学位論文要旨



No 125036
著者(漢字) 宇井,美穂子
著者(英字)
著者(カナ) ウイ,ミホコ
標題(和) 抗Ciguatoxin抗体による環状ポリエーテル化合物認識機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 125036
報告番号 甲25036
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第454号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 メディカルゲノム専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 津本,浩平
 東京大学 教授 西郷,和彦
 東京大学 教授 上田,卓也
 東京大学 准教授 和田,猛
 東京大学 准教授 本田,真也
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

自然食中毒の一つとして知られるシガテラは、主に熱帯・亜熱帯海域のサンゴ礁周辺に生息する魚介類の摂食によって起こり、世界中で年間およそ50,000人の罹患者がいる。近年では、温暖化とともに中毒発生海域が北上し、これまでは見られなかった本州各地でもシガテラが確認されるようになってきている。しかし、未だシガテラに対する有効な治療法や診断法、毒魚の検出法等は確立されていない。神経毒性の発現メカニズムを分子レベルで解明し、有効な予防・治療法の開発に繋げていくことは急務となっている。

このシガテラの原因物質はciguatoxin(CTX)と呼ばれ、環状ポリエーテルを基本骨格に持った梯子状の剛直な巨大分子である(Fig. 1)。2003年、Oguriらによって、このCTX類の一種であるCTX3Cの検出法が開発された(1)。この系では、CTX3Cを左右から認識する二種類の抗CTX3C抗体10C9と3D11を用い、サンドイッチ型ELISA法によって検出限界5 nMの高感度検出を達成している。10C9は、CTX3Cの断片であるABCDE環を抗原として得られたマウスモノクローナル抗体であり、BCDE環とは解離定数(Kd) 0.8 nM、全長のCTX3Cとは2.8 nMで結合する。また、他のポリエーテル系毒素であるBrevetoxin A, B、Okadaic acid、Maitotoxinには交差反応性を示さず非常に高い特異性を持つ。しかし、10C9によるCTX類の認識機構はもちろん、環状ポリエーテル化合物と蛋白質との相互作用に関する知見はほとんど得られていない。

本研究では抗CTX3C抗体10C9とCTX3Cとの相互作用に焦点を当て、CTX3Cが持つ複数のエーテル環構造を如何にして抗体が認識し、特異性が創出されるのかを分子・原子レベルで明らかにすることで、構造生物学的観点から環状ポリエーテル化合物と蛋白質の相互作用に関する情報基盤を構築することを目的とした。抗体は、解析の簡便さを考慮してFabを用い、抗原はCTX3Cの断片構造となるABC環、ABCD環、ABCDE環の三種類の環状ポリエーテル化合物を用いた(Fig. 1)。さらに、創薬ターゲットスクリーニングにおける熱力学の役割を考察する場として10C9を捉え、低分子ライブラリーから熱力学的手法によって選別された低分子化合物を例に、蛋白質-低分子相互作用の熱力学的解析についても議論した。

3.実験結果および考察

抗ciguatoxin抗体10C9FabのX線結晶構造解析

10C9Fab、および抗原となるCTX3C-ABCD、ABCDEとの複合体のX線結晶構造解析を行った結果、それぞれ分解能2.6、2.4、2.3Aで立体構造を明らかにすることに成功した。10C9FabはVH-VL界面に大きな溝状の抗原結合ポケットを形成しており、CTX3C-ABCD、ABCDEはどちらもその抗原結合ポケットに対してA環を奥に向けた状態で縦に突き刺さるように結合することが明らかとなった(Fig. 2)。このように抗体の可変領域の深部まで抗原が入り込む例はあまり知られておらず、10C9Fabによるこれら環状ポリエーテル化合物への結合様式は非常に新規性が高い。

抗原抗体相互作用には、主に水素結合とファンデルワールス相互作用が機能していると推測され、二種の複合体の間では相互作用に明確な差は見られなかった。しかし、10C9Fab・CTX3C-ABCDE複合体ではH-Asn58の方向性が制御されることで抗体分子内に水素結合ネットワークが生じ、抗体の構造をより安定化させている可能性が示唆された。

また、抗原結合前後で立体構造を比較すると、どちらの複合体でも抗原結合に伴って可変領域に抗原を回転軸とした分子運動を生じることが示唆された。この運動性は特に10C9Fab・CTX3C-ABCD複合体で大きく、定常領域でもCTX3C-ABCD結合により顕著な構造変化が認められた。このことから、10C9Fabは抗原の長さに応じた誘導適合を生じ、その影響は可変領域のみならず定常領域にまで達することが示唆された。さらに、10C9Fab重鎖の温度因子の算出により、抗原結合に伴うCDRループの安定化が確認できた。しかし、定常領域の安定化には2種の抗原で大きな違いがあり、CTX3C-ABCDEでは構造を安定化する一方、CTX3C-ABCDでは逆に揺らぎの大きな状態へ導くことが示唆された。

抗原抗体相互作用の熱力学的解析

10C9 Fabの抗原認識に伴う熱力学的パラメータを算出するため、等温滴定型熱量測定による解析を行った。最も全長が短いCTX3C-ABCでは、明らかな反応熱は確認できなかった。抗原CTX3C-ABCD、ABCDEでは、いずれも抗原抗体反応に特徴的なエンタルピー駆動型の反応を示し、1:1の化学量論比で結合することが確認できた。エンタルピーの値は、CTX3C-ABCD、ABCDEがそれぞれ-45.7、-68.4 kJmol-1であり、CTX3C-ABCDE認識ではエンタルピー得の寄与が特に大きいことが示された。また、エントロピーの値は、CTX3C-ABCD、ABCDEでそれぞれ-15、-76 J mol-1 K-1 であった。両者の間で水和水の数に差がないことから、CTX3C-ABCDの方が、ある程度分子の自由度が高い状態であることを示していた。結合定数Kの値は、CTX3C-ABCD、ABCDEがそれぞれ1.5×107、9.0×107 M-1であり親和性には6倍程度の差が見られ、CXT3C-ABCDEはエンタルピー的寄与により10C9Fabと有利に結合することが明らかとなった。

次に、抗体の熱安定性への抗原の影響を検討するため、示差走査型熱量測定を行った。Fig.3には、10C9Fab単独、10C9Fab・CTX3C-ABCD、ABCDE複合体の測定結果を示す。抗体単独での変性温度は78℃付近であったが、複合体形成により、CTX3C-ABCDではおよそ0.8℃、CTX3C-ABCDEではおよそ10℃もの熱安定化が得られた。この結果は、CTX3C-ABCDEの結合によって10C9Fabの立体構造の大きな安定化が得られたことを意味する。10C9Fab・CTX3C-ABCD複合体では、温度因子から明らかとなった定常領域の不安定化が熱安定性に影響していると考えられる。

10C9Fabの変異体解析

抗原CTX3C-ABCDEの認識に必須となる抗体10C9Fabの特性を明らかにするため、抗原結合部位周辺のアミノ酸残基に対するアラニンスキャニングを行い、各アミノ酸残基の抗原認識への寄与を表面プラズモン共鳴分析法によって評価した。その中で、H-His35a-Aは、koffで200倍程度の著しい増大を示し、抗原抗体複合体としての安定性が著しく低下していた。また、H-Trp47-Aでは、抗原への親和性が1000分の1以下程度にまで低下することが確認された。これらの残基はいずれも抗原と特に密接に相互作用はしておらず、これら親和性の低下が変異導入箇所における直接的相互作用の欠落に起因するとは考えにくい。結晶構造解析から、この2つの残基を含めた4つの残基H-Trp47、H-His35a、H-Asp95、L-Arg46が抗原不在下および存在下で水素結合ネットワークを形成し、抗原結合ポケットの内壁を構築していることが明らかとなっている。H-His35a およびL-Trp47残基のAla置換体ではこの水素結合ネットワークが形成されず、抗原結合部位の抗原に対する形状相補性が著しく失われると推察される。以上の結果は、CTX3C-ABCDEの認識には抗体側の形状相補性が最も重要であるということ、また、各アミノ酸残基との相互作用は付加的な貢献をすることを強く示唆する。

低分子スクリーニング

低分子創薬における熱力学情報の重要性が再認識されつつある昨今、リード化合物の同定および構造の最適化においては、等温滴定型熱量測定(ITC)に基づいた定量的構造活性相関の重要性に注目が集まっている。本研究では、ITC測定により、低分子ライブラリーから10C9IgGとの相互作用で発熱が得られる化合物を抽出することができた(Fig. 4)。これらの分子は、本来の抗原であるciguatoxinと共通した構造的特徴を保持していた。つまり、いずれも連結した環状分子であること、複素環であること、また、特定の位置に水素結合が可能となる水酸基あるいはケトン基を持っていることが明らかとなった。これは、熱力学解析により標的蛋白質と特異的に結合可能な分子の構造学的特徴を見出すことが可能であることを示唆している。

4.結言

本研究で対象とした抗体10C9は、剛直な巨大分子であるCTX3Cを認識するためVH-VL界面に巨大な抗原結合ポケットを用意し、さらに、CDR領域の自由度を保った特徴的な構造を持つ。抗原認識には、抗原抗体間の直接的な相互作用だけではなく、分子運動による広範囲な誘導適合と構造の安定化が寄与しており、また、抗原認識部位の形状相補性が重要であることが明らかとなった。環状ポリエーテル化合物と蛋白質との相互作用という分子生物学的観点からも、本結果は非常に意義深い。さらに、低分子探索における熱力学的解析は、特に標的蛋白質との特異的結合に寄与する構造的特徴の抽出に非常に有用であることを示すことができた。

今回の結果は、剛直な巨大分子抗原に対する抗体の認識機構の基礎情報を与え、また、それらの抗原を標的とした有効な予防・治療薬、種々の分析試薬、また触媒試薬開発に向けた有用な知見となり得る。

1) Oguri et al. J. Am. Chem. Soc., 125, 7608-7612 (2003).Tsumoto K, Yokota A, Tanaka Y, Ui M, Tsumuraya T, Fujii I, Kumagai I, Nagumo Y, Oguri H, Inoue M and Hirama M, J. Biol. Chem., 283, 12259-12266 (2008).Mihoko Ui, Yoshikazu Tanaka, Takeshi Tsumuraya, Ikuo Fujii, Masayuki Inoue, Masahiro Hirama, and Kouhei Tsumoto, J. Biol. Chem., 283, 19440-19447 (2008).

Fig.1 The structures of CTX3C(1), CTX3C-ABCDE(2), CTX3C-ABCD(3), CTX3C-ABC(4).

Fig.2 The structures of variable region of 10C9fab in complex with CTX3C-ABCDE(1) or CTX3C-ABCD(2).

Fig.3 Partial molar heat capacity with a transition midpoint at Tm.

Fig. 4 Compounds that bind to 10C9IgG driven by favorable enthalpy.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、海洋毒の一種である環状ポリエーテル系毒素のうち、世界最大規模の食中毒を引き起こすCiguatoxinに関して、予防・治療薬として期待される抗Ciguatoxin抗体が達成している抗原認識機構、高親和性・特異性創出機構について分子レベルでの記述を目指した研究である。

本論文の大略は次の通りである。

第1章は、予防・治療薬としての抗体の重要性とCiguatoxinおよびシガテラ中毒に関するこれまでの研究動向をまとめ、本研究での目的と意義について述べている。

第2章では、まず、抗Ciguatoxin抗体10C9Fab単独と抗原抗体複合体の立体構造をX線結晶構造解析によって解明し、抗原の結合様式を明らかにした。抗原には長さの異なる2つのCiguatoxin誘導体CTX3C-ABCD、CTX3C-ABCDEを用い、10C9Fabによる認識の違いを比較することで、抗体の環状ポリエーテル化合物に対する認識挙動について詳細に述べている。正規の抗原であるCTX3C-ABCDEは、10C9Fabが可変領域の重鎖一軽鎖界面に形成している疎水的で巨大な抗原結合ポケットに結合し、エンタルピー駆動力によって安定な抗原抗体複合体を形成することを示している。このとき、10C9FabはCTX3C-ABCDEと複合体を形成することによって著しい熱安定性を獲得することも明らかにした。それに対し、抗原として不完全な構造であったCTX3C-ABCDでは、CTX3C-ABCDEと同様にエンタルピー駆動型の複合体形成を行うものの、10C9Fabに多大な構造変化を誘起させることで主に定常領域における構造の不安定化を導くことを示した。10C9FabによるCTX3C-ABCDの認識は、抗体の分子全体を利用したダイナミックな結合を示唆しており、このことから、環状ポリエーテル化合物は蛋白質に対して結合エンタルピー獲得のために多大な構造変化を誘発させる可能性があることを明確に示している。

第3章は、10C9Fabの抗原結合部位に存在するアミノ酸残基にAla変異を導入し、CTX3C-ABCDEへの結合活性における各アミノ酸残基の寄与について明らかにした。大腸菌発現系により調製した7つの変異型10C9Fabについて、SPR測定によるCTX3C-ABCDEへの結合速度と解離速度に関する野生型10C9Fabとの挙動の違いから、抗原結合ポケットが維持する形状相補性の重要性を示した。水分子を介して間接的に相結合部位作用を形成しているアミノ酸残基、また、抗原と直接水素結合を形成しているH-N58に関して、Ala置換体では野生型10C9Fabとの顕著な違いは確認されなかった。一方、抗原結合ポケットの立体構造形成に積極的に関わっていると推察されるアミノ酸残基へのAla変異では、著しい結合活性の低下が観察された。このような実験結果から、10C9FabがCTX3C-ABCDEを認識するためには、抗原抗体相互作用として多くのvan der Waals相互作用を主体として機能させることのできる極めて形状相補性の高 い抗原結合部位を必要とすることが明確に示された。

第4章は、近年注目されているFragment-Based Drug Discoveryに関連し、熱力学的測定に基づいたリガンドの選択と創薬戦略について述べたものである。結合分子獲得方法に関しては、ITCおよびSPR測定を用いた低分子スクリーニングを行い、10C9に対する結合活性を持った低分子化合物を同定した。ITC測定から同定することができた化合物は、いずれもCTX3CのAB環と類似した構造的特徴を持っていることが明らかとなった。特に水酸基の位置に関して10C9は厳密な識別をしており、CTX3Cの認識に関してもB環の水酸基が大きな寄与を果たしていることが推測された。また、SPR測定から、10C9は抗原以外の分子でも比較的寛容に受け入れることが示唆され、抗原特異性の創出は化合物の解離過程に反映されていることが示唆された。本研究では、10C9に結合することのできる分子の最小単位を同定できたと共に、低分子探索におけるITC測定が標的蛋白質との特異的結合に必須な構造的特徴の抽出に非常に有用であることが示された。

以上の結果について、第5章で総括している。

本研究は、研究対象とした抗Ciguatoxin抗体の分子認識基盤について立体構造、熱力学的解析から明確に記述されており、環状ポリエーテル系毒素による分子間相互作用に関する知見は新規性が高いことから学術的にも大変意義深い。これら抗原抗体相互作用に関する情報は、今後の新たな環状ポリエーテル系毒素認識抗体の作製に指針を与え、医薬品開発の観点からも社会的要請に沿えると期待される。

したがって、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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