学位論文要旨



No 125014
著者(漢字) 佐藤,好幸
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ヨシユキ
標題(和) 人の知覚と適応のベイズモデルに関する研究
標題(洋) A Study on Bayesian Modeling of Human Perception and Adaptation
報告番号 125014
報告番号 甲25014
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第432号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 鳥海,光弘
 東京大学 教授 岡田,真人
 東京大学 准教授 井,通暁
 東京大学 准教授 河野,崇
 東京大学 講師 小林,徹也
内容要旨 要旨を表示する

我々の世界は不確実性に満ちている.例えば,目を使って周りの状況を観察しようと思っても,その全ての情報が得られるわけではない.網膜に投射された二次元画像から元の三次元物体を再構成するのにはどうしてもあいまいさ,つまり不確実性が生じる.これは外部の物理的性質に起因する不確実性である.これとは別に,脳の内部に起因する不確実性も存在する.この不確実性は感覚器のノイズや,ニューロンの確率的発火,ニューロンの受容野の大きさなどに起因する.我々の知覚システムはこのような不確実性に対処し,できるだけ正確な知覚を実現する必要がある.不確実性に対処するためには,複数の情報を統合することが有効である.例えば,二次元画像から三次元的奥行きを推測するには,両眼視差など多くの手がかりがありうる.また,視覚だけでなく聴覚や触覚などの質の違う感覚からも多くの情報を得ることができる.

数学においては,確率という概念の導入し統計的推測を行うことで不確実性に対処する.さらにこのときに同時に情報統合をも行うことができる.統計的推測の手法の一つとしてベイズ推定がある.ベイズ推定では,尤度関数と事前確率分布の積により事後確率分布を得て,それを基に推定を行う.

近年,人間の知覚や運動が直面する問題をベイズ推定の枠組みを用いてモデル化することで,デルめ振る舞いと実際の人間の振る舞いがよく一致するということが広く示されてきている.このようなはモデル化は知覚・運動システムの機能を解き明かし,その情報処理様式の解明に貢献する.さらにはその基礎にあるニューロンの発火や神経回路のもつ意義の解明にもつながる.

また,複数の情報を統合することは,それらがある共通の事や物に対する情報を含んでいるから意味があることである.関係のない情報を統合してしまうことは知覚を悪くしてしまう可能性すらある.我々は過去の研究においてこのアイデアを基に,人間の視聴覚統合が情報の同一源性を考慮に入れたベイズモデルによりよく説明できることを示した[1].

本研究の目的は,重要であるにもかかわらずいまだ十分に解明されていない脳機能に対し,近年著しい成功を収めているベイズモデルの方法論を用いてその意義,機能,処理様式を解き明かすとともに,さらに研究を進めるための実験提案をモデルに基づき行うことである.本論文は大きく分けて3つのテーマに分かれている.視覚的特徴結合のベイズモデル,注意のベイズモデル,そして適応現象のベイズモデルである.それぞれについて以下に詳細を述べる.

視覚的特徴結合のベイズモデル

人間の視覚システムは視覚情報を特徴ごと,例えば色,形,動きなどに分離処理していると言われている.最終的に我々にはそれらが1つに統合された1つの物体として知覚される。この統合が脳のどこで,どのように行われているのかということは人間の視覚メカニズムの根源にかかわる重要な問題であるが,いまだによくわかっていないことが多い.

2章では視覚的特徴結合の性質を,同一源性を取り入れたベイズモデルによって解明することを目的とする,ここでは特に,結合錯誤と呼ばれる現象に焦点を当てる.これは,複数の特徴を持った物体を複数提示した時に,特徴の結合を間違えてしまう現象である.結合錯誤については,過去にAshbyらが特徴の知覚位置の不確定性に基づいたモデルを考案している[2].しかし,彼らのモデルは特定の状況にしか適用できず一般性を欠いている.

複数の特徴を1つの物体に結合するということは,まさにそれら特徴情報の同一源を判定するということに他ならない.そこで,同一源性を組み入れたベイズモデルを応用して視覚的特徴結合の性質を説明できることが期待される.我々のモデルにおいては物体位置の推定に,特徴の同一源性を表す二値変数を導入する.我々のモデルはAshbyらのモデルよりも広い状況に適用できるものである.我々のモデルによって,Hazeltineらによる結合錯誤が物体の定位に及ぼす影響についての実験結果[3]をよく再現できることを示す.また,我々のモデルが様々なパラメータ条件下で示す挙動についても議論を行う.

注意のベイズモデル

知覚や行動において広く重要な意味を持つものとして「注意」がある.注意の研究は昔から行われていてその重要性が認識されてはいるが,いまだその意義や仕組みについてはわからないことが多い.注意は視覚的特徴結合において重要な役割を果たすと言われている.それならば結合錯誤現象にも大きな影響を与えると考えるのが自然であるが,注意が結合錯誤に及ぼす効果については様々な報告がありはっきりしない.

過去に,知覚のベイズモデルに注意を取り入れた研究もいくつか存在し,人間の知覚や脳内表現に関する実験結果を説明することに成功している.しかし,ある文献では尤度関数の幅の減少(解像度の上昇)により,また別の文献では事前分布の変更によりモデル化されていたりしていて,なぜそのようなモデル化をしたのかについては十分な説明がなされない.

3章では,視覚的特徴結合のベイズモデルにこれら二つの注意の計算論的効果を同時に取り入れ,注意の効果を統一的に探る.注意が結合錯誤に及ぼす影響についてシミュレーションを行い,その影響は非常に複雑であることを示す.この結果は注意が結合錯誤に及ぼす影響が複雑であるという実験的事実と符合する.

さらに我々は,注意の二つの効果を分離可能な非常に簡単な実験の枠組みを提案する.将来これらの見解を基に,注意の計算論的役割を明らかにし,さらに視覚的特徴結合の性質の解明にもつながることが期待される.

適応現象のベイズモデル

人間の知覚・運動システムの示すもう1つの重要な特徴として,適応現象があげられる.我々の外部環境はその時々により変化する.また,感覚器や脳の損傷などの人間の内部に起因する感覚の変化も存在する.これらの変化に追従して知覚・運動を変化させることでよりよい知覚が実現できる.

適応現象の一例として,視聴覚統合におけるventriloquism aftereffectと呼ばれる現象がある.これは,提示位置に一定の差がついた視覚刺激と聴覚刺激に繰り返しさらされることによって,その差の刺激が同じ位置に提示されたものと知覚されるようになる現象である.視聴覚の時間差についても同様に,繰り返し提示された時間差が同時であると知覚されるようになることが知られ,lag adaptationと呼ばれている.このタイプの適応は他にも広く見られる現象である.しかし最近宮崎らは,両手に提示される触覚刺激の時間差に対する適応が逆の性質を示すことを発見した[4].つまり,触覚刺激の場合には,繰り返し提示された時間差が同時だと感じにくくなり,逆にそれとは逆符号の時間差を同時だと感じるようになる.これを宮崎らはBayesian calibrationと呼んだ.さらに彼らは,刺激時間差の事前確率を獲得した結果としてこの適応現象が説明できることを示した.しかし,これらの2タイプの適応現象が存在する理由や,どのような条件がタイプを決めているのかについてはまだ何もわかっていない状況である.

4章ではまず,視聴覚統合のベイズモデルにおいて,刺激位置についての尤度関数の平均値を表す適応パラメータを変化させることで適応現象をモデル化する.それにより,ventriloquism aftereffectの性質をよく再現できることを示す.次に事前確率の変化も取り入れた統一的モデルを構築し,モデルが両タイプの適応現象を見せることを示す.我々のモデルでは,二種類の適応は不確実性の内部的要因と外部的要因に対する適応に対応する.モデルの振る舞いを解析的に求め,何のモデルパラメータが適応タイプを決定しているかを調べる.

5章においてはさらに,適応現象自体を推定であるとみなすことで,適応タイプを決定するモデルパラメータの具体的な意味についての議論を行う.適応変数を時間的に変化する変数とみなし,適応のDynamic Bayesian network modelを構築する.最初に,この枠組みの中で最適であると思われるタスクモデルには様々な欠点が存在することを示す.そこで次に,タスクのモデル化についてもう1つの案を提案する.このモデルにおいては,観察者は直接観測した位置に加え,過去に推定された位置も基にして適応パラメータの推定を行う.このモデルは脳の情報処理として負担が少なく,また脳の仕組みにも符合したものである.ある仮定のもとで,このモデルが4章で提案した適応の簡単なモデルと一致することを示す.それにより,適応のタイプがどのモデルパラメータに依存して決まるのかがより明確になる.我々はさらに,モデルに基づき,適応タイプをコントロールしうるような刺激提示の方法を提案する.

[1] Sato et al., Neural Comput., 19(12): 3335-3355, 2007.[2] Ashby et al., Psychol. Rev., 103: 165-192, 1996.[3] Hazeltine et al., J. Exp. Psychol.-Hum. Percept. Perform., 23(1): 263-77, 1997.[4] Miyazaki et al., Nat. Neurosci., 9(7):875-7, 2006.
審査要旨 要旨を表示する

我々の世界は不確実性に満ちている.我々の知覚システムはこのような不確実性に対処し,できるだけ正確な知覚を実現する必要がある.統計的推測の数学的手法の一つとしてベイズ推定がある.近年,人間の知覚や運動がベイズ推定によりよく説明できることが広く示されてきている.

本論文の目的は,重要であるにもかかわらずいまだ十分に解明されていないこのような脳機能に対し,近年著しい成功を収めているベイズモデルの方法論を用いてその意義,機能,処理様式を解き明かすとともに,さらに研究を進めるための実験提案をモデルに基づき行うことである.内容は大きく分けて三つのテーマに分かれている.第二章が視覚的特徴結合のベイズモデル,第三章が注意のベイズモデル,そして第四,五章が適応現象のベイズモデルである.第一章は導入,第六章は全体の議論と結論である.

第二章は視覚的特徴結合を扱っている.分離処理された視覚的特徴の情報が脳内でどのように統合されているのかということは,人間の視覚メカニズムの根源にかかわる重要な問題であるが,いまだによくわかっていない.本章では,物体位置の推定に,特徴の同一源性を表す二値変数を導入したベイズモデルを構築し,このモデルが従来のモデルよりもより広い範囲に適用でき,かつ実験結果をよく再現できることを示している.また,提案モデルが様々なパラメータ条件下で非自明な挙動を示すことに関する議論を行っている.

第三章は注意のベイズモデルを論じている.注意は知覚や行動において重要な意味を持つが,いまだその意義や仕組みについてはわからないことが多い.従来の研究では,知覚のベイズモデルに注意を取り入れる方法が主に二種類存在するが,なぜそのようなモデル化をしたのかについては十分な説明がなされない.ここでは,視覚的特徴結合のベイズモデルにこれら二つの注意の計算論的効果を取り入れ,注意の効果を統一的に探っている.このモデル解析により,注意が特徴統合に及ぼす影響が非常に複雑であることを示している.この結果は注意が特徴統合に及ぼす影響が複雑であるという実験的事実と符合する.本章ではさらに,注意の二つの効果を分離可能な非常に簡単な実験の枠組みを提案している.

第四,五章では適応現象のベイズモデルを論じている.適応現象は人間の知覚・運動システムの示す重要な特徴である.適応現象には,繰り返し提示した刺激を同じ位置,もしくは同じ時間と感じるようになるという昔から知られたタイプの適応と,その逆の性質を示す最近発見されたタイプの適応がある.後者は,刺激時間差の事前確率を獲得した結果として説明できることが示唆されている.しかし,これらの2タイプの適応現象が存在する理由や,どのような条件がタイプを決めているのかについてはまだほとんどわかっていない.

第四章はまず,視聴覚統合のベイズモデルにおける尤度関数の適応パラメータを変化させることで適応現象をモデル化し,これが以前から知られたタイプの適応の性質をよく再現できることを示している.次に事前確率の変化も取り入れた統一的モデルを構築し,モデルの振る舞いを解析的に求めることで,適応タイプを決定するパラメータを明らかにしている.

第五章においては,適応現象自体を時間的に変化する変数に対する推定であるとみなすことで,適応タイプを決定するパラメータの具体的な意味を明らかにしている.この枠組みにおいて最適なタスクモデルには様々な欠点が存在することを示し,この欠点を解消するもう1つの案を提案している.そして提案モデルが第四章で提案した適応の簡単なモデルと一致することを示すことで,適応のタイプがどのモデルパラメータに依存して決まるのかがより明確になっている.また,適応タイプをコントロールし得るような刺激提示の方法をモデルに基づき提案している.さらに,可能な他のタスクモデルについても考察を行っている.

以上のように,本論文においては,人間の知覚について重要であるがいまだ不明なことが多い脳現象,特に視覚的特徴結合,注意,そして適応現象をとりあげ,ベイズ推定という統一的な方法論を用いてモデル化することでこれら現象を説明することに成功している.さらに,新たな知見を得られる可能性のある具体的な実験提案を行っている.この研究によりこれら現象の意義やメカニズムについて,理論・実験両面からのさらなる解明につながることが期待できる.

なお,本論文の第二,三,五章は合原一幸と,第四章は、豊泉太郎および合原一幸との共同研究であるが,論文提出者が主体となって解析及び検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

したがって,博士(科学)の学位を授与できると認める.

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