学位論文要旨



No 125065
著者(漢字) 藤井,秀樹
著者(英字)
著者(カナ) フジイ,ヒデキ
標題(和) 歩車混合交通シミュレーションのための多階層歩行者モデルの開発
標題(洋) Development of Multilevel Pedestrian Model for Mixed Traffic Simulation of Pedestrians and Vehicles
報告番号 125065
報告番号 甲25065
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第483号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 人間環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉村,忍
 東京大学 教授 大和,裕幸
 東京大学 教授 佐々木,健
 東京大学 教授 古田,一雄
 東京大学 教授 奥田,洋
内容要旨 要旨を表示する

本研究の背景

これまでの交通工学では,渋滞の解消や交通事故の低減を目的に対策が議論されてきた.これらはいわば自動車をより快適に利用するための議論であり,現在も解決に至っていない.また新たな問題として地球温暖化問題が自動車交通と切り離せなくなっており,一方で過度に自動車に依存した社会構造・都市構造が,自動車を運転できないことによって豊かな生活や文化的活動が制限される人々を生んでいる(モビリティディバイド).

このような新たな問題を含めた交通問題の解決策の1つは,社会の自動車への依存度を抑え,人と環境にやさしい新たな交通体系を構築することである.ここで提案される新たな交通像は「脱自動車社会」などとも呼ばれる.

脱自動車社会の実現のためには既存のシステムを人々の交通意識のレベルから大きく変革しなければならない.その実現への障害は大きいことが予想される.その障害を乗り越えて目的を達成するためには,十分なアセスメントとステークホルダーへの説明が必要である.そこで交通流シミュレータの利点を発揮することを考える.当然のことながら,シミュレータには現実の交通現象をできるだけ正確に再現することが要求される.

脱自動車社会の中では,乗り継ぎ交通や末端交通としての歩行者の存在が重要となる.従って脱自動車社会の交通を再現するシミュレータにも歩行者が含まれていることが望ましい.また意思決定支援ツールとして「歩きやすい街づくり」をプレゼンテーションするためには,歩行者の存在は欠かすことができない.

目的

既存の交通流シミュレータにおいて,歩行者に主体性を置いた上で,歩車混合交通を広く再現できる例はこれまでになかった.これは,従来までの交通工学における自動車以外の交通に対する関心の低さによるところが大きい.

我々の研究室で開発している交通シミュレータMATES(Multi-Agent based Traffc and Environment Simulator)でも,歩行者を限定的に導入した実績を持つ.本研究ではMATESのこれまでのアプローチからさらに一歩踏み込み,街中を大域的に歩き回る歩行者と自動車との混在を可能とするシミュレーションプラットフォームを構築する.さらに歩行者の集団的挙動と自~動車との相互作用を実現するための新たな歩行者モデルを提案し,その性能を検証する.

連成現象としての歩車混合交通

接触した複数の系が境界を通じて相互作用を及ぼしあう現象を連成現象と呼ぶ.一般に,流体-構造連成,地盤-構造連成のような物理シミュレーションに用いられる概念であり,1つの系の出力が他の系を介して入力にフィードバックされるという特徴を持つ.本研究では歩車混合交通を自動車系と歩行者系との連成現象と捉え,混合交通シミュレーションのための新たなフレームワークを構築した.交通現象には人間系が深く関与するため,そこには本質的に認知遅れ時間が存在する.そこで物理系の連成シミュレーションでは避けられる連成効果の遅れを認知遅れとして積極的に取り入れることとした.

シミュレーションの中では,自動車系,歩行者系にそれぞれ別の微視的モデルを利用することにした.自動車交通流にはGFM(Generalized Force Model),歩行者交通流にはSFM(Social Force Model)を選択した.シミュレータ内部で自動車系,歩行者系が分離されているため,別のモデルを採用したい場合には比較的容易に取り替えることができる.つまり本フレームワークは本研究のために特化したものではなく,混合交通シミュレーション全般に寄与するものである.

詳細な歩車相互作用を実現するための道路環境

MATESにおける道路の詳細構造は車両が走行することしか考慮されておらず,横断歩道のような特殊な構造を除けば,道路には車線に相当する仮想走行レーン以外は存在しなかった.この構造をそのまま継承するのでは歩行者の運動が1次元的な構造の制約を受けることとなる.例えば仮想走行レーンを拡張してもスクランブル交差点や駅前広場のような歩行者が多方向に移動するような状況を再現することは困難である.

そこで,単路や交差点といった道路ネットワークの構成要素の下位に,もう1段階詳細でかつ2次元的な領域を持った構造を導入した.交差点(intersection),単路(section)を分割する意味で,これをサブセクション(subsection)と呼ぶ.歩行者はサブセクションを最小単位として道路を認識することと定める.仮想走行レーンを単位とした自動車エージェントにとっての仮想走行空間に加え,サブセクションを単位とした歩行者エージェントにとっての仮想歩行空間が定義されたことになる.交通主体に別々の移動空間を提供することで,各交通の自然な表現と既存モデルの再利用が容易となる.また道路を空間的に分割するため,歩行者同士あるいは歩行者と自動車との通信を局所的なものに抑えることができる.

歩行者のモデル化

歩行者の大域的な挙動を実現するために,まず歩行者の階層的な経路探索を実装した.すなわち最初に交差点・単路単位でマクロ経路を決定し,マクロ経路を満たすためにサブセクション単位のミクロ経路を次々と探索する.ミクロ経路は信号現示等の影響を受けて動的に変化する.

サブセクション内での歩行者の挙動は,前述の通りSFMをベースとする.SFMでは以下の式に従って歩行者にはたらく外力fi(t)を計算し,そこから加速度を求める.

ここで,foi(t)は目的地に向かうための引力,f(soc)(ij)(t)は他の歩行者と距離をとるための社会的斥力,f(ij)(ph)(t)は他者と接触する場合に作用する物理的な斥力,f(ib)(t)は障害物からの斥力である.

多階層歩行者モデルを用いた歩車相互作用

微視的な歩行者モデルを用いたシミュレーションでは,高密度状況下で現実には見られないような滞留が発生することが報告されている.現実の歩行者は巨視的モデルの仮定するようなシステム全体の流れを最適化するような配分は行うことはないが,SFMをそのまま利用するような単純な微視的モデルのように自身とその周りの状況だけを考えて進路を決めているとも考えにくく,歩行者の流れを観察した上で,歩行者流が円滑となるように進路を決定し,このような滞留をある程度回避していると考えられる.

そこで,エージェントがどのような視点でその他のエージェントを認知し,意思決定を行うかという観点でモデル化を行うという考えが生じる.これが多階層歩行者モデル(multilevel pedestrian model)の基本的な思想である.

多階層歩行者モデルでは,歩行者エージェントの相互作用の相手(他の歩行者エージェント又は自動車エージェント)が自分をどのように見ているかという観点から,その粒度にあわせて歩行者の集団化を行うことを考え,その集団を仮想エージェント(vtrtual agent)としてモデルに導入する.一方,その相手からもまた同レベルで何らかの影響を受けていると考え,仮想エージェントを通じ,集団を構成する個々の歩行者エージェントに影響を伝達する.

本研究では歩行者隊列エージェントと歩行者集団エージェントの2つを導入した.歩行者隊列エージェントは歩行者の集団的挙動を制御するための仮想エージェントであり,歩行者集団エージェントは歩行者と自動車との相互作用を制御する仮想エージェントである.

モデルの検証

多階層歩行者モデルを実装した新たな混合交通シミュレータを開発し,その性能を検証した.

歩行者隊列エージェントについて,導入前後を比較することでその効果を測定した.結果,高密度状況下での歩行者流に明らかな差異が確認された.これは当初の目的の通り,歩行者が隊列を意識することによって過度の滞留を回避できたことを意味する.

また歩行者集団エージェントが提供する歩車間の相互作用ルールの効果を検証するため,信号交差点にて横断歩道上の歩行者交通によって左折車がブロックされる現象,歩車が道路空間を共有する単路区間にて自動車の走行速度が歩行者の存在によって制限される現象のシミュレーションを通じ,歩行者交通流が自動車交通流に及ぼす影響を評価した.これら2つのシミュレーションによって理論値や既往研究によって得られた推定値に近い結果が得られた.

さらに実環境(渋谷駅ハチ公前交差点)にモデルを適用し,歩行者・自動車のミクロな挙動を確認することもできた.

結論

本研究では歩車混合交通を連成現象として捉え,また多階層歩行者モデルを開発し,新たな混合交通シミュレータを作成した.本モデルの採用により,各交通の自然な表現を保持したまま歩車間の相互作用を導入し,また従来のモデルの問題点であった高密度の状況下で歩行者が滞留する問題を解決することができた.

混合交通シミュレータを利用することで,これまでに実施できなかった歩行者視点での道路交通施策の評価が可能となる.さらに交通手段の選択や交通機関の乗り換え挙動を追加することで,本シミュレータがより一般的な意味での脱自動車社会のシミュレーションに寄与することができると考える.

審査要旨 要旨を表示する

道路交通は現代社会の基盤となるシステムであり,人々はその便益を享受する一方で,交通渋滞や交通事故によって頭を悩ませている.また,近年では排出ガスの地球温暖化への影響,自動車を運転できるものとできない者との交通格差(モビリティディバイド)も注目されている.これらの問題を解決するためには,自動車に過度に依存した交通体系から脱却することが望まれる.すなわち既存の道路空間を再配分し,公共交通と歩行者を主体とした市街地を形成するのである.

道路交通の主体が自家用車からシフトする過程において,単独の交通手段としてだけでなく,公共交通の乗り換えや末端の交通として歩行者交通が大きな意味を持つようになる.これまで交通問題の解決を助けるツールとして多くの交通流シミュレータが開発されてきたが,従来のシミュレータは自動車交通に重きを置くものが多く,歩行者の存在は無視または軽視されてきた.今後の都市交通における歩行者の重要性を考えると,自動車と歩行者を等しく個人の特性や意思を持った交通主体として取り扱う混合交通シミュレーションが必要である.本論文では,歩行者と自動車の詳細な相互作用を記述するための新たなモデルを提案し,その有効性を示している.

本論文は6つの章から構成される.

第1章は序論であり,本研究を行うにあたり,道路交通および交通流シミュレーションの現状と課題についてまとめられている.また,新たな課題として歩車混合交通への取り組みの必要性について述べている.

第2章では本研究の背景を述べている.渋滞や事故といった従来の交通問題と,地球温暖化への自動車交通の影響やモビリティディバイドといった新たな交通問題についての知見をまとめ,解決手段の1つとして自動車への依存度を低減するための交通施策を取りあげている.また,施策評価を行う上でのシミュレーションの意義を述べ,本研究の目的である歩車混合交通シミュレーションの実現の必要性を導いている.

第3章では,自動車交通および歩行者交通,混合交通のモデル化に関する既往研究についてまとめ,それぞれのモデルのメリット・デメリットを述べている.また既存の自動車交通流シミュレータにおける歩車混合交通の再現度を紹介し,同時に著者がターゲットとして考える現象を再現する上で不足する機能を示すことで,本研究で開発するモデルが持つべき特性を明確にしている.

第4章では,混合交通シミュレータの開発について3つの提案がなされている.第1は,歩車混合交通を実現するためのフレームワークである.著者は混合交通を連成問題と捉え,力学シミュレーションにおける連成手法との比較を通じて混合交通の特性を考慮した手法を示している.第2は,歩行者と自動車が存在する道路環境の定義である.汎用性を担保するため,異なる交通主体を自然に共存させる方法について述べている.第3は,既存のモデルでは表現することのできなかった歩行者の集団的挙動や歩行者,自動車間の相互作用を制御するための多階層歩行者モデル(Multievel Pedestrian Model)である.本モデルでは歩行者を集団化した仮想エージェントを導入することで,上記の問題を解決している.

第5章では,提案したシミュレータの性能を検証している.まず自動車交通部,歩行者交通部のそれぞれについて基本性能検証を行い,さらに混合交通流の特性を測定してシミュレーションの精度を検証した.また実地域への適用例として渋谷駅前のスクランブル交差点を対象としたシミュレーションを行い,実世界で観測された挙動がシミュレーション内でも再現されていることを確認している.スクランブル交差点における歩行者,自動車の相互作用は,既存の汎用的な交通流シミュレータでは再現が困難であった現象である.

第6章は結論であり,提案した手法のまとめと交通工学分野における有用性が述べられている.

以上を要するに,本論文では,道路交通において歩行者交通を考慮することの必要性と従来の交通流シミュレーションにおける歩行者のモデル化の問題点を指摘し,それを解決するための新たなモデルを提案している.またシミュレーション結果の検証を通じて既存のモデルに対する本手法の優位性を示しており,交通シミュレーションの分野において本論文は価値が高い.今後は混合交通の分析にとどまらず,道路設計,都市計画,道路交通の環境影響評価に対しても広く寄与するものと考えられる.よって本論文は博士(環境学)の学位請求論文として合格と認められる.

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