学位論文要旨



No 124917
著者(漢字) 上野,里絵
著者(英字)
著者(カナ) ウエノ,リエ
標題(和) 精神疾患を有する母親の母親役割の積極的・肯定的認識に影響を与える心理社会的要因に関する研究
標題(洋)
報告番号 124917
報告番号 甲24917
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第3337号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 教授 水口,雅
 東京大学 准教授 島津,明人
 東京大学 准教授 熊野,宏昭
 東京大学 講師 永田,智子
内容要旨 要旨を表示する

背景

精神疾患を有する人の結婚や子育ての機会の増大に伴い、重症の精神疾患を有する人が親になる割合も増大している。中でも、実際に子育てをしている人は、男性より女性の方が多いことから、精神疾患を有する母親(女性)への関心が高まりつつある。今後、精神疾患を有する母親への支援は、研究や臨床においてますます重要な課題になると思われる。

近年、精神疾患を有する母親に関する研究は、母親の観点が重視されるようになり、このような研究に共通する知見として、精神疾患を有する母親は、母親役割や子育てを肯定的に認識していることが報告されていることより、母親の母親役割への肯定的な認識に働きかける支援は有用と考えられる。一方、精神疾患を有する母親の心理社会的問題として、経済的困窮、ソーシャルサポートの不足、精神疾患に起因する社会的スティグマや差別、子育てのストレスなどが報告されていることから、母親の子育ては、心理社会的な問題と併せて検討される必要性が指摘されている。加えて、精神疾患は慢性疾患である為、母親にとってセルフケアは子育てと同様に重要な課題であるが、精神疾患を有し、子育てをしている母親のセルフケアは、特有の困難があることが報告されている。また、精神疾患を有する人において家族関係は、重要な心理社会的要因であることは、EE(Expressed Emotion)研究で実証されていること、加えて、精神疾患を有する母親にとって、子どもとの関係は重要とする知見があることより、セルフケア及び子どもとの関係は心理社会的要因として検討される必要がある。

以上より、本研究では、精神疾患を有する母親の心理社会的要因を、経済状態、スティグマ、ソーシャルサポート、セルフケア、子どもとの関係、及び子育てのストレスとし、母親役割の積極的・肯定的認識に影響を与える心理社会的要因を探索することで、多様な支援についての示唆を得ると考えられる。さらに、精神疾患を有する母親への支援はハイリスク児と呼ばれている子どもの予防的観点からも意義があると思われる。

目的

1.精神疾患を有する母親の人口統計学的、精神医学的、及び心理社会的実態を明らかにする。

2.精神疾患を有する母親の母親役割の認識の特徴を明らかにする。

3.精神疾患を有する母親の母親役割の積極的・肯定的認識に影響を与える要因を明らかにする。

方法

参加者は、東京都内6ヶ所の精神科医療施設の外来に通院中の女性(母親)で、統合失調症又は気分障害を有し、18歳以下の子どもと同居する74名であった。人口統計学的情報、精神医学的情報、配偶者の病気の理解、日常生活における相談者に関する情報、及び既存の尺度を含めた無記名自記式質問紙を用いた横断研究を行った。用いた尺度は、Linkスティグマ尺度日本語版、The Social Support Questionnaire (SSQ)、地域生活に対する自己効力感尺度(SECL)、Family Emotional Involvement and Criticism Scale (FEICS)、育児ストレスショートフォーム (PS-SF)、及び母親役割受容尺度であった。

統計的分析

(1)人口統計学的、精神医学的、及び心理社会的変数をもとに記述統計を行った。(2)母親役割の積極的・肯定的認識の指標であるMP及び母親役割の消極的・否定的認識の指標であるMNの平均値を算出し、t 検定と相関分析を行った。次に、MPとMNにおける各項目の平均値を算出し、本研究と母親役割受容尺度を開発した大日向(1988)の研究との比較を効果量(effect size)を算出して検討した。(3)MPに影響する要因の検討には、各変数間の相関分析を行った。さらに、MPを目的変数、相関分析にてMPと有意な関連が認められた変数を説明変数とした、階層的重回帰分析を行った。各ブロックへの投入変数は、Liberman (1986)のモデルを参考に構築した本研究の概念モデルに従った。

本研究は、東京大学大学院医学系研究科・医学部倫理員会(受付番号1977-(2))、及び倫理委員会を存置している各施設にて承認を得た。

結果

人口統計学的、精神医学的、及び心理社会的実態

参加者の平均年齢は42.6歳、子どもの数は1人又は2人がそれぞれ約40%、子どもの平均年齢は12.4歳であった。71.6%が結婚をし、93.2%が高等学校を卒業していた。生活意識は「苦しい」(大変苦しいとやや苦しい)が51.4%、「普通」が32%、「ゆとりがある」(大変ゆとりがあるとややゆとりがある)が16.7%であった。診断名は統合失調症44.6%、気分障害55.4%、罹病期間は平均9.5年、入院回数は平均1.9回であった。Linkスティグマ尺度日本語版総点の平均は33.9 ± 5.8、SSQ満足度総点の平均は27.3±6.7、SECL総点の平均は67.2 ± 16.2、FEICS-CC(批判)総点の平均は10.7 ± 3.9、FEICS-EOI(情緒的巻き込まれ過ぎ)総点の平均は14.0 ± 4.3、PS-SF総点の平均は47.3 ± 11.7であった。

母親役割の認識の特徴

MPの平均値は、2.9 ± 0.7点、MNは、2.1 ± 0.7点であり、MP得点はMN得点に比べて、統計的に有意に高かった(p < 0.001)。さらに、MPとMNの平均値における本研究と一般の母親を対象とした大日向(1988)の研究と比較した結果、MPでの効果量は、-0.16と2群間に差異がないことが示された一方、MNでの効果量は0.33と小さいながらも効果があり、2群間に差異があることが示唆された。

各項目間の検討では、MPでは、「母親であることが好きである」の3.3 ± 0.8 、「母親になったことで人間的に成長できた」の3.3 ± 0.8が共に他の4項目より得点が高く、大日向の研究との比較では差異はなかった。一方、MNでは「自分は母親として不適格なのではないだろうか」の2.6 ± 1.1が他の5項目より得点が高く、大日向の研究との比較では、効果量は0.55と中等度の効果があった。

母親役割の積極的・肯定的認識に影響を与える要因

MPと有意に関連があった変数は、生活意識、スティグマ、ソーシャルサポートの満足度、セルフケア、子どものEE(批判と情緒的巻き込まれ過ぎ)、及び子育てのストレスであった。階層的重回帰分析の結果、最終的な重回帰モデルで有意にMPを説明した変数は、生活意識の「苦しい」、セルフケア、子どもの情緒的巻き込まれ過ぎ、子育てのストレスであった。重回帰モデルはモデルの適合度も高く、精神疾患を有する母親の母親役割の積極的・肯定的認識を説明するモデルとして一定の有用性があると考えられた。

考察

人口統計学的及び心理社会的要因

婚姻状態は、先行研究と比して本研究の方が結婚している割合が高く、これは文化的背景の相違が考えられる。しかし離婚率を本邦での一般人口と比較すると、本研究の方が高いことから、精神疾患を有する人は離婚のリスクが高いという点で、欧米と共通する結果と思われる。生活意識は、本邦の全国調査と類似し、経済的困窮という先行研究と異なっていた。この相違は、本研究は、結婚している者が多かった為、配偶者より経済的支援を受けていたことが考えられる。また、本研究では、生活意識という参加者の主観を尋ねた為、実際の経済状態とは異なっていた可能性がある。スティグマとソーシャルサポートの結果は、先行研究の知見を支持した。

母親役割の認識の特徴

MP得点において、本研究と大日向の研究間には、差異が示されなかったことより、本研究の母親の母親役割に対する積極的・肯定的な認識の程度は、一般の母親と類似していたと考えられる。また、本研究結果は、精神疾患を有する母親が母親役割を積極的又は肯定的に認識しているとする先行研究を支持したものと思われる。項目間の検討では、MPでは「母親であることが好きである」と「母親になったことで人間的に成長できた」が他の項目より得点が高く、この結果は、一般の母親及び精神疾患を有する母親の先行研究と類似していたことより、「人間的成長」の実感などは、精神疾患の有無に関わらない、「母親」に共通した重要な体験であることが示された。MNでは、「自分は母親として不適格なのではないだろうか」の得点が高く、この得点は、大日向の研究より高いことが効果量にて示唆され、かつ精神疾患を有する母親の質的研究にて、「母親として不適格」と類似する知見が示されていることより、本研究結果は、精神疾患を有する母親の特徴として考えられる。

母親役割の積極的・肯定的認識に影響を与える要因

重回帰分析の結果、セルフケアの単寄与率が顕著に高く、セルフケアができていると感じているほど、母親役割をより積極的・肯定的に認識することが示されたことより、精神疾患を有する母親のセルフケアは、子育ての文脈の中でアセスメントすることの重要性が示唆された。

本研究では、EE研究で再発などの予測要因とされる情緒的巻き込まれ過ぎ(EOI)が、MPの説明要因となった結果の解釈の一つとして、本邦の特徴という点が考えられる。大島(2000)の研究ではEOIは、暖かみを捉える尺度としてみることができると述べており、本研究が大島の知見と類似する結果であったことより、本邦におけるEOIは、EE研究での概念と同様のものとして捉えることは困難であり、むしろ暖かみという肯定的側面を測っている概念として捉えられ、これは本邦の特徴として考えられる。本研究にて、子どものEEという観点から、母親への影響について得られた知見は、今後の研究の発展に寄与できたと思われる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、精神科病院またはクリニックに通院している精神疾患(統合失調症あるいはまた気分障害)を有し、かつ子育てをしている比較的軽症な女性(母親)の実態、母親役割の認識の特徴、および母親役割の積極的・肯定的認識 (MP) に影響を与える心理社会的要因の検討を行った横断研究である。無記名自記式質問紙にて、人口統計学的変数、精神医学的変数、既存の尺度への回答を得た。用いた尺度はLinkスティグマ尺度日本語版、The Social Support Questionnaire、地域生活に対する自己効力感尺度、Family Emotional Involvement and Criticism Scale、育児ストレスショートフォーム、母親役割受容尺度であった。

本研究では、東京都内6カ所の精神科医療施設に通院中の精神疾患を有する母親74名を分析の対象とし、人口統計学的変数、精神医学的変数、および心理社会的変数を記述統計にて示した。次に、母親役割の認識の特徴については、本研究結果と先行研究との比較をするため、効果量 (effect size) を算出して検討した。MPに影響を与える要因には、MPを目的変数、MPと相関が認められた変数を説明変数とした階層的重回帰分析を行い検討した。

主要な結果は下記の通りである。

1.実態として、まず婚姻状態については、本研究の結婚している者は先行研究より多かった。一方、本研究の離婚率は、本邦の一般人口における女性の離婚率より高かったことより、精神疾患を有する人は離婚のリスクが高いという点は、先行研究と共通していた。次に、経済状態を尋ねた生活意識の結果は、本邦の全世帯を対象とした全国調査とほぼ同程度であり、経済的に困窮しているとする先行研究と異なり、本研究の母親の経済状態は比較的よいことが示された。

2.母親役割の認識の特徴については、母親役割受容尺度の下位尺度であるMP得点は、一般の母親を対象とした研究結果と差異がなかったが、母親役割の消極的・否定的認識 (MN) の得点は、本研究の母親の方が高い傾向であった。項目間の検討では、MP項目では、「母親であることが好きである」および「母親になったことで人間的に成長できた」の得点が共に他の4項目より高く、この結果は、一般の母親および、精神疾患を有する母親の先行研究と類似していた。MN項目では、「自分は母親として不適格なのではないだろうか」の得点が他の5項目より高く、また一般の母親を対象とした研究との比較でも差異がみられたことより、この結果は、精神疾患を有する母親の特徴として示唆された。

3.MPに影響を与える要因を検討するため、まずMPと各変数間の相関分析を行った結果、生活意識、スティグマ、ソーシャルサポートの満足度、セルフケア、子どものEE(批判と情緒的巻き込まれ過ぎ)、および子育てのストレスがそれぞれMPと統計的に有意に相関があった(両側検定)。

4.次に、MPを目的変数として、MP と相関があった変数を説明変数とした階層的重回帰分析を行った。最終的な重回帰モデルにて、統計的に有意にMPを説明していた変数は、生活意識の苦しい、セルフケア、子どもの情緒的巻き込まれ過ぎ、子育てのストレスであった(両側検定)。重回帰モデルは、モデルの適合度も高く、精神疾患を有する母親の母親役割の積極的・肯定的認識を説明するモデルとして、一定の有用性があると考えられた。

5.階層的重回帰分析の結果、セルフケアの単寄与率は高く、セルフケアができていると感じているほど、母親役割をより積極的・肯定的に認識することが示されたことより、精神疾患を有する母親のセルフケアは、子育てとの関連の中でアセスメントすることが、より効果的なセルフケアへの支援につながることが示唆された。

以上、本論文は、精神疾患を有する母親の母親役割の積極的・肯定的認識に影響を与える要因を心理社会的側面から検討し、多面的な視点から考察した点で学術的な意義が高い。また、精神科病院又はクリニックといった医療の場で、比較的軽症な精神疾患を有する母親、あるいは過去に重症な時期を経た者では、病状の安定期にある母親に対して専門家が用いることができる、心理社会的側面を考慮した支援を示唆した点では、本論文は実践的な有用性をも兼ね備えており、学位の授与に値するものと考えられる。

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