学位論文要旨



No 124997
著者(漢字) 吉田,紘行
著者(英字) Yoshida,Hiroyuki
著者(カナ) ヨシダ,ヒロユキ
標題(和) 2次元フラストレート反強磁性体の合成と物性
標題(洋) Synthesis and Physical Properties of Highly Frustrated 2-dimensional Antiferromagnets
報告番号 124997
報告番号 甲24997
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第415号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 廣井,善二
 東京大学 教授 上田,寛
 東京大学 教授 高木,英典
 東京大学 教授 瀧川,仁
 東京大学 准教授 三尾,典克
内容要旨 要旨を表示する

フラストレートした磁性体では理論的に様々な興味深い現象が予想されている. 量子三角格子反強磁性体では基底状態は120°構造を有した長距離秩序(LRO)であると考えられているが, 最近接のみではなく多体交換相互作用が存在する場合には基底状態はRVBで記述されるスピン液体であると予想されている. また, 古典スピン三角格子反強磁性体では, 120°構造の基底状態に至る過程で, スピンの短距離秩序に関係した興味深い現象が予想されている. 例えば, XYスピン系ではスピンに付随した自由度であるカイラリティが秩序化をするカイラリティ秩序や, スピン配置が作る量子渦が対を形成するKT転移といった現象を挙げる事が出来る. 量子カゴメ格子反強磁性体は最もフラストレーションの効果が強く働くと考えられており, 基底状態はスピンの大きさ, 次元によらずスピン液体であると考えられている.

このような豊かな理論的予想にも関わらず, 現実の物質では乱れや3次元性の影響が強いため, 理論的予想を実現する物質の報告例は数少ない. そこで本研究では幾何学的フラストレーションが顕著に現れる舞台として, 三角格子ではAg2NiO2, Ag2MnO2を合成し, カゴメ格子反強磁性体ではCu3V2O7(OH)2・2H2Oの試料を合成し, 磁性を調べた. その結果, 各物質においてフラストレーションが重要な役割を演じる以下の性質, 現象を明らかにした.

I. 三角格子化合物Ag2MO2(M = Mn, Ni)の物性

Ag2NiO2は空間群R-3mに属し, 格子定数はそれぞれa = 2.9193 A, c = 24.031 Aである. 結晶構造は(NiO2)-層と(Ag2)+層が交互に積層している特徴を持つ(図1). Ag2層は1/4詰まった5sバンドのため金属的伝導を担う. またNiO2層は稜共有により繋がったNiO6八面体からなり, その中でNiは3価でd 7の低スピン配置をとっている. 従ってNi(3+)イオンはスピン1/2三角格子を形成している. 2重に縮退したeg軌道を一つの電子が占有するので軌道には自由度が残る.

Ag2MnO2はAg2NiO2が単斜晶に歪んだ結晶構造を取り格子定数はa = 5.178 A, b = 2.875 A, c= 8.815 A, β = 102.3°である. Mnは3価でd 4高スピン配置を取るためS = 2の古典スピン三角格子を形成する. これらの物質は量子スピン及び古典スピン三角格子のモデル物質になりうるため, その物性は興味深い.

S = 1/2 三角格子Ag2NiO2においては, Ni(3+)のスピン配置に由来する軌道の自由度がTsで軌道秩序をする事により失われた結果, スピン間の最近接相互作用は反強磁性と強磁性が共存する事が分かった. 軌道の自由度が介在する事により, フラストレーションは解消され, TN = 54 Kで反強磁性秩序を示す事を明らかにした. 以上の結果を図に纏めた.

Ag2MnO2の帯磁率は高温では良くCurie-Weiss則に従い, Weiss温度, 有効磁気モーメントは低温で, ΘW = - 430 K, p(eff) = 4.93となり, 強い反強磁性相互作用を有するS = 2の古典スピン系である.理論的には長距離秩序を示すと期待されているにも関わらず, 帯磁率の温度依存性からAg2MnO2はTc = 24Kにおいて強いフラストレーションに起因するスピングラスを示す事が明らかとなった.

興味深い事に, 比熱測定の結果, Tc = 80 Kに小さいが明確な比熱の異常が存在し, 何らかの相転移が生じている事を発見した. 構造転移は4 Kまで存在しないため, 80 Kでの転移は磁気転移であると考えられる. この転移に伴うエントロピーは0.36 J/molKであり, S = 2から期待されるエントロピーRln5 = 13.38 J/molKの2.7%程度の大きさである. この相転移は比熱においては明確な異常を示すが, 一方で帯磁率にはあまり変化が現れず相転移の起源に興味が持たれる. これらの磁化と比熱の振る舞いから, 一つの可能性としてこの転移が,過去に宮下,斯波が三角格子上の古典XYスピンに対して提唱したchirality転移ではないかと期待されたが, 中性子散乱実験の結果, 本物質ではchirality転移は生じていない事が分かった. 現段階で80 Kでの相転移の起源は分かっていないが, カイラリティのような何らかの隠れた秩序が生じている可能性を期待させる. 以上の結果を図に纏めた.

II. S = 1/2カゴメ格子化合物Cu3V2O7(OH)2・2H2O

本研究ではS = 1/2カゴメ格子反強磁性体(KAF)の候補としてvolborthite, Cu3V2O7(OH)2・2H2Oに注目した. 図にvolborthiteの結晶構造を示す. S = 1/2のCu(2+)がカゴメ格子を形成し, 層間はV2O7の非磁性層によって隔てられているため良い2次元性を示す. 残念ならがCu(2+)のJahn-Teller効果によりカゴメ格子は歪んでおり, それに伴い相互作用の異方性が存在すると予想されるが, 最近Sindzingreにより行われた計算によると相互作用の異方性はあまり大きくない事が分かってきた. 従って, 本物質はS = 1/2, KAFの非常に良いモデル物質であると期待される.

本研究では水熱反応を行う事により, volborthiteの高品質試料の合成に成功した. 帯磁率は高温で良くキュリーワイス則に従う. 降温に伴い反強磁性短距離秩序(AF-SRO)の形成を示唆するブロードなピークが22 Kに現れる. 帯磁率をCurie-Weiss則でフィッティングすると, ΘW = - 105.5 Kの強い反強磁性であり, 高温展開でフィッティングするとJ = 86.3 K, g = 2.23であった. 相互作用の1/1500の温度までギャップもLROを示唆する異常も観測されなかった. 従って基底状態はギャップレスのスピン液体であると考えられる.

このようなスピン液体状態における磁場の効果を調べるため, 4.2 K以下において55 Tまでの磁化過程の測定を行った. その結果, 2.2, 4.3, 25.5, 46 Tの各磁場において磁化が増大する磁化ステップ現象を世界に先駆けて発見した. 興味深い事に, 2.2 Tのステップは飽和磁化の~1/90, 4.3 Tのステップは~1/45, 25.5 Tのステップは1/6, 46Tのステップは1/3の磁化で起こっている事である. また, 4.3T, 25.5 T, 46 Tのステップはそれぞれ21 T ~ J / 3の間隔で生じている事も興味深い. この磁化過程は最近いくつかの磁性体で発見されたプラトーとは本質的に異なる新しい現象である. プラトーの場合, 例えば飽和磁化の1/3, 1/2等の値で磁化が広い磁場範囲で安定化されるのに対し, 磁化ステップは1/3, 1/6といった値をあたかも避けるようにステップが生じるという点で特徴的な現象である. 以上の結果を図に相図としてまとめた.

本研究では幾何学的フラストレーションが顕著に現れる舞台として, 三角格子ではAg2NiO2, Ag2MnO2を合成し, カゴメ格子反強磁性体ではCu3V2O7(OH)2・2H2Oの試料を合成し, 磁性を調べた. その結果, 各物質においてフラストレーションが重要な役割を演じる以下の性質, 現象を明らかにした.

S = 1/2三角格子Ag2NiO2においては, Ni(3+)のeg軌道の自由度がTsで軌道秩序をする事により失われた結果, スピン間の最近接相互作用は反強磁性と強磁性が共存する事が分かった. 軌道の自由度が介在する事により,フラストレーションは解消され, TN = 54 Kで反強磁性秩序を示す事を明らかにした.

S = 2古典三角格子のAg2MnO2ではTc = 80 Kで相転移が生じ, 何らかの磁気秩序が起こる. しかし, この転移においてもスピンはLROを示さず, Tc以下で短距離秩序に留まる. 現段階で80 Kでの相転移の起源は分かっていないが, カイラリティのような何らかの隠れた秩序が生じている可能性を期待させる. Ag2MnO2は1.4 KまでLROを示さず, 短距離相関のみが広い温度域で発達し, Tg = 24 Kでスピングラス転移を示す. 本物質は乱れの無い古典三角格子系でスピングラスを示す稀な例であり, スピングラスの背後には強いフラストレーションが寄与していると考えられる.

S = 1/2カゴメ格子反強磁性体の良いモデル物質であるCu3V2O7(OH)2・2H2Oの純良試料の合成に成功した. 相互作用の1/1500の温度まで長距離秩序やスピンギャップを示唆する異常は観測されず, 基底状態はギャップレスのスピン液体である事を明らにした. 更に, 4.2 K以下, 2.2, 4.3, 25.5, 46 Tの各磁場下で磁化が増大する磁化ステップ現象を発見した. 磁化ステップは飽和磁化の1/90, 1/45, 1/6, 1/3で生じている. フラストレーションが導いたギャップレススピン液体状態で生じる, この磁化ステップはプラトーとは異なり本質的に新しい現象の可能性がある.

図1 Ag2NiO2の結晶構造(a)及び磁性と軌道状態(b).

図2 Ag2MnO2の磁性.

図3 Cu3V2O7(OH)2・2H2Oの結晶構造(a)及び温度磁場相図(b).

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなり、第1章は幾何学的フラストレーションの概念と期待される物性、および、いくつかのモデル物質における研究の現状について、第2章は実験方法について、第3章は三角格子化合物Ag2MO2(M=Ni,Mn)の合成と物性について、第4章は量子カゴメ格子反強磁性体Cu3V2O7(OH)2・2H2Oの合成と物性について、第5章は研究のまとめと今後の展望について述べている。

第1章では、本論文の基礎となる重要な概念である幾何学的フラストレーションに関する詳細な説明がなされている。近年、物性物理学、特に磁性の分野においてはフラストレーションが重要な概念の一つとなっている。正三角形の格子点上に配置されたスピン間に反強磁性相互作用が働く場合、全てのスピン間の相互作用を同時に満たす事が出来ず、このような状況をフラストレーションと呼ぶ。一般の磁性体では磁気相互作用の程度の温度で長距離秩序を形成するが、三角格子反強磁性体の様にフラストレーションが強く働く場合には長距離秩序の形成がはるかに低い温度まで抑制される。このような状態は短距離相関に支配された状態ということができ、そこでは数多くの興味深い現象が理論的に期待されている。一方、カゴメ格子上の量子スピン系においては強いフラストレーションと量子揺らぎにより、スピンシングレット対が動的に組み変わるRVB状態というスピン液体状態が実現する事が予想されている。しかしながら,これらの興味深い現象を示す舞台となる物質はこれまでにほとんど知られておらず、実験的に詳細な研究例は数少ない。本論文の特徴は、新規なフラストレート物質を作製し、その磁性を極低温まで詳細に調べたことにある。

第2章では、本論文においてなされた実験の手法について述べられている。

第3章では、始めにAg2NiO2の研究について、次にAg2MnO2について述べられている。Ag2NiO2では、Ag2層とNiO2層の積層からなる結晶構造に着目し、前者が金属伝導を担い、後者がスピン1/2の三角格子とみなせることを実験的に明らかにした。比較的高い温度260Kにおいて、Niのeg軌道の自由度に基づく軌道秩序が起こることを見出し、これによって三角格子内の幾何学的フラストレーションは解消され、54Kにおいて磁気秩序を示すことを示した。また、軌道の並びと磁気相互作用の関係を明らかとした。

同様の結晶構造を有するAg2MnO2においては、Mnイオンがスピン量子数2の古典スピンであるにもかかわらず、最低温度まで磁気秩序を示さず、特異な振る舞いを有することを明らかにした。80Kにおいて何らかの相転移が存在し、そこから短距離磁気秩序がゆっくりと発達するが、24Kにおいてスピングラス転移を示し、長距離秩序は現れない。80Kの相転移に関して、イジング異方性を有する古典スピンの量子化軸のみが秩序化する特異な相転移である可能性を議論した。

第4章では、スピン1/2量子カゴメ格子反強磁性体Cu3V2O7(OH)2・2H2Oの良質試料作製に成功し、その磁性を50mKの極低温まで調べた結果、何らかの液体状態と考えられる基底状態を取ることを示した。さらに、低温での磁化過程において、少なくとも3段の階段状の磁化曲線を発見した。このような磁化曲線はこれまでに報告例が無く、新たに「磁化ステップ」と命名した。その背後には、幾何学的フラストレーションと量子揺らぎが支配する特異な量子状態が存在するものと期待されている。

以上の3つの物質におけるフラストレーションに関する研究は、学位申請者が世界で初めて行ったものであり、極めてオリジナリティーの高い研究である。また、得られた成果も物性物理学の新たな展開に結びつくものであり、高く評価される。

なお、本論文第3章の三角格子化合物Ag2MO2に関する研究は、ドイツマックスプランク研究所のMartin Jansen教授との共同研究であるが、論文提出者が主体となって合成を行い物性を測定したものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。また、第3章、および、第4章には豊田中央研究所の杉山純氏、日本原子力研究機構の松田雅昌氏、バージニア大学のS.-H.Lee氏、物性研究所の徳永将史准、田山孝、榊原俊郎、松雄晶、鳴海康雄、金道浩一、吉田誠、瀧川仁各氏との共同研究の成果に基づく議論が行われているが、全て論文提出者の合成した試料を用いて行われた実験であり、論文提出者の主導によって行われたものであると判断する。

したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/32653