学位論文要旨



No 124992
著者(漢字) 下山田,篤志
著者(英字)
著者(カナ) シモヤマダ,アツシ
標題(和) 光電子分光による重いd電子系物質の電子状態の研究
標題(洋)
報告番号 124992
報告番号 甲24992
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第410号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辛,埴
 東京大学 教授 高木,英典
 東京大学 教授 上田,和夫
 東京大学 教授 岡本,博
 東京大学 准教授 中辻,知
 東京大学 准教授 渇川,量司
内容要旨 要旨を表示する

第1章 序章

近年、遷移金属酸化物LiV2O4、Ca(1.8)Sr(0.2)RuO4、Sr3Ru2O7などの多軌道d電子系物質において、重い電子系によく似た振る舞いが報告され注目されている。4 f, 5 f電子を持つCe, Yb, U系などにおける重い電子系は、低温において有効質量がm* = 100-1000 meほどに増大した金属として振る舞う物質群である。重い電子系では"局在したf 電子"と"遍歴する伝導電子(s, p, d電子)"という大きく異なる2種類の電子が結晶中に存在しており、近藤温度以下においてf電子は遍歴電子と混成してスピン一重項を組み、低温において重い電子状態を形成する。低温での重いバンド分散の形成を反映して、状態密度(DOS)においてフェルミ準位(EF)近傍に近藤共鳴ピーク構造が形成される。d電子軌道は、f電子ほど局在した波動関数を持たず局在と遍歴の挟間に位置している。そのため、d電子系物質における重い電子状態が従来の近藤機構で説明できるものか否か、その電子構造及び起源に大きな関心が持たれる(図1(a, b))。

本研究では、高分解能光電子分光によって、重いd電子系物質のEF近傍の電子状態を調べ、その重い電子状態の起源を明らかにする目的で研究を行った。

第2章 実験手法

He放電管(HeIα; hν=21.218eV, HeIIα; hν=40.814eV)高分解能光電子分光実験

(測定試料; Sr2RuO4, Ca(1.8)Sr(0.2)RuO4、場所; 柏の物性研究所)

レーザー励起(hν=6.994eV)高分解能光電子分光実験

(測定試料; LiV2O4, Sr3Ru2O7、場所; 柏の物性研究所)

硬X線(hν=8keV)光電子分光実験

(測定試料; LiV2O4、場所; SPring-8 ビームライン29)

第3章 重いf電子系物質の基礎物性と電子状態

重い電子系の基礎物性と電子状態の実験について紹介し、その起源(近藤機構)について述べる。

第4章 LiV2O4の重いd電子状態-光電子分光による近藤共鳴ピークの示唆

LiV2O4のT*=20Kをまたいだ基礎物性の温度クロスオーバーの特徴は、f重い電子系の特徴に似ており、T*以下での重い電子状態の形成を示唆する。d軌道のバンド幅が同程度(1eVと2eV)であるLiV2O4の重い電子状態の起源が、近藤機構で説明できるか否かは興味が持たれる。そこで、高分解能光電子分光によりLiV2O4のEF近傍のDOSを調べ、その重い電子状態の起源を明らかにすることを研究目的とした。

LiV2O4のレーザー励起光電子分光を行い(図2)、EFの上、4meV付近にDOSの鋭いピーク構造を見出した(図3)。ピーク位置、ピーク幅のエネルギースケールはkBT*程度であり、降温に伴いT*以下でピーク高さは大きく成長する(図4)。このようなピークの特徴はCeCu2Si2等の様な4f重い電子系で観測されている近藤共鳴ピークと非常によく類似していることから、LiV2O4における重い電子状態の起源についても近藤機構の可能性が示唆される。

第5章 Ca(1.8)Sr(0.2)RuO4 における局所的波数空間での強い質量増大

層状Ru 酸化物Ca(2-x)SrxRuO4 系は、多軌道バンド幅制御モット転移を研究するのに良い対象物質である。モット絶縁体近傍の金属領域(0.2 ≦ x ≦ 0.5)において、T*以下で質量増大を示すことが熱、磁気、輸送特性によって報告されている。系のバンド幅制御モット転移を説明するためのモデルとして、軌道選択モット転移(OSMT)シナリオが提案された。OSMTでは、より狭いバンド幅(1eV)をもつα,βバンドがx=0.5 において初めにモットギャップを開き、局在スピンの性質を現す。一方で、より広いバンド幅(2eV)をもつγバンドはx=0.2においても遍歴的なままである。しかしながら、最近の実験事実はOSMT に疑問を投げかけており、この系に対する理解は依然として混沌としていた。

そこで、モット転移の相境界にあるx=0.2 のEF 近傍のバンド分散を高分解能角度分解光電子分光(ARPES)によって調べることで、上述したようなシナリオの妥当性を議論すると共に、その強い質量増大の起源を明らかにすることを目的として研究を行った。

図5(a)のГ-(π, π)方向のARPES スペクトルにおいて、フェルミ面を形成する3 つの明瞭なバンドα, β,γが見られる。これはOSMT シナリオとは相いれない。一方、Г-(π, π)方向のARPES スペクトル(図5(b1-b4))から、(π, 0)付近でのみm* >100me に及ぶ重いバンド分散が存在することが分かる。図6(a, b)に示すように、重いバンド分散を形成する準粒子ピークの温度依存性はT*以下での質量増大のクロスオーバーと良く対応する。(π, 0)付近でEF 近傍に平坦なバンドを形成するγバンドが強い電子相関によって局在性をもち、T*以下で準粒子ピークの発達と共に良く定義される重いバンド分散を形成することで質量増大を起こす可能性が考えられる。

第6章 Sr3Ru2O7 の質量増大の起源について

Sr3Ru2O7 は量子臨界点近傍の常磁性金属であり、6-8 T の磁場印加に伴いメタ磁性転移を示す。磁場によって誘起される量子臨界性の微視的な起源に関心が寄せられている。そのDOS はEF 近傍(~ 1-4meV)で鋭いピーク構造を持つことがSTM/STS によって報告されており、メタ磁性転移との関連に興味が持たれている。一方、過去の光電子分光実験においてはEF 近傍の電子状態の議論は十分になされていなかった。また、その基礎物性からはT*以下での質量増大の振る舞いが示唆されるが、その起源に関しては今までほとんど議論されていなかった。

そこで、より高分解能のARPES実験を行い、EF近傍の電子状態を詳細に調べることによって、STM/STSで観測されたEF近傍におけるDOSのピークの起源と共に、T*以下での質量増大の起源を明らかにする目的で研究を行った。

Г-(π, π)方向のARPESスペクトル(図7)において、バンドは全て明瞭な分散を示す。一方、Г-(π, 0)方向及び(π, 0)-(π, π)方向では、EF近傍数meVに平坦なバンド分散が存在する。(π, π)-(π, π)方向のARPESスペクトル(図8)においては、丸印で示されるように、EF近傍に重いバンド分散が存在する。EF近傍の平坦なバンドは、STM/STSにおけるEF近傍のDOSのピークと対応していると考えられる。重いバンド分散を形成する準粒子ピークの温度依存性は電気抵抗、熱、磁気特性に表れているT*をまたいでの質量増大のクロスオーバーと対応する(図9(a, b, c))。Ca(1.8)Sr(0.2)RuO4の場合と同様に、Г-(π, 0)方向及び(π, 0)-(π, π)方向におけるEF付近に平坦なバンドを形成するバンド構造が電子相関の影響で局在性をもち、T*をまたいでの低温化につれて、準粒子ピークが発達すると共にバンド分散が明瞭になる可能性が考えられる。Ca(1.8)Sr(0.2)RuO4、Sr3Ru2O7両物質において存在する(h,0,0)に沿った低エネルギーのスピン揺らぎは、EF近傍のバンドと関連する可能性があるが、その関連性については今後注意して検討する必要がある。

第7章 まとめ

LiV2O4においてEFの上4meV付近におけるDOSの鋭いピーク構造を観測した。そのピーク高さは、降温に伴いT*以下で大きく成長する。このようなピークの温度変化は4f重い電子系の近藤共鳴ピークの温度変化とよく類似していることから、LiV2O4における重い電子状態の起源についても近藤機構の可能性が示唆される。

Ca(1.8)Sr(0.2)RuO4やSr3Ru2O7において、波数空間の一部でのみ重いバンド分散が観測された。重いバンド分散を形成する準粒子ピークの温度依存性は、T*以下での質量増大のクロスオーバーと対応する。f電子系においてフェルミ面全体に渡って起こる重い電子状態とは異なり、Ca(1.8)Sr(0.2)RuO4やSr3Ru2O7の質量増大は波数空間の一部でのみ起こることから、その質量増大を議論する際は、多軌道と同時に、全体のバンド幅だけでなく局所的なバンド構造も考慮することが重要であることが明らかになった。

図1

(a)f重い電子系の近藤機構; 局在f電子と伝導電子の混成による重い準粒子バンドの模式図。

(b)多軌道d電子系物質の電子状態密度の模式図。各d軌道のバンド幅は同程度の大きさである。

図2 LiV2O4の光電子スペクトルの温度変化。

図3 畳み込まれたフェルミ・ディラック分布関数で割られた光電子スペクトルの温度変化。

図4 ピークの高さの温度依存性。

図5(a)Г-(π,π)方向のCa(1.8)Sr(0.2)RuO4 のARPES 強度像(T = 4K)。(b1)Г-(π,π)方向のARPES 強度像(T = 4K)。(b2) 畳み込んだFD 関数で割ったARPES スペクトルのEF 付近の拡大図。(b3)と(b4)はそれぞれ平坦なバンドのEDC 及びそれを畳み込んだFD で割ったもの。点はスペクトルのピーク位置を表し、破線はそれを繋いだもの。

図6 ( a)(0.6π,0)-(π,0)の波数領域を積分したスペクトルの温度依存性。細い曲線は(0.3π,0.3π)-(0.7π,0.7π)の波数領域を積分したT = 4 K のスペクトル。挿入図はI(peak)(EF)とCe/T の温度依存性。( b) 畳み込んだ各温度のFD で割ったスペクトルの温度依存性。

図7 Sr3Ru2O7のГ-(π, π)方向のARPESスペクトル(T = 3.5K)。黒丸はMDCのピーク位置を表す。

図8 Sr3Ru2O7の(0, π)-(π, π)方向のARPESスペクトル(T = 3.5K)。丸印はEDCのピーク位置を表す。

図9(a)(0, π)-(π, π)方向のkx=0.2-0.4 ÅのEDCを積分したスペクトルの温度変化、及び(b)それを分解能を畳み込んだFD関数で割ったスペクトルの温度変化。(c)I(peak)(EF)とCe/Tの温度依存性。T*=20K。

審査要旨 要旨を表示する

強相関電子系の物質群は、強い電子間クーロン相互作用によってスピンや電荷、軌道の自由度が顕在化することで多彩な物性をしめすことから多くの関心が寄せられ、その基礎物性の解明および新規物性の開拓の見地から盛んに研究されている。d 電子系物質LiV2O4、Ca(2-x)SrxRuO4(x=0.2)、Sr3Ru2O7は、T*以下の温度で質量増大のクロスオーバーをしめすことが磁気、熱、輸送特性によって議論されており、その振る舞いが重いf電子系物質の基礎物性と良く似ていることから非常に注目されている。本研究では、重いd電子系物質のフェルミ準位(EF)近傍の電子状態を高分解能光電子分光によつて調べることで、その重いd電子状態の起源を明らかにすることを目的としている。

本論文は全7章からなる。

第1章では、重いf電子系の起源について説明し、f電子系とd電子系の電子構造の違いについて述べている。そして、重いd 電子系を研究するに当たった動機について述べている。

第2章では、実験手法として用いた角度積分光電子分光(PES)、角度分解光電子分光(ARPES)について説明している。また、実験の手順について述べている。

第3章では、重いf電子系物質における基礎物性の実験、及び電子状態に関する実験について述べている。

第4章では、LiV2O4の結晶構造、基礎物性について紹介した後、その重い電子状態の起源についての研究背景と本研究の目的について述べている。次に、LiV2O4を対象として行われた角度積分光電子分光の実験結果について述べている。光源にレーザーを用いた高分解能PESの結果、EFの上、4meV付近に電子状態密度における鋭いピーク構造を見出した。ピーク位置、ピーク幅のエネルギースケールはKBT*程度であり、降温に伴いT*以下でピーク高さは大きく成長する。このようなピークの特徴はCeCu2Si2等の様な4f重い電子系で観測されている近藤共鳴ピークと非常によく類似していることから、LiV2O4における重い電子状態の起源についても近藤機構の可能性が示唆された。また、硬X線光電子分光を行つた結果、V1s、V2p内殻の電子構造において、EFでのコヒーレント状態によるスクリーニングを反映する構造を見出した。スクリーニングの構造の温度依存性を含めて、関連物質との比較検討を行うことは今後の課題となっている。

第5章では、Ca(2-x)SrxRuO4系の相図、結晶構造、基礎物性について初めに紹介し、その電子状態についての研究背景と本研究の目的について述べている。次に、Ca(2-x)SrxRuO4(x=0.2)を対象として行われた角度分解光電子分光の実験結果について述べている。光源にヘリウム放電管を用いた高分解能ARPESの結果、フェルミ面を形成する3つの明瞭なバンド分散(α,β,γ)を観測した。Sr2RuO4との大きな違いは、極めて重いバンド分散が(π,0)点付近に存在することである。(π,0)付近でのみ重いバンド分散を形成する準粒子ピークの温度依存性は、T*以下での質量増大のクロスオーバーと良く対応する。最後に、f電子系におけるフェルミ面全体に渡つて起こる重い電子状態とは違って、波数空間の一部でのみ起こるx=0.2の質量増大の起源について議論している。

第6章では、Sr3Ru2O7の結晶構造と基礎物性について紹介し、その電子状態についての研究背景と本研究の目的について述べている。次に、Sr3Ru2O7に対して行われたARPES実験の結果について述べている。レーザーを用いた高分解能ARPESの結果、大きな傾きを持って分散するバンドがГ-(π,π)方向において観測された。一方、EF近傍の平坦なバンド分散がГ-(π,0)方向において観測され、また、極めて重いバンド分散が(π,0)-(π,π)方向において観測された。重いバンド分散を形成する準粒子ピークの温度依存性は、T*以下での質量増大のクロスオーバーと良く対応する。結果として、Sr3Ru2O7はCa(2-x)SrxRuO4(x=0.2)と同様に、波数空間の一部でのみ強い質量増大をしめすことが分かった。

第7章では、本研究で得られた成果をまとめ、本研究の意義を述べている。

以上をまとめると、本論文では、高分解能光電子分光実験によって、重いd電子系物質のEF近傍の電子状態を調べた。その結果、波数空間の一部でのみ重いバンド分散を形成することが、重いd電子系物質において観測された。f電子系におけるフェルミ面全体に渡って起こる重い電子状態の場合とは異なり、d電子系における重い電子状態を議論する際には、多軌道と同時に、全体のバンド幅だけでなく局所的なバンド構造も考慮することが重要であることが明らかになった。本研究で得られたこうした知見は物性物理学、物質科学の進展に寄与するところが大きい。

よって、本論文は博士(科学)の学位請求論文として認められる。

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