学位論文要旨



No 124912
著者(漢字) 山形,幸徳
著者(英字)
著者(カナ) ヤマガタ,ユキノリ
標題(和) 胃粘膜萎縮マウスモデルとヒト胃癌検体を用いた胃におけるHepatocyte Growth Factor関連分子の検討
標題(洋)
報告番号 124912
報告番号 甲24912
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3332号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 准教授 大西,真
 東京大学 准教授 小川,利久
 東京大学 講師 金内,一
 東京大学 講師 青木,琢
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景と目的

Hepatocyte Growth Factor (HGF) は肝細胞の再生、増殖を促す生理活性物質として発見された。HGFは間葉系細胞から非活性型蛋白として分泌され、セリンプロテアーゼによる限定分解を受けて活性化型になる。活性化型HGFは受容体のc-Metを介して種々の細胞にMitogen、Motogen、Morphogenとして作用し、消化管粘膜上皮の再生、修復にも大きな役割を果たしている。HGF系は腫瘍新生や浸潤、分化、血管新生に重要な役割を果たしており、胃癌でもHGF、c-Metの過剰発現の報告がある。HGFを活性化するプロテアーゼは複数報告されているが、発現形式・場所から、胃でのHGF活性化にはHGFAとMatriptaseが重要と考えられる。HGFAは第VII因子類似セリンプロテアーゼで、非活性型分泌蛋白として主に肝で産生され、循環血液中に放出される。消化管粘膜障害後初期の上皮再生でも循環血液中のHGFAが関与し、障害局所でトロンビンにより活性化され、HGFを活性化する。MatriptaseはII型膜結合タンパクで、肝臓以外の消化管の細胞膜上に発現し、HGFの活性化に深く関与する。Hepatocyte growth factor activator inhibitor type 1 (HAI-1) は Kunitz型セリンプロテアーゼインヒビターで上皮系細胞に発現し、HGFA、Matriptaseと複合体を形成、インヒビターとして作用する。

Helicobacter pylori感染は胃粘膜萎縮を惹起し、胃粘膜萎縮は胃癌発生の母地たりうる。胃底腺領域の萎縮粘膜では、壁細胞減少と腺窩上皮過形成、TFF2(Spasmolytic Polypeptide)高発現を伴う化生が生じる。我々はTFF2に着目し、この化生をSpasmolytic Polypeptide Expressing Metaplasia (SPEM) と命名し、前癌病変の可能性を示唆してきた。ヒト胃底腺領域胃癌とその周囲には高率にSPEMが存在し、SPEMは胃癌発生と関係が深いと考えている。SPEMモデルの一つに、急性にSPEMが生成するDMP777投与マウスモデルがある。DMP777は壁細胞の選択的破壊作用を有し、マウスに連日経口投与すると、投薬中は壁細胞が破壊されSPEMが生じ、休薬後はSPEMが消失する。壁細胞からは種々の成長因子が分泌されており、これを消失させることにより、胃底腺構成細胞の分化に異常が生じるためと考えている。ガストリン欠損マウスのDMP777投与実験ではSPEMの早期出現と回復遅延が確認され、ガストリンがSPEM形成を抑制することが示された。

今回の実験ではHGFのSPEM発生への関与を検討することとした。HGF欠損マウスは致死的であり、現存しないため、その活性化因子であるHGFA欠損マウスにDMP777を投与し、壁細胞消失による胃底腺粘膜変化を観察した(実験1)。さらに、その結果に基づき、ヒト胃癌組織及び周囲非癌組織中のHGF系の物質の発現と、胃癌患者及び非胃癌患者の血清HGF及びHGFA濃度を測定し、HGF系の胃癌への関与を検討した(実験2)。

実験1 HGFA欠損マウスにおける胃粘膜萎縮の検討

対象と方法

胃底腺管は主に、壁細胞、主細胞、頸部粘液細胞、表層粘液細胞から構成されている。HGFA欠損マウス(KO)とWild typeマウス(W)にDMP777を14日間投与し、投与中(D1-D14)と投与中止後28日間(DR1-DR28)の胃底腺構成細胞の数の変化を観察した。

結果

1)壁細胞

壁細胞のマーカーとしてH/K-ATPaseを使用した。1腺管あたりのH/K-ATPase陽性細胞数はKO, W両群ともDMP777投与中にはH/K-ATPase陽性細胞の減少を認めた。W、KOとも壁細胞はDMP777の曝露で破壊され、投与終了に伴い壁細胞数は回復した。D7-14において、KOでWに比し、壁細胞数は若干多かったが、両群においてDMP777の壁細胞破壊効果は認められた。

2)表層粘液細胞

表層粘液細胞のマーカーとしてDR-PAS染色を使用した。WではD3以降著明なDR-PAS陽性細胞の増加を認めたが、KOでは表層粘液細胞数の変化はごく軽度であった。

3)S期細胞

胃腺管は細胞の分裂増殖のユニットである。通常の胃底腺管では腺頚部に分裂増殖帯があり、ここで分裂増殖した細胞が腺管の上下方向に移動しつつ分化する。両群ともD3以降にBrdU陽性細胞数は有意に増加したが、DR7にはD0のレベルに回復した。全てのtime pointでKOではWに比し、BrdU陽性細胞数が低値であり、細胞分裂増殖能の低下が観察された。この差は DMP777投与中の急性粘膜傷害下で顕著であった。

4)頸部粘液細胞、SPEM

頚部粘液細胞、SPEMのマーカーとしてTFF2を使用した。TFF2は正常胃底腺では、腺管中央に位置する頚部粘液細胞で発現している。1腺管あたりのTFF2陽性細胞数を観察した。DMP777投与期間中においては、KOとWは全く同様にTFF2発現細胞数が推移し、SPEMの発生が観察された。DR7、DR14においてはKOがWに比し、TFF2陽性細胞数が有意に高値を示し、KOでSPEMから正常胃底腺への回復が遅延していることが確認された。DR28ではKOもTFF2陽性細胞数はDay 0と同じレベルに回復した。

5)主細胞

主細胞のマーカーとしてIntrinsic Factor (IF)を使用した。D3-10では両群でIF陽性細胞数の減少傾向を認めたが、回復期には原状に復した。D0, D3においてはKOでWに比し、IF陽性細胞数の減少を認めた。

6)血清ガストリン値

高ガストリン血症は腺窩上皮過形成を惹起する。表層粘液細胞数の推移が両群間で異なっていたため血清ガストリン値を測定した。血清ガストリン値は両群間で大きな差はなく、両群ともDMP-777投与開始直後から血清ガストリン値の上昇を認め、DR7にはDay 0のレベルに復した。

考 察(1)

HGFA欠損マウスではDMP777投与に伴う腺窩上皮過形成を認めず、腺窩上皮過形成はHGFにより惹起されている可能性が示唆された。かつて共同研究者らは腺窩上皮過形成がガストリンによって惹起されていると報告したが、今回、両群の血清ガストリン値の推移に差はなく、ともにDMP777投与により血清ガストリン値の上昇が認められた。このことより、ガストリン刺激から腺窩上皮過形成が惹起されるpathwayにHGF系が作用している可能性が示唆された。

DMP777投与前からHGFA 欠損マウスではBrdU陽性細胞数がWild typeに比べ少なく、HGFは正常状態でも細胞回転を促進していると考えられた。また、その差はDMP777投与時により強く現れ、急性胃粘膜障害時にはHGFが細胞回転を促進すると考えられた。

正常胃底腺では頸部粘液細胞が腺底部へと移動するのに伴って主細胞に分化してゆくことが知られている。共同研究者らはSPEMの起源として、一旦主細胞に分化した細胞がTFF2発現細胞に脱分化するという、主細胞のtransdifferentiationを提唱してきた。DMP777をHGFA欠損マウスに投与した結果、BrdU陽性細胞の増加はWild typeに比し緩徐であるにもかかわらず、SPEM形成、TFF2陽性細胞数の変化はWild typeと同等であった。このことより、SPEMの発生にはSPEMを構成する細胞が新たに産生されるのではなく、少なくとも一部はtransdifferentiationにより生じることが確認された。

DMP777投与終了後、HGFA欠損マウスではSPEMから正常腺管への回復遅延が観察された。HGFA、HGFはSPEMの正常粘膜への回復に寄与すると考えられた。当初は胃底腺の急性傷害時のSPEM発生にHGFが何らかの役割を担っていると仮定し、今回の研究を行ったが、結果は予想に反していた。すなわち、HGFは粘膜急性傷害時には細胞分裂を促進し、もとより細胞回転が速い腺窩上皮の過形成を惹起することにより急性傷害を回避するのに働いていると考えられた。SPEMの形成にはHGFは関与しておらず、粘膜障害回復期にはHGFがSPEMから正常腺管への回復を促進し、HGFは正常腺管構成細胞を分化誘導している可能性が考えられた。

実験2 ヒト胃癌におけるHGFとその関連分子の発現の検討

実験1において、HGF系はSPEMの形成には関与していないことがわかったが、胃癌ではHGF の発現が亢進しているという報告がある。HGFに関する報告はあるものの、HGFAを含めたその関連分子の検討を総合的に行った報告はない。そのため、実際にヒト胃癌において、HGFとその関連分子の発現の検討を行った。

対象と方法

24名のヘルシーボランティアと、'04-'07年に東京大学医学部附属病院胃食道外科で胃癌に対し治療を受けた154人の患者を対象とし、胃癌患者106名(R)の検体に対し、癌部、非癌部におけるHGF、HGFA、Matriptase、c-Met、HAI-1のmRNAの発現を比較した。ヘルシーボランテイア24名(H)、患者62名(P)に対し血清の活性化型HGF値、総HGF値と活性化型HGFA値、総HGFA値をELISA法で測定し、比較した。手術症例18検体について免疫染色を行い、胃癌組織中のc-MetとHAI-1の発現をタンパクレベルで検討した。

結果

1)定量RT-PCR

胃癌組織と非癌部との比較ではHGF、局所のHGF活性化因子であるMatriptase、c-MetのmRNA発現量には差がなかった。HGFAは今までの報告同様に局所の産生レベルは極めて低く、肝臓など他臓器から分泌されているものと考えられた。胃癌組織でHAI-1の発現が低下していた(p<0.0001)。

胃癌組織での発現量を、年齢、性別、深達度、分化度、リンパ節転移、リンパ管浸潤、静脈浸潤の項目で比較したところ、60歳以下の群と未分化群でHGFが高発現していた。

2)ELISA

H群とP群の血清HGF値は総HGF値も活性化型HGF値も両群間に有意差を認めなかった。血清総HGFA値はP群でH群より高値であった(p=0.0065)。血清活性化型HGFA値はH群でP群より高値であった(p=0.0073)。血清総HGFA濃度は血清活性化型HGFA濃度の数百~数千倍であった。

P群での血清値を、年齢、性別、深達度、分化度、リンパ節転移、リンパ管浸潤、静脈浸潤、Helicobacter pylori感染の項目について検討したところ、HGFは総HGFも活性化型HGFも進行癌で高値を示した(p=0.0422、p=0.0194)。総HGFAは女性で高値を示した(p=0.0063)。

3)免疫染色

c-Metの胃癌組織での発現は非癌部に比べ亢進していた。HAI-1の胃癌組織での発現は非癌部に比べ低下していた。

考察(2)

胃癌患者における血清HGF高値や胃癌組織におけるHGF発現亢進の報告が散見されるが、今回の結果では、胃癌全般に関してはどちらも認められなかった。進行癌においては早期癌に比し、血清総HGF値、活性化型HGF値高値が認められ、胃癌組織からのHGFの放出が示唆されたが、mRNAの発現亢進は認めず、乖離があった。

血清総HGFA値がP群で高値であった。HGFAは肝臓で産生され、血清中に放出され、HGFを必要とする局所にて活性化され、さらにHGFを活性化すると報告されている。このことから類推すると、胃癌患者での血清HGFA値高値は肝臓からのHGFA分泌の亢進を意味しており、胃癌担癌状態においては肝臓でのHGFA分泌を亢進させるようなシグナルが胃癌から肝臓へむけて発せられている可能性があると考えられた。血清活性化型HGFAの胃癌患者での低値は、HGFAがHGFを活性化した後にどのような経過をたどるのか未だ解明されていないため、明確な説明はできないが、HGFAが局所で活性化されて働く分子である以上、局所以外には活性化したまま放出される可能性は低いと考えられる。そのため、胃癌患者における血清活性化型HGFA低値は胃癌局所での消費を反映している可能性がある。

タンパクレベルでの胃癌組織におけるc-Metの発現亢進、HAI-1の発現低下はいずれも胃癌組織におけるHGF系経路の活性化を意味しており、シグナルという意味では今までの報告同様、HGF系は胃癌の増殖、進展に関与しているものと推測された。実験1のSPEMの形成にはHGF系は関与していないという結果と、進行癌で血清総HGF値、活性化型HGF値高値が認められたという結果から、HGFは胃癌の増殖、進展に関与しているものと考えられた。

結語

HGFは胃癌に対し、発癌よりもむしろ増殖、進展に関与しているものと考えられた。その経路の活性化はHGFそのものの産生によるというよりも、肝臓由来のHGFAの放出亢進、胃癌におけるc-Metの発現亢進、HAI-1の発現低下によるものであると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

種々の腫瘍において腫瘍新生や浸潤、分化、血管新生等の重要な役割を果たしているとされるHepatocyte Growth Factor(HGF)及びその関連分子が胃癌にどのように作用しているかを明らかにするため、本研究では(1)胃癌の前癌病変と考えられているSpasmolytic Polypeptide Expressing Metaplasia (SPEM)の発生へのHGFの関与を、急性にSPEMを惹起させうる薬剤であるDMP777をHGFA欠損マウスに投与することで検討し、(2) HGF系のヒト胃癌への関与を、ヒト胃癌組織及び周囲非癌組織中におけるHGF系分子の発現と、胃癌患者及び非胃癌患者の血清HGF及びHGFA濃度を測定することで検討したものであり、下記の結果を得ている。

1.HGFA欠損マウスではDMP777投与に伴う腺窩上皮過形成を認めず、腺窩上皮過形成がHGFにより惹起されている可能性が示唆された。腺窩上皮過形成はガストリンによって惹起されていることが知られているが、今回は両群の血清ガストリン値の推移に差がなく、ガストリン刺激から腺窩上皮過形成が惹起されるpathwayにHGF系が作用している可能性が示唆された。

2.DMP777投与前からHGFA 欠損マウスではBrdU陽性細胞数がWild typeに比べ少なく、HGFは正常状態でも急性胃粘膜障害時でも細胞回転を促進していると考えられた。

3.DMP777をHGFA欠損マウスに投与した結果、BrdU陽性細胞の増加はWild typeに比べて緩徐であるにもかかわらず、SPEM形成、TFF2陽性細胞数の変化はWild typeと同等であった。SPEMの発生にはSPEMを構成する細胞が新たに産生されるのではなく、既存の細胞の形態変化により生じることが示唆された。

4.タンパクレベルでの胃癌組織におけるc-Metの発現亢進と、mRNA、タンパクレベルでのHAI-1発現低下を認めた。胃癌組織におけるHGF系経路の活性化はHGF発現亢進によるというよりも、c-Metの発現亢進とHAI-1の発現低下によるものと考えられた。

5.血清総HGFA値が胃癌患者群で高値であった。胃癌患者での肝臓からのHGFA分泌亢進が示唆され、胃癌担癌状態においては肝臓でのHGFA分泌を亢進させるシグナルが胃癌から発せられている可能性が示唆された。胃癌患者群において血清活性化型HGFA低値を認め、胃癌局所でのHGFAの消費を反映している可能性が考えられた。

本研究は、HGFが萎縮胃粘膜の回復に寄与していることと、ヒト胃癌においてHGF系の亢進が、血清総HGFA値の上昇、局所におけるHAI-1の発現低下、c-Metの発現上昇により惹起されている可能性を示したものであり、胃癌の発生、進展、転移におけるHGFの作用機序を解明する上で重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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