学位論文要旨



No 124965
著者(漢字) 野村,洋
著者(英字)
著者(カナ) ノムラ,ヒロシ
標題(和) 扁桃体外側核の神経細胞ネットワークによる恐怖記憶符号化様式の解明
標題(洋)
報告番号 124965
報告番号 甲24965
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1318号
研究科 薬学系研究科
専攻 生命薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 准教授 楠原,洋之
 東京大学 准教授 武田,弘資
 東京大学 講師 垣内,力
内容要旨 要旨を表示する

緒言

記憶障害が日常生活に多大な影響を及ぼすことから分かるように、記憶はヒトにとって非常に重要な機能であり、メカニズムの解明が期待される。記憶の研究は、全脳レベルと分子・細胞レベルの研究に大きく分かれて進展してきが、2つの知見は大きく乖離しており、結びつけて議論することは現状では困難である。また、これまでに明らかになっている様々なレベルでの記憶の符号化様式では、個々の記憶の違いをどのように処理しているかを説明できない。

全脳レベルと分子・細胞レベルという2つの乖離した知見を結びつける研究が細胞集団レベルの研究である。細胞集団レベルの視点とは、ある組織に含まれる多数の細胞について、それぞれの細胞の個性を維持したまま同時に評価することである。また、個々の情報の違いについての符号化様式を解明するためにも細胞集団レベルの解析が必要であると考える。例えば、味覚や嗅覚など感覚機能においては、細胞集団によって1つ1つの感覚情報が符号化される様子が明らかになっている。

恐怖条件づけは、全脳・細胞・分子レベルの理解が大きく進展している代表的な記憶モデルの一つである。手がかりと電気ショックを組み合わせて与えることで、その後は手がかりだけで恐怖反応を引き起こさせる課題である。扁桃体は恐怖条件づけの形成・発現に必須な脳部位である。中でも扁桃体外側核は他の脳部位からの入力を直接受け、扁桃体内の他の神経核に情報を伝達する脳部位であり、恐怖条件づけによって分子や細胞内機構の変化が報告されている。

これまで、扁桃体外側核における細胞集団レベルの知見はほとんど存在しない。しかし、私は扁桃体外側核が細胞集団で恐怖記憶を処理するのではないかと考える。それは、恐怖記憶想起時に活動する神経細胞が、扁桃体外側核の神経細胞の一部だからである。同じ扁桃体外側核の、同じ種類の細胞にもかかわらず、活動する神経細胞と活動しない神経細胞に分けられる。

上記の現状を踏まえ、本研究では、恐怖記憶が神経細胞集団の活動パターンで符号化されているのではないかと仮説を立てた。すなわち、個々の神経細胞が活動するか、活動しないかによって構成される集団としての活動の組み合わせパターンによって個々の恐怖記憶が符号化されるのではないか、という考えである。この仮説を検証するために、「同一の恐怖記憶を思い出した時は類似した細胞集団が活動するか」、「異なる恐怖記憶を思い出した時は異なる細胞集団が活動するか」の二点について検討した。また、細胞集団による表現様式の解明にあたって、記憶を構成する複数の処理過程について区別して解析を行った。

細胞集団による情報処理機構を明らかにするためにArmの細胞内局在を用いた神経活動マッピング法(catFISH;cellular analysis of temporal activity by fluorescence in situ hybridization)用いた。Arcは神経活動に依存して一過的に発現が誘導されるImmediate early geneの一つであり、神経活動のマーカーとして用いられている。またArcの特徴的な細胞内動態を蛍光in situ hybridization法を用いて観察することにより、多数の神経細胞の活動を1細胞レベルの分解能で大規模に同時に推定することができる。

本論

恐怖記憶想起時に発現が誘導されるAmの細胞内局在

ArccatFISH法が恐怖記憶想起課題に適用可能であることを明らかにした。恐怖記憶を1回想起した後のArcの細胞内動態を調べた(図1a,b)。ホームケージ群のほとんど全ての神経細胞はArc陰性であったが、恐怖記憶想起課題の直後には約8%の神経細胞の核内にArcが焦点となって存在し、課題終了30分後には約9%の神経細胞の細胞質にArcが存在していた(図1c,d)。課題終了直後に細胞質にArcが存在する細胞の割合や、課題終了30分後に核内にArcが存在する細胞の割合は、ホームケージ群と有意な差が認められなかった。想起直後にArc陽性である神経細胞の割合と、想起30分後の割合が同程度であった。これらの結果から恐怖記憶想起課題においても、核内にArcシグナルが強い焦点として観察される細胞は直前に活動し、細胞質にArcシグナルが観察される細胞は約30分前に活動した、と推定可能であると判断した。

同一の記憶もしくは異なる記憶を想起した場合の神経活動

同じ恐怖記憶を2回想起した場合は類似した神経細胞集団が活動し、異なる恐怖記憶を1回ずつ想起した場合は異なる神経細胞集団が活動することを明らかにした。恐怖記憶の符号化様式を明らかにするため、2回の記憶想起課題で活動する細胞集団の類似性を、同一の記憶を2回想起する場合と、異なる記憶を1回ずつ想起する場合について比較した(図2a)。2つの環境それぞれで恐怖条件づけを受けたマウスを、同一の環境に2回戻した場合と、異なる2つの環境に1回ずつ戻した場合の比較を行った。この恐怖条件づけの条件で、マウスは環境選択的にすくみ反応を示したことから、マウスは環境選択的に恐怖記憶を想起したと考えられる(図2b)。同一の環境に2回戻した場合は、2つの異なる環境に1回ずつ戻した場合に比べて、2回の想起で活動する細胞集団の類似性が有意に大きかった(図2c)。事前に恐怖条件づけを受けていないマウスについて同様の検討を行った結果、同一の環境に2回戻した場合、2つの異なる環境に1回ずつ戻した場合ともに、細胞集団の類似性はホームケージ群と比べて有意な差が認められず、いずれも低い類似性を示した。これらの結果から、神経細胞集団の類似性の違いは恐怖記憶想起時選択的に生じることが示された。

記憶想起時の環境が集団の類似度に与える影響

上記の結果から、「記憶の相違が細胞集団の類似性を決める」可能性と、「記憶を想起する環境の相違が細胞集団の類似性を決める」可能性が考えられる。しかし、以下の実験結果から後者の可能性は低いと考えた。同一の記憶について、同一の環境で想起した場合と、異なる2つの環境で想起した場合とで、活動する細胞集団の類似性を比較した。環境Zで電気ショックを5回与えた後、環境Xに2回入れるか、環境XとYに1回ずつ入れた。環境X、Yいずれの環境でもマウスはすくみ反応を示したことから、条件づけを受けていない環境でマウスは恐怖記憶を想起したと考えられる。この理由としては、環境Zで与えた条件づけが強かったためと考えられる。2回の記憶想起時に活動する細胞集団の類似性について、2群間で比較したところ有意な差は検出されなかった。この結果から、記憶を想起する環境の相違が細胞集団を決める可能性は低く、記憶の相違が細胞集団を決めると考えられる。以上の結果から、扁桃体外側核が神経細胞集団の活動パターンを用いて、恐怖記憶の内容を区別して符号化することが示唆される。

恐怖記憶想起時に活動する細胞の割合

マウスのすくみ反応時間と扁桃体外側核において活動した神経細胞の割合の関係を調べた結果、マウスがある環境に入れられた時、その環境ですくみ反応を示すかどうかにかかわらず、活動する細胞数は一定であった。この関係は、群内比較、群間比較いずれでも認められ、環境に依存しなかった(図3a)。

細胞集団の類似性解析の結果と、細胞集団の大きさの解析結果を合わせると、記憶の想起は細胞集団の加算では表現されない、と考えられる。恐怖記憶想起時には記憶選択的に一定の細胞集団が活動する。恐怖記憶を想起せずに環境を探索する場合は、探索するたびに独立した細胞集団が活動する。このように記憶を想起する場合と想起しない場合では、細胞集団の特徴は異なるにもかかわらず、細胞集団の大きさには有意な差がなかった。恐怖記憶想起を集団の加算で表現する考えでは、この結果を矛盾無く説明することができない。このことから、恐怖記憶想起時の神経活動は、非選択的な神経活動と恐怖記憶想起そのものに関わる神経活動の非線形的な演算によって算出されることが示唆される。

また、記憶想起を経ることにより、想起時に活動する細胞の割合が増大した(図3b,c)。この増大は、同一の記憶を想起する場合のみ観察された。また、環境を探索した場合も増大は認められなかった。想起を経ることにより、記憶を符号化している神経細胞集団の大きさが増大することが示唆される。

消失記憶形成時に活動する細胞集団

消失記憶形成時に活動する細胞集団は元の記憶想起時に活動する細胞集団と類似していることを明らかにした。条件づけを受けたマウスを、条件づけ環境に35分間戻すことにより、恐怖反応は低下した。マウスは課題前半ではすくみ反応を示したが、課題後半にはすくみ反応を示さなくなった。課題後半で消失記憶の形成が行われたと考えられる。このような条件下で課題前半に活動した細胞集団と、課題後半に活動した細胞集団の類似性は、条件づけ環境に5分間ずつ戻した場合と同等であった。この結果から、消失記憶形成時に活動する扁桃体外側核の神経細胞集団は、元の記憶想起時に活動する細胞集団と類似していることが示唆される。

総括

本研究を通して、私は扁桃体外側核が神経細胞集団で恐怖記憶を符号化することを明らかにした。さらに、神経細胞集団によって恐怖記憶を構成する複数の処理過程が表現される様子を明らかにした。「記憶を神経細胞集団レベルで解析する」という、本研究が示した戦略を洗練、発展させることにより、記憶メカニズムの解明にさらに大きく貢献できると考える。

図1.恐怖記憶想起時に発現が誘導されるAcの細胞内局在

図2.同一の記憶もしくは異なる記憶を想起した場合の神経活動

図3.恐怖記憶想起時に活動する神経細胞の割合

審査要旨 要旨を表示する

記憶の研究は、全脳レベルと分子・細胞レベルの研究に大きく分かれて進展してきが、2つの知見は大きく乖離しており、これまでに明らかになっている様々なレベルでの記憶の符号化様式では、個々の記憶処理の違いを説明できなかった。細胞集団レベルの研究は2つの乖離した知見を結びつけることができる。細胞集団レベルの視点とは、ある組織に含まれる多数の細胞について、それぞれの細胞の個性を維持したまま同時に評価することである。また、個々の情報の違いについての符号化様式を解明するためにも、細胞集団レベルの解析が必要である。

恐怖条件づけは、全脳・細胞・分子レベルの理解が大きく進展している代表的な記憶モデルの一つである。恐怖条件づけの形成・発現に必須な脳部在として扁桃体が同定されている。中でも扁桃体外側核は他の脳部位からの入力を直接受け、扁桃体内の他の神経核に情報を伝達する脳部位であり、恐怖条件づけによって分子や細胞内機構の変化が報告されている。しかし、扁桃体外側核における細胞集団レベルの知見はほとんど存在しなかった。

本研究では、恐怖記憶が神経細胞集団の活動パターンで符号化されているという仮説を立てた。この仮説を検証するために、「同一の恐怖記憶を思い出した時は類似した細胞集団が活動するか」、「異なる恐怖記憶を思い出した時は異なる細胞集団が活動するか」の二点について検討した。細胞集団による情報処理機構を明らかにするために、Acの細胞内局在を利用する神経活動マッピング法(catFISH;cellular analysis of temporal activity by fluorescence in situ hybridization)用いた。Arcは神経活動に依存して一過的に発現が誘導されるImmedite early geneの一つであり、神経活動のマーカーとして用いられている。またArcの特徴的な細胞内動態を蛍光in situ hybridization法を用いて観察することにより、多数の神経細胞の活動を1細胞レベルの分解能で同時に推定することができる。

恐怖記憶想起時に発現が誘導されるArcの細胞内局在

ArccatFISH法が恐怖記憶想起課題に適用可能であることを明らかにした。恐怖記憶を1回想起した後のAcの細胞内動態を調べた。ホームケージ群のほとんど全ての神経細胞はArc陰性であったが、恐怖記憶想起課題の直後には約8%の神経細胞の核内にArcが焦点となって存在し、課題終了30分後には約9%の神経細胞の細胞質にArcが存在していた。課題終了直後に細胞質にArcが存在する細胞の割合や、課題終了30分後に核内にArcが存在する細胞の割合は、ホームケージ群と有意な差が認められなかった。想起直後にArc陽性である神経細胞の割合と、想起30分後の割合は同程度だった。これらの結果から恐怖記憶想起課題においても、核内にArcが強い焦点として観察される細胞は直前に活動し、細胞質にAcが観察される細胞は約30分前に活動した、と推定可能であると判断した。

同一の記憶もしくは異なる記憶を想起した場合の神経活動

同じ恐怖記憶を2回想起した場合は類似した神経細胞集団が活動し、異なる恐怖記憶を1回ずつ想起した場合は異なる神経細胞集団が活動することを明らかにした。恐怖記憶の符号化様式を明らかにするため、2回の記憶想起課題で活動する細胞集団の類似性を、同一の記憶を2回想起する場合と、異なる記憶を1回ずつ想起する場合について比較した。2つの環境それぞれで恐怖条件づけを受けたマウスを、同一の環境に2回戻した場合と、異なる2つの環境に1回ずつ戻した場合の比較を行った。この恐怖条件づけの条件で、マウスは環境選択的にすくみ反応を示したことから、マウスは環境選択的に恐怖記憶を想起したと考えられる。同一の環境に2回戻した場合は、2つの異なる環境に1回ずつ戻した場合に比べて、2回の想起で活動する細胞集団の類似性が有意に大きかった。事前に恐怖条件づけを受けていないマウスについて同様の検討を行った結果、同一の環境に2回戻した場合、2つの異なる環境に1回ずつ戻した場合ともに、細胞集団の類似性はホームケージ群と比べて有意な差が認められず、いずれも低い類似性を示した。これらの結果から、神経細胞集団の類似性の違いは恐怖記憶想起時選択的に生じることが示された。

記憶想起時の環境が集団の類似度に与える影型

上記の結果から、「記憶の相違が細胞集団の類似性を決める」可能性と、「記憶を想起する環境の相違が細胞集団の類似性を決める」可能性が考えられる。しかし、以下の実験結果から後者の可能性は低いと考えられた。同一の記憶について、同一の環境で想起した場合と、異なる2つの環境で想起した場合とで、活動する細胞集団の類似性を比較した。環境Zで電気ショックを5回与えた後、環境Xに2回入れるか、環境XとYに1回ずつ入れた。環境X、Yいずれの環境でもマウスはすくみ反応を示したことから、条件づけを受けていない環境でマウスは恐怖記憶を想起したと考えられる。この理由としては、環境Zで与えた条件づけが強かったためと考えられる。2回の記憶想起時に活動する細胞集団の類似性について、2群間で比較したところ有意な差は検出されなかった。記憶を想起する環境の相違が細胞集団を決める可能性は低く、記憶の相違が細胞集団を決めると考えられる。以上の結果から、扁桃体外側核が神経細胞集団め活動パターンを用いて、恐怖記憶の内容を区別して符号化することが示唆される。

恐怖記憶想起時に活動する細胞の割合

マウスのすくみ反応時間と扁桃体外側核において活動した神経細胞の割合の関係を調べた結果、マウスがある環境に入れられた時、その環境ですくみ反応を示すかどうかにかかわらず、活動する細胞数は一定であった。この関係は、群内比較、群間比較いずれでも認められ、環境に依存しなかった。

細胞集団の類似性解析の結果と、細胞集団の大きさの解析結果を合わせると、記憶の想起は細胞集団の加算では表現されない、と考えられる。恐怖記憶想起時には記憶選択的に一定の細胞集団が活動する。恐怖記憶を想起せずに環境を探索する場合は、探索するたびに独立した細胞集団が活動する。このように記憶を想起する場合と想起しない場合では、細胞集団の特徴は異なるにもかかわらず、細胞集団の大きさには有意な差がなかった。恐怖記憶想起を集団の加算で表現する考えでは、この結果を矛盾無く説明することができない。このことから、恐怖記憶想起時の神経活動は、非選択的な神経活動と恐怖記憶想起そのものに関わる神経活動の非線形的な演算によって算出されることが示唆される。

また、記憶想起を経ることにより、想起時に活動する細胞の割合が増大した。この増大は、同一の記憶を想起する場合のみ観察された。環境を探索した場合には増大は認められなかった。想起を経ることにより、記憶を符号化している神経細胞集団の大きさが増大することが示唆される。

消失記憶形成時に活動する神経細胞集団

消失記憶形成時に活動する細胞集団は元の記憶想起時に活動する細胞集団と類似していることを明らかにした。条件づけを受けたマウスを、条件づけ環境に35分間戻すことにより、恐怖反応は低下した。マウスは課題前半ではすくみ反応を示したが、課題後半にはすくみ反応を示さなくなった。課題後半で消失記憶の形成が行われたと考えられる。このような条件下で課題前半に活動した細胞集団と、課題後半に活動した細胞集団の類似性は、条件づけ環境に5分間ずつ戻した場合と同等であった。この結果から、消失記憶形成時に活動する扁桃体外側核の神経細胞集団は、元の記憶想起時に活動する細胞集団と類似していることが示唆される。

本研究は扁桃体外側核が神経細胞集団で恐怖記憶を符号化することを明らかにした。さらに、恐怖記憶を構成する複数の処理過程が神経細胞集団によって表現される様子を明らかにした。「記憶を神経細胞集団レベルで解析する」という、戦略を洗練、発展させることにより、記憶メカニズムの解明にさらに大きく貢献できると考える。以上、本研究は記憶の理解や疾病解明を大きく前進させるものであり、博士(薬学)の授与に値すると判断した。

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