学位論文要旨



No 124962
著者(漢字) 北西,卓磨
著者(英字)
著者(カナ) キタニシ,タクマ
標題(和) 海馬シナプスの経験依存的形態変化の解析
標題(洋)
報告番号 124962
報告番号 甲24962
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1315号
研究科 薬学系研究科
専攻 生命薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 一條,秀憲
 東京大学 教授 三浦,正幸
 東京大学 准教授 池谷,裕二
 東京大学 准教授 富田,泰輔
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

樹状突起スパインは、神経細胞の樹状突起に形成される微細な棘状構造である。スパインの多くは、軸索との間で興奮性シナプスを形成するシナプス後部構造である。物理的サイズが大きなスパインはより多くのAMPA型グルタミン酸受容体を発現すること、シナプス入力によりスパインのサイズや数が双方向に制御されること等が報告されている。そのため、スパインの形態はシナプスの機能を評価する良い指標となるとともに、スパインの形態変化が神経回路上における情報の獲得を担うという仮説が提唱されている。

では個体動物においては、新奇な経験等により、スパインの変化として捉えられる神経回路の再構築は誘発されるのだろうか?既存のいくつかの研究は経験依存的に生じるスパイン数の変化を報告している。しかし、これらはみな多数回に渡る反復刺激によって長期間(24時間~数ヶ月)の後に観察される変化を報告するに留まっている。そのため、短時間の生理的な経験がいかなるスパインの形態変化を誘発するかは不透明である。そこで私は、新奇経験の最中に急速に生じる形態変化の可能性を追究することを目的とし、新たな実験系を導入して研究を行った。

【本論】

1.新奇環境提示によるスパイン数の急速な変化

経験依存的に生じる神経活動が、同じ脳領域でも細胞毎に異なる可能性が近年注目されている。特定の神経活動を生じた細胞群において選択的にスパインの変化が生じる可能性を考え、スパイン形態と同時に神経活動の履歴を捉える手法を考案した。Thy1-mGFPマウスにおいてArcの免疫染色を行う実験系である(図1)。Thy1-mGFPマウスはThy1プロモーターの制御により少数の神経細胞にのみ細胞膜移行性緑色蛍光タンパク質mGFPを発現する。そのため、個々の細胞の形態を、隣接した他の細胞等と入り混じることなく明瞭に可視化することが可能となる。Arc(activity-regulated cytoskeletal-associated protein, Arg3.1)は最初期遺伝子の一種であり、強い神経活動により一過的に発現する。両手法の組み合わせにより、経験依存的神経活動を反映してArcを発現した細胞と、その他のArc非発現細胞のスパイン形態を、同一個体において比較解析することが可能となった。

まず、Thy1-mGFPマウスに緩和な新奇経験を与えるため、15分間(N15群)または60分間(N60群)にわたり新奇環境に提示し、自由に探索行動を行わせた。この環境提示により海馬CAl野神経細胞の25%にArcの発現が認められた。

続いて、新奇環境提示がシナプスに与える影響を解析するため、錐体細胞の基底樹状突起のスパインについて検討した(図2B,C)。環境提示を行わなかったHC群と、N15およびN60群の比較において、群間に有意なスパイン密度の差は認められなかった。ところが、Arcの発現を活動履歴の指標と考え、N60群においてArc(-)細胞とArc(+)細胞を分けて別々に解析すると、Arc(+)細胞のスパイン密度はArc(-)細胞のスパイン密度を下回ることを見出した(図3D)。このArc(-),Arc(+)細胞間でのスパイン密度の差は、環境への提示時間を短縮したN15群では認められなかった(図3A)。したがって、N60群におけるスパイン密度の差は、環境提示中にスパイン数が変化したために生じたと考えられる。以上の結果は、Arcの発現により分類された細胞集団において選択的に、かつ、急速(60分以内)にスパイン数の変化が生じたことを示唆する。

2.小さなスパインの変化

スパインは形態的多様性に富んだ構造であり、大小さまざまなスパインが存在する。スパインのサイズはAMPA型グルタミン酸受容体の発現量と正の相関を持ち、シナプス個々の機能の評価において重要である。そこで、サイズ別にスパイン密度の解析を行った。その結果、上述のN60群におけるスパイン密度の差は、主に頭部直径が0.5μm以下の小さなスパインの密度の差によることが明らかとなった。すなわち、Arc(+)細胞は小さなスパインの密度のみが選択的にArc(-)細胞のスパイン密度を下回った(図3E)。一方で、N15群ではサイズの分布に差は認められなかった(図3B)。

3.大きなスパインの変化

N60群では小さなスパインだけでなく、大きなスパインにも変化を生じたことが明らかとなった。N60群のArc(-),(+)細胞、およびHC群のArc(-)細胞の3群の全解析スパインをプールし、サイズの上位5%に含まれる大きなスパインがどの群に属するか解析した。その結果、大きなスパインの内、Arc(+)細胞のスパインが均等な分布(33%)を大きく超えて全体の46%を占めた(図3F)。M5群では、各群の分布は33%に近い値を示した(図3C)。また、スパインサイズの順位をシャッフルしたサロゲートデータから、N60群における分布の偏りは統計的に有意であることが示された。これらの結果は、大きなスパインの分布がN60群のArc(+)細胞に偏ったことを示している。すなわち、N60群のArc(+)細胞上の一部のスパインが肥大した、または、新たに大きなスパインが誕生したことを示唆する。

4.環境の繰り返し環境提示によるスパインの形態変化

特定の環境に複数回提示すると、スパイン形態にはいかなる変化を生じるだろうか。1日1回60分間、6日間に渡り環境提示(N60x6群)を行った後の、スパイン形態について検討した。6日目の環境提示の直後でも、単回の環境提示(N60群)の場合と類似した割合・空間パターンのArc発現が認められた。まず、HC群とN60x6群全体のスパイン形態を比較したところ、スパイン形態に変化は認められなかった。したがって、たとえ6回環境提示を繰り返しても、CA1野の細胞集団全般としては、スパインの形態に顕著な変化は生じないことが示唆された。

ところが、N60x6群の細胞をArc発現の有無によって分離して解析すると、Arc(+)細胞はArc(-)細胞とは異なるスパイン密度・形態を持つことが明らかとなった。すなわち、Arc(+)細胞において、小さなスパインが顕著に減少していた。この結果は、単回の環境提示(N60群)の場合と定性的に類似であった。一方で、大きなスパインについは、単回の場合とは異なり、差は認められなかった。

5.環境の繰り返し環境提示によるスパインの形態変化

繰り返し環境提示により生じたスパイン形態の変化が、その後、どれほどの期間維持されるかを検討した。6日目の環境提示の後、1時間(N60x6+1h群)または48時間(N60x6+48h群)、マウスをホームケージに戻した後に、スパインを検鏡・定量した。N60x6+1h(or 48h)両群においてCAI野におけるArc発現の程度および頻度はN60x6群と類似であった。次いで、スパイン密度および形態を定量したところ、両群いずれにおいてもArc(-),Arc(+)細胞間に顕著な形態の差は認められなかった。すなわち、N60x6群において生じていたスパイン形態の変化は、1時間以内に消失したことが示唆された。

【総括】

私は本研究において、既存のどの報告よりも急速で(<60分)、一過的な(<60分)、経験依存的なスパインの形態変化を見出した。この変化は、Arcの発現により分類された細胞集団に選択的であった。神経活動の多様性を考慮して細胞を別々に解析することで、初めて、一部の細胞で生じる速い変化を捉えることに成功したものと考えられる。また、動物経験により異なったスパイン形態変化の様式を示したことから、経験に対応した情報がスパインの形態変化として表象される可能性が示唆された。今後、本研究が見出した新しい型式のスパインの形態変化について、その機能とメカニズム、とりわけ記憶・学習との関係について追究したい。

図1.実験パラダイムArcの発現とmGFPによる細胞形態の可視化を組み合わせ、神経活動を生じた細胞におけるスパイン形態を解析した。

図2.新奇環境提示後のArc発現およびスパイン形態の観察(A)環境提示のタイムコースと、提示後のCAl野錐体細胞層におけるArc免疫染色像。(B)細胞膜移行性GFP(mGFP)により観察した錐体細胞の形態。(C)基底樹状突起上に多数存在するスパイン。

図3.新奇環境提示がスパイン形態に与える影響(A,D)スパイン密度。*p<0.05,Studentgst-test.(B,E)スパインサイズの分布。*p<0.05,**p<0.01,Student's t-testafter repeated-measures 2-way ANOVA.(C,F)上位5%の大きなスパインの分布。各群に均等に分布すると33%となる。ρ<0.05 in (F).

審査要旨 要旨を表示する

樹状突起スパインは、神経細胞の樹状突起に形成される微細な棘状構造である。スパインの多くは、軸索との間で興奮性シナプスを形成する、シナプス後部構造である。物理的サイズが大きなスパインはより多くの神経伝達物質グルタミン酸の受容体を発現すること、シナプス入力によりスパインのサイズや数が双方向に制御されること等が報告されている。そのため、スパインの形態はシナプスの機能を評価する良い指標となるとともに、スパインの形態変化が神経回路上における情報の獲得を担うという仮説が提唱されている。

では個体動物においては、新奇な経験等により、スパインの変化として捉えられる神経回路の再構築は誘発されるのだろうか?既存のいくつかの研究は経験依存的に生じるスパイン数の変化を報告している。しかし、これらはみな多数回に渡る反復刺激によって長期間(24時間~数ヶ月)の後に観察される変化を報告するに留まっている。そのため、短時間の生理的な経験がいかなるスパインの形態変化を誘発するかは未解明であり、重要な課題である。そこで私は、新奇経験によって短時間で生じる形態変化の可能性を追究することを目的とし、2種類の手法を融合した新たな実験系を導入して研究を行った。

1.新奇環境提示によるスパイン数の急速な変化

経験依存的に生じる神経活動が、同じ脳領域でも細胞毎に異なる可能性が近年注目されている。活動した特定の神経細胞群において選択的にスパインの変化が生じる可能性を考え、スパイン形態と同時に神経活動の履歴を捉える新たな手法を考案した。Thy1-mGFPマウスにおいてArcの免疫染色を行う実験系である。Thy1-mGFPマウスはThy1プロモーターの制御により少数の神経細胞にのみ細胞膜移行性緑色蛍光タンパク質mGFPを発現する。そのため、個々の細胞の形態を、隣接した他の細胞形態と干渉することなく、明瞭に可視化することが可能となる。Arc (activity-regulated cytoskeletal-associated protein, Arg3.1)は強い神経活動により一過的に発現する最初期遺伝子である。両手法の組み合わせにより、経験依存的神経活動を反映してArcを発現した細胞と、そめ他のArc非発現細胞のスパイン形態を、同一個体において比較解析することが初めて可能となった。

まず、Thy1-mGFPマウスに緩和な新奇経験を与えるため、15分間(N15群)または60分間(N60群)にわたり新奇環境に提示し、自由に探索行動を行わせた。この環境提示により、海馬CA1野神経細胞の25%にArcの発現が認められた。

続いて、新奇環境提示がシナプスに与える影響を解析するため、錐体細胞の基底樹状突起のスパインについて検討した。環境提示を行わなかったHC群と、N15およびN60群の比較において、群間に有意なスパイン密度の差は認められなかった。ところが、Arcの発現を活動履歴の指標と考え、N60群においてArc(-)細胞とArc(+)細胞を分けて別々に解析すると、Arc(+)細胞のスパイン密度はArc(-)細胞のスパイン密度を下回ることを見出した。このArc(-),Arc(+)細胞間でのスパイン密度の差は、環境への提示時間を短縮したN15群では認められなかった。したがって、N60群におけるスパイン密度の差は、環境提示中にスパイン数が変化したために生じたと考えられる。以上の結果は、Arcの発現により分類された細胞集団において選択的に、かつ、急速(60分以内)にスパイン数の変化が生じたことを示唆する。

2.小さなスパインの変化

スパインは形態的多様性に富んだ構造であり、大小さまざまなスパインが存在する。スパインのサイズはAMPA型グルタミン酸受容体の発現量と正の相関を持ち、シナプス個々の機能の評価において重要である。そこで、サイズ別にスパイン密度の解析を行った。その結果、上述のN60群におけるスパイン密度の差は、主に頭部直径が0.5μm以下の小さなスパインの密度の差によることが明らかとなった。すなわち、Arc(+)細胞は小さなスパインの密度のみが選択的にArc(-)細胞のスパイン密度を下回った。一方で、N15群ではサイズの分布に差は認められなかった。

3.大きなスパインの変化

N60群では小さなスパインだけでなく、大きなスパインにも変化を生じたことが明らかとなった。N60群のArc(-),(+)細胞、およびHC群のArc(-)細胞の3群の全解析スパインをプールし、サイズの上位5%に含まれる大きなスパインがどの群に属するか解析した。その結果、大きなスパインの内、Arc(+)細胞のスパインが均等な分布(33%)の1.4倍となる46%を占めた。N15群では、各群の分布は33%に近い値を示した。また、スパインサイズの順位をシャッフルしたサロゲートデータから、N60群における分布の偏りは統計的に有意であることが示された。これらの結果は、大きなスパインの分布がN60群のArc(+)細胞に偏ったことを示している。すなわち、N60群のArc(+)細胞上の一部のスパインが肥大した、または、新たに大きなスパインが誕生したことを示唆する。

4.環境の繰り返し環境提示によるスパインの形態変化

スパインの形態変化は、新奇な環境における何らかの学習を反映するのだろうか?あるいは、たとえ馴れた環境であっても、単に環境の変化を反映して形態変化が生じるのだろうか?この点を解明するため、1日1回60分間、6日間に渡り環境提示(N60×6群)を行い、マウスを提示環境に十分に慣らした後のスパイン形態について検討した。6日目の環境提示の直後でも、単回の環境提示の場合と類似した空間パターンのArc発現が認められた。まず、HC群とN60×6群全体のスパイン形態を比較したところ、スパイン形態に変化は認められなかった。したがって、反復環境提示の場合においても、CA1野の細胞集団全般としては、スパインの形態に顕著な変化は生じないことが示唆された。

ところが、N60×6群の細胞をArc発現の有無によって分離して解析すると、Arc(+)細胞はArc(-)細胞とは異なるスパイン密度・形態を持つことが明らかとなった。すなわち、Arc(+)細胞において、小さなスパインが顕著に減少していた。この結果は、単回の環境提示(N60群)の場合と定性的に類似であった。一方で、大きなスパインについは、単回の場合とは異なり、密度に差は認められなかった。以上の結果から、小さなスパインの変化は環境の変化に対応し、一方で大きなスパインの変化は環境の新規性に対応する可能性が示唆された。

5.環境の繰り返し環境提示によるスパインの形態変化

繰り返し環境提示により生じたスパイン形態の変化が、その後、どれほどの期間維持されるかを検討した。6日目の環境提示(N60×6)の後、1時間または48時間、マウスをホームケージに戻した後に、スパインを検鏡・定量した。両群においてCA1野におけるArc発現の頻度はN60×6群と類似であった。次いで、スパイン密度および形態を定量したところ、両群いずれにおいてもArc(-),Arc(+)細胞間に顕著な形態の差は認められなかった。すなわち、N60×6群において生じていたスパイン形態の変化は、1時間以内に消失したことが示唆された。

本研究において、急速で(<60分)、一過的な(<60分)、経験依存的なスパインの形態変化を見出された。この変化は、Arcの発現により分類された細胞集団に選択的であった。神経活動の多様性を考慮して細胞集団を分けて観察することで、初めて、一部の細胞で生じる速い変化を捉えることに成功したと考えられる。同一環境への反復提示でも形態変化を生じたことを考え合わせると、脳内におけるスパインの形態変化は、従来の想定よりも速く、容易に、生じる現象であることが示唆される。また、動物経験により異なったスパイン形態変化の様式を示したことから、経験に対応した情報がスパインの形態変化として表象される可能性が示唆された。こうしたスパインの形態変化が一過的であったことは興味深い点である。一過的な形態変化は、連合学習等の条件下においては安定化され、長期的に維持されるのかもしれない。

以上、本研究は生体内におけるスパインの形態変化と記憶・学習との相関について新しい知見を与えるものであり、博士(薬学)の授与に値すると判断された。

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