学位論文要旨



No 125136
著者(漢字) 金,季
著者(英字)
著者(カナ) キム,ケジャ
標題(和) 横光利一文学研究 : 表現形式としての「小説」
標題(洋)
報告番号 125136
報告番号 甲25136
学位授与日 2009.04.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第693号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 安藤,宏
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 渡部,泰明
 東京大学 教授 藤原,克己
内容要旨 要旨を表示する

横光利一(一八九八~一九四七)の文学世界は一言でいうと、抽象化された表現の世界として定義することができる。横光は、時代の風潮と交通する、あるいは時に没交渉なところから抽象化された表現を獲得し、その表現をもって常に自我と世界との対立構造を考究していった人であった。初期に持っていた西洋文学への関心から、一九三〇年代前後に個と国家の問題を描き、戦中期には『旅愁』を書いて「日本」というものを表象していく動きを見せている。

注意すべきは、このような動きが小説の「形式」上の変貌をつねにもたらしていたという事実である。大枠でいえば、言語の多様な可能性を試みた短篇小説から、時代の問題に取り組んで長篇小説へと移動していった変貌がそれに該当する。本稿では、三つの部に分けて横光の作品を中心に、「短篇」と「長篇」の形式がいかに時代的コンテクストを構築していくのかを分析してみた。

第一部においては、主に横光の初期における短篇小説を対象に、小説言語の多様な可能性を検証した。初期の横光は西洋文学へ関心を示していたその一方で、芥川龍之介や志賀直哉などの大正期の先達の影響を大きく受けており、そこから自身の文学世界を差別化し、構築していこうとした。「新感覚派」時代における文学活動はそれを表している。対象にあらかじめ絶対的な意味を付与せずに、新しい「感覚」をもって対象をとらえていく「表現」と、それを導き出す「言葉」に重点をおいて、「虚構」と「象徴」の世界を描いている。『日輪』(「新小説」大正一二年五月)と『花園の思想』(「改造」昭和二年二月)を分析し、「言葉」によってつくられる抽象の世界が、内容を導き出す小説の「形式」的な側面へつながっていく論理を確認した。また、『機械』(「改造」昭和五年九月)における自己言及的な語りの構造を分析し、一人称の語りが物語空間に「虚構」性をもたらす仕組みを論じた。物語空間をつくる表現主体の問題が前景化しているこの時期の横光の問題意識は、来る長篇小説の時代を準備するものでもあったのである。

あわせて、大正末から昭和初年代にかけて高揚したプロレタリア文学にも視野を広げて分析をおこなった。横光はプロレタリア文学の反対側にいたようにとられがちだが、実際は互いに影響関係があり、そのなかで横光が小説における「形式」の問題を追究していった痕跡が見られる。とくに、早くに大正末から長篇小説の可能性を見い出していたプロレタリア文学側の論議は、示唆的な見解を示している。こうした観点から、「書く」ことを顕在化してプロレタリア文学における表現の新しさを試みている葉山嘉樹の長篇、『海に生くる人々』を分析した。

第二部においては、横光が本格的に長篇小説を書き始める時期を検討した。昭和三年から連載される『上海』は、「日本人」というアイデンティティが問われる租界都市上海を舞台に、東洋に於ける「近代」の問題を問うている。興味深い点は、「長篇」の形式をもって上海を書きたいと、横光が最初からこだわってその意志を表明していたという事実である。雑誌連載時の「ある長篇」から『上海』へいたる異同、また、近年公開された作家直筆原稿との照合を通して、『上海』という長篇小説が構築されていくプロセスを分析した。

『書翰』(「文藝」昭和八年一一月)においては、自作に対する自己批評を通して、表現行為自体を小説化していく創作方法が試みられている。人間関係の多様な断面をいかに描きえるか、いう問題が追究されているのだが、これは『紋章』(「改造」昭和九年一~九月)における「私」の、「書く」ことに対する意識が顕在化して立ち上がるテクスト空間の問題へと引き継がれていく。語りにおける「時間」の概念を分析して、長篇小説における「構成」の問題について考えてみたのである。

第三部においては、昭和一〇年代から終戦直後までを対象に、長篇という小説形式が如何に「日本的」な空間をつくりあげていくのかを論じた。この時期は、戦中の時局と連動して、「日本精神」によって西欧的「近代」を「超克」しようとする動きを見せている。しかし、日本文学における独自性はむしろ文学の叙述形態の差異から来るものではないだろうか。このような認識に基づいて、それを小説の形式から引き出すことを試みた。もっとも「日本的」な長篇小説の特徴を見せていると思われる島崎藤村の『夜明け前』を分析し、長篇小説の構成が、必ずしも語り手の統御によって小説全体が緊密に統一されることを前提にするものではないという結論にいたった。

横光は昭和一一年二月から半年間、欧洲へ旅だち、「日本的なもの」を求めていく。戦中から戦後まで書かれた『旅愁』には、このときの横光の思考が反映されているのである。しかし、『旅愁』のテクスト空間に表れている<空間の移動>という機制は、小説の語りを牽制する働きをみせ、語り手の意図とは別の次元で図らずも物語世界が出来上がっていく様相をも表している。日中戦争、太平洋戦争へとつづく戦時中に「古神道」などの観念を取り入れて「日本」を絶対的な世界として構築していこうとした語り手の意図とはうらはらに、相対的でしかない「日本」という概念を、この小説の「形式」ははからずも暴いて見せているのである。

横光の戦後は短い時間であったが、疎開先で書かれた小説『夜の靴』にはこれまで彼が培ってきた、その秀でた文学性がよく表れていると思われる。「日記」形式を用いて、「敗戦」を個の次元を超えた民族共同体の問題として「書く」ことの意味を問いかけている。横光はこの小説で、自身の「死」を予感しながら、生涯を締めくくる遺言のように「文学に勝つ」ことを述べているが、戦後に文学者としての再起をはかる意志が形造られていく様相を分析して、「文学」の概念についてあらためて考えてみたのである。

以上の分析を通して、「短篇」「長篇」という小説の形式は、単に分量の問題としてではなく、時代的な問題意識を描くための機能をそれぞれいかに果たしたか、という観点から認識すべきであるという事実をあらためて確認した。また、とくに長篇小説の形式において、小説の全体を統御する語り手をおかずにむしろ構成力を破棄することによって、作者が意図したものとは必ずしも一致しない世界が浮かび上がるプロセスが、戦中戦後期の長篇小説に表れている事実を確認し、これを小説における「日本的」な特徴として考えてみたのである。

「文学」をイデオロギーの装置として規定し、小説の言説をナショナルな意味づけのみに終わらせるのではなく、言語の多様な可能性をもつ形式として、あらためて「小説」を考えていきたいがために、本稿は書き上げられたのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論は横光利一の主要作品を時代順にとりあげ、横光が「長篇小説」という形式を通してどのような方法的試みを展開したのかを、表現史的な観点から解明したものである。

構成は三部からなる。第一部では初期短編から『機械』までを対象に、言葉の物質性を重視し、現実から遮断された抽象世界を構築していった点に初期横光の特徴を見出している。ただし『機械』前後からこうした方向は転換し、口語的な語りが見直されると共に、自己言及的な表現が語りの主体の自明性を崩す方向へと向かい、これが後の「長篇小説」の方法を準備することになるとしている。

第二部においては、『上海』から『紋章』までが取り上げられている。初の本格的な長篇である『上海』においては、国際的な租界地で登場人物のナショナル・アイデンティティが揺らいでいく様相が明らかにされ、同時に改稿過程を通して植民地における加害者性に関わる記述が削除されていく過程が明らかにされている。また、『紋章』においては、その輻輳した時間構成の分析をもとに、内容のみならず、それが語り出されていくプロセスまでもが浮き彫りにされるメタ・レベルの構造が明らかにされている。結果的に、一見日本主義へと傾斜していくかに見えるその内容が、語り手自らに統御できなくなるその機構を通して、結果的には読者を誘い込む亀裂として機能することになるのであるという。作品解釈にあらたな知見を示すものとして注目される。

第三部においては、戦中の長篇小説『旅愁』と、戦後、最晩年に書かれた『夜の靴』が扱われている。島崎藤村の『夜明け前』において、視点の自在な移動が個人と歴史を合わせ見る独自の形式を可能にしている点に着目した上で、『旅愁』における登場人物の空間移動の特性が分析されている。「日本人」としての自覚が「国境」を移動することによって自己相対化されていく有りようが「換算」という概念を通して明らかにされ、こうした志向と、「祖国」が絶対化されていく志向とのせめぎあいによって作品世界が成り立たっている事実を指摘している。起源としての「日本」を言語化しようとすればするほど、逆にそこから遠ざかってしまうという事実は、文学とナショナリティの問題を解明する糸口として注目に値するものである。また、『夜の靴』に関しては、「私小説」への再帰と捉えられていた従来の評価に異を唱え、共同体的感性から敗戦があらためて意味づけ直されていくメカニズムが明らかにされている。

以上のように、本論の特色は語り手の一義的な統御を離れ、むしろそれを裏切るような形で虚構が生み出されていく点に「長篇小説」というジャンルの特性を見ようとするもので、単に横光利一に限らず、日本の近代小説の分析に重要な視点を提供するものと考えられる。具体的な表現分析にさらにより多くの紙数が必要と思われる箇所も見受けられるが、小説を単に主題論的に意味づけるのではなく、これを言葉の構造体として捉え、既成のナショナリティを相対化していく機能を導き出していこうとする発想は、今後の研究に重要な示唆を与えるものである。

以上の点から、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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