に依存してSSAあるいはS&Cを呈すると予想された。細胞膜のprotrusionおよびretractionを促す2つの分子を想定したMCRD systemのシミュレーション結果をprotrusion / retraction profile (protrusion/retractionを時間および細胞膜上の位置の関数として図にしたもの)として表したところ、SSAあるいはS&Cを含むいくつかの振舞いが確認された。また、SSAおよびS&Cを生む条件が互いに近いことも確認された。次に、走化因子に反応して遊走する複数の白血球系細胞(好中球および血球由来細胞株)を観察したところ、安定した前後軸をもつ細胞(SSA)、および、前端部がいったん2つに割かれた後にどちらかを選択するという過程を繰り返す細胞(S&C)が存在した。遊走する細胞を顕微鏡下に5秒間隔で撮影、その輪郭の変位から細胞膜のprotrusionおよびretractionを計算し、protrusion / retraction profileを得たところ、SSAおよびS&Cに相当する振舞いが確認された。これらの振舞いは、protrusion / retraction profileの自己相関係数によって判別することが可能であった。SSAおよびS&Cが同一環境におかれた同種細胞に見られること、SSAを呈していた細胞がしばしば一過性にS&Cを呈すること、S&Cを呈する細胞の割合が走化因子濃度に依存すること、などの結果も確認された。これらの結果は、SSAおよびS&Cなどの振舞いがひとつのシステムから生じることを示している。SSAおよびS&Cがひとつのシステムから生まれることはMCRD systemに特異的と考えられるため、MCRD systemが細胞内で機能していることが示唆された。

総括

白血球の遊走に関してすでに多くの研究があるが、「多数の分子からなるシグナル伝達系がひとつのシステムとして機能することにより、細胞に前後極性が生じ、種々の細胞内分子が前端部あるいは後端部に局在する」というプロセスについては、いまだ明らかでなかった。このプロセスを、システム生物学的手法を用いずに理解することは困難と思われた。反応拡散系を基に、Rho GTPasesの分子スイッチとしての特徴を考慮し、ひとつの仮説的システムを構築した。ある分子が2つの状態、活性型および非活性型をもち、前者が細胞膜上、後者が細胞質内に分布するとき、この分子がもつpositive feedbackにより、分子が一ヶ所に局在することが明らかとなった。このシステムをMCRD systemと名づけ、その特異的な振舞い(split & choice)が実際の遊走細胞に見られることを確認することで、その存在を検証した。

これまで、遊走細胞の細胞内シグナル伝達系のモデル化は、安定した前後極性を再現することに重点が置かれてきた。しかしながら、遊走細胞を観察したとき、必ずしも前後極性が安定していないことに気づく。これらの一見ランダムな動きは、安定した極性を生み出すシステムと同一のシステムから生み出されているにもかかわらず、これらの異なる振舞いをひとつの理論によって理解することは難しそうに見える。MCRD systemにおいては、これらが同じシステムの小さいパラメータ差によって説明される。MCRD systemは、遊走細胞の多様な動きを統一的に理解するための基盤となることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、走化性という基本的な生命現象に関するものであり、遊走細胞における細胞内シグナル伝達系の構造と細胞内分子の空間的挙動の関係を理解することを目的とし、数学的モデルの解析および白血球系細胞の観察から下記の結果を得ている。

1.反応拡散系を基に、細胞運動における中心的分子群であるRho GTPasesの分子スイッチとしての特徴、すなわち、活性型、非活性型の2つの状態をもち、前者は細胞膜上、後者は細胞質内に分布するという知見を考慮し、ひとつの仮説的システムとしてmass conserved reaction-diffusion (MCRD) systemを構築した。

2.MCRD systemは、細胞遊走について文献的に知られている以下の特性を、数値計算上再現した。(1) 刺激が小さい(basal level)場合には、一様な状態(homogenous state)を呈する。(2) 空間勾配をもつ刺激を与えると、刺激の高い位置にひとつのピークをもつ状態(one-peak state)を呈する。(3) 刺激をbasal levelに戻すと、homogenous stateに戻る。(4) 一度形成されたピークが、新たな空間勾配に反応して移動する。(5) 一様な刺激に対してもone-peak stateを形成する。(6) 複数のピークをもつ状態は不安定で、最終的にone-peak stateに移行する。

3.数学的解析により、複数因子からなるMCRD systemが3つの不安定性をもつことが示された(Instability-1, -2, -3)。そのうち、Instability-1は複数のピークがある場合にその数を減らし、また、Instability-2はピークを分割する。

4.2つの因子からなるMCRD systemについて、Instability-1により安定した1つのピークをもつ状態(SSA: stable single-axis)が生じる場合と、Instability-2により1つのピークが2つのピークに割かれ、Instability-1によりそのうちの一方が消滅し1つのピークが残る、という過程の繰り返し(S&C: split & choice)が生じる場合があった。これらは、protrusion / retraction profileとして示された。

5.遊走する白血球系細胞についても、安定した前後軸をもつ細胞(SSA)、および、前端部がいったん2つに割かれた後にどちらかを選択するという過程を繰り返す細胞(S&C)が存在した。これらもprotrusion / retraction profileとして示された。SSAおよびS&Cは、protrusion / retraction profileの自己相関係数によって判別することが可能であった。

6.SSAおよびS&Cが同一環境におかれた同種細胞に見られること、SSAを呈していた細胞がしばしば一過性にS&Cを呈すること、S&Cを呈する細胞の割合が走化因子濃度に依存すること、などの結果も確認され、SSAおよびS&Cなどの振舞いがひとつのシステムから生じることが示唆された。

以上、遊走細胞のシグナル伝達系についての仮説的システムを構築し、そのシステムにより細胞内分子の空間的挙動が説明されることを示し、細胞の観察を通して検証している。これまでに、細胞の運動にかかわる多くの分子や分子間作用が報告されており、また、細胞遊走のパターンについても多くの報告があるが、これらのリンク、すなわち、分子間作用がいかにして空間的なパターンを生み出すかについてはほとんど未知であった。本研究の結果は、細胞遊走のメカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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