学位論文要旨



No 125130
著者(漢字) 野元,邦治
著者(英字)
著者(カナ) ノモト,クニハル
標題(和) ピリジルピリミジン配位子の環反転に基づいた電子ゲート可能な新規銅錯体系の構築
標題(洋) Construction of a Novel Electron-Gating Copper Complex System Based on the Ring Inversion of a Pyridylpyrimidine Ligand
報告番号 125130
報告番号 甲25130
学位授与日 2009.04.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5422号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 小澤,岳昌
 東京大学 教授 下井,守
 東京大学 准教授 平岡,秀一
 東京大学 准教授 辻,勇人
内容要旨 要旨を表示する

【第1章:序】

近年、分子デバイスへの応用を指向した分子機械の研究が盛んに行われている。生体分子を究極的な分子機械に見立て、人工分子系において模倣する試みが数多く報告されてきた。従来の分子機械の研究は熱や光、電子などの刺激応答性に重点が置かれており、'分子機械の「動き」から如何に有用なアウトプットを得るか'という観点からのアプローチは新しい。本研究では、当研究室で既に報告されている配位子交換反応を介した光電変換系に着目し、配位子交換反応を単一分子のメカニカルな運動に置き換えることで系を構成するコンポーネントの数を減らすと同時に、構造変換によって電子移動を規制する系の構築を目指した。具体的には、非対称に置換したピリミジン環を有するピリジルピリミジンを配位子とする銅錯体を用い、ピリミジン環の反転というメカニカルな運動を立体的に制御することで銅錯体の電子移動反応の制御を試みた。

【第2章:ビス(ピリジルピリミジン)銅(I)錯体における環反転挙動の性質】

第2章では、種々の立体構造を持つ配位子の環反転が銅錯体に及ぼす影響を検討した。ピリミジン環へ導入する置換基として、最も単純で、かつCu(II)/Cu(I)の酸化還元電位変化が十分に期待できるメチル基を選択した。図1に示されるピリジン環上の異なる位置にもメチル基を導入した計3種類の配位子を用いて銅(I)錯体を合成し、銅錯体における溶液中での環反転挙動と酸化還元特性に着目して研究を行った。さらにピリジン環上の置換位置の違いによる影響についても検討を行った。いずれの錯体においても溶液中では環反転に由来する反転異性体が存在し、それらが相互に変換していることが温度可変1H-NMRから明らかとなった。1H-NMRの線形解析によって得られた速度論的・熱力学的パラメータを表1に示す。ピリジン環上に導入されたメチル基の位置によって、反転速度Ki(→o)(ピリミジン環上のメチル基の配向が銅中心側に向いている状態をi、向いていない状態をoとする)が大きく異なることがわかる。特に、[Cu(L2)2]BF4錯体では他の錯体に比べ反転速度定数が非常に大きい結果が得られた。この要因について検討を行うため、各配位子について二つのヘテロ環のなす角(二面角)を0°から180°までの間で10°ずつ変化させたときの配座エネルギーをDFT計算により求めた。その結果、L2配位子の場合は0°及び180°の平面構造をとった時の配座エネルギーが高くなっていることが分かった。これはピリジン環の3'位に導入されたメチル基が立体障害となり、配位子の平面性を阻害しているためであると考えられる。従って、[Cu(L2)2]BF4錯体の場合3'位のメチル基の存在による立体障害のため、錯形成時におけるL2配位子の平面構造がエネルギー的に不利になることで、結果としてピリミジン環の反転が促進され、速度定数が大きくなったと考えられる。

【第3章:環反転制御による電子移動制御】

第3章では第2章で得られた結果を踏まえ、分子構造を改善することで反転を抑制し、配位子環反転に基づいた銅錯体による電子移動制御系を構築した。第2章において環の反転を制御することでCu(II)/Cu(I)酸化還元電位を制御できることが示された一方で、その反転速度が大きいために状態制御は困難であった。そこで、反転経路が2-2'C-C結合を軸としたピリミジン環の回転に由来することを踏まえ、分子設計としてこの動きを阻害するような置換基の導入を考えた。図3に示すように置換基として両側にかさ高いアントラセンを導入し(配位子L4)、反転を立体的に阻害することで反転のON/OFFが容易になることが期待される。

合成した錯体[Cu(L1)(L4)]BF4は固体状態において、メチル基が銅中心側を向いたi体として存在することが単結晶X線構造解析の結果から明らかとなった(図4)。一方、温度可変1H-NMRより溶液中ではi-/o-異性体の存在が確認されたが、室温においても両異性体が識別できたことから反転速度が遅くなっていることが示唆された。

この錯体の配位子環反転と電子移動反応の相関についてCVの掃引速度依存性から検討した。図5に示すように、本錯体では反転速度が遅いため室温においても明瞭に区別できる二つの酸化還元ピークが観測された。掃引速度が遅い場合ではo体の酸化が主であるのに対し、速い掃引速度の場合では反転が追随せずにi体の酸化が観測されることから、環反転速度とCVの掃引速度が競合していることがわかる。

様々な温度で測定したCVのシミュレーション解析を行うことで速度論的・熱力学的パラメータを算出した(表1)。本錯体は-126JK-(1)mo1-(1)という負に大きい△S≠を示すことが特徴であり、これが大きな活性化エネルギーと小さい速度定数に寄与している。これは、遷移状態での自由度の小ささを表しており、立体障害として導入した二つのアントラセン部位が反転の'ストッパー'として働いていることを示すものである。反転障壁が増大した結果、反転の速度定数ki(→o)は293kにおいて1s-(1)程度と非常に小さくなった。また、193Kにおいてはki(→o)が2×10-(4s-1)程度まで遅くなり反転挙動が凍結されることから、温度によって反転のON/OFF制御が可能であることが明らかとなった。

次に、反転のON/OFF制御を利用して銅錯体の構造による電子移動制御を、系の平衡電極電位(Erest)変化を追跡することにより実証した。193K(i体:o体=3:1)において0.7当量の酸化剤を加えると系のErestは+0.31Vになった。この状態から213Kへ温度を上げると、Erestが900秒間で+0.17Vヘシフトする挙動が観測された(図6)。213KにおいてもCu(II)錯体の反転挙動は凍結されていると考えられるため(ki(→o)=2×10-(5)s-(1),kI(Io→i)=1×10-(9)s-(1))、観測された電位変化は図7のスキームに示すようにCu(I)における反転に起因していると考えられる。また、このスキームを仮定して算出された、自然電位の経時変化が実際に観測された900秒と同程度であることも、Cu(I)におけるi体からo体への環反転を経由した現象に基づいて電位が変化したことを支持している。

配位子の環反転はメカニカルで可逆な動きであり、銅の酸化状態を1価に戻すことでi体を回復できることを利用し、電子ゲートの繰り返し応答を試みた。213Kにおいて還元剤を加えて全てCu(I)に戻した後に193Kへ冷却し、再度酸化剤添加から一連の手順を繰り返すと電位変化とそのタイムスケールをよく再現し、繰り返し応答を得ることに成功した(図6)。

【第4章:結び】

本研究は、ピリジルピリミジンの環反転を利用し、置換活性な銅(I)イオンと組み合わせることで構造によって電子移動が規制される系の構築を目指したものである。非対称に置換されたピリミジン環を持つピリジルピリミジンを配位子とした銅(I)錯体では、溶液中においてピリミジン環の反転に由来する異性体が相互に変換していること、その反転速度は立体的な要因によりチューニングできること、環反転に伴いCu(II)/Cu(I)酸化還元電位が変化することが明らかとなった。さらに環反転のON/OFFスイッチングが可能な系において、電子移動がピリミジンの環反転によりゲートされることを平衡電極電位変化から実証した。このようなメカニカルな「動き」によって電子移動を制御する試みは、分子の「動き」から電子エネルギーなどの有用な仕事を得るという、新たな分子機械の開発につながると思われる。本研究は、そのような新たな分子機械の開発の指針となるであろう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は4章と付録からなり、第1章は研究の背景と目的、第2章はビス(ピリジルピリミジン)銅(I)錯体における環反転挙動の性質、第3章はピリジルピリミジンの環反転制御による電子移動制御、第4章は研究成果のまとめと展望について述べられている。以下に各章の概要を示す。

第1章では、研究の背景と目的について述べられている。従来の分子機械の開発の多くは、生体分子中におけるタンパク質の動きの模倣を背景として光や熱、電子などの刺激応答性とその動きに重点が置かれてきた。しかし近年では、分子デバイスを指向した開発が盛んになっており、分子機械を利用する上ではいかにして有用な仕事を引き出すかが重要となっている。本研究では、四配位銅錯体においては錯体中心の銅が一価の状態では四面体形が有利であり、二価の状態では平面四角形が有利であること、それらの構造変化の起こり易さを立体的に制御することでCu(II)/Cu(I)の酸化還元電位を変えられることに着目し、ピリミジン環の4位にメチル基が導入されたピリジルピリミジン配位子を用いることで構造変化と電位変化を単一分子内で達成させ、分子の構造によって電子移動が制御される単一分子系の構築を目指した。

第2章では置換メチル基の数と位置の異なるピリジルピリミジン配位子を用いて種々のビス(ピリジルピリミジン)銅(I)錯体を合成し、そのX線単結晶構造解析により分子構造を明らかにしている。さらに、ピリミジン環の反転が銅錯体に及ぼす影響と、ピリジン環上のメチル基の置換位置の違いが環反転挙動にもたらす影響について、1H NMRスペクトルおよびサイクリックボルタモグラムの温度変化から熱力学的パラメータを算出して、定量的に比較、検討している。その結果、それらの銅錯体においては、溶液中では環反転に由来する異性体が存在してそれらが相互に変換していること、およびその反転速度はメチル基の数や置換位置によって大きく異なることを明らかにしている。また、温度によって反転の速度を制御することで酸化還元電位が制御できることを示している。

第3章では第2章で得られた結果を踏まえ、環反転速度定数を小さくするために反転を阻害する嵩高いアントラセニル基を置換基として導入したフェナントロリン配位子を用いて新規に合成したピリジルピリミジン銅(I)錯体を利用し、ピリミジン環の環反転によって銅錯体の電子移動が制御される系の構築に関して述べている。アントラセンを導入することで反転が抑制され、温度によって反転のON/OFFがコントロール可能となったことを示すと共に、銅錯体における電子移動がピリミジンの環反転によりゲートされることを、この錯体を含む電気化学系の平衡電極電位の変化の大きさとその変化の時間スケールを定量的に評価して実証している。

第4章では、以上の結果を総括し、今後の研究展望を述べている。また付録として構造解析結果などを記している。

以上、本論文はピリジルピリミジンの環反転を利用し、置換活性な銅(I)イオンと組み合わせることで構造によって電子移動が規制される系の構築を達成したことを記述している。本博士論文において達成された構造による電子移動制御系の構築は、錯体化学の分野において基礎的な貢献をするだけでなく、有用な仕事が得られる新たな分子機械の開発の指針となり、ナノサイエンスに大きく貢献すると期待される。なお、本論文は久米晶子、西原 寛との共同研究であり、一部は既に学術雑誌として出版されたものであるが、論文提出者が主体となって実験、解析を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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