学位論文要旨



No 125013
著者(漢字) 片平,健太郎
著者(英字)
著者(カナ) カタヒラ,ケンタロウ
標題(和) 系列行動とその神経機構に関する統計的研究
標題(洋) A Statistical Study on Neural Mechanisms of Sequential Behavior
報告番号 125013
報告番号 甲25013
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第431号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡田,真人
 東京大学 教授 鳥海,光弘
 東京大学 教授 武田,常広
 東京大学 准教授 杉田,精司
 東京大学 准教授 高橋,成雄
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

行動要素をある決まった規則で並べて生成する行為を系列行動と呼ぶ.言語,音楽演奏,ダンスのように複雑な行動も系列行動としての側面を持っている.本研究では,系列行動を支える神経機構を興味の対象とする.系列行動の神経機構のモデルとして,小鳥の歌行動が精力的に調べられている.その中でもジュウシマツの歌は,言語や音楽とも共通した以下の特徴を持つ.

(1)歌の基本単位である歌要素の並びは毎回同じではなく,ある規則のもとで変動する.

(2)歌要素の並びは,一つ前の歌要素のみに依存して決まるのではなく,二つ以上前の歌要素に依存する,高次の履歴依存性を持つ.このような特徴からジュウシマツは複雑な系列行動のモデル動物として注目されているが,その背後にある神経機構はまだ十分にわかっていない.その原因の一つは,変動を伴う複雑な系列構造とそれがもたらす非定常な神経活動を統計的に解析する手法が確立されていなかったためと考えられる.本論文ではその問題に対処すべくそれらのデータから確率モデルを用いて系列行動に関するパターンを抽出するための手法を提案する.その手法をジュウシマツの歌,およびジュウシマツの神経活動データに適用する.その解析により得られた知見をもとに,複雑な系列を生み出す神経機構の神経回路モデルを構築し,その動作を検証する.

2.確率モデルの学習

複雑な歌系列やその背後にある神経活動は毎回異なった振る舞いをするため,確率モデルを用いてその統計的性質を記述する必要がある.本研究ではそれらの変動を吸収しながら系列構造を抽出するため,隠れマルコフモデル(Hidden Markov Models; HMM)を用いる.HMMは観測されない隠れ状態からデータが生成されていると仮定する.その隠れ状態は通常は1次マルコフ過程に従うとする.1次マルコフ過程とは次の状態の出現確率は一つ前の状態のみに依存し,決められた遷移確率に従って遷移する確率過程である.隠れ状態ごとにデータを出力する確率分布(出力分布)を割り当てる.出力分布のパラメータや遷移確率をデータから推定することで,適切なモデルを構築する.その際,隠れ状態の数等のモデルの複雑さを適切に決めることがデータの構造をとらえるために重要である.モデルが単純過ぎてはデータが持つ統計的な性質をとらえることができない.逆に複雑すぎるモデルはノイズに過剰にフィッティングし未知データに対する予測能力に劣る.適切なモデルを選択し,パラメータを推定する方法としてベイズ法が有効であると認識されている.ベイズ法ではデータが与えられたもとでパラメータおよび隠れ変数の事後分布を計算するが,その計算は困難な積分計算を伴う.そのためベイズ法の効率的な近似法として変分ベイズ法が近年用いられている.変分ベイズ法は反復解法による勾配型のアルゴリズムのため,しばしば悪い推定値を与える局所解にトラップされるという問題があった,我々はこの問題に対処するため,変分ベイズ法に温度パラメータを導入し,その温度パラメータを制御することによって大域的最適解を発見しやすくするアルゴリズムを提案した.これを確定的アニーリング変分ベイズ法と呼ぶ.提案手法を基本的な確率モデルである混合正規分布モデルとHMMに適用し,従来手法に比べ大域最適解が得られる確率が向上することを示した.

3.歌鳥の歌を記述する確率モデルの探索

ジュウシマツの歌を生成する神経メカニズムを探るために,その歌の統計的性質を記述する最適な確率モデルを構築する.本研究では,各歌要素から得られた音響特徴量の状態遷移の統計的構造を,HMMを用いて抽出する.同一とみなせる歌要素に関しては,音響特徴量は正規分布に従って分布すると近似できるため,各状態は正規分布を出力分布として持つとした.前述のようにジュウシマツの歌は高次な履歴依存性を持つことが知られている.そこで高次マルコフ過程を持つHMMを構築し,変分ベイズ法で計算される変分自由エネルギーを用いてマルコフ過程の次数,状態数を選択した.大きい変分自由エネルギーを与えるモデルほどそのモデルの事後確率が高いといえる.したがって,変分自由エネルギーの最大値を与えるモデルを最適なモデルとして選択する.

歌の音響特徴量として,歌要素ごとに持続時間,パワースペクトルのエントロピーの平均値,基本周波数の平均値を用いた.図1Bではそのうち持続時間とエントロピーの平面にデータを投射している.モデル選択の結果,状態数が少ない場合は2次の履歴依存性を持つモデルが高い変分自由エネルギーを与えるが,状態数が多い場合は,1次のHMMがさらに高い変分自由エネルギーを与え,結果としてそれが最適なモデルであることが示された(図1A).一方,同様のデータに人がソナグラムを見て振った記号(図1C)は,2次以上の高次マルコフモデルが選択された.この相違の原因は以下のとおりである.同一とみなせる歌要素でも履歴が違うものに対しては異なる隠れ状態を割り当てれば,隠れ状態が1次マルコフ過程に従うとした場合でも出力される記号列としては高次の履歴依存性が出る.図1Cで矢印が指している二つの歌要素を熟練者は同じ"b"とラベリングしているが,HMMでは履歴の違いを反映して"m","k"と異なる状態に割り当てている."m"と"k"に対応する隠れ状態の出力分布は音響特徴量上でオーバーラップを持っており,類似した歌要素を生成するものとなっている(図1B).これにより,1次マルコフ過程に従う隠れ状態で2次マルコフ過程とほぼ等価な履歴依存性を表現することができる.モデル選択の結果は,この表現様式が高次履歴依存性を持つHMMよりも歌の音響特徴量の遷移を簡潔に説明することができ,適切であることを示唆している.

4.HMMによる神経活動データの解析

系列行動は神経活動に非定常性をもたらす.非定常な神経活動から系列行動に対応する活動パターンを抽出するためには,区分的に定常とみなせる区間に分割して,神経活動の統計量の変化を記述する手法が有効である.そのためにHMMを用い,同一の隠れ状態に滞在している区間を準定常な区間とみなす.従来の神経活動にHMMを用いた研究では個々のニューロンの発火率のみが考慮されてきた.そのため,ニューロン間の相関の変動を記述することができない.本研究では,相関の変化も含めて状態遷移を抽出するため,高次の相関を持つ多変量ボアソン分布を出力分布として持つHMMを構築した.高次の相関を持ったボアソン分布の計算は膨大な計算量を要するため,再帰式を用い,効率的にするアルゴリズムを導出した.この手法をジュウシマツのHVCの神経活動データに適用し,変分自由エネルギーをもとにモデル選択した結果,測定した3つのニューロン全てに影響する高次相関が抽出された.これはHVC内のニューロンに共通した入力が入っていることを示唆する.

5.歌鳥の脳におけるHMMの表現様式

歌の解析で示唆された1次のHMMによる表現様式が歌鳥の脳の中でどのように実現されているか考察した.歌の生成に関わる主な神経核として,HVCとRAがある.HVCは歌要素の系列を表現しており,RAは特定の歌要素を出力する運動指令を生成していると考えられている.ここで,HVC内からRAへ投射しているニューロンはHMMの隠れ状態を表現しているとする.一方RAは特定の歌要素を生成する神経集団が存在している,すなわちHMMにおける出力分布を表現しているとする.図2Aはジュウシマツの歌を記述する有限状態オートマトンの単純化した例である.チャンク(歌要素のまとまり)"ab"の次に"cd"または"ea"という並びが出現する.歌要素"a"はチャンク"ab","ea"両方に含まれているため,"a"の次にどの歌要素が選択されるかということはもう一つ前に出現した歌要素を見ないと予測できない.したがってこの例は,2次マルコフ過程とみなされる.図2Aの歌系列を生成するメカニズムを示したのが図2Bである.HVC内の丸はそれぞれ投射ニューロン群をあらわす.矢印は投射ニューロンが発火する順番を表している.発火順番はグループ2から3,5への確率的な遷移を含む1次マルコフ過程となっている.ここで,第3節で得られたHMMでは履歴の違いに応じて異なる隠れ状態が同じ歌要素を表現するという知見を参考にし,同じ歌要素でも履歴の異なる歌要素を生成するニューロン集団は異なるとする.図2Bでは,グループ1とグループ6がこれにあたる.グループ1とグループ6のRA投射ニューロンはともに歌要素"a"を出力するRAの細胞群と結合している.この機構によって,HVC内の投射ニューロンの発火順番は単純マルコフ過程にそったものであっても,出力される歌要素列は高次マルコフ過程となる.

次に我々はHVC内の神経細胞を単純マルコフ過程に従って発火させる機構を説明するモデルを提案した(図2C).第4節で紹介した神経活動の解析により,HVC内の神経細胞が同期した入力を受けていることが示唆された.さらにSchmidt (2003)は視床である神経核UVaから各歌要素の開始前にHVCのニューロン群に入力が与えられることを示唆する実験結果を報告している.これらの知見に基づき,HVC内の状態遷移はUvaからの共通入力によりもたらされているものと仮定した,本研究では,共通入力により,分岐を含む一次マルコフ過程にそった発火パターンの遷移を引き起こす神経回路モデルを提案した.モデルの振る舞いを記述するため,記憶パターンと発火パターンのオーバーラップが従う確率密度の発展式を導出した.また,提案したモデルをスパイキング・ニューロンモデルのネットワークに拡張し,HVCで観測されている投射ニューロンの活動パターンのもと,分岐を含む遷移が生成可能であることを示した.

図1.ジュウシマツの歌への隠れマルコフモデルの適用結果の例.

図2 提案モデルの概要.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は8章からなり、第1章と第2章は導入にあてられ、第1章は系列行動に関する先行研究の紹介および本研究が用いるアプローチの概要、第2章は統計モデルについての基礎が紹介されている。第3章から第8章までは論文提出者のオリジナルの研究が紹介されている。第3章は統計モデルのモデル選択・推定手法として従来手法の問題点であった局所最適解を解決する新規手法が提案され、その効果の実験的検証について述べられている。第4章はその手法を小鳥の歌の音響特徴量に適用した結果が述べられている。また、その結果あきらかになった小鳥の歌の統計的構造を実現する神経機構について述べられている。第5章は神経活動データを記述する上で、従来手法になかった神経細胞間の相関をとりいれた新しいモデルが提案され、それを小鳥の神経活動データに適用した結果について述べられている。第6章は第4章、第5章のデータ解析で得られた知見をもとに、小鳥の歌系列を生成する神経回路モデルを提案し、その理論的検証をしている。第7章では第6章で提案したモデルを小鳥の神経系の生理学的知見と一致するものに拡張している。第8章は全体のまとめと今後の展望について述べられている。

本論文で提案された系列生成の神経機構のモデルは一つ一つがデータ解析と実験的に裏打ちされていて十分に説得力があり、さらに新たな仮説も提案されて今後の発展性が見込める。さらに、本論文が用いた統計モデルで実データの構造を抜き出し、神経回路モデルで実装するというアプローチは独創的なものであり、複雑な構造を持つ行動の神経機構の研究に用いられる汎用的な手法として用いられうるものである。

なお、本論文第3章は、渡辺一帆博士、岡田真人教授との共同研究であるが、論文提出者が主体となって手法の提案及び実験的検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。第4章は、岡ノ谷一夫博士、岡田真人教授との共同研究であるが、論文提出者が主体となって解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。第5章は、西川淳博士、岡ノ谷一夫博士、岡田真人教授との共同研究であるが、論文提出者が主体となって解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。第6章は、川村正樹博士、岡ノ谷一夫博士、岡田真人教授との共同研究であるが、論文提出者が主体となってモデルの提案と理論解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。本論文第7章は、岡ノ谷一夫博士、岡田真人教授との共同研究であるが、論文提出者が主体となってモデルの提案と数値シミュレーションを行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

以上をふまえ、論文提出者に対し博士(科学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク