学位論文要旨



No 125079
著者(漢字) 武貞,稔彦
著者(英字) Takesada,Naruhiko
著者(カナ) タケサダ,ナルヒコ
標題(和) ダム建設による立ち退きと補償・再定住政策に関する研究
標題(洋)
報告番号 125079
報告番号 甲25079
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(国際協力学)
学位記番号 博創域第497号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 国際協力学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中山,幹康
 法政大学 教授 藤倉,良
 東京大学 教授 鬼頭,秀一
 東京大学 教授 吉田,恒昭
 東京大学 教授 國島,正彦
内容要旨 要旨を表示する

本論文は,ダム建設による立ち退きを事例に,開発介入による立ち退き,補償,再定住という課題をとりあげ,立ち退き住民の生を意味あるものとするための方策を見出すことを目指すものである.

[課題設定と研究の目的](第1 章)

開発介入による立ち退きとは,開発を目的とした政策や事業の実施によって,居住地や主たる生業を営むための土地を収用される人々が,物理的に居住地を移すことである.それらの人々は,失われた財産などに対する補償を得て他の場所で再定住,生活再建を行うことになる.

このような開発介入による立ち退きと再定住は,先進国,開発途上国を問わず過去の歴史の中でも繰り返され,また現在も行われている.たとえば2000 年に発表された世界ダム委員会報告によれば,過去に全世界でダム建設によって立ち退きが必要となった人口は,4000 万から8000万人にのぼると推定されている.

1970 年代まではこのような立ち退きは開発や成長に伴う必要な犠牲・副作用として容認されてきた.しかし,立ち退く人々をより貧困化させることになるとして1980 年代末からは問題視されている.NGO や市民社会の圧力を受けて,現在の開発介入においては,社会的影響を緩和するための様々な方策が採用されている.しかし,立ち退きを伴うような開発介入への反対運動はなくならず,開発介入自体も反対運動を伴いつつ続けられている.

本研究では,開発による立ち退きのうち,ダム建設による立ち退きを採り上げる.その特徴は,(ア)面的に水没する地域が大きい,(イ)コミュニティや地域の中心地がインフラも含めて水没する,という2点に要約される.

本研究の目的は,仮にダム建設による立ち退き避けられない場合,立ち退き住民の貧困化を防ぎ,主体的で意味ある生を可能とするための方策を明らかにすることである.可能な限り具体的な政策提言を導出することを目指すが,その目的に付随して,ダム建設による立ち退き,補償,再定住に関し,政治哲学もしくは倫理学の観点から理論的考察を加える(以下「原理的考察」と称する).原理的考察は,具体的政策提言の必要性の根拠,正当性の基盤を強固なものとすることに資するばかりでなく,立ち退きという苦痛を伴ってでも実施される開発の正当化の根拠を問い直すものである.

本論文では,研究の目的を達成するための具体的な問いとして,補償・再定住計画(実施段階も含む)や立ち退きを伴うダム開発自体に内在する困難とその克服可能性を追求する.

[先行研究と現在の取り組み](第2 章,第3 章)

過去の先行研究は,立ち退きを伴うような開発を所与のものとして補償・再定住政策の改善を図る実務型アプローチと,立ち退きを伴うような開発自体を問題視する運動家型アプローチに大きく分類される.これは政策における取り組みにおいても同様の立場の違いとなってあらわれる.とくに実務型アプローチにおける開発実践では,世界銀行を中心にIRR(Impoverishment Risks and Reconstruction)モデルというツールを活用した,標準化・画一化され,再定住当初のインプットに偏重した補償・再定住計画が策定される傾向がある.

本研究は,二つの特徴を持つ.その特徴は,(ア)立ち退きを伴う開発介入や開発一般を所与のものとしない姿勢,(イ)分析の焦点として立ち退き住民を採り上げること,である.

本研究を通じて,既存の施策や取り組み,特にIRR モデルを代表とする補償・再定住政策(計画)のあり方に,いくつかの点で改善を加えることを目指す.改善が想定される側面は,(ア)再定住の選択肢の準備,(イ)立ち退き後の不確実性への対処,(ウ)(ア)および(イ)のような改善の必要性の認識強化,である.

[事例研究](第4 章,第5 章)

事例研究においては,従来あまり重視されてこなかった,立ち退きと再定住の中長期的な帰結に着目し,立ち退きを迫られた人々の選択に焦点をあて,開発介入による立ち退きに内在する困難の把握に取り組んだ.

日本のダム建設による立ち退き,再定住の事例として1950 年代にダム建設,立ち退きが行われた静岡県大井川の井川ダムをとりあげた.193 世帯の立ち退きが必要となった井川ダム建設による補償・再定住計画では,現物(代替)補償で村内再定住地に移り住んだ人々と,現金補償を得て村外に転出した人に分かれる.ここでは,村内再定住地の西山平に移り住み,地域の過疎化/高齢化に不安を感じながらも50 年を経た現在も西山平に暮らし続ける人々の選択とその長期的な帰結に注目した.

インタビュー調査の結果,たとえば,村内再定住という選択と現在までの生活への満足が多くの世帯から表明され,その背後には子弟の自立があること,再定住の決断において再定住計画の目玉であった「米作り」にはさほど重きを置かなかったこと,などが明らかになった.

これらの結果をまとめると,(1)外見上は同じ選択結果であっても個人ごとの多様性を反映した選択がなされたこと,(2)「新しい村造り」(とりわけ新規の米作り)という再定住計画に対して,起業者-住民の間に,さらには住民同士の間においても認識の差が存在したこと,(3)再定住後の人生を意味あるものとした要素に,次世代(子弟)の教育と自立があったこと,が知見として得られた.

これらの知見が途上国での施策や取り組みに与える教訓として,(ア)人々の多様性を念頭においた選択や戦略への配慮の必要性,(イ)次世代の人生への配慮の必要性,(ウ)起業者や行政の中長期的なコミットメントとそれを現実のものとするための地方政府の役割の重要性,が明らかになった.

スリランカのマハヴェリ開発計画の一環として1980 年代初頭に実施された,コトマレダム建設による立ち退き(対象世帯は3200 世帯),再定住をもう一つの事例としてとりあげた.コトマレダム建設による立ち退きの補償・再定住計画は,マハヴェリ開発計画によって自発的入植者のために整備された新規開拓地への再定住を中心に行われた.具体的にはコトマレ地区から100kmほど離れた遠隔地である複数の新規開拓地と,貯水池近辺の傾斜地のいずれかが再定住先となり,人々はそのいずれかを選択することとなった.

再定住後25 年近くを経た住民へのインタビュー調査の結果,多くの世帯で立ち退き前の生活よりも所得・生活水準が向上したこと,子弟の教育状況については再定住先によって差異が生じていること,などが明らかになった.また,子弟に新規に分配する土地の不足を指摘する声も聞かれた.

ここで得られた知見をまとめると,(1)立ち退きを迫られた住民の自発的選択(戦略)の存在,(2)次世代への配慮(土地配分,教育機会に関連して)の重要性,である.

これらを考慮すると将来の補償・再定住政策に必要なものは,(ア)立ち退き住民のとりうる選択(戦略や制約)の考慮の必要性,(イ)再定住後,生活再建の過程で生じた問題,ニーズへの柔軟な対応,であるといえる.

[開発介入による立ち退きに内在する困難とその克服](第6 章)

二つの事例から得られた知見および教訓を,本研究における問いへの回答という形で整理すると,現在の補償・再定住に関する施策や取り組みで正面から扱われていない問題として,(1)人の多様性,(2)将来の不確実性,(3)道義的な責任,という三つの内在する困難を見出した.

これらの困難は必ずしも克服不可能なものではない.具体的に克服を可能とするための施策や取り組みの改善の方向性として,(ア)(事業者側の単一的・標準的な視点にも基づく政策に代わり)政策形成,政策評価の視点の複数化:特に立ち退きを迫られる人々の価値観の反映,(イ)(再定住当初のインプット偏重の政策に代わり)中長期的対応への重点の変更:中長期的コミットメントの必要性,次世代の生活にかかる配慮の必要性,の2 点が示された.

[開発介入による立ち退きに関する原理的考察](第7 章)

第6 章で示された施策や取り組みの改善の方向性を正当化する根拠として,また内在する困難の一つである道義的な責任への対処の必要性の内実を示すために,開発介入による立ち退きの原理的考察を行なった.

立ち退きを強いるような開発介入(つまり効用の最大化のために一部の人々によるコスト負担を容認するような介入のあり方)を正当化してきた功利主義的評価枠組みに関して,人々の多様性,ある帰結にいたるプロセス(時間),および自己決定(自律)の有無といった観点が抜け落ちてしまう限界を明らかとした.

功利主義的評価枠組みとは異なり,これらの観点をとりこむ評価枠組みを考慮するために,環境倫理学における「環境正義」の議論を参照する.「環境正義」の議論を援用する形で,立ち退きを伴う開発介入を人々の苦痛や不公平という不正義を生み出す行為であると捉えなおし,「不正義」という概念に着目した新たな評価枠組みを提示した.

この評価枠組みにおいては,「不正義の是正」という規範をかかげ,具体的には(人々の認識や主観に基づく)「不正義」の申し立てをひろいあげるための仕組み,「不正義」の申し立てを社会的に認定する仕組み,「不正義」の是正方策に関する決定および遂行を担う主体,についての考慮が必要であることを示唆した.ここでの議論により,政策実践の改善方策という一見技術的解決を目指す取り組みが,背後により根本的な正当化(必要性)の理由を持つことを示した.

[結論](第8 章)

本研究の範囲内で,以下のことがいえると考えられる

(1)ダム建設による立ち退き,補償,再定住をめぐる現在の施策や取り組みにおいて,正面から取り組まれてきたとは言い難い三つの内在する困難がある.それは,(1)人の多様性:人それぞれの選択,意味ある生の捉え方があり,それらは政策形成や政策評価には通常反映されないこと,(2)将来の不確実性:生活再建の長い過程において,立ち退き住民は立ち退き当初に想定していなかった事態に対処する必要があること,(3)道義的な責任:立ち退きに伴う選択は,住民が望んで行うものではなく,それを強いることに伴う責任が,政府や事業者側にあること,である.

(2)(1)の三つの内在する困難は,必ずしも克服不可能なものではないと考えられる.これらの困難に対応するための,ダム建設による立ち退き,補償,再定住をめぐる施策や取り組みの具体的改善の方向性として,(1)政策形成,政策評価の視点の複数化:立ち退きを迫られる人々の価値観の反映,(2)中長期的対応への重点の変更:中長期的コミットメントの必要性,次世代の生活にかかる配慮の必要性,の2 点が示唆された.(1)は,立ち退き住民の主張や認識をくみとる仕組みが政策形成や政策評価の過程に必要であり,参加の意味を見直すことにつながる.(2)は,従来の立ち退き当初のインプット偏重の補償・再定住政策をあらため,将来の不確実性にオープンで柔軟な対応を可能とする政策の必要性を意味する.

(3)(2)に示された施策や取り組みの改善の方向性を正当化する根拠として,同時に(1)(3)道義的な責任への対処の必要性の内実を示すものとして,開発介入による立ち退きの原理的考察を加えた.その結果,立ち退きを強いるような開発介入が,人々の苦痛という不正義を生み出す行為であると捉えなおすことで,単なる技術的対応ではなく,道義的責任を全うするためにも(2)に示された改善が必要でありかつ正当化されること,が明らかとなった.

また,「不正義」という概念に着目した新たな評価枠組みの有効性と必要性を明らかにした.この評価枠組みは,従来使われてきた功利主義的な評価枠組みにとって代わるものではなく,功利主義的な枠組みでは捉えられない要素を,政策に反映させるために必要で補完的な,しかし重要なものと位置づけられる.

ここまでの議論を総合し,第7 章で行った原理的考察の結果も含めて現実の政策実践に反映するための構想を提示した.この構想を制度化することを通じて,(1)人の多様性への配慮の必要性,(2)将来の不確実性への対応の必要性,(3)道義的な責任への対処の必要性,という開発介入による立ち退き・再定住に内在する三つの困難への対処が可能となり,立ち退き住民の苦痛を減らし人生を意味あるものにすることに寄与すると考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ダム建設による立ち退きと補償・再定住政策を課題とし、立ち退き住民の貧困化を防ぎ,主体的で意味ある生を可能とするための方策を明らかにすることを目的とする。全8章からなっており、その概要は以下に記すとおりである。

第1章では、本論文の研究課題である「ダム建設による立ち退き,補償,再定住」について問題点を提示し,本研究の目的を示す.その目的を達成するために,「ダム建設による立ち退き,補償,再定住に内在する困難とその克服の可能性」を探るという問いを設定し,方法論等に言及している.

第2章では「ダム建設による立ち退き,補償,再定住」に関する先行研究をレビューし,過去の研究成果の到達点と十分に取り組まれてこなかった課題を明らかにしている.

第3章は、「ダム建設による立ち退き,補償,再定住」に関する政策および国際的な取り組みのレビューである。立ち退き住民に対して,失われた財産を補償するだけではなく,立ち退き後の生活再建を支援することが,国際的な政策動向であることを示す.同時に立ち退きを伴う開発(ダム建設)への反対運動は継続し,実際の貧困化の課題が解決されていないこと,ダム建設賛成派,反対派双方が議論する国際的なフォーラムであった世界ダム委員会(World Commission on Dams:WCD)においても新たな方向性を打ち出せなかったことなどを論じている.

第4章および第5章は、日本およびスリランカのダム建設による立ち退きの事例研究である.先進国として多くのダム開発を進めてきた日本と,現在も立ち退きを伴う開発をすすめている途上国としてスリランカをとりあげ、それぞれ移転後50年、25年近くを経た住民の生活の状況を調査したものである。特に住民の選択や認識に焦点を合わせ、中長期的な移転の帰結を調査した点が特徴的である.

第6章では第2章から第5章までの検討により明らかになった,ダム建設による立ち退き・補償・再定住に内在する困難とその克服の可能性を議論している.

第7章は,内在する困難の一つである道義的責任への対処の必要性と正当性を示すために,立ち退き、補償・再定住をめぐる政策について倫理学的な考察を加えている。

終章である第8章では,本研究の結論と具体的政策提言を、今後の研究の課題とあわせて述べている.

本論文の特徴は以下の4点に要約される。

(1)国際協力の現場で問題視されることは多くとも、学術的な研究は少ない、開発事業による立ち退きと生活再建に関する実証研究であること。

(2)数十年単位という中長期的な再定住の帰結を把握しようとする試みであり、ほとんど研究がなされていない視点に基づくものであること、

(3)過去の経験(特に日本の経験)から現代の開発途上国における政策に活用可能な知見を抽出しようとしたものであること、

(4)倫理学という他分野と実証的な開発研究の融合を目指す、新たな方向性を模索したものであること

とりわけ(2)の観点から、移転者の移転後の人生にとって次世代(子弟)の教育や自立が大きな意味を持つことを見出した点は意義深い。

審査過程においては、(1)方法論にかかる限界(インタビュー実施時点の差異がもたらす影響)、(2)立ち退きに伴う精神的苦痛の緩和と解消の可能性、(3)ダム建設による受益とのバランスについての考慮、などに関する質疑がなされ、論文提出者からは今後の研究課題と考えられる点も含め、妥当な応答が行われた。

論文題目には変更が必要であると認められたものの、論文内容はこれまでにない視点で開発介入における問題点を捉え、丹念なフィールド調査に基づき論理的に緻密に構築された議論を展開しており、また学融合の試みも含めて将来の研究の発展の可能性も大きい。本専攻の博士課程の修了要件を満たすに足る内容のものであると判断する。

なお、本論文第5章は、J.Manatunge,H.L.PHerathとの共同研究の成果であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(国際協力学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/32664