学位論文要旨



No 125133
著者(漢字) 姫野,絵美
著者(英字)
著者(カナ) ヒメノ,エミ
標題(和) マウス胚性幹細胞におけるLin28の機能解析
標題(洋)
報告番号 125133
報告番号 甲25133
学位授与日 2009.04.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3470号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 特任教授 八木,慎太郎
 東京大学 准教授 久和,茂
 東京大学 准教授 金井,克晃
 東京大学 准教授 山内,啓太郎
 東京大学 准教授 田中,智
内容要旨 要旨を表示する

緒言

哺乳類の胚発生過程では、胚盤胞の形成に伴い、内部細胞塊と栄養外胚葉の2つの細胞系譜への分岐が起こる。内部細胞塊は着床後主に胚体組織の細胞へと分化し、栄養外胚葉は主に胎盤の大部分を構成する栄養膜細胞へと分化する。マウス胚性幹細胞(ES細胞)は内部細胞塊より樹立され、生殖細胞を含むすべての胚体細胞に分化する能力を有する。一方、マウス栄養膜幹細胞(TS細胞)は栄養外胚葉から樹立され、すべての栄養膜細胞に分化する能力を有する。ES細胞とTS細胞は共に、適切な条件下で自己複製能と分化多能性を維持したまま増殖させることが可能である。

これまで我々は、TS細胞の分化に伴い発現が低下する遺伝子のひとつとしてLin28A遺伝子を同定している。また、Lin28AはES細胞でも発現し、その分化に伴い発現量が低下することも明らかにし、Lin28Aがこれらの幹細胞で何らかの重要な役割を担っている可能性を示唆していた。

Lin28Aは線虫の発生を制御する異時性遺伝子lin-28のホモログで、マウスゲノム上にはパラログであるLin28Bも存在する。Lin28AおよびLin28BはRNA結合ドメインを有する。Lin28AおよびLin28BがES細胞でmicroRNA let-7の前駆体に結合すること、また筋芽細胞でLin28AがIGF-2 mRNAに結合することが報告され、確かにLin28がRNA結合タンパク質として機能し、かつ複数の種類のRNAをその標的とすることが明らかとなった。さらに近年、LIN28A、NANOG、SOX2ならびにOCT4の4遺伝子の導入によりヒト人工多能性幹細胞(iPS細胞)が作製され、LIN28Aが体細胞核の分化多能性再獲得を促す因子であることが示された。これらのことからも、マウスLin28AおよびLin28Bが自己複製能や多分化能を持つ未分化幹細胞で何らかの重要な機能を担っていることが期待されたが、その詳細はいまだ明らかにされていない。

そこで本研究では、まずLin28AのRNA結合能に着目し、ES細胞ならびにTS細胞を用いてLin28Aの標的mRNAを探索した。次にES細胞を用いたLin28A、Lin28Bのknockdown解析を行い、ES細胞におけるLin28AとLin28Bの生理的機能を明らかにした。加えて、Lin28A knockdown ES細胞株を樹立し、 Lin28AがES細胞のエピジェネティック状態に影響を与える因子であることを明らかにした。

第一章 Lin28A標的mRNAの探索

Lin28AはES細胞とTS細胞で共に発現し、分化に伴い発現が低下することから、その標的RNAが2つの幹細胞の持つ自己複製能や多分化能の維持機構に関与する可能性が考えられた。Lin28Aはこれらの幹細胞で共通したRNAを標的としているのか、あるいは異なるRNAを標的としてそれらの発現を制御しているのだろうか。本章では、Lin28Aにより制御されるRNAを明らかにすることを目的に、抗Lin28A抗体による免疫沈降と遺伝子発現マイクロアレイを用いてLin28Aと複合体を形成するmRNA(Lin28A標的mRNA)の検索を行った。

まず、ES細胞とTS細胞それぞれの細胞溶解液から抗Lin28A抗体を用いた免疫沈降より得られた産物をアクリルアミドゲルで解析したところ、ES細胞とTS細胞で同じサイズのバンドとともに、異なるサイズのバンドも複数検出され、Lin28Aはそれぞれの幹細胞で異なるタンパク質を含む複合体を形成していることが示唆された。この免疫沈降産物からRNAを抽出し、マイクロアレイ解析を行った結果、Lin28A標的mRNAとして、ES細胞で14遺伝子、TS細胞で65遺伝子が同定された。これらの遺伝子には、これまでES細胞とTS細胞で自己複製能や多分化能に直接関わることが明らかにされている遺伝子は認められず、また共通して同定されたのは、機能未知の1遺伝子(Gene Bank ID:BC010304)のみであった。同定された標的RNAの発現量を、当研究室で過去に解析されたES細胞とTS細胞の遺伝子発現アレイの結果と照合すると、ほとんどの標的RNAは、両幹細胞でともに同程度に発現しており、それぞれの幹細胞における発現量の高いmRNAが非特異的に結合して得られたのではないことが示された。以上の結果から、Lin28Aは各々の幹細胞で特異的なmRNAと選択的に複合体を形成することが明らかになった。

第二章 Lin28 knockdown 解析

Lin28AのES細胞における生理的機能を明らかにするために、Lin28AmRNAに対するshRNAを発現するプラスミドベクター用いてLin28A knockdown解析を行った。ベクター導入後5日までのtransient knockdownではES細胞の増殖およびマーカー遺伝子の発現に変化は認められなかった。さらにLin28A knockdown ES株の樹立が可能であったことから、Lin28Aは少なくとも未分化ES細胞の維持には必須ではないことが分かった。ところが、Lin28Aの発現量50%以上低下している株では、Oct4mRNA量が20%から50%上昇していることが分かった。一方、得られたLin28A knockdown株の中にOct4 mRNA量が低下している株も存在した。この株ではLin28BのmRNA量が低下していたことから、それがOct4の発現量の低下の原因である可能性が考えられた。そこでLin28B mRNAに対するsiRNAを用いたLin28B transient knockdownを行ったところ、Lin28B knockdownによってOct4 mRNA量が低下し、またLin28AmRNA量も低下していた。

以上の結果から、Lin28AはOct4 mRNA量を負に制御し、Lin28BはOct4とLin28A mRNA量を正に制御する因子であることが示された。Lin28Aのtransientknockdownでは見られなかったOct4 mRNA量の変化がLin28A knockdown株で認められたことは、Lin28AによるOct4の制御は複数の因子を介した間接的なものであるために、変化が現れるまでに時間がかかった可能性が考えられる。これはLin28A標的RNAにOct4が含まれていなかったことからも支持される。

ES細胞においてOct4の発現量を人為的に半分にすると外胚葉系に、逆に過剰発現させて1.5倍以上にすると内胚葉系の細胞に分化することが報告されている。すなわち、Oct4 mRNA量が一定の範囲内に保たれることは、ES細胞の自己複製能や多分化能の維持に重要な要素である。本章の研究により、Lin28AおよびLin28BはOct4の発現量を一定の範囲内に保つことでES細胞の自己複製能や多分化能性の維持に寄与している可能性が考えられた。

第三章Lin28A knockdown ES細胞株のエピジェネティクス解析

DNAのメチル化は哺乳類ゲノムに見られる唯一の化学修飾で、ヒストン修飾とともにクロマチン構造を制御し、エピジェネティクス制御の中心となる。哺乳類のすべての細胞には固有のDNAメチル化領域が存在する。これらを集結したDNAメチル化プロファイルはゲノムDNAのエピジェネティック状態、すなわちエピゲノムの観点からみた細胞の特徴である。さまざまな細胞、組織のDNAメチル化プロファイルを比較すると、細胞種あるいは組織間でメチル化状態が異なる領域が存在する。この領域は組織特異的DNAメチル化領域(Tissue-dependent and Differentially Methylated Regions,T-DMR)と定義され、細胞や組織の特異性を示す。これまで、当研究室ではマウスES細胞、肝臓、腎臓および脳との比較から、ES細胞で特異的に低メチル化にあるT-DMR1115ヶ所と高メチル化にあるT-DMR2715ヶ所を同定した。これらのES細胞特異的T-DMR(ES-specific-T-DMR)はES細胞に特徴的なエピゲノム領域である。

本章では、エピゲノムの観点からみたES細胞の特徴であるDNAメチル化プロファイルにLin28Aが及ぼす影響を検討するため、第2章で得られたLin28Aknockdown ES細胞株を用いてDNAメチル化解析を行った。

ES-specific-T-DMRの中から68遺伝子座(ES細胞で特異的に低メチル化領域の45遺伝子と高メチル化領域23遺伝子座)、およびそれ以外(以下ES-non-specific-T-DMR)の102遺伝子座を選び、その上流域のHpyCH4IV 認識配列(ACGT)のメチル化率をCOBRA法で測定した。その結果、Lin28A knockdown ES細胞株では、コントロールES細胞株とメチル化状態の異なる領域が低メチル化領域から高メチル化領域まで幅広く認められた。また、Lin28A knockdown ES細胞株におけるメチル化の変化は、低下と亢進の両方向の変化が引き起こされること、またその変化は各領域でランダムに起こるのではなく、それぞれの株である一定の方向へ変化する傾向をもつことが示された。さらに、Lin28A knockdownによるメチル化変化はES-specific-T-DMRとES-non-specific-T-DMRの両グループで認められ、両グループにおけるメチル化変化の傾向(低下または亢進)は共通していた。

以上の結果から、Lin28AはES細胞特異的なES-specific-T-DMRだけでなく、ES-non-specific-T-DMRを含んだ、ES細胞のDNAメチル化プロファイル全体に影響を与え、固有のメチル化率の維持を保証する因子であることが示唆された。

総括

本研究では、複数の観点からES細胞におけるLin28の役割を検討した。Lin28AはES細胞で複数の標的RNAと複合体を形成し、標的RNAの制御に関与していると考えられた。また、Lin28Aの発現量の低下によってES細胞のマスター遺伝子の1つであるOct4の発現量が増加する傾向が引き起こされた。一方、Lin28Bの発現量の低下はOct4およびLin28Aの発現量の低下を誘導した。これらの結果により、Lin28AとLin28BがOct4の発現量を一定の範囲に保つ機構に寄与していることが示唆された。

さらに、エピジェネティックな観点からES細胞におけるLin28Aの役割が明らかになった。Lin28Aの発現量の低下はES細胞のDNAメチル化プロファイルの幅広い領域の変化を引き起こした。これにより、Lin28AはES細胞のDNAメチル化プロファイル制御に寄与する役割をもつことが示唆された。

遺伝子発現およびエピジェネティックな観点から、ES細胞はある程度の不均一性を有しながらもそれがある一定の範囲に制御された細胞の集団といえる。本研究により、Lin28Aはこの制御機構の一部の機能を担うことが示された。

審査要旨 要旨を表示する

哺乳類の胚発生過程では、胚盤胞の形成に伴い、内部細胞塊と栄養外胚葉の2つの細胞系譜への分岐が起こる。内部細胞塊は着床後主に胚体組織の細胞へと分化し、栄養外胚葉は主に胎盤の大部分を構成する栄養膜細胞へと分化する。マウス胚性幹細胞(ES細胞)は内部細胞塊より樹立され、生殖細胞を含むすべての胚体細胞に分化する能力を有する。一方、マウス栄養膜幹細胞(TS細胞)は栄養外胚葉から樹立され、すべての栄養膜細胞に分化する能力を有する。これまでの研究でLin28A遺伝子がTS細胞の分化に伴い発現が低下すること、Lin28AはES細胞でも発現し、やはりその分化に伴い発現量が低下することが明らかになっている。Lin28Aは線虫の発生を制御する異時性遺伝子lin-28のホモログで、マウスゲノム上にはパラログであるLin28Bも存在する。Lin28AおよびLin28BはRNA結合ドメインを有する。Lin28AおよびLin28BがES細胞でmicroRNAlet-7の前駆体に結合すること、また筋芽細胞でLin28AがIGF-2mRNAに結合することが報告され、確かにLin28がRNA結合タンパク質として機能し、かつ複数の種類のRNAをその標的とすることが明らかとなった。さらに近年、LIN28A、NANOG、SOX2ならびにOCT4の4遺伝子の導入によりヒト人工多能性幹細胞(ips細胞)が作製され、LIN28Aが体細胞核の分化多能性再獲得を促す因子であることが示された。これらから、マウスLin28AおよびLin28Bは、自己複製能や多分化能維持のに関わる機能を担っていることが考えられた.

本研究は、マウスES細胞を用いたLin28Aの機能解析を中心に記載されたもので、以下の3章からなる。

第1章ではLin28A標的mRNAの探索か行われた。Lin28AはES細胞とTS細胞で共に発現し、分化に伴い発現が低下することから、その標的RNAが2つの幹細胞の持つ自己複製能や多分化能の維持機構に関与する可能性が考えられた。そこで、まず、ES細胞とTS細胞それぞれの細胞溶解液から抗LIN28A抗体を用いて得られた免疫沈降物をSDS-PAGEで解析した。その結果2つの細胞に共通するバンドとともにそれぞれに特有のバンドも複数検出され、Lin28Aはそれぞれの幹細胞で異なるタンパク質を含む複合体を形成していることが示唆された。この免疫沈降産物からRNAを抽出し、マイクロアレイ解析を行った結果、Lin28A標的mRNAとしてES細胞で14遺伝子、TS細胞で65遺伝子が同定された。当研究室で過去になされた遺伝子発現アレイ解析結果との照合により、同定された標的RNAは両幹細胞でともに同程度に発現していることが明らかになった。これらの結果は、Lin28Aが全RNAに非特異的に結合したために発現量の高いmRNAが同定されたわけではなく、Lin28Aは各幹細胞で特異的なmRNAと選択的に複合体を形成することを示している。

第2章では、ES細胞におけるLin28Aの機能を明らかにするために、shRNAを用いたLin28A knockdown解析が行われた。shRNA発現プラスミドが安定的に組み込まれたLin28A knockdown株が樹立されたことから、Lin28A発現量の低下は未分化ES細胞の維持に重篤な影響を及ぼさないことが明らかになったが、Lin28Aの発現量が50%以上低下している株ではOct4mRNA量が20%から50%上昇していることが分かった。また、得られたLin28A knockdown株の中にはOct4mRNA量が低下している株も存在し、この株ではLin28BのmRNA量が低下していた。そこでsiRNAを用いてLin28B transient knockdownを行ったところ、Lin28B knockdownによってOct4mRNA量が低下し、またLin28A mRNA量も低下していた。したがって、Lin28AはOct4 mRNA量を負に制御し、Lin28BはOct4とLin28AmRNA量を正に制御する因子であることが示された。ES細胞においてOct4の発現量を人為的に半分にすると外胚葉系に、逆に過剰発現させて1.5倍以上にすると内胚葉系の細胞に分化することが報告されている。すなわち、Oct4mRNA量が一定の範囲内に保たれることは、ES細胞の自己複製能や多分化能の維持に重要な要素である。本章の研究により、Lin28AおよびLin28BはOct4の発現量を一定の範囲内に保っことでES細胞の自己複製能や多分化能性の維持に寄与している可能性が考えられた。

第3章では、細胞・組織特異的DNAメチル化領域(Tissue-dependent and Differentially Methylated Regions,T-DMR)を中心に、Lin28A knockdown ES細胞株のエピゲノム解析が行われた。ES細胞特異的なT-DMRの中から68遺伝子座(ES細胞で特異的に低メチル化領域の45遺伝子と高メチル化領域23遺伝子座)、それ以外のT-DMR102遺伝子座を選び、その上流域のHpyCH41V認識配列(ACGT)のメチル化率をCOBRA法で測定した。その結果、Lin28A knockdown ES細胞株では、コントロールES細胞株とメチル化状態の異なる領域が低メチル化領域から高メチル化領域まで幅広く認められた。また、Lin28A knockdown ES細胞株におけるメチル化の変化は、低下と亢進の両方向の変化が引き起こされること、またその変化は各領域でランダムに起こるのではなく、それぞれの株である一定の方向へ変化する傾向をもつことが示された。さらに、Lin28A knockdownによるメチル化変化はES細胞特異T-DMRと他のT-DMRの両グループで認められ、両グループにおけるメチル化変化の傾向(低下または亢進)は共通していた。これらの結果から、Lin28AはES細胞のDNAメチル化プロファイル維持に重要な因子であることが示された。

以上、本論文では複数の観点からBS細胞におけるLin28の役割を明らかにした。Lin28AはES細胞で複数の標的RNAと複合体を形成し、標的RNAの制御に関与していること、また、Lin28Aの発現量はOct4の発現量に影響を与えることを明らかにした。Lin28AはゲノムワイドなES細胞のDNAメチル化プロファイル制御に役割をもつことが示唆された。これらの知見は幹細胞の基礎として重要であるばかりでなく、再生医療を含む臨床など応用研究としても価値がある。よって、審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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