学位論文要旨



No 124951
著者(漢字) 植田,知文
著者(英字)
著者(カナ) ウエダ,トモフミ
標題(和) 黄色ブドウ球菌の滑走の制御機構の解明
標題(洋)
報告番号 124951
報告番号 甲24951
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1304号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 准教授 富田,泰輔
 東京大学 准教授 東,伸昭
内容要旨 要旨を表示する

[序]

病原性細菌が動物個体に感染するためには、宿主体内に侵入した後、自らの増殖に適した場所に定着し、増殖することが重要である。したがって、病原性細菌の移動メカニズムを理解することは、感染症を克服する手段を確立する上で有用であると考えられる。既に細菌の溶液中における移動について、鞭毛依存的な運動が病原性に寄与することが報告されている。しかしながら、鞭毛を持たない細菌の移動の制御機構および病原性への寄与については不明であった。黄色ブドウ球菌は鞭毛を持たない病原性細菌であり、近年、多剤耐性菌の出現が問題となっている。当研究室の垣内らは、黄色ブドウ球菌が軟寒天培地上を広がる能力(滑走能力)を持つことを発見した(Kaito et al., 2007)。しかしながら、黄色ブドウ球菌の滑走がどのように制御されているかは明らかでなかった。本研究において私は、黄色ブドウ球菌の滑走の制御メカニズムの解明を試みた。

[方法と結果]

グルコースなどの糖は黄色ブドウ球菌の滑走を促進する

黄色ブドウ球菌はTSB(Tryptic Soy Broth)軟寒天培地上では滑走するが、LB軟寒天培地上では滑走しない(垣内ら,2007)。この結果は、滑走が細胞外環境により制御されており、TSB培地中に滑走の促進物質が存在することを示唆している。TSB培地にはD-グルコースが含まれているが、LB培地には含まれていない。LB軟寒天培地中にD-グルコースを加えると、黄色ブドウ球菌の滑走が起きるようになった(Fig.1A)。一方、D-グルコースの光学異性体であるL-グルコースは滑走を促進しなかった。また、D-グルコース以外の糖(フルクトース、マンノースなど)もLB軟寒天培地に加えた場合、滑走を促進した(Fig.1B)。以上の結果は、グルコースなどの糖が滑走の促進物質であり、黄色ブドウ球菌は細胞外に存在する糖を認識して滑走することを示唆している。

黄色ブドウ球菌の滑走にはカタボライト制御機構が必要である

カタボライト制御は細胞外の炭素源に応じた遺伝子発現の制御の1つである。糖による滑走の促進がカタボライト制御を受けるかを知るため、カタボライト制御機構に働くことが報告されているCcpA(Catabolite Control Protein A)およびHprK(Hpr Kinase)の欠損株を作成し、その滑走能力を検討した。その結果、CcpAおよびHprKの欠損株は滑走能力を失っていることが分かった(Fig.2)。この結果は、カタボライト制御を介した遺伝子発現の誘導により、黄色ブドウ球菌の滑走が起きることを示唆している。

黄色ブドウ球菌の滑走時に増加するタンパク質の探索

黄色ブドウ球菌が滑走を行う際に誘導される遺伝子を同定するため、次に私は、滑走時に発現量が増加するタンパク質の探索を行つた。液体培地および軟寒天培地上で培養した菌のタンパク質をSDSポリアクリルアミドゲル電気泳動により分析した。その結果、滑走が起きる条件(TSB軟寒天培地、またはグルコースを添加したLB軟寒天培地)で培養した菌では複数のタンパク質の量が増加していることが判明した(Fig.3)。これらのタンパク質をゲルから切り出し、マススペクトロメトリーによる同定を試みた。その結果、滑走時に増加するタンパク質の候補としてSdrC, SdrD, AhpC, ClpP,GuaB, SA1743, RpsBおよびSodMが同定された(Fig.3)。

lpP遺伝子は黄色ブドウ球菌の滑走に必要である

滑走時に増加することが予測されたそれぞれのタンパク質の欠損株を作成し、滑走能力の有無を検討した。その結果、ClpPの欠損株では滑走能力が低下していることが分かった(Fig.4)。さらに、clpP遺伝子のプロモーター活性をレポーターアッセイにより検討したところ、clpP遺伝子のプロモーター活性は液体培地での培養時と比べ、軟寒天培地での培養時の方が高いことが分かった。以上の結果は、ClpPは軟寒天培地上での増殖時に発現が誘導される、滑走に必要なタンパク質であることを示唆している。

病原性因子ArlRS、Agrは黄色ブドウ球菌の滑走に必要である

clpP遺伝子はセリンプロテアーゼをコードしており、種々の病原性因子の発現に寄与することが報告されている。clpP遺伝子が滑走に必要であることから、私はClpPの下流で働く病原性因子が滑走に必要であると予想した。ClpPにより発現が促進され、病原性因子の発現制御に働くarlRS遺伝子およびagr遺伝子座の破壊株はそれぞれ滑走能を失っていた(Fig.5)。この結果は、arlRS遺伝子およびagr遺伝子座を介した病原性因子の発現制御が滑走に必要であることを示している。さらにこの結果は、黄色ブドウ球菌は滑走と病原性因子の発現の両方を同時に制御する機構を有していることを示唆している。

軟寒天培地におけるagr遺伝子座の発現はカタボライト制御を受ける

液体培地において、agr遺伝子座の発現はグルコースの添加により変化し、またカタボライト制御機構に働く因子CcpAの欠損株ではagr遺伝子座の発現量が低下することが報告されている。このことから、糖による滑走の促進時にはカタボライト制御を介して、agr遺伝子座の発現が誘導されていることが想定される。agr遺伝子座を介した滑走の制御機構に対するカタボライト制御機構の寄与を明らかにするため、野生株とccpA遺伝子破壊株におけるagr遺伝子座のmRNA量を比較した。その結果、野生株におけるagr遺伝子座のmRNA量は軟寒天培地へのD-グルコースの添加により増加した。また、ccpA遺伝子破壊株では野生株と比べ、agr遺伝子座のmRNA量が低下しており、D-グルコースによる誘導も小さかった(Fig.6)。以上の結果は、軟寒天培地においてもagr遺伝子座の発現はカタボライト制御を受けていることを示唆しており、CcpAがagr遺伝子座の発現を促進することにより滑走を引き起こすことを示唆している。

clpP遺伝子とarlRS遺伝子の発現はカタボライト制御を受けない

agr遺伝子座の発現制御における、「ClpPとArlRSを介した制御」と「カタボライト制御」の関係を明らかにするため、clpP遺伝子とarlRS遺伝子の発現がカタボライト制御を受けるかを検討した。その結果、ccpA遺伝子破壊株では、clpP遺伝子とarlRS遺伝子のmRNA量は低下しておらず、むしろ増加していた(Fig.7)。また、野生株におけるclpP遺伝子のプロモーター活性はD-グルコースの添加により向上せず、むしろ低下した。以上の結果は、ClpPとArlRSを介した制御とカタボライト制御は独立にagr遺伝子座の発現を制御していることを示唆している。

[まとめと考察]

本研究で私は、黄色ブドウ球菌の滑走が培地中の糖によるカタボライト制御を受けていることを明らかにした。また、滑走には病原性因子の発現制御に働くclpP遺伝子、arlRS遺伝子およびagr遺伝子座が必要であることを明らかにした。さらに、ClpPとArlRSを介する機構とカタボライト制御機構は、agr遺伝子座の発現を独立に制御していることを明らかにした。以上の結果は、黄色ブドウ球菌の滑走には、agr遺伝子座の発現が誘導されることが必要であり、そのためには「カタボライト制御を介した細胞外の糖による制御」と「ClpPとArlRSを介した軟寒天環境による制御」が必要であることを示唆している(Fig.8)。

私は、黄色ブドウ球菌の滑走は宿主体内環境に対する応答の子種であり、糖の認識により活性化され、病原性因子の発現と協調して、宿主体内での黄色ブドウ球菌の感染領域の拡大に寄与する現象であると推定している(Fig.8)。また、滑走は宿主体内のみならず、自然環境中での増殖の場の獲得に重要な機構ではあることも考えられる。

黄色ブドウ球菌の滑走の分子機構、および病原性への寄与が解明されれば、滑走の抑制を原理とした新たな感染症治療薬が提案できると私は考えている。

Fig.1:滑走に対する糖の効果

Fiq.2:滑走に対するカタボライト制御機構の寄

Fig.3:滑走時に発現量が増加するタンパク質の探索

Fig.4:滑走時に誘導されることが予測されたタンパク質の欠損株の滑能力

Fig.5:滑走に対すarlRS遺伝子およびagr遺伝子座の寄与

Fig.6:agr遺伝子座の発現に対するCcpAの寄与

Fig.7:clpP遺伝子とarlRS遺伝子の発現に対するCcpAの寄与

Fig.8:滑走の制御機構および病原性への寄与

審査要旨 要旨を表示する

病原性細菌は宿主体内に侵入した後、増殖に適した宿主組織へと移動し、感染症を引き起こす。病原性細菌の移動機構の理解は、感染症に対する新たな治療法を開発する上で有用である。これまでに、細菌の鞭毛依存的な移動が病原性に寄与することが報告されている。しかしながら、鞭毛非依存的な細菌の移動様式については、病原性への寄与は明らかでない。

黄色ブドウ球菌は近年、多剤耐性菌の出現が問題となっている病原性細菌である。黄色ブドウ球菌は鞭毛を保持しないため、能動的な移動能力を持たないと考えられてきた。滑走は当研究室で発見された、軟寒天培地上における黄色ブドウ球菌の移動様式である。しかしながら、滑走がどのように制御されているかはこれまで不明であった。本研究は、黄色ブドウ球菌の滑走の制御機構の解明を目指したものである。

滑走の制御機構を明らかにするため、論文提出者はまず、滑走を促進する物質の同定を試みた。最初に論文提出者は、黄色ブドウ球菌の滑走能力の有無が軟寒天培地の種類により異なることを見出した。滑走の起きる培地と起きない培地の組成の違いに注目することにより、軟寒天培地にD-グルコースを加えると滑走が促進されることが明らかとなった。また、D-グルコース以外の糖の中にも滑走促進活性を有するものが見出された。以上の結果は、黄色ブドウ球菌は細胞外に存在する糖を認識して滑走することを示唆している。

細菌は炭素源により遺伝子発現を制御するカタボライト制御機構を持つ。滑走が糖により促進されたことから、カタボライト制御が滑走に寄与することが予想された。カタボライト制御機構に働くCcpA(Catabolite Control Protein A)とHprK(Hpr Kinase)の各欠損株の滑走能力を検討した結果、両者は共に滑走に必要であった。以上の結果より、黄色ブドウ球菌の滑走には、カタボライト制御を介した遺伝子発現の誘導が必要であることが示唆された。

論文提出者は次に、黄色ブドウ球菌が滑走する際の遺伝子発現の変動の検討による、滑走の制御機構の解明を試みた。液体培地および軟寒天培地上で培養した菌のタンパク質をSDSポリアクリルアミドゲル電気泳動により分析した結果、滑走が起きる条件では複数のタンパク質の量が増加していることが判明した。マススペクトロメトリーによりこれらのタンパク質を同定した後、それぞれの候補タンパク質の欠損株の滑走能力を検討した結果、clpP遺伝子破壊株は滑走能力を失っていた。また、clpP遺伝子の転写量をレポーターアッセイにより検討した結果、clpP遺伝子の転写量は液体培地と比べ、軟寒天培地で培養した時の方が高くなることが分かった。以上の結果より、clpP遺伝子は軟寒天培地上において発現が誘導される、滑走の促進に働く遺伝子であることが示唆された。

黄色ブドウ球菌のclpP遺伝子はセリンプロテアーゼをコードしており、種々の病原性因子の発現に寄与することが報告されている。ClpPによる滑走の促進機構を明らかにするため、ClpPの下流で働く病原性因子が滑走に必要であるかを検討した。ClpPにより発現が促進され、病原性因子の発現制御に働くarlR5遺伝子とagr遺伝子座はいずれも滑走に必要であった。この結果より、ArlRSおよびAgrによる病原性因子の発現制御が滑走に必要であることを示唆された。

agr遺伝子座の発現はカタボライト制御を受ける。野生株とccpA遺伝子破壊株におけるagr遺伝子座のmRNA量の検討により、野生株におけるagr遺伝子座のmRNA量は軟寒天培地へのD-グルコースの添加により増加することが明らかとなった。また、ccpA遺伝子破壊株では野生株と比べ、agr遺伝子座のmRNA量が低下しており、D-グルコースによる誘導も小さかった。以上の結果より、軟寒天培地においてもagr遺伝子座の発現はカタボライト制御を受けること及びCcpAがagr遺伝子座の発現の誘導により滑走を促進することが示唆された。さらに論文提出者は、agr遺伝子座の発現制御における、ClpP,ArlRSとカタボライト制御の関係を明らかにするため、clpP遺伝子とarlRS遺伝子の発現がカタボライト制御を受けるかを検討した。その結果、CcpAはclpP遺伝子とarlRS遺伝子の発現に必要なかった。以上の結果より、ClpP,ArlRSとカタボライト制御は独立にagr遺伝子座の発現を制御していることが示唆された。

以上、本研究は、黄色ブドウ球菌の滑走にはカタボライト制御を受けるagr遺伝子座の発現が必要であることを初めて示した点で、生物系薬学及び微生物学に貢献するものである。よって、論文提出者は博士(薬学)の学位を授与するに値すると判断した。

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