学位論文要旨



No 125022
著者(漢字) 井出,陽子
著者(英字)
著者(カナ) イデ,ヨウコ
標題(和) マウス成体海馬における新生ニューロンの成熟過程に関する研究
標題(洋)
報告番号 125022
報告番号 甲25022
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第440号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 久恒,辰博
 東京大学 教授 河野,重行
 東京大学 准教授 青木,不学
 東京大学 准教授 河村,正二
 東京大学 准教授 小嶋,徹也
内容要旨 要旨を表示する

[序論]

生物の情報処理を担うニューロンは、成体になると神経幹細胞が消失することで、その増殖能力を失うと考えられていた。しかし、およそ20 年前、海馬歯状回と側脳室下帯という2 つの脳部位では成体でも神経幹細胞が存在し、ニューロンが生まれ続けることが発見された。その後、成体における神経幹細胞の増殖・分化機構、新生したニューロンの特性等が解明されてきた。特に海馬は空間記憶を中心とした記憶・学習の中枢であることから、これらのニューロン新生が成体の行動に及ぼしうる影響は大きいと考えられおり、現在までに、生理学・行動学等多方面から海馬の神経幹細胞の研究が行われ、記憶学習課題に重要な役割を担うことが解明されつつある。

海馬の神経幹細胞は、歯状回顆粒細胞下層という特定領域にのみ存在し、タイプ‐1、タイプ‐2 細胞を経て分化後、徐々に顆粒細胞と呼ばれるニューロンに成熟することが知られている。成熟した顆粒細胞は多くのスパインを持つ樹状突起を貫通線維へ伸ばし、そこから興奮性の入力を受容する。新生後1-2 週目の顆粒細胞ではこれらの形態は未発達で、グルタミン酸による興奮性入力は新生後2 週以降であることが特定された。また、成熟した顆粒細胞は'苔状線維'と呼ばれる特殊な軸索をハイラスやCA3 領域に伸ばし、large bouton やsmall terminal と呼ばれる2 種類の軸索終末がハイラスの介在ニューロン、CA3 の錐体細胞や介在ニューロンと接続し、情報を伝達する。新生後間もない顆粒細胞は、成熟した顆粒細胞のようにグルタミン酸を受容しないにも拘らず、痕跡条件付けや食嗜好に対する社会的伝達(social transmission of food preference) といった特定の海馬依存性学習行動に関わっているということが知られている。そこで本研究では、特にこの時期の樹状突起や軸索終末に着目し、既存の回路網にどのように統合されているのか形態的に解析することで、新生顆粒細胞特有の情報伝達の有無を考察した。

[結果と考察]

1.方法

本研究では、新生した細胞を標識する手法として、Nestin-Cre トランスジェニック マウス(C57BL/6) の海馬にLoxP 配列が導入されたGFP 遺伝子配列を持つアデノウィルス(コンストラクト:CAG-LoxP-CAT(stop cassette)-LoxP-GFP) を注入し、感染させた。Nestin とは、神経幹細胞マーカーの一つであり、Nestin 陽性細胞にGFPを発現させることで神経幹細胞を選択的に標識した(図1A)。また、Cre-LoxP システムにより組み換えを起こし、CAG プロモーター下でGFP を発現させているので、Nestin の発現が制御された分化後の動態を追跡することが可能となった。さらに、GAP-43 膜輸送シグナルをもつGFP を用いたことから、特に細胞突起(軸索や樹状突起)の観察が容易となった。

2.新生顆粒細胞の軸索に関する解析

アデノウィルスをインジェクションした日を0 日目として、GFP ラベルされた細胞を経時的に観察した(図1B)。7 日目(PID 7) の段階では、GFP 標識された細胞の樹状突起は未発達で、スパインはほとんど形成されなかった(図2)。ところが、軸索の方はこの早い時期からCA3 方向へ伸長し、large bouton (>2μm) や small terminal(0.5~2μm) 様の構造を形成していることが観察された。この軸索終末のlarge bouton 及びsmall terminal を定量するために、伸長領域を区分けし、各領域における体積当たりの軸索終末数を算出した(図3A-C)。PID 7 から両方の形態が確認されたものの、その総数はPID 14 で約2倍に増加した(図3D)。特にlarge bouton はPID 7 からPID 14 の間で増加することが解かり、この間に回路網への統合が活発に行われていると考えられる。一方、PID 56 では軸索終末の総量が減少していることから、PID 14 からPID 56 の間で細胞自身の生死の運命決定が行われていることが考えられる。PID 7 からPID 56 を通して、軸索終末の多くがVesicular glutamate transporter 1 (VGluT1) 陽性であったことから、グルタミン酸作動性であることが示された。一方、発生期での苔状線維軸索終末ではGABA(γ-アミノ酪酸)とグルタミン酸の両方が混在していると言われているが、そのような特徴は見られなかったので、軸索の発生段階は成体期と発生期では異なることが考えられる。small terminal は抑制性介在ニューロンに、large bouton はハイラスでは興奮性介在ニューロンである苔状細胞と接続し、CA3 では錐体細胞と接続することが知られている。新生した顆粒細胞が両者の軸索終末を持つことは、様々な細胞との接続が示唆され、海馬回路網に及ぼし得る影響の大きさが期待される。

ニューロンが伝達する情報は、情報の受け取り手とシナプスという構造を介して伝達される。軸索終末がグルタミン酸作動性の特徴を有していても、新生顆粒細胞がニューロンとして情報伝達の一端を担うには、隣接するニューロンとシナプスを形成することが必要である。それには、新生顆粒細胞がどの段階で情報を受け取っているのか(細胞体や樹状突起で後シナプスの構造をもつか)、また、情報を送信できるのか(軸索終末がシナプス前構造をもつか)を解析する必要がある。そこで透過型電子顕微鏡技術を用い、新生顆粒細胞を形態学的に確認した(図4)。PID 7 のsmall terminal とlarge bouton の数は、PID 14 以降と比較して少ないが、多くのシナプス小胞を蓄え、CA3 透明層に存在するスパインと非対称性シナプス(興奮性シナプス) を形成していることが解かった。1 つのlarge bouton がシナプスを形成するスパインの数はPID 7 以降に増加するものの、これらの構造から、有糸分裂後1 週間以内に、新生した顆粒細胞が海馬回路網に組み込まれており、機能的な情報伝達を担っていることが明らかとなった。

3.新生ニューロンの入力に関する解析

しかしこの時点では、樹状突起のスパインが未発達であることから、新生した顆粒細胞は伝達するための情報を他細胞から受け取っていないようである。ところが、タイプ‐2 神経前駆細胞の段階からすでに、GABA による応答性を示すことが発見されている。また、PSA-NCAM (未成熟ニューロンマーカー) 陽性細胞がその細胞体で様々なアセチルコリン受容体を発現することから、未成熟な新生顆粒細胞はGABA またはアセチルコリン作動性の入力を受け取ることが考えられた。そこで、PID 7 における新生顆粒細胞が、細胞体からGABA またはアセチルコリンの入力を受け得るか確かめることとした。免疫染色による結果から、GABA 作動性ニューロンの前シナプスに特異的に発現するVGAT (小胞性GABA トランスポーター) とアセチルコリン作動性ニューロンのマーカーであるChAT (コリンアセチルトランスフェラーゼ) を発現する軸索終末がPID 7 のPSA-NCAM+ / GFP+細胞と近接することを確認した。また、これらの投射は中隔核に由来するものもあることが解かった。これらのことから、PSA-NCAM+ / GFP+ 新生顆粒細胞は中隔核からGABA やアセチルコリンの入力を受ける可能性が示された。中隔核からの投射は海馬の記憶形成を亢進させる働きがあることから、新生顆粒細胞が記憶形成に関与していることが推測される。ところが、ChAT 陽性の軸索に関して、新生顆粒細胞と直接的な接続があるという証拠はこれまで示されてこなかった。本研究では、透過型電子顕微鏡技術により、シナプス小胞を含むChAT 陽性軸索終末とGFP 標識された細胞の接触(apposition) を数多く確認することができた。そのうち対称性シナプスを形成しているものを発見したことから、新生顆粒細胞が新生後1 週の時点ですでにアセチルコリン作動性ニューロンの直接的な入力を受けていることが明らかとなった(図5)。

以上のことから、新生顆粒細胞はPID 7 という非常に早い段階から、少なくともアセチルコリンやGABA 入力を受け取り、それに応じてハイラスやCA3 に存在するニューロンにグルタミン酸を介して情報を伝達していることがわかった。しかし、通常ニューロンはGABA に対して抑制性の応答を示すのに対し、タイプ‐2細胞から分化した直後の未成熟な顆粒細胞にかけては細胞内が高いCl-濃度を保っているので、GABA に対して興奮性の応答を示すことが知られている。このことから新生した顆粒細胞は、接続するGABA またはアセチルコリン作動性ニューロンからの入力に対する応答は成熟した顆粒細胞とは異なることが考えられ、未成熟な顆粒細胞特有の情報伝達を行っていることが考えられる。

[結論]

海馬で新生した顆粒細胞は、その成熟する前の早い段階である新生後1 週から既存の海馬回路網に組み込まれていることが判明した。ただし、新生顆粒細胞のスパインは未成熟であり、入力は軸索-細胞体間、または軸索-樹状突起幹のみで行われること等から、未成熟の新生顆粒細胞は、成熟した顆粒細胞とは異なる情報処理を行い、CA3 に伝達している可能性が示唆された。この接続の違いが、新生後1-2 週の顆粒細胞が関わっている特定の学習行動に重要であるのかもしれない。また、新生顆粒細胞が海馬回路網に統合される時期と新生後の運命決定が行われる時期が重なることから、この早期の統合がこれらの運命決定に影響を及ぼしていることが考えられる。

図1.Nestin陽性細胞のラベル

図2.GFP陽性細胞の樹状突起の発達

図3.GFP陽性細胞の軸索末端の成長過程

図4.新生後7日目のGFP陽性細胞軸索末端

図5.アセチルコリン作動性ニューロンの投射を受ける新生後7日目のGFP陽性細胞

審査要旨 要旨を表示する

本論文はマウス成体海馬における新生ニューロンの成熟過程について述べられている。

従来、哺乳類の脳はその構成要素のニューロンが分化能力を消失しているため、一度損傷すると再生しないと言われてきた。ところが、およそ20年前、海馬歯状回と側脳室下帯の2つの脳部位では成体でも神経幹細胞が存在し、これの増殖・分化によってニューロンが生まれ続けていることが発見された。その後、成体における神経幹細胞の増殖・分化機構、新生したニューロンの特性などが解明されてきた。しかし、これらのニューロン新生が海馬依存的行動にどのような影響を及ぼすのかという見地からは、未解明なことが多い。本研究では、海馬の新生ニューロンが神経回路網に統合される過程を追跡することでニューロン新生の機能性を解明することを目的とした。

海馬の神経幹細胞は、歯状回顆粒細胞下層という特定領域にのみ存在し、顆粒細胞と呼ばれるニューロンに分化することが知られている。本研究では、新生ニューロンをラベルするために、神経幹細胞特異的に発現するNestinに着目し、Nestin陽性細胞とそれから由来する新生ニューロンをGGFP(膜輸送シグナルを連結させたEGFP)でラベルする方法を用いた。これにより、細胞突起の観察が容易となり、樹状突起や軸索終末の観察が可能となった。

顆粒細胞は多くのスパイン(樹状突起棘)を持つ樹状突起を貫通線維へ伸ばす一方、'苔状線維'と呼ばれる特殊な軸索をCA3領域に伸ばし、small terminalやlarge boutonといった数種類の軸索終末を形成する。本研究の共焦点レーザー顕微鏡観察により、新生後7日の時点ですでに新生ニューロンがこれら2種類の軸索終末を有していることが発見され、その多くがグルタミン酸を放出するシナプス小胞を保有していることがわかった。通常、成熟した顆粒細胞のsmall terminalは抑制性介在ニューロンと、large boutonはハイラスでは興奮性介在ニューロンである苔状細胞と接続し、CA3では 錐体細胞と接続することから、顆粒細胞が如何に多様なニューロンに情報を伝達させるかを窺える。

本研究ではさらに、新生後7日目の若い新生ニューロンが成熟したニューロン同様に情報伝達を行い得るか、形態学的な解析を進めた。GGFPでラベルされた新生ニューロンの軸索終末を、透過型電子顕微鏡によって解析したところ、ニューロンが次のニューロンへ情報伝達するときに必要となるシナプスという構造を形成していることがわかった。そして新生後7日目の時点でこのシナプスは、成熟した顆粒細胞の軸索終末同様、シナプス後細胞のスパインに対して非対称性シナプスを形成していることがわかった。軸索終末の総数は新生後7日以降に倍増はするものの、このように若い新生ニューロンの軸索終末がすでに機能的に働いているという所見が得られた。

また、新生後7日の若い新生ニューロンの細胞体や樹状突起の軸部の近傍にGABAやアセチルコリンの軸索終末が接近していることが、共焦点レーザー顕微鏡で観察された。先行研究により、新生ニューロンへ分化する前段階であるタイプ-2細胞(神経幹細胞の一種)からGABA入力を受け取ることが電気生理学的に解明されている。本研究ではさらに、二重免疫電顕法による解析を行い、アセチルコリンの軸索終末が新生後7日目の若い新生ニューロンとアポジション(接触)を形成しており、その中にはシナプスを形成しているものも観察された。よって、若い新生ニューロンが少なくともGABAとアセチルコリンの入力を受け取ることが示唆された。

以上のことから、若い新生ニューロンは、少なくともアセチルコリンやGABA入力を受け取り、それに応じてハイラスやCA3に存在するニューロンにグルタミン酸を介して情報を伝達していることがわかった。一方、この時点では樹状突起でスパインは形成されておらず、貫通線維からのグルタミン酸の入力は受けていないと考えられる。よって若い新生ニューロンは、海馬内で成熟したニューロンとは異なった情報伝達を行っていると考えられる。これまで、行動学的手法を用いた実験では、新生後1-2週の新生ニューロンの痕跡条件付けや食嗜好における社会的伝達といった特定の海馬依存的学習行動への関与が報告されている。今回の形態学的解析により明らかとなった若い新生ニューロン特有の情報伝達は、これを支持する重要な知見となった。

なお、本論文は、京都大学大学院医学系研究科金子武嗣教授、藤山文乃准教授、京都大学中央電顕室古田(岡本)敬子技官、熊本大学大学院医学薬学研究部玉巻伸章教授との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク