学位論文要旨



No 124919
著者(漢字) 大久保,豪
著者(英字)
著者(カナ) オオクボ,スグル
標題(和) 成人先天性ろう者の人工内耳装用への関心および装用希望の有無とその理由に関する質的研究
標題(洋)
報告番号 124919
報告番号 甲24919
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第3339号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川上,憲人
 東京大学 教授 芳賀,信彦
 東京大学 教授 神馬,征峰
 東京大学 教授 山岨,達也
 東京大学 講師 山崎,あけみ
内容要旨 要旨を表示する

1. はじめに

人工内耳とは蝸牛管内に埋め込んだ電極で聴神経を電気刺激することで聴力の回復/獲得を図る機器のことである。補聴器よりも聴力が向上する可能性がある点、そして補聴器では十分な聴力が得られなかった難聴であっても蝸牛神経が残っている限り適用できる点で補聴器よりも優れている。しかし、先天性のろう者の場合、人工内耳の装用を強く拒む者がいることが知られている。その理由の一つとして、成人先天性ろう者にとって人工内耳の装用効果が不確実であることが挙げられるが、それだけが装用を望まない理由とは考えにくい。本研究では成人先天性ろう者が人工内耳装用に対して持つ関心や装用希望の有無、およびそのように考える理由を明らかにすることを目的として成人先天性ろう者に面接調査を実施することとした。

2. 方法

2.1. 研究協力者

インフォーマントは18歳以上の先天性ろう者である。まず、人工内耳を装用していない者(非装用者インフォーマント)に対して半構造化面接を依頼した。初期の面接調査の分析を終えた時点で、両親が聴者かろう者かによって、インフォーマントの手話習得過程や音声言語での意思疎通を希求する程度が異なると考えられたものの、研究の初期段階では両親が聴者であるインフォーマントが多かった。そこで、キー・インフォーマントに両親がろう者であるインフォーマントを意図的に紹介するよう依頼した。同様に、インフォーマントが通学・卒業した学校の種類や就業の有無も手話習得過程や音声言語での意思疎通の必要性が異なると考えられたものの、研究の初期段階ではろう学校を卒業した者や就業していないろう学校を卒業した者や就業している者が多かった。そこで、キー・インフォーマントに普通学校を卒業した者や就業していない者を紹介するよう依頼した。この結果、人工内耳を装用していない先天性ろう者30名の面接を実施することができた。さらに、人工内耳に対する装用者と非装用者の認識の違いを明らかにするため、成人してから人工内耳を装用した先天性ろう者(装用者インフォーマント)2名にも面接を行った。

2.2. データ収集

2008年2月から9月にかけて、手話または音声言語を用いた半構造化面接によりデータを収集した。インフォーマント32名中、装用者インフォーマント1名が音声言語での面接を、装用者インフォーマントと非装用者インフォーマントを合わせた31名が手話での面接を希望した。面接内容はインフォーマントの同意を得て全て記録した。録音、録画した内容から著者自身が逐語録を作成した。

2.3. 分析手順

分析はStrauss & CorbinのGrounded Theory Approachを参考に行った。まず"Open Coding"の作業を行った。これは、逐語録の中から研究目的に合致すると思われる部分を抽出し、意味のまとまりごとにその内容を簡潔に表現する概念ラベル(コード)をつける作業である。いくつかの逐語録に対して"Open Coding"の作業が終わると、続いて"Axial Coding"の作業を行った。これは各コードと他のコードとの比較をしながら、類似した概念をまとめてカテゴリーをつくる作業である。次に、カテゴリーの性質やカテゴリー間の関係を検討する"Selective Coding"と呼ばれる作業を行った。この結果、生成されたカテゴリーの関係図が図1である。

3. 結果

3.1. インフォーマントの属性(表1)

インフォーマントの属性を表1にまとめた。なお、インフォーマントはすべて補聴器の使用経験を持っていた。また、卒業した学校がろう学校であっても、音声言語を用いた教育を受けていた。

3.2. 非装用者インフォーマントの装用への関心と装用希望の有無(図1)

非装用者インフォーマントのうち、27名はこれまでに人工内耳の装用に関心を持ったことがなかった。一方、3名の非装用者インフォーマントが人工内耳の装用に関心を持ったことがあると語った。ただし、これらのインフォーマント3名も、調査時点では装用したいという気持ちはないと語った。

3.3. 非装用者が装用への関心を持たない理由

インフォーマントは装用に関心を持たない理由として、《体内へ機械を埋め込むことへの抵抗》、《きこえないことが当たり前という感覚》、《補聴器の使用による不快感》、《手話での意思疎通に対する満足》、《視覚的な通信技術の発達》を挙げた。

これらのうち《きこえないことが当たり前という感覚》は先天性ろうであるが故に生じていた。しかし、先天性ろう者であれば自然に身につける考え方ではなく、周囲が聴者ばかりで、ろう者がいない環境で育つと、きこえることのほうが当たり前で、きこえないことは異常と感じるようになると語られた。

また、《手話での意思疎通に対する満足》を感じる背景には、先天性ろう者にとって、視覚的な言語である手話のほうが、音声言語よりもはるかに習得しやすく、明確な意思疎通が可能だという事情があると指摘された。ただし、先天性のろう者であれば必ず手話を身につけられるとは限らなかった。親が聴者であるインフォーマントやずっと普通学校で育ったインフォーマントは、「幼少期には手話を知らなかった」、「手話があることは知っていたが、自分はできなかった」と語った。こうしたろう者と関わることのできない環境に育ったインフォーマントは、ろう者と交流することで手話を学び、手話による意思疎通に満足感を覚えるようになっていた。

3.4. 非装用者が装用への関心を持つ理由

非装用者インフォーマントが装用への関心を持つ理由としては、《きこえることへの関心》、《危機管理のための聴力の活用》、《音声言語による意思疎通の希求》の3点が挙げられた。装用への関心を持つインフォーマントは、関心のないインフォーマントとは異なり、きこえることへの興味や必要性を認識していた。

3.5. 装用に関心を持った者が装用を希望しなかった理由

装用への関心を持ったことがあるが、調査時点では人工内耳の装用を望んでいなかったインフォーマントは、その理由として、《装用効果が低い可能性の認識》と《友人ろう者との関係悪化への恐れ》を挙げた。

《友人ろう者との関係悪化への恐れ》の背景には、人工内耳の装用に対して強く反対する一部のろう者の存在があると語られた。ただし、「人工内耳を装用すると頭に穴が開く」、「人工内耳を装用するとスポーツができなくなる」といった誤った情報に基づいて反対している者がいる可能性が指摘された。

3. 6. 装用者が装用を決めた理由 -非装用者と装用者の比較から-

装用者インフォーマントも、非装用者インフォーマントと同じように《体内に機械を埋め込むことへの抵抗》を感じていたが、最終的には《音声言語による意思疎通の希求》が抵抗感を凌駕して装用決断に至っていた。また、手話での意思疎通ができても《手話での意思疎通に対する満足》が低く、相対的に《音声言語による意思疎通の希求》が強いという特徴もあった。そして非装用者インフォーマントほどには、《装用効果が低い可能性の認識》や《友人ろう者との関係悪化への恐れ》を重視しておらず、これらが装用への希望を妨げる要因になっていなかった。成人先天性ろう者はこれまで挙げた種々の理由を総合的に勘案し、不安要因がより強ければ、あるいは音声言語の必要性を切実に感じなければ装用への関心を持たないが、不安要因よりも音声言語による意思疎通の希求度が勝る場合には装用を決めるのである。

結論

非装用者インフォーマントのうち、《体内へ機械を埋め込むことへの抵抗》、《きこえないことが当たり前という感覚》、《補聴器の使用による不快感》、《手話での意思疎通に対する満足》、《視覚的な通信技術の発達》を感じる者は装用に関心を持っていなかった。一方、《きこえることへの関心》、《危機管理のための聴力の活用》、《音声言語による意思疎通の希求》を感じる者は装用に関心を持っていた。ただし、これらのインフォーマントも《装用効果が低い可能性の認識》、《友人ろう者との関係悪化への恐れ》という理由から装用を希望してはいなかった。

一方、装用者インフォーマントは装用効果が低い可能性や《友人ろう者との関係悪化への恐れ》を重視しておらず、《音声言語による意思疎通の希求》を強く感じるが故に装用を決定していたこと、〈手話で意思疎通ができる対象の限界〉を感じるがゆえに《手話での意思疎通に対する満足》が高くないことが明らかになった。

成人先天性ろう者の人工内耳装用の関心・希望の理解には、そのろう者のきこえないことに対する価値観や言語に対する満足度、そして言語に対する満足度に影響を与える言語環境についての理解が不可欠である。また、先天性ろう者が人工内耳についての正しい情報を得られるような環境作りが急務である。

図1 非装用者インフォーマントの装用への関心および装用希望の有無とその理由

表2 インフォーマントの属性

審査要旨 要旨を表示する

本研究は成人先天性ろう者の人工内耳装用に関する関心・希望の有無、その理由を明らかにするため、人工内耳を装用していない成人先天性ろう者(非装用者インフォーマント)30名と人工内耳を装用した成人先天性ろう者(装用者インフォーマント)2名に対する面接調査を行ったものであり、下記の結果を得ている。

1.非装用者インフォーマントのうち、《体内へ機械を埋め込むことへの抵抗》、《きこえないことが当たり前という感覚》、《補聴器の使用による不快感》、《手話での意思疎通に対する満足》、《視覚的な通信技術の発達》を感じる者は装用に関心を持っていなかった。

2.《きこえることへの関心》、《危機管理のための聴力の活用》、《音声言語による意思疎通の希求》を感じる者は装用に関心を持っていた。ただし、これらのインフォーマントも《装用効果が低い可能性の認識》、《友人ろう者との関係悪化への恐れ》という理由から装用を希望してはいなかった。

3.装用者インフォーマントは装用効果が低い可能性や《友人ろう者との関係悪化への恐れ》を重視しておらず、《音声言語による意思疎通の希求》を強く感じるが故に装用を決定していたこと、〈手話で意思疎通ができる対象の限界〉を感じるがゆえに《手話での意思疎通に対する満足》が高くないことが明らかになった。

4.成人先天性ろう者の人工内耳装用の関心・希望の理解には、そのろう者のきこえないことに対する価値観や言語に対する満足度、そして言語に対する満足度に影響を与える言語環境についての理解が不可欠である。また、先天性ろう者が人工内耳についての正しい情報を得られるような環境作りが急務である。

以上、本論文は成人先天性ろう者の人工内耳装用に対する関心・希望には、使用している言語に対する満足度が関連しており、その満足度は言語環境によって変わることを明らかにした。本研究は先天性ろう者にとって望ましい人工内耳医療のあり方を考える上で貴重な資料となる事が期待でき、学位の授与に値するものと考えられる。

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