学位論文要旨



No 124915
著者(漢字) 田口,良子
著者(英字)
著者(カナ) タグチ,リョウコ
標題(和) 一般住民におけるマンモグラフィ検診への選好に関する研究 : 選択型実験を用いて
標題(洋)
報告番号 124915
報告番号 甲24915
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第3335号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 講師 村山,陵子
 東京大学 准教授 李,廷秀
 東京大学 教授 小林,廉毅
 東京大学 准教授 上原,誉志夫
内容要旨 要旨を表示する

1. 緒言

乳がんは世界的に増加傾向にあるがんであり、乳がんの二次予防対策として科学的な根拠に基づいたマンモグラフィ検診が多くの国で導入されている。日本の乳がんの罹患率・死亡率は欧米に比べると相対的に低いものの例外ではない。しかしながら、日本ではマンモグラフィ検診は2000年に国の指針として推奨されるようになったところであり、現在も検診受診率はきわめて低く、検診受診率向上のための具体的な取り組みが早急に求められている。

乳がん検診の評価は、医療や行政の立場からは主として「死亡率減少効果」などの健康の改善に関する成果を目標として行われている。しかし、各個人にとって検診は、死亡リスクを下げ、早期発見により罹患後のQOL低下を防ぐことが可能になる一方で、時間や費用がかかること、痛み、不安や不快感、偽陽性、偽陰性の検査結果のような不効用を被ることにもつながる。近年、検診の評価にあたっては、検診に関係する健康アウトカム以外の要因や、プロセスに関係する利益や不利益の評価も考慮する必要性が指摘されている。さらに、検診の究極の目標は検診を受診する個人の満足度を最大にすることであるという点からは、対象者にとって望ましい検診とはどのような検診であるのかという対象者自身の評価を考慮することも必要である。

近年、対象者の選好を明らかにする調査方法として選択型実験が保健医療領域で用いられるようになってきている。選択型実験は、マーケティング・リサーチの領域で消費者の商品評価を調べるために開発・使用されてきた方法であり、市場の存在しない商品やサービスの価値を評価したり、健康アウトカムでは評価が難しいと考えられる保健医療サービスの利益を検討することができる。

選択型実験は、人の意思決定に関わる選好のデータをアンケート調査などを利用して集める表明選好法の一つであり、研究者がその選好を明らかにしたい商品やサービスについてプロファイルと呼ばれる複数の属性から構成された商品やサービスを対象者に示して好ましい組み合わせを尋ね、選択された結果から回答者の選好の傾向を調査する方法である。

本研究の具体的な目的は以下の3点である。

1) マンモグラフィ検診対象年齢の女性が検診のどのような属性を潜在的に評価しているかについて傾向を探る。

2) 表明選好データは実際の行動データと異なり、選好の表明にすぎないためデータの信頼性に欠けるという指摘がある。そこで、本調査ではサンプルをマンモグラフィ検診経験者、非経験者のスプリットサンプルに分け、サブサンプル別に属性の評価の傾向の違いを検討することにより表明選好法の妥当性を検証する。

3) 今後需要があると考えられる検診オプションを想定し、属性水準を組み合わせてシナリオを作成して選択行動を予測する。

2. 対象と方法

東京都内2地域在住の乳がん既往歴のない40~59歳の女性として、住民基本台帳を用いて二段階無作為抽出した一般住民800名を選定し、2006年7~8月に郵送自記式質問紙調査を実施し301名 (37.6%) より回答を得た。個人属性などのほか、選択型実験の質問ではマンモグラフィ検診について5属性 (要因) の水準 (数値やカテゴリー) の組み合わせからなる仮想の検診内容を設定し、各質問では属性の水準の組み合わせが異なる2種類の検診内容を同時に提示して「どちらの検診であれば受けたいと思うか」の選択を尋ねた。各調査票では属性の水準を入れ替えたこのような質問を3問ずつ尋ねた。

条件付きロジットを用い最尤法により推定した。この方法では回答者集団の平均的な各属性の評価の向きや程度が求まり、この値の比を算出することで各属性間の重要性の比較が可能となる。まず回答者全体で効用関数のモデルを推定した後、過去の検診受診経験の有無によりスプリットサンプルを作成してサブサンプル別にモデルの推定を行った。さらに上記の推定結果から、現行の検診内容をもとにして検診にかかる時間と価格について2種類の検診オプションを想定してシナリオを考えその2つが存在する時の選択行動を予測した。

3. 結果

選択型実験の質問は3問であったが、うち1問は内的一貫性の確認の目的で使用されたため、この1問のデータは分析から除外された。よって2問のデータが分析に用いられ、理論上のサンプルは301名×4=1204であった。さらに、分析結果の信頼性を高めるために一部のサンプルを除外したため、選択型実験の最終的な有効回答数は902であった。分析の結果、マンモグラフィ検診について設定した5つの属性:「検診を受けるためにかかる合計時間」「乳房の痛みの程度」「乳がんが見逃される可能性」「死亡減少効果」「検診を受けるためにかかる合計費用」のいずれでも有意で妥当な符号の係数が推定された。

さらに過去のマンモグラフィ検診受診経験の有無により回答者を2グループに分割したサブサンプルの結果をみると、「検診を受けるためにかかる合計時間」「乳房の痛みの程度 (強)」の係数について、検診非経験者ではともにマイナスで有意であったが、検診経験者では有意とはならなかった。このことは、検診非経験者では検診プロセスで時間がかかることや強い痛みを感じることは効用を低下させるが、検診経験者ではそれらによって効用が低下しない傾向を示している。この結果から、検診に関する効用を下げると考えられる項目に対して効用が下がらない、つまりそのような不効用をやむを得ない、検診にはそれらを越える価値があると評価している人が検診を受診している、あるいは検診受診経験者は、検診を受けた経験から不効用をやむを得ない、大した問題ではないと評価している傾向があると考えられる。

「費用」以外の係数をそれぞれ「費用」の係数で割ることによって算出される限界支払い意思額は、『待ち時間が1時間短縮すること』に対して2,187円、『強い痛みが軽減されて弱い痛みになること』に6,305円、『見逃し確率が10%減少すること』に6,630円、『死亡減少効果が10%増加すること』に3,563円であった。

選択行動の予測については、長時間・低価格の検診と、短時間・高価格の検診の2種類の検診を設定して、後者の価格以外の全ての条件を一定にして後者の価格のみを変化させた時の選択割合の変化を見たところ、価格が高くなるにつれて短時間の検診を選択する人の割合は減少する傾向が見られたが、ある程度の確率で短時間の検診価格がより高く設定されても、長時間・低価格の検診と比較して、短時間・高価格の検診を高く評価する傾向が見られた。

4. 考察

本研究で用いた選択型実験は表明選好法の一つである。表明選好法は実際の行動データではなく、アンケート調査で得たデータを扱うことからさまざまなバイアスが生じやすいことが知られており、結果の解釈や一般化は慎重に行う必要がある。しかし、このような手法上の限界はあるものの、マンモグラフィ検診に関する情報が浸透していない現在の日本のように、市場の情報が利用できない状況で新しい商品やサービスの評価に関するデータを得るためには、本調査で用いたような選択型実験が有用であると考えられた。本研究は一般住民を対象にして乳がんマンモグラフィ検診の選好を選択型実験により検討した数少ない報告の一つであるという点で意義があると考えられる。

乳がんマンモグラフィ検診に関して、本調査で明らかになったような対象者の効用に影響すると考えられる情報を戦略的に普及させることによって、検診受診率向上の可能性が示唆された。また、がん検診供給側の問題への対策と共に、検診受診者側の需要を起こす、需要に応えるような検診体制の整備が検診受診率向上に影響する可能性が示唆された。

5. 結論

本研究では、一般住民女性を対象として、乳がんマンモグラフィ検診についてどのような属性を潜在的に評価しているかの傾向を探るため、選択型実験を用いた質問紙調査を実施し、以下の点が明らかになった。

1) 今回の調査で検討された全ての属性について、検診の効用への有意で妥当な符号の影響が明らかとなり、対象者は検診提供側が検診の主要な目的としている「死亡率減少効果」のような健康アウトカム以外にも、検査自体の感度を表す「検診で乳がんが見逃される可能性」、検診プロセスに関わる「検診を受けるためにかかる合計時間」「検診を受けるためにかかる合計費用」、対象者の主観的な要素である「乳房の痛みの程度」といった属性をも高く評価していることが示唆された。

2) 算出された限界支払い意思額から、検診を構成するそれぞれの属性の水準の変化に対し、低からぬ評価をしていることが示唆された。

3) マンモグラフィ検診受診経験の有無によるサブサンプル別のモデルの推定結果から、検診経験者は検診非経験者と比較して検診を高く評価している傾向が見られ、行動と選好のプラスの相関が確認されたことから本手法の妥当性が示唆された。

4) 今後需要のあると考えられる検診オプションについて、検診を受けるためにかかる時間と価格を組み合わせて想定して選択行動を予測したところ、かかる時間の短い検診は、たとえそれが高い費用で提供されたとしてもある程度の割合の需要があることが示唆され、検診の評価の際にはかかる時間は重要性の高い項目であると考えられた。

以上の結果から、検診の評価を高めるような戦略的な情報提供や、人々が望む検診環境を整備することによって、マンモグラフィ検診受診率が向上する可能性が示唆された。また、検診についての人々の選好の情報を集める手段として、選択型実験を用いることの妥当性が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、乳がん検診制度改正後の経過期間が短く、人々に十分認知されていないことが報告されているマンモグラフィ検診について、検診受診対象者がマンモグラフィ検診に関するどのような属性 (要因) を潜在的に評価しているかの傾向を探るため、一般住民女性を対象とした質問紙調査を実施した。その際、日本の現状ではマンモグラフィ検診に関する情報が浸透していないと考えられることから、実際の行動データを集めるには限界がある。そこで、仮想的なシナリオに対する回答から検診への選好データを集めることが可能である表明選好法の一つである選択型実験を使用した。主な結果は以下の通りである。

1. 今回の調査で検討された全ての属性について、検診の効用への有意で妥当な符号の影響が明らかとなり、対象者は検診提供側が検診の主要な目的としている「死亡率減少効果」のような健康アウトカム以外にも、検査自体の感度を表す「検診で乳がんが見逃される可能性」、検診プロセスに関わる「検診を受けるためにかかる合計時間」、「検診を受けるためにかかる合計費用」、対象者の主観的な要素である「乳房の痛みの程度」といった属性をも高く評価していた。

2. 分析で推定された「費用」以外の係数を、それぞれ「費用」の係数で割ることによって算出される限界支払い意思額は、『待ち時間が1時間短縮すること』に対して2,187円、『乳房の強い痛みが軽減されて軽い痛みになること』に対して6,305円、『検診で乳がんが見逃される可能性が10%減少すること』に対して6,630円、『乳がんによる死亡を減少させる効果が10%増加すること』に対して3,563円であり、検診を構成するそれぞれの属性の水準の変化に対し、低からぬ評価をしていた。

3. マンモグラフィ検診受診経験の有無によるサブサンプル別のモデルの推定結果から、検診経験者は検診非経験者と比較して検診を高く評価している傾向が見られ、行動と選好のプラスの相関が確認されたことから表明選好法の妥当性が示唆された。

4. 今後需要のあると考えられる検診オプションについて、検診を受けるためにかかる合計時間と価格を組み合わせて想定して選択行動を予測したところ、検診を受けるためにかかる合計時間が短い検診は、たとえそれが高い費用で提供されたとしてもある程度の割合の需要があることが示唆され、検診の評価の際には検診を受けるためにかかる時間は重要性の高い項目であると考えられた。

以上、本論文はマンモグラフィ検診を構成する各属性への評価の傾向や属性間のトレードオフの比率を明らかにした。また、検診に関する人々の選好の情報を集める手段としての表明選好法の妥当性が示唆された。

日本の現状ではマンモグラフィ検診に関して利用できる市場の情報に限界があるが、表明選好法を用いて仮想的にマンモグラフィ検診の評価に関するデータを収集し分析したこと、また一般住民のランダムサンプルを対象にしてマンモグラフィ検診の選好を選択型実験により検討した研究は検索の限り見あたらなく、数少ない報告の一つであるという点で、学位の授与に値するものと考えられる。

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