学位論文要旨



No 125069
著者(漢字) 瀬尾,欣也
著者(英字)
著者(カナ) セオ,キンヤ
標題(和) 心臓の機械的伸展により誘発される不整脈の機序についての実験およびシミュレーションによる検討
標題(洋)
報告番号 125069
報告番号 甲25069
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第487号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 人間環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉浦,清了
 東京大学 教授 安藤,譲二
 東京大学 教授 佐久間,一郎
 東京大学 教授 久田,俊明
 東京大学 講師 山下,尋史
内容要旨 要旨を表示する

心臓への機械的負荷がその電気生理学的挙動に影響を与えることは古くから知られており,Mechano-Electric Feedback(MEF)と呼ばれている.心筋梗塞や心不全のような心室壁に異常な負荷のかかる病態において,MEFは正常な心拍リズムを乱す働きをしていると考えられている.これまでの基礎研究から,伸展により開くstretch-activatecd hannels(SACs)を介した電流が,MEFに対して重要な役割を果たしているのではないかと考えられているがその機序については不明な点が多く,SACsの存在箇所すら明らかになっていない.細胞膜の陥入構造であるT管にSACsは存在しているのではないかと考えられているが,その検討はなされていない.一方で伸展刺激による不整脈の誘発には細胞内カルシウム動態も深く関わっているのではないかと考えられている.伸展刺激により細胞内でカルシウム放出が誘発されることは確認されているが,これがどのような機序で生じるかは明らかにされていない.さらに,細胞レベルで見られるMEFが,如何にして臓器レベルの不整脈に繋がるかも不明である.以上,1)SACsのT管への局在可能性の検討,2)伸展刺激による細胞内カルシウム放出機構の解明,3)細胞レベルのMEFと臓器レベルの不整脈の繋がりの理解,という3つの目的を掲げ,細胞・組織レベルの実験及びコンピュータシミュレーションにより検討を進めた.

ラット単離心筋細胞に対して,カーボンファイバー伸展技術により伸展刺激を加え,その膜電位応答カルシウム動態を,それぞれ光電子増倍管,レーザー共焦点顕微鏡により測定した.T管への局在性の検討では,薬剤によりT管を切除し,T管有無での膜電位変化の違いを調べた.伸展刺激に対する細胞内カルシウム動態に関しては,SACsやL型カルシウムチャネル(LTCC)の阻害薬などを用い,伸展刺激に対して各チャネルが如何にカルシウム放出に寄与するかを調べた.その結果,正常細胞では伸展刺激の強度が大きくなるにつれて,膜電位応答も増加し,これらの応答はSACsの阻害薬によって抑制された.T管切除細胞でも同様に膜電位応答を調べたところ,正常細胞に比べて膜電位変化が大きく減弱し,このことからSACsはT管に局在することが示唆された.カルシウム応答に関しては,伸展刺激によって時折局所からのカルシウム放出(カルシウム・スパーク,カルシウム・ウェイブ)が観察された.SACs,LTCCを阻害して両者の結果を比較検討したところ,細胞に加わった伸展刺激が局所的に大きくなった際に,局所のLTCCから流入するカルシウムイオンが,局所のSRからのカルシウム放出(CICR)を誘引し,これがカルシウム・スパーク,カルシウム・ウェイブとして観察されることが推測された.

次に,細胞レベルのMEFが臓器レベルの不整脈に如何に繋がるかを,組織レベルの実験及びシミュレーションにより検討した.ウサギ右室自由壁の動脈潅流組織標本を作成し,リニアモータによる伸展時の膜電位応答を,光学的膜電位マッピング装置により計測した.また組織伸展時の歪み分布を測定し,膜電位分布と比較検討した.その結果,大きな伸展刺激(>=20%)に対しては組織全体からの一様な興奮が見られたのに対し,中程度の伸展刺激(10~15%)に対しては,一様な伸展を加えているにも関わらず,不均一な膜電位上昇が見られ,興奮は局所から生じた.また,このときの歪分布は不均一になっており,興奮は局所的にできた大きな歪箇所から生じていることが確認できた.この歪分布の不均一性は,組織の不均一な構造に起因していることが確認でき,さらに,この不均一な構造により生み出される組織の興奮の不均一性は,中程度の伸展刺激時に最大になることが示された.この中程度の伸展刺激時に見られる興奮の不均一性が不整脈に繋がり得るかを調べる目的で,組織形状を模擬した有限要素モデルを作成し,さらにSACsを含めた電気生理モデルを組み込んだ電気一機械統合型の心筋数理組織モデルを構築した.このモデルによるシミュレーションの結果,中程度の伸展刺激では,局所から生じた興奮がスパイラル・ウェイブに発展されたのに対し,大きな伸展刺激では興奮は広域で一様に起こり,その後すぐに消失した.

以上結論として,細胞レベルの実験から,SACsはT管に局在することが示唆され,また伸展刺激により誘発されるカルシウム放出は,細胞に局所的に大きく加わった歪箇所においてLTCCからのカルシウムイオン流入が局所のSRからのカルシウム放出を誘引する結果であることが示唆された.さらに,細胞レベルでは膜電位は伸展刺激強度依存的に変化したのに対し,組織レベルでは一様な伸展刺激に対しても組織の不均一な構造により局所からの興奮が生じることが実験により確認された.また,シミュレーションから,この局所からの興奮は中程度の伸展刺激時に最も顕著に見られ,それが致死的不整脈の発生に繋がる可能性が示唆された.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は心臓に異常な負荷がかかる病態において観察される不整脈の発生に伸展により開くイオンチャンネル(stretch-activated channel:SAC)が重要な役割を果たしているとの仮説を検証するために1)ラット単一心筋細胞を用いた細胞レベルでの検討、2)ウサギ灌流右室標本を用いた組織レベルでの検討を行いそこで得られた知見をマルチスケールシミュレーションによって統合し考察した結果をまとめたものである。

第1章では心臓の伸展によって引き起こされる不整脈について細胞レベル、臓器レベルにおける研究の現状からSACの重要性を確認しさらにマルチスケールでの検討の必要性を論じた後に研究の目的を述べている。第2章では細胞レベルでの実験結果と考察が述べられている。単一心筋細胞にカーボンファイバーを用いて伸展および押し込みを行いこれらの操作に対する膜電位および細胞内カルシウムの応答を光電子倍増管、レーザー共焦点顕微鏡によって測定した。さらに細胞のT-管構造を薬剤によって修飾する操作にSACおよびL型Caチャンネルの阻害薬などを組み合わせることによってこれらの機能分子の細胞内での局在やチャンネル間の相互作用を検討した。この結果、T-管の修飾により伸展に対する膜電位の応答は大きく減弱することからSACはT-管に局在している可能性が高いこと、また伸展が局所的に大きくなった場合にカルシウムチャンネルから流入するCaが筋小胞体からのCa放出を引き起こしカルシウムスパーク、カルシウムウエーブとして観察されることなどが示された。これらの知見に加え細胞内の微細構造を可視化するための共焦点顕微鏡像と原子間力顕微鏡像の3次元空間内での重ね合わせなどの技法も示されている。

第3章では組織レベルの実験とそれを考察するためのシミュレーションが紹介されている。右室自由壁の動脈灌流標本にリニアモーターを用いて大きさをコントロールした伸展を加えそれに対する局所の歪みを画像処理に基づくマーカートラッキングにより、膜電位応答を光学マッピングにより測定した。この結果20%の大きな伸展に対しては組織全体からの一様な興奮が見られたのに対し10-15%の中程度の伸展に対しては一様な伸展を加えているにも関わらず不均一な膜電位上昇がみられ興奮は局所から生じた。またこの際歪み分布は不均一であり興奮は歪みの大きな部位から発生していた。さらに歪みの不均一性は組織構造の不均一性に起因するものであり、この構造の不均一性は中程度の伸展に対して不均一な興奮を生み出していることが示唆された。健常な心臓に存在する構造が電気現象を修飾するという視点は新しいものであり社会問題にもなっている心臓震盪という現象にも関連している。続いて実験で得られたこれらの知見を統合する目的で心筋壁の組織形状を再現した有限要素モデルが作成された。この各要素にはチャンネルの動態を含めた心筋の興奮収縮連関の数理モデルが組み込まれておりさらに伸展に対する応答を再現する目的でSACのモデルも取り入れたマルチスケールシミュレーシヨンモデルである。このモデルに対し実験と同様の伸展を加えるシミュレーションを行ったところ、中程度の伸展に対しては局所から生じた興奮が心室頻拍の際に起こっていると考えられているスパイラル・ウエーブへと発展していったが、大きな伸展刺激では組織全体が同期して興奮しその後速やかに消退する様子が観察された。さらに中程度の伸展に応じて興奮した領域は実際の組織に模して厚さを薄くした部位であるなど実験の結果を完全に再現することに成功した。第4章では以上の研究全体を総括した結論を述べ,今後の課題を論じている。なお論文中細胞レベルの実験については西村智、杉浦清了との、組織レベルの研究およびシミュレーションは稲垣正司、平林智子、日高一郎、杉町勝、杉浦清了、久田俊明との共同研究であるが論文提出者が主体となって提案し実行・検証したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

このように本論文は不整脈という分子レベルの現象に起因しながら組織というマクロなレベルで初めて観察される現象について異なるレベルで基礎的な特性を検討した後、マルチスケールシミュレーションによって知見を統合することよって機序を解明するという新しいアプローチに取り組んだものである。細部の整合性など未だ解決されてない問題も散見されるが基本的なメカニズムの解明には成功しており生物学研究の新たな領域を開くものである。したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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