学位論文要旨



No 125020
著者(漢字) 山口,淳一
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,ジュンイチ
標題(和) カイコ幼虫斑紋変異Lの原因遺伝子wnt1の同定と発現制御機構
標題(洋) Identification and expression control of wnt1 as the responsible gene for a larval marking mutant L in Bombyx mori
報告番号 125020
報告番号 甲25020
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第438号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,晴彦
 東京大学 教授 永田,昌男
 東京大学 准教授 河村,正二
 東京大学 准教授 東原,和成
 東京大学 教授 野田,博明
内容要旨 要旨を表示する

自然界の生物、特に昆虫には、巧みな環境適応能力や外見の多様性を獲得した種が多く存在する。正常な生存能力を維持したまま新しい遺伝形質を獲得するメカニズムの解明は重要なテーマである。鱗翅目昆虫の幼虫の体表に見られる多様な紋様や毛状構造は、外皮(クチクラ)を裏打ちする一層の真皮細胞が作り出す。本研究では、幼虫体表の紋様に関して多数の突然変異系統が存在するカイコに着目した(図1)。図1にはその一部を示したが、それぞれ別の一遺伝子座に支配される優性の遺伝形質であり、菱の実型褐円(Lc)を除き、ホモ・ヘテロ個体ともに標準型と同等の成長・繁殖が行える。さらに、野外に生息する昆虫にも類似した紋様や外皮構造がみられることから、このようなカイコの変異体の原因遺伝子の解明は、昆虫の外皮構造の多様化のメカニズム解明に大きなヒントを与えると考えた。

本研究では「褐円(L)」に着目し、原因遺伝子としてwnt1(wingless)を同定し、発現解析・機能解析から、この遺伝子が広く紋様形成に関与している可能性を示した。

また、「褐円(L)」は「コブ(K)」の形質に影響を与えることが古くから知られている。Kは、真皮細胞の異常増殖により特定の体節がコブ状に隆起するが、Lと共存することで複数の体節のL斑紋領域にコブが生じる(図1)。反対に、全身の外皮を黒色にする「黒縞(ps)」はKの発現を抑制する。このような現象は、昆虫の真皮細胞では外皮の着色と細胞増殖に密接な関係が有ることを示唆している。本研究で明らかになったwnt1の機能を中心に、他の形質との関係性などを参考にして、真皮細胞が外皮構造を多様化させるメカニズムを考察した。

【結果と考察】

1. 変異系統「褐円(L)」の原因遺伝子の同定

褐円(L)の原因遺伝子同定のために、連鎖解析をべースとしたポジショナルクローニングを行った。褐円(L)と標準型(+)を交配させ、褐円(L)の形質をもつF1個体に、さらに標準型を交配させて得られる個体(BC1)のジェノタイピング行った。褐円(L)の形質は優性なので、表現型と、マーカーの位置での遺伝型(褐円の親由来のゲノムが含まれるか否か)の連関を個体ごとに検査した(図1a)。2000匹以上のBC1個体を解析し、最終的には34kbpの領域が、褐円(L)の斑紋を出現させる必要かつ十分なゲノム領域であることを明らかにした(図2b)

この領域内には、wnt1のエキソン1・2がコードされていたが、褐円(L)と標準型(+p)の配列を比較しても、アミノ酸レベルでの変異は見つからなかった。そこで、34kbp内部及び周辺にコードされている遺伝子(6145、wnt1、wnt6)の発現量を標準型と比較したところ、褐円(L)の真皮細胞でwnt1が標準型と比べ、顕著に異なる発現をしていることが分かった(図3a)。そこで、ホールマウントin situハイブリダイゼーション法によって、褐円(L)におけるwnt1の空間的な発現パターンを調べたところ、紋様が出現する予定領域によく一致していた(図3b)。この異常発現しているwnt1転写産物が未知のプロモータやスプライシングバリアントの結果生じたものでないことは、5'-RACEとRT-PCRにより確認した。このことから、褐円(L)の斑紋が出現する原因は、wnt1の異所的な発現が原因であることが強く示唆された。

wnt1はWNTシグナル伝達系の主要なリガンドとして知られている。そこでWNTシグナル伝達系の阻害剤であるケルセチンの局部投与を行ったところ、脱皮後72時間までは、再現性よく斑紋形成が阻害されることが明らかになった(図3c)。投与する時期を変えて阻害効率を見ると、時期のマーカーとなるヘッドカプセルスリッペイジ(HCS)を境に、阻害効果が全く見られなくなることがわかった。斑紋部でのwnt1の発現量もHCSを境に激減していることがわかり(図3d)、これらのことから、褐円斑形成のためには、脱皮後72~78時間のHCSまでに、wnt1の異所的な発現によるWNTシグナル伝達系の活性化が必要であることが示唆された。それによって着色される予定領域が決まり、その後、24時間はwnt1の発現がない状態でも、決められた領域の外皮への着色が起こると考えれられる。このようにwnt1が真皮細胞において斑紋形成のプレパターンの役割を担っている可能性を示したことは初めてであり、wnt1遺伝子の機能的保存性から、昆虫全般における斑紋形成のメカニズム解明に重要な手がかりを与えたと考えている。

2. 褐円系統におけるwnt1の発現制御機構

突然変異が起きた褐円(L)のゲノムが、どのようにしてwnt1の異常発現を誘導しているかを検証するために、標準型(+p)を交配させたヘテロ個体(L/+)を用意した。Lと+pのwnt1の配列には7つのSNPs(1塩基多型)が存在するので、wnt1転写産物をシーケンスすることで、どちらのゲノムが活性化されているかをモニターできる。もし、褐円(L)のゲノム由来の産物しか検出されなければ、突然変異の実体はcisエレメントの変化であるために同一ゲノムだけが活性化された結果であり(図4a) 、両方の産物が混在していることを示す重複波形が見られれば、突然変異の実態は両方のゲノムに影響を与えるトランス因子(例えばsiRNAなど)であると判断できる。

配列解析の結果、斑紋部の真皮細胞では、褐円(L)のゲノム由来のwnt1転写産物しか検出されなかった(図4b,c "皮膚")。このことから、褐円(L)における斑紋特異的なwnt1の発現制御は、cisエレメントの変化によるものであることが明らかになった。

一方で、wnt1は初期・後期発生において細胞の運命を決定する大きな影響力をもつ遺伝子として知られている。もし、褐円(L)において、突然変異によるcisエレメントの変化が、皮膚以外の組織での発現をも変化させてしまえば、形態や生存に致命的なダメージを与えることが予想される。そこで、同様の方法で、他の組織(中腸、翅原基、精巣、気管)における褐円(L)ゲノムのwnt1の転写調節を標準型のそれと比較した(図4b,c)。その結果、皮膚とは異なり、他の組織ではL・+の両ゲノムからほぼ均等にwnt1が転写されていることが明らかになった。これに対し、ホモ致死のアリルである菱の実型褐円(Lc)について同様の解析を行うと、Lcゲノムの転写制御は皮膚以外の組織でも標準型の制御と大きく異なっていることがわかった(図4d)。Lがホモ個体でも正常に生存できるのは、Lの新規のcisエレメントが、本来のwnt1の発現制御には大きな影響を与えず、皮膚特異的・斑紋特異的な発現をもたらした結果と考えられ、自然突然変異にも関わらずこのような厳密な制御が行われることは興味深い。

前述のポジショナルクローニングから、褐円(L)における斑紋特異的なwnt1のcisエレメントは、褐円:34kb内に存在していることが分かっている。そこで、その配列を同定するために、Lを含む4系統について、wnt1の開始コドンから上流全域(19kbp)の非コード領域の配列解析を行った。その結果、褐円(L)系統に変異がある場所は4箇所のみで、そのうち2箇所は一塩基置換であった。残りは数百bpのトランスポゾンの挿入箇所とその周辺の複数の塩基置換で、これらの領域にwnt1の発現を制御するシス因子が存在する可能性が高い。この可能性を検証するために、さらにLcなどの上流領域の配列解析を進めている。

3. コブ(K)と褐円(L)の関係性

WNTシグナル伝達系については、活性化によって細胞の異常増殖を誘導する事例が多く報告されている。前述したように「褐円L」と「コブK」が共存すると褐円の斑紋箇所がすべてコブになることから、真皮細胞におけるWNTシグナルは、着色・細胞増殖の両方へ関与している可能性が考えられ、コブ(K)は、WNT依存的に外形を変化させる因子ととらえることができる。そこで、褐円(L)で行ったのと同様の方法で、原因遺伝子の同定を試みたところ、責任領域は440kbpに絞り込まれた。内部には予測遺伝子として20の遺伝子がコードされていたが、マイクロアレイによる解析から、どれもが、コブが形成される部位で細胞増殖が起こる時期に変動していないことが明らかになった。

4. まとめ

カイコ褐円(L)の原因遺伝子の同定から、(1)wnt1という本来はボディープラン全般に関わる重要な遺伝子が斑紋のプレパターン形成に働いていること、(2)wnt1遺伝子は新規cis因子の獲得によって皮膚だけで斑紋特異的な発現が可能となったことが明らかになった。WNTシグナル伝達系の紋様形成への関与は、チョウの翅の紋様での発現パターンなどからある程度示唆されていた。しかし、紋様形成変異体の原因遺伝子を同定し、wnt1遺伝子が単独で斑紋形成のON/OFFを決定しうることを示したのは本研究が初めてである。褐円(L)は体節ごとに一対の斑紋を形成するが、多くの昆虫の体表にも同様の斑紋パターンが観察される。他の生物種でもwnt1の発現変動により、新規の斑紋を生み出してきたのかもしれない。

さらに、コブ(K)のようにWNTシグナル依存的に、外皮の外形をかえるように働く遺伝子と黒縞(ps)のように変化を抑制するのに働く因子の存在が示唆される。これらは外見の多様化に関して、斑紋以外に、「形」を変えるWNTの機能的側面を示すものであり、原因遺伝子の同定から、カイコや他の生物種における機能を明らかにしていくことは外見の多様化のメカニズムを知る上で重要であると考える。

図1 突然変異によるカイコ幼虫の外見の多様化

図2 連鎖解析による責任領域の決定

図3 褐円(L)でのwnt1の発現解析と機能解析

図4 褐円アリル特異的なwnt1の発現

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、3章から成り、第1章はカイコの幼虫斑紋形成異常の突然変異体である褐円の原因遺伝子wnt1の同定について、第2章は鱗翅目の幼虫の真皮細胞においてwnt1が斑紋形成に果たしている役割とその一般性について、第3章では、原因遺伝子の同定によって古くから知られている遺伝形質問の相互作用という現象の分子レベルのメカニズムを明らかにできる可能性について述べられている。

自然界の生物の巧みな環境適応能力や外見の多様性の獲得は、ゲノム上の突然変異により出現し受け継がれてきたものであると考えられ、そのメカニズムの解明は種の進化を考える上で根源的なテーマであるが、具体的な研究テーマとして適切な生物種や生命現象を選択することは難しい。現存する研究成果の多くは、既に多様性を獲得した種の形質に着目し、特定の候補遺伝子を調べるForward Geneticsによるものであり、既知の遺伝子の新たな機能や種間の保存性を明らかにするには十分であるが、多様性の獲得の原因となるゲノム上の変異と、その結果である新奇の遺伝形質とを結びつけるには不十分な手法である。

本論文では、自然突然変異によって新奇の幼虫斑紋が出現したことが知られているカイコの突然変異体褐円に着目し、古典的な解析手法であるが、ゲノム上に存在する形質の責任領域を確実に絞り込むことが可能な連鎖解析に基づいたポジショナルクローニングによる原因遺伝子の同定を試みた。その結果、ゲノム上のわずか34kbpの領域内に生じた突然変異が、新奇の斑紋形成の原因になっていることを証明した。この領域は、広範な生物種間で保存されている遺伝子、wnt1の表皮特異的なcisエレメント(転写調節領域)を含んでいることが示唆され、wnt1がbody plan以外にもカイコにおいて幼虫斑紋の形成に重要な役割を担っていることを初めて明らかにした。さらに、カイコの祖先であるクワコ、カイコと同じ鱗翅目に属するが系統的に離れているキアゲハについても、表皮でのwnt1の発現と特徴的な斑紋との関係を調べたところ、両者ともに強い相関が示されたことから、ここで明らかになった斑紋形成に関与するwnt1の新たな機能的側面は、カイコのみならず鱗翅目の幼虫全般で保存されている機能である可能性が示唆された。

カイコの突然変異体は古くから遺伝学的および形態学的な研究が行われ、異なる形質を持つ突然変異体同士の交配によってさらに多様な形質が出現する現象が報告されている。褐円と相互作用を示す突然変異体コブは、細胞の局所的な異常増殖によって特定の体節がコブ状に隆起する形質であるが、この変異体についても褐円と同様の解析を行い、原因遺伝子の特定を試みた。褐円とは異なり、コブのゲノム上の責任領域は組み替えがおこりにくい領域であったために、連鎖解析によって一遺伝子に特定することはできなかったが、原因遺伝子の候補として20遺伝子に絞り込むことに成功した。褐円の原因遺伝子として同定されたwnt1は、Wntシグナル伝達系を活性化させて細胞増殖を誘導することが知られているが、褐円とコブを交配したF1個体で褐円の斑紋部が全てコブ状に隆起するという現象は、Wntシグナルが局所的に活性化された領域のみで細胞が異常増殖を起こした結果であると考えられ、褐円の解析から明らかになった幼虫斑紋形成に関与する表皮での局所的なwnt1の発現も、細胞増殖を誘導する保存された機能を有していることが示唆された。

本論文によって、鱗翅目の幼虫表皮において、機能的に保存性の高いことで知られているWntシグナルが、新奇の斑紋の出現および、外形の多様化に寄与しているという新たな知見が提示され、このことは、生物が進化の過程で著しい外見的な多様性を獲得してきたメカニズムを明らかにする上での重要な貢献であったと考える。

なお、本論文第1章および第3章に述べた連鎖解析によるポジショナルクローニングは、農業生物資源研究所、山本公子氏、三田和英氏、九州大学、伴野豊氏との共同研究であるが、本論文提出者が主体となって、分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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